緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



カーテンコール déraciné





 帰宅ラッシュの雑踏をひた走る。メトロの構内に溢れ返るくたびれたサラリーマン、大声で電話しながら歩く女性、スマートフォンに夢中で周囲に目もくれない若人──の間をすり抜け、燐音とニキが追っているのは此度のターゲットである。
『──ターゲット、ポイントDを通過。天城と椎名は二手に分かれてください』
 通信機から流れてくる低く落ち着いた声に、息ひとつ乱さず応える。
「はいよォ! 俺っちどっち?」
『天城が左、椎名が右。ポイントIで合流です』
「うええ僕がそっち⁉ だいぶ回り道じゃないっすか?」
『椎名の脚力なら問題ないのですよ。信頼しています。遅れないように』
「ぐう、HiMERUくんの『それ』ずるい……!」
『──さて、なんのことでしょう?』
 くすくすと無邪気に笑うあいつはどう考えても確信犯だ。意外と面倒見のいいニキの性分を手玉に取り、時折こうして可愛い歳下ぶってみせるタチの悪い男。こういう言い方をすればついつい期待に応えたくなってしまうと知っての計算し尽くされた振る舞い。
『また指示します。では』
 ぷつりと通信が切れた途端相方は、「んもお~!」とやり場のない不満を叫びはじめた。「〝信頼しています♡〟だってよ」と声真似をするとすかさず背後からチョップされる。
「あいつ最近小賢しくなったっしょ、可愛い子ぶっちまって」
「実際可愛いから悔しいっす! 逆らえないっすよあんなの……!」
「ぎゃは、お生憎さま。ンじゃあとでな」
 参謀さまのご命令に従い突き当たりを左へ。相変わらず人通りの多い手狭な通路を、すいすいと縫うように進んでゆく。

「〝殺すな〟。お上からの指令は以上だ」

 今回『Crazy:B』が仰せつかった任務は『巴家のデータベースから諜報員名簿を抜き取ったスパイを捕らえること』そして『その不埒者の飼い主を探ること』である。
 ターゲットは(ハッキングの技術もさることながら)大層身軽な男で、ふたりがかりの追跡を躱し続けてこのターミナル駅へと逃げ込んだ。よりによって一日で一番人の多い時間帯だ。人波をかき分けて追うだけでもかなりの気合いを要する。
『椎名、急いでください。地上へ誘い出したらポイントPへ。桜河が狙える位置まで誘導するのです』
 鉄道会社のシステムへ侵入したHiMERUは、防犯カメラの映像にリアルタイムで目を光らせ、遠隔地からサポートしてくれている。燐音とニキの陽動によって追い込まれ地上へ逃げざるを得なくなった奴は、知らず知らずのうちにこはくが張っている地点へと導かれる。そうなれば『詰み』だ。あの優秀な末っ子ならば、急所を外して狙撃し機動力を奪うことくらい、いとも容易くやってのける。
『はいはぁい、今! 超! 頑張ってるっすよ~!』
「ニキちゃんってば食い過ぎで身体重くなったンじゃねェの? ダイエットした方がいいンじゃないでちゅかァ~?」
『燐音くんうるさい! 晩ごはん抜きっすからね!』
 無線越しにいつも通りの軽口を叩き合う年長コンビを見かねたこはくが『真面目にやらんかい』と苦言を呈した。
『えろう楽しそうやんか、ぬしはんら。わしずうっと待ちぼうけなんやけど』
 彼は今もひとりで、ポイントから百メートルほど離れた雑居ビルで待機してくれているのだ。そりゃ文句を言いたくもなるだろう。
「悪りィこはくちゃん、もうちょいで……ン?」
 角を三回ほど曲がり、天井の高いコンコースへ出る。ここを進めば右へ行った相方と合流できるはず。挟み撃ちにされたターゲットはエスカレーターを使って地上へ向かおうとするという、算段だったのだが。
『──二秒遅かったようですね。そこの通用口から逃げられました』
「ええ~⁉ 頑張って走ったのにあんまりっすよぉ!」
 合流地点にターゲットの姿はなかった。咄嗟に辺りを見回せば、『STAFF ONLY』の札を掲げた扉が僅かに開いていた。すかさずHiMERUの指示が飛ぶ。
『天城、椎名、追ってください。長引かせると厄介そうなのです』
「へいへい、言われなくても」
 交通インフラに影響が出ては面倒だ。あのチンピラ風の男が関係者エリアで騒ぎを起こさないとも限らないし、ああいう手合は早急に捕まえるに限る。
「おら行くぞニキ」
 ジャケットの内ポケットから取り出したプロテインバーを放ると、ニキはよく訓練されたジャーマン・シェパードよろしく跳び付いた。少々へばっていたこいつもこれで嘘みたいに元気になる。わかりやすくて大変よろしい。仕事仲間としてはありがたい限りだ。
 先に動き出していた燐音のあとを追い、ニキも通用口へ飛び込んだ。中は蛍光灯の灯る廊下が続いている。事務所、救護室、遺失物預り所……奥は駅長室だろうか。
「メルメル大佐、この先は?」
『今調べてます……そこ、左のドア入ってください』
「はいよ」
 都市の地下にのっぺりと横たわる駅の心臓部。赤、白、黒の三色で『DANGER』と示された扉の向こうに何があるのかは──まあ、すこし考えればわかる。
『線路を整備する作業員用の出入口のようですね』
「だよなァ」
 ドアを潜った先は案の定薄闇に覆われたトンネルだった。ここを抜けて逃走を図ろうというわけだ。と、ひとつの懸念が頭をよぎる。
「ヤなこと言ってい?」
『……おおよその想像はつきますが、どうぞ』
「次の電車の時間、何時?」
『ウエストパーク行き下り電車。十八時五十七分です』
 先回りして調べておいてくれたのだろう、間髪入れずに返答があった。流石だ。
「ん~と、あと三分っすね」
「チッ……急ぐぞニキ」
 脳内に降ってきた最悪のシナリオを打ち消すべく、燐音はかぶりを振った。此度の任務の成功はターゲットを殺さないことが絶対条件。まずは確保しなければ話にならない。
 僅かな灯りとニキの鼻を頼りに、駅のホームとは逆の方向へ進む。
「なァメルメル」
『はい』
「ちょっと調べてほしいンだけど……。ターゲット、この駅に着いてからここに来るまでに人とぶつかったりしてねェ?」
『……、確認します』
 無言で足を動かしつつ答えを待つ。しかしあの野郎、マジで足速えェな。
『──ふむ』
「どォ?」
『一度だけ、ぶつかっていますね。防犯カメラの死角で』
「あ~やっぱりか……俺っちの悪い想像、アタリかもしんねェ」
 苦々しく呟くとHiMERUがはっと息を呑んだのがわかった。
『まさか、データは既に……』
 ニキとこはくが同時に「え⁉」と上擦った声を上げる。
「そのまさかっしょ。奴の役目はもう終わってンのさ。『運び屋』は別にいる」
「嘘でしょ⁉ ってことは今僕らが追ってるひとは……」
「盗んだデータはもう持ってねェ。たぶん……死ぬ気だ」
『わしらのターゲットは取っ替えの利く鉄砲玉やったっちゅうわけか。気に食わへんな。コケにしよってからに』
 データを持ち去った者を今から追うのは不可能だ。周到な相手だ、恐らく今頃は車か何かで遠くへ逃げたあとだろう。よって当初のプラン通り、ターゲットをとっ捕まえて吐かせるのが最も手っ取り早いと、燐音は判断した。
「俺っち達のやることは変わんねェ。生かしたまま捕らえる」
「わかったっす」
 ようやく見えた男の背中。ショルダーホルスターから銃を抜き「止まれ」と声を投げようとしたところで、革靴の裏に微かな振動を感じる。
「……、おい。おい、てめェだよ。抵抗すンなよハニー?」
 あくまで落ち着いた声で呼び掛ければ、黒いジャンパーを着た男はゆらりと振り返った。次第にはっきりと大きくなる揺れと共に、トンネルの奥から列車の迫る音が聞こえ始める。
 〝殺すな〟──つまり奴を死なせたらその時点でゲームオーバーだ。王手をかけられたのはこちらの方だったのだ。任務を言い渡した主人の紫水晶の輝きが、身体の正面をこちらへ向けたターゲットとオーバーラップする。
「させねェよ……!」
「燐音くん‼」
 気付けばニキの制止を振り切って駆け出していた。レールの上に立ったそいつの背後、ブラックホールのようなカーブの先がにわかに明るく染まっていく。煌々と灯る前照灯は、燐音の立つ暗闇を瞬く間に金色に塗り潰してしまう。唯一、男の表情だけが黒々とした影に包まれたまま、自らの死に際して泣いているのかも笑っているのかも、誰かに怒りをぶつけたがっているのかも、わからないままだった。





「ほんっとうに、あなたというひとは……!」
 ダン! バーカウンターに握り拳が振り下ろされた衝撃に、オールドファッションドグラスの中の氷がカラコロと崩れた。マスターは今夜も知らぬ存ぜぬを決め込んでくれている。こりゃいつもの倍、いや三倍のチップが要るな、と燐音は視線を泳がせながら考えた。
 ここは『bar |déraciné《デラシネ》』──『根無し草』の名を冠したこの店は、家出中のHiMERUと療養中の燐音が夜毎密会を重ねた場所である。
「任務のためとは言え! 走行中の列車の前に飛び込む奴がありますか⁉」
「だァから反省してるっしょ? 無茶して悪かったよ」
「他人には無茶させたくないなどと抜かしておいて、ええ、そうですあなたはそういう人間なのです」
「おォい勝手に自己完結しねェでくれるゥ?」
 HiMERUは──要は怒っている。ついでに酔っ払っている。面倒なことに。
 結論から言えば、ターゲットを死なせずに捕縛することにはなんとか成功した。地面を蹴った勢いのまま男を突き飛ばし、自らも線路の脇を大胆に転がって、すんでのところで衝突を回避したのだ。分の悪い賭けだった。
 こはくとニキは我らが参謀のお説教スイッチが入ったことを目敏く察知し、先に屋敷へ帰った。ついでに本部への報告も済ませておいてくれると有難いのだが。
 端末にはヒメルからメッセージが届いていた。珍しく巴家を訪ねて来ていた宗とみかに着せ替え人形にされたのだそうだ。あの子はもうすっかり新しい暮らしに馴染んで、毎日楽しそうに笑顔を振り撒いている。
「本当にわかっているのですか? せっかくよく回る頭脳を持っているのに、いざという時にリスクを負ってでも勝負に出ようとする。悪癖なのですよ、あなたの! その頭は派手なだけの飾りだと言うなら話は別ですが」
「キッツゥ~。わかってンよ、ちゃんと」
「ならばいい加減にしてくださいね。こちらは心臓がいくつあっても足りないのです」
 琥珀色のクルボアジェが満たすグラスを揺らし、不遜に笑う。
「心配してンだ?」
「全然⁉」
 半ば叫ぶみたいに声を荒げた彼はテキーラをストレートで煽った。今夜は構わないが、ひとりの時にこんな飲み方されちゃたまんねェなと思う。〝心配してンだ?〟は盛大なブーメランとなって燐音に返ってくる。
「いつか、だとしても。今じゃ……ない」
「ん?」
「まだ、死ぬ時じゃない。そうでしょう──天城?」
 重たげな二重瞼の下から覗かせるゴールデンシトリンは涙の膜が張って眠たげで、目元には紅が差している。正直に言えば、その目に見つめられると一気に酔いが回るのだ。何を話していたかなんてさっぱり忘れてしまう。格好つけていられない気がして、流れを変えるべくカウンターに置いたままだったソフトケースから煙草を一本取り出し、咥えた。
「あり? 火……」
 ライターが見当たらない。下に落としたのかと目を凝らせど、照明が絞られているために足元は真っ暗だ。床に這いつくばって探す気になどとてもじゃないがなれない。
 諦めてスツールに座り直した燐音に、要が指に挟んだ小箱を振ってみせた。
「──マッチなら。マスターにいただきました」
「お。サンキュ」
 シュボ、と小気味よい音を立ててちいさな火柱が上がる。つんと鼻をつく火薬の匂いは硝煙にも似て、まあ嫌いじゃない。オレンジの炎に煙草の先を近付けてすうと空気を取り込む。熱が葉に移るまでの僅かな間に、上目遣いに視線を捕らえた。
「……見すぎ」
 ふう、と麗しいかんばせに煙を吹きかけてやれば、心底不快そうにその秀眉が歪んだ。マッチの燃えさしを灰皿に放り出した彼は「何のことですか」と吐き捨てた。
 火をもらうあいだ、睫毛を伏せて距離を縮めた己のツラに、恋人がじっと見入っていることには気が付いていた。むしろ何故気付かないと思ったのか聞きたい。穴が開くほど熱烈に見つめていただろうに(いやそれより手元を見ろ、危ねェから)。
「……」
 紫煙を燻らせつつ、もうすこしからかってやろうかと企てる。いつか話そうと思い温めておいたとっておきのネタだ。
「あ~……なァ要、覚えてるか? おめェの置手紙」
言えばすぐに思い出したらしい彼が「ああ」と頷いた。
「コースターに書いて帰ったあれですか」
「そ。懐かしいっしょ」
 唐突に思い出話を始めた燐音を要は胡乱げに眺めていた。にや、と唇を歪める。意地悪を思い付いた時によくする表情だ。何かを察した隣の男の肩がすこし強張った。
「あれってさァ、やっぱラブレターだったの?」
「は? 何を言って──」
 そこまでを声に出して、彼は手で口元を覆った。この反応、ちゃんと思い出したのだろう。ぜんぶを。何せ十条要は記憶力のいい男なのだ。
 ずっと秘密にしてきたことだ。燐音の部屋のデスクの上から三番目の引き出しの奥には、あの一週間を標本に閉じ込めるみたいにそれはもう丁重に、コースターの書置きをすべて保管している。大事にするあまり今や暗誦できるまでになってしまった。
「……なぜそんなことを……」
「理由なんかねェよ。なんとなく手放せなかっただけ」
 そう、大した理由などない。自分のことながら女々しいと思っているし、もう要らないと言えばそうだ。燐音も要もしぶとく生きているのだから、かつてもらったものに縋らなくたっていい。その必要はなくなった。これからいくらだって言葉を、想いを交わせる。だから本当に〝なんとなく〟だ。
 約束の日時に添えられた走り書きのメッセージの多くは、詩や文学から引用されたものだった。発音し慣れないラテン語のフレーズを舌に乗せてみる。
「『Audentem Forsque Venusque iuvat.』……だっけ?」
「『運も愛も大胆に振る舞う者の味方をする』。あなたっぽいでしょう」
「『Your soul is carried to the most suitable place with destiny.』」
「『運命とは、最もふさわしい場所へと、貴方の魂を運ぶのだ』──シェイクスピアの言葉とされていますが、出典は不明」
「不明なのかよ」
 照れ臭いのか目を合わせてくれなくなった彼の前に、チェイサーがそっと置かれた。
 時代も言語もバラバラで一見結びつきそうにない言葉達は、要が燐音を想って綴ったという一点においてのみ関連性を持つ。ラブレターとは言い得て妙だと思わないか?
「受け手というのは勝手なものですね。俺は遺書のつもりだったのですけど」
 常温の水をひと口飲み下してから、言う。
「──他には?」
 数秒置いてこちらへ向けられたふたつの黄水晶に、ほんの一瞬、躊躇した。
(遺書、か)
 フランス語の短い一節は、最後の日、作戦決行前夜に受け取ったメッセージだったはず。
「……、『A TOI POUR LA VIE』」
 コースターの裏に書き残されたこの文字列を、もう幾度辿っただろう。燐音の記憶が正しければ『チボー家の人々』から引っ張ってきたものであろう言葉。この男にしては随分と熱っぽく、あからさまだと感じた。だからこそ本人の口から聞きたかったのだ。
 ──なァ、要。おまえはどんな想いでこの言葉を選んだ? どんな想いで綴った?
 前日までのものと比べて僅かに粗い筆致に強い筆圧。葛藤が透けて見えるようなインクの滲み。それまではなかった、『K.』というシンプルな署名。これが遺書だと言うなら、この男は『HiMERU』というエージェントとしてではなく『十条要』というひとりの人間として命を散らすことで何かを守ろうとしたのだと、漠然と考える。それが愛なのか矜持なのかはたまた己の心なのかは、今となっては知る由もない。
 ぽんぽん返ってきていた返事が途切れた。要は静かな瞳でじっとこちらを見つめていた。まるで問われるのをわかっていたみたいに、あるいは開き直るみたいに。薄い唇がゆっくりと開き、音を象っていく。

「命をかけて君のものになる」

 それは借り物の言葉とは到底思えない真に迫った響きで燐音の鼓膜を揺らした。彼本人の内側から溢れたものであるかのように感ぜられたのだ。
「あの夜本気でそう願ったのだから、これは俺の言葉です。本心からのね」
「……今も?」
「馬鹿。俺はいつだってそのつもりなのですよ」
「そっ、か」
 あまりにもきっぱりと言い切る豪胆ぶりに、何故かこっちが照れてしまう。からかってやるつもりが返り討ちに遭ってしまった。とんだ見込み違いだ。
「──さっさと捨ててくださいね、そんなもの。取っておくだけ無駄です」
「はァ~い……」
 生返事をして立ち上がり、背を向けた。「どこへ?」との問い掛けには「トイレだよトイレ」と適当に片手を挙げて答えた。気まずくなって逃げたとでも思われたのだろうか。

 用を足して席に戻った燐音を迎えたのは店主ひとりだった。カウンター越しにちょいちょいと手招きされ、上半身を傾ける。他の客に聞こえないよう耳打ちされた言葉にひっくり返りそうになった。
「あァ? ツケ⁉」
「ええ。お連れさまはよくおひとりでもお越しになってましてね。毎度〝赤い髪の男にツケておいてください〟と言い残してお帰りになるんですよ」
 知らない。そんなことはまったく知らない。提示された伝票は結構な額で──ニキを連れてきてすべてのフードメニューを十皿ずつオーダーしたとしてもこうはなるまい──白目を剥いた。要するにめちゃくちゃ常連っつーことじゃねェか。
「マスター、あいつ帰ったの?」
「二分ほど前に」
 穏やかな笑顔を絶やさない店主は先刻まで恋人が座っていた席を目線で示した。よく手入れされたチークのカウンターに残された、丸いコースターが一枚。
「……」
 おそるおそる手に取り、裏返す。待ち合わせの日時は書かれていない。当たり前だ。代わりにそこに綴られていたのは、物騒な密会の約束などではなく。
『あとで俺の部屋に来て』
 たったそれだけの、ささやかで一方的な甘えだった。
「……お客さま?」
 掌で目元を覆ってしゃがみ込んでしまった燐音を気遣うマスターの声に返事をする余裕は、なかった。力の入らない手でカードを出しすべての支払いを済ませ、厚手のチェスターコートを引っ掴んだら礼を言って店を出る。走れば追いつけるかもしれない。
 真夜中。寝静まった通りを駆ける。なんだか走ってばかりの一日だ。
 吐く息はくっきりと白い。ここは都会であるがゆえに見上げたところで大した夜空は見えないのだけれど、冬は多少星あかりが増える。浮ついたターコイズの瞳にはまるで祝福の光のように映るのだ。
「要!」
 見つけた痩身を背後から思いきり抱き締めた。
「わっ、急に何する──」
「嘘つけ。俺っちが追っかけて来るって確信してたくせして」
 この男が後ろから駆け寄る気配に気付かないはずがないのだ。つまり今のこれは、あえて捕まってくれたということで。
「今すっ……げェ触りたい、おまえに」
「そういうことは帰ってから言ってほしいのですが」
「うん。それはそれ、これはこれ。帰ってからも触るし」
「? 変な天城」
 愛されてンなァなんてこんなにも実感して。あんな可愛い我が儘を目の当たりにして、浮かれない奴がこの宇宙のどこにいると言うのか。少なくとも自分は今、今世紀一番くらいに浮かれているのだけれど。
「要ェ、帰ったら一緒に風呂入ろうぜ」
「エロいことしないならいいですよ」
「え~、どうせそのあと人に言えねェようなドエロいことすンのにいでで」
 ちゃっかり腰に回していた手の甲を抓られて思わず呻いた。容赦がない。その上要は涙目になりながら患部をさする燐音の襟首を荒っぽく掴み上げる。今度は何をする気だ。
 身構えた刹那、ふ、と吐息が耳元を擽った。
「──」
 ぱ、と手を離した彼はそのまま一瞥もくれずにすたすたと歩いていってしまう。この日地べたにしゃがみ込むのは五分ぶり二度目のことである。

〝──今夜は、ベッドでじっくり愛してほしい気分なのですけど?〟

 甘ったるい声と吐息の感触が耳に残ってじくじくと疼く。そんな殺し文句をどこで覚えてきたのかと追及してやりたいところだが、今は一刻も早く部屋へ帰ってこの小狡い男を目一杯可愛がってやらなければ。あいつの気が変わる前に。
 有難いことに明日は待機日、事実上の休暇。時間はたっぷりある。燐音は早足で要のあとを追い掛け、めくるめく夜の幕開けに情熱的なキスを贈った。
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