緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



第三幕 Darlin' From Hell

第一場
 
 


 
 街中でのカーチェイスののち、燐音は結局、ネットニュースで騒ぎを知った要に洗いざらい白状することとなった。彼の見立てでは、ふたりを襲った連中は例の組織の者である可能性が九割。天使と見紛う美貌のヒメルを誘拐したい変態の可能性が一割(そんなことはない、たぶん)。
「しかし、ヒメルが乗っているのに撃ってきたのでしょう? あの女ならば彼を傷付けかねない危険な真似はしないはず、なので……何かがおかしい」
 要の言う通り気掛かりが残ったままではあるが、以来三週間ほど、あの騒動が嘘みたいに平和一辺倒だったのだ。燐音の日常はすっかり平穏を取り戻しつつあった。
 茨に召集されては任務へと赴き、要とヒメルのいる家に帰る毎日。ここ最近の仕事は危険度もそう高くなく、ニキとこはくも要が抜けて以来、積極的に作戦の立案に関わってくれている。
 だからか、らしくもなく気を抜いていたのかもしれない。
「~~♪ うぇっ?」
 ほどなく夜が明ける頃合いに徒歩で帰宅する途中、厳重に張られたイエローテープに行く手を阻まれた。
「おいおいなんだってンだよ、まさか殺人事件とかじゃ──」
「ウム、そのまさかだよ!」
「あァ? 疲れてる時に勘弁してくれよなァ〜……って、おまえ……?」
 燐音の目はテープの向こう側から姿を現した青年に釘付けになった。背格好も声もあの頃とは随分と様変わりしているけれど、見間違えるはずがない。
「一彩……?」
「にい、さん?」
「ちょっとヒロくゥん! 勝手にどっか行かないでっていつも、あれェ⁉」
 彼を追いかけて来たらしいアッシュブロンドの青年(?)がこちらを見て怯えたように縮こまった。同じ制服を着ているところを見るに、同僚なのだろう。
「えっ? だ、誰?」
「藍良。怖がらなくていいよ、このひとは悪人じゃない」
「そォ……? ていうかよく見たらヒロくんにそっくり、もしかして前に話してくれたお兄さんだったりするゥ?」
「その通りだよ! というわけで僕はすこし席を外させてもらうよ。先輩達にはあとで謝るから」
 ごめん! と頭を下げた一彩は、燐音の背をぐいぐい押して物陰へと追いやった。
「ひい、いや弟くん、おい、何やって」
「兄さんこそ!」
 見上げてくる瞳は自分のものと同じ澄んだターコイズブルー。燃える緋色の髪。間違えようがない。生まれ故郷に置いて出てきて以来ずっと気がかりだった、ただひとりの弟だ。
「やっぱりこの街にいたんだね! どこかで会えるんじゃないかと思って、僕は」
「おう、俺っちもおめェに会えて嬉しい、本当だ。ただなァ……積もる話をしてェのはやまやまなんだが、どうもそれどころじゃなさそうっしょ? 何が起きてンだ? 一体」
「……知らないのかい?」
 一瞬怪訝そうな顔をしたものの、「テレビ見ねェから」と言い訳をすれば「僕が兄さんの役に立てるなんて嬉しいよ!」と丁寧に話して聞かせてくれた。
 
 巷を騒がせている『連続銃殺事件』。
 犯行時刻は決まって深夜帯。凶器は銃で、路地裏に打ち捨てられた遺体が通行人によって発見され、夜明け頃に通報が入るというのが一連の流れ。これで五人目になる被害者同士には交友はなかったということが、調査により判明している。
「でも不可解な点があってね……」
 無関係の被害者達を結び付ける唯一の共通点。それは『赤髪の男性』であることだ。一彩は神妙な面持ちで語った。
「兄さんも気を付けた方がいい。強い兄さんには、僕が忠告するほどのことでもないのかもしれないけれど……心配だよ」
「それはおめェもっしょ。つうかなんでおめェがこんなところで警察の真似事なんかやってンだ? それこそ危ねェだろ」
「真似事というか、手伝いに派遣されたというかんじかな。調査はちゃんとした警察に任せているよ」
「……?」
 疑問符を浮かべた燐音に彼は胸を張ってみせる。
「僕達『ALKALOID』は天祥院財閥の私兵みたいに目されているけれど、元々は義勇兵なんだ。理不尽に屈さず、平和を求めて闘う。市民の幸せが脅かされるようなことは決して許さない。そのために身に着けた力だ」
 静かな闘志を燃やす碧色がこちらを射抜いた。
「僕も強くなったんだよ。兄さん」
「……、そっか。大体わかった」
 知らぬ間に大人になり、変わったかのように見えた弟。けれど真っ直ぐで芯のぶれない瞳はそのまま、あの頃のままだ。もう会えないと思っていたのに、これでは離れ難くなってしまう。
(でも、駄目だよなァ……)
 己は末端ながら巴財団の手足。彼は〝天祥院財閥の私兵〟だと言った。表立って親しく付き合える立場ではない。謝りたい、許してもらえなくてもいい。もう一度話がしたい。けれど身勝手を通すことで家同士の確執に巻き込みたくはない。
 様々な葛藤を飲み込み、燐音はそっけない風を装って一彩に背を向けた。
「わかった。忠告ありがとなァ……弟くん」
「あ……待って、兄さん!」
「なんだァ? まだなんかあンのか……」
「これ! これが、現場に残されているんだ、毎回。遺留品というやつだよ。何か心当たりはないだろうか?」
 不慣れなスマホを操作して表示させた写真を印籠よろしく突き付ける。すこし屈んでそれを眺めた燐音の背を、冷たい汗が伝った。
 写真に収められていたのは銀色の空薬莢だった。それもよくよく見覚えのある、トカゲの紋章が刻まれたもの。〝心当たり〟なんて大アリだ。
「──るな」
「? 兄さん、よく聞こえなかったよ」
「関わるな、一彩……‼」
 物凄い剣幕に気圧された一彩の手からスマホが滑り落ちた。話し声を聞き付けたのか、数人ぶんの足音が向かってくる。
「いいな、死にたくなけりゃこの案件からは手を引け。おめェのお仲間さんにも言っとけ、法や正義が通用する相手じゃねェって。……頼んだぞ」
 最後は懇願するように声を絞り出して、握った手を離した。
「……! 待って!」
 縋り付く声が悲痛に聞こえて耳を塞ぐ。
「一彩さん? どうかしましたか?」
「巽先輩、マヨイ先輩……。ううん、なんでもないよ」
 ──悪りィ一彩、今はこうするしかねェンだ。おめェが小さい頃と同じいい子ちゃんなら、『兄ちゃん』の言うことが聞けるはずだろ?

 『あの組織』が何かを為そうとしている。要の脅威になり得る、あいつらが。まずは一刻も早く彼に知らせなければ。
(……一彩は、大丈夫だ)
 そう己の心に言い聞かせ、家路を急いだ。





「うし、|《任務完遂《ミッションコンプリート》》~っと。……んん?」
 それから数日後、別行動を取っているチームの仲間と連絡を取ろうとした燐音は、ひとり首を捻っていた。
「ん~……? 繋がンねェなァ?」
 通信機器の故障か、はたまた電波の異常か。端末のどこを弄ってみてもうんともすんとも言わないのだ。
(なんか前にもこんなことあったっけなァ……わは、懐かし)
 確かその時はHiMERU(というか要)が誘拐されて、諜報部メンバー総出での救出劇を演じたのだったか。
 兎にも角にも報告をサボるわけにはいかない。渋々近くの公衆電話を探してそこから本部に直接一報を入れることにした。
 滅多に使わない番号を頭の端っこのメモリーからなんとか引っ張り出し、ダイヤルする。電話口から流れてきたのは自動音声だった。
『お電話ありがとうございます。××××株式会社です。お繋ぎ致しますので御用の部署の番号をダイヤルしてください。企画開発部に御用の方は──』
 緊急用の直通番号くらい用意しとけよな、なんて愚痴っても無駄なので胸にしまっておく。自分達の仕事内容を思えばこれくらいのハードルはあって然るべきだ。
(え~っと確か……『|11146《いいひより》―×××―××××』、だっけか……?)
 記憶を頼りに決められた数列を入力すれば、女性オペレーター風の音声が茨の声に切り替わった。残念ながらこれも自動音声であるが。
『コードを確認しました! 続いて本人確認を実施します』
「だァ~もうめんどくせェ! 『tinker』『tailor』『soldier』『hornet』『gambler』! どうだ!」
『アイアイ! すぐにお繋ぎ致します!』
 いやに牧歌的な保留音が流れ出したところで、燐音はどっと息を吐いた。やっと報告すべきことを伝えて家に帰れる。今日は珍しく日中の任務だったから、早い時間に解放されるのだ。まだ日が高いうちからゆったり酒を飲むなんて贅沢なこともできてしまう。
「早く出ろよォ蛇ちゃ~ん……」
 保留が長い。別件に追われていたりするのだろうか──そういえば例の『連続銃殺事件』は、要に伝えただけで本部には上げていなかったか。まあ問題ないだろう、直接関係があるのは巴家ではなくヒメルの方だ。
 曇り空の隙間から陽光が顔を出した。電話ボックスのガラス越しに目を焼いた陽射しに、誘われるように顔を上げる。ぎらり。ビルの高層階で何かが鈍く光った。
(──……! や、べェ)
 狙撃だ。気付いた時には腹の肉が抉れていた。重力に従って傾いた身体がガラス戸にぶち当たり、石畳の歩道にひしゃげる。
「いっ……てェな、クソ……」
 通行人の多い真昼だ、辺りにはすぐに人だかりができた。「救急車!」だなんて叫ぶ声がぼんやり聞こえる。水の中にでもいるみたいに、ざわめきと自らの意識との間に分厚い膜がある。これだけ民間人が集まっている場所で狙うなら一撃で仕留めなければ意味がないのに。もしこれがうちの|狙撃手《こはくちゃん》だったなら、今の一発で確実にあの世行きなのにな。
(三流が……俺を狙ったのも失敗だったな。曇ってたせいでち~っとだけ反応が遅れたが、あの瞬間僅かに身体を捻って急所は、外した……ああ駄目だ、血を流しすぎてる……)
 重い身体を引きずって仰向けに寝転がると、胸ポケットをまさぐった。震える指で煙草を摘まもうとして、一本摘まむのにえらく苦労して、やめた。撃たれて死にかけてる時にまでニコチンを欲しがるなんてどんな馬鹿だよ、なァ。笑えちまって仕方ねェぜ。
『天城氏⁉ 何があったんです、天城氏! 応答してください‼』
 とっくに手から離れていた受話器の向こうでは、珍しく慌てた様子で茨が捲し立てている。いい気味だ。せいぜい驚くがいい。そして外部からコンタクトを取る手順をもうちょい簡略化しろ。
(くそ、目が……もう、)
 反射的に避けたとは言えライフルの弾が掠ったのだ。内臓が傷付いたわけではないにしろ出血性ショックのリスクは回避しようがない。
 朦朧とし始めた意識の中何気なく伸ばした手で石畳を探るうち、指先に硬い何かが触れた。どうにか拾い上げ目の前に翳す。陽光を跳ね返し銀色に光ったそれは、あの時一彩が見せてくれたものと同じ。
「成程、な……」
 トカゲの紋章が彫られた空薬莢。つまり連中は、この場所で燐音を狙撃することを予告していたのだ。
 雲間から現れた空の色が段々とわからなくなってくる。つま先から順番に感覚が消えてゆく。久しく感じていなかった死の恐怖が、凍てつく息吹を間近から吹きかけてくる。
 ──俺としたことが、油断した。というかこれはきっと、俺みたいな大量殺人者が普通の幸せに手を伸ばした報いだ。好きな奴と幸せに暮らそうだなんて思っちゃいけなかったんだ。『緋色の暴君』が聞いて呆れる。
 己の愚かさに嘲笑が零れる。瞼が重い。今にも眠ってしまいそうだ。
 意識が遠くへ引っ張られる感覚にすべてを諦め、燐音は静かに目を閉じた。





第二場
 
 
 


 巴家諜報部の管制室は肌を刺すような沈黙に満ちていた。
 往来で銃撃された燐音が運び込まれてからというもの、こはくとニキは「誰がやったか知らないがぶち殺してやる」と言って聞かなかった。復讐に駆られるふたりを押さえ込むためにジュンと『2wink』が呼び出され、茨と四人がかりでようやくふん縛ることに成功したのだ(ただし犠牲は大きかったらしく、包帯と湿布まみれになったひなたが「ぜんぶ燐音先輩のせい! 目を覚ましたら俺達が満足するまでごはん奢ってもらうんだから~っ!」と拗ねていた)。
「……現場に、これが落ちていたんだって。皆は何か聞いてる?」
 凪砂が掲げたビニール袋には件の薬莢が収められている。こはくもニキも、茨も、黙って首を横に振った。
「困ったね。誰も何も知らないとなると……燐音先輩に吐いてもらうしかないね」
「なんやねん、物騒な言い方しくさって。燐音はんが悪いとでも言いたいんか」
「そうじゃないね、血の気の多いお子さまはすこし黙っててほしいね……。茨」
「アイアイ!」
 正面のメインモニターで映像が流れだす。ニュースを録画したもののようだ。こはくよりも幾分冷静な自覚のあるニキは、逸る気持ちを抑えてモニターを凝視した。
「連続、銃殺事件……?」
「椎名氏もご存じなかったようですね。今最も世間を騒がせているニュースですよ」
「……まあ、命を切り売りしている──明日の命も知れない仕事をしている君達には、どうでもいいニュースなのかもしれないね」
「なんやけったくそ悪い言い方やな~!」
「もうちょっと辛抱してくださいサクラくん、うちの先輩達がほんとすいません」
 引き続きニュース映像を眺めていると、ニキにも此度の一件との共通点がわかってきた。
「赤髪の男性ばかり狙われ、って……同一犯ってことっすか?」
「恐らく。ただ、これは自分の推測ですが……犯人の目的ははじめから天城燐音氏だったのではないか、と愚考します」
「ええ? なんで?」
 そりゃあ燐音くんは人から恨まれるようなことを数え切れないほどしてきたけど。殺されても仕方ないくらいのことをやってきたのかもしれないけど。
「そんなヤバそうな奴に命狙われるなんて、一体燐音くんが何したって言うんすか⁉」
「それはですね、」
「──俺から説明しましょう」
 閉め切られていた部屋の自動扉が殊更にゆっくりと開け放たれた気がした。蛍光灯の明かりを背にしていたからすぐにはわからなかったけれど、その独特の色香を纏わせたよく通る声は、耳によく馴染んだものだった。
「HiMERUはん!」
 真っ先に反応したのはこはくだった。すぐにでも駆け寄りたいだろうに、拘束されているせいで身動きが取れない悔しさをぎりぎりと奥歯を噛んで耐えている。
「HiMERUくん、どうして」
「おや、これは……飛んで火にいる夏の虫、だね」
 思わぬ人物の登場に再会を喜びたいニキ達に反し、上司達は剣呑な雰囲気を上塗りしただけだった。
「誰が立ち入りを許可したのかね? ここはぼくの城だ。よそ者はお引き取り願いたいね」
 聞いたこともない冷淡な声音。日和が指をひと振りすれば魔法みたいに獄卒ども──ジュンと茨が立ちはだかる。それを受けてHiMERUが一歩下がった。そうだ、そのまま不戦敗を選ぶのが一番賢い選択だ。今の坊ちゃんはやばい、刺激すれば死ぬぞとニキの野生の勘が訴えている。身内同士で相争っている場合ではないのだ。
 しかし引き下がるかと思われた彼の陰から松葉杖を突きつつ現れた男の姿に、一同は目を瞠ることとなる。
「俺っちだぜェ、日和坊ちゃん♡」
「り、燐音くん~⁉」
「燐音はん‼ おどれはもぉ~‼」
「文句はあとで聞く。今は坊ちゃん、『HiMERU』の入室許可を」
「……。どう? 凪砂くん」
 この主人は常々大事な場面で凪砂に答えを委ねるきらいがある。例によってしばし考え込む素振りを見せた彼は、好奇心を隠しきれない瞳をして親友の顔を覗き込んだ。
「……今の君は、言うことを聞かない駒に憤っているのかもしれないけれど……。追い出すのは、話を聞いてからでも遅くない。でしょう? 日和くん」
 その台詞が|きっかけ《・・・・》だった。
「聞いた? 凪砂くんが良いって言ってるね!」
 ぱんぱんと手を叩き、日和が空気を一変させる。まるで舞台を演じ終わったかのように、それはもうあっさりと。
 臨戦態勢を取っていたジュンと茨も構えを解き、いそいそとお茶を淹れ始めた。ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていたのはHiMERUと、ニキとこはくだけだ(後者は座っていた。座り尽くしていた)。
「あはは! びっくりしてるね! サプライズ大成功〜☆」
「……なんですかこの茶番は……」
「前からこんなだったっしょ。久しぶりで忘れちまった?」
「種明かしをしますと、自分と日和殿下にはあらかじめ天城氏から進言がありましたので。閣下とジュンにも共有済みであります」
「HiMERUくんもウバでいいよね? 良い茶葉が手に入ったんだね♪」
 どこまでもマイペースな主人達だ。ニキは嘆息し、ひとまず死の淵から生還した相方と、かつての仲間の無事を祝った。
 
 
   ◇


 〝前からこんなだったっしょ〟と言われれば確かにそうだったような気もするけれど、いくらなんでも能天気すぎる。重大な作戦会議の前に茶会をおっぱじめようとするスパイ組織が世界のどこにあると言うのだろう。
「──頭が痛くなってきました」
 HiMERUは日和一押しの紅茶をいただきながら首を傾げていた。出された|中国趣味《シノワズリ》のティーセットは、以前凪砂が自分のためにと選んでくれた骨董品だったはずだ(まだ保管していたのか、と驚くやら呆れるやらである)。決死の覚悟で出戻ったと言うのに、この緊張感の無さはなんだ。
「みぃんな、HiMERUはんに会えて嬉しいんよ。副部長はんなんかはわかりづらいけど」
「そうですか、はあ、まあ、ありがとうございます……?」
 隣に座るこはくのはしゃいだ様子につい毒気を抜かれてしまう。
 ──いけない、この調子では目的を忘れてしまいそうになる。ここにやってきた目的を。
「皆さん、もうよろしいですか。俺は何も茶をしばきに来たわけではないのですよ」
「勿論わかってるね。このぼくの木漏れ日のような優しさのお陰でなぁんのお咎めもなしにスパイ稼業から足を洗えたって言うのに、今更のこのこ戻ってきたんだもの」
 日和はHiMERU、燐音の順に真正面から向き合った。
「何か、やるべきことができたんだね?」
「──はい」
 席を立ち、管制室の中央へ躍り出る。
「七種副部長の仰る通り、一連の銃殺事件は『天城燐音の殺害』を最終目標として行われていたものと、俺も考えます」
「ええそうです。その証拠に同じ赤髪の自分はどういうわけか、標的から外されていますからね。わざわざ夜更けにひとりで出歩いてみたのにですよ! 資料をどうぞ」
 モニターに示された六名の被害者像から浮かび上がる共通点は、赤髪の男性であり、かつ一八〇センチ以上の高身長であること。「茨は一七二しか無いっすもんねぇ~……」と悪気なくぼやいたジュンには、茨によるコブラツイストが炸裂した。
「あとはまあ、髪は皆一様に短いですね。副部長では長すぎます」
「それはフォローでありますか、HiMERU氏? いやあお気遣い痛み入ります☆」
 視界にカットインしてきた茨をHiMERUは黙殺した。
 もうひとつ引っ掛かるのは、銃撃が行われたと思われる時刻だ。
「一件目から五件目は深夜の犯行でした。全て同一犯だとして……ではどうして天城は、真昼に狙撃されたのでしょう? それもあのような人目につく場所で」
「……見せしめ、かな?」
 ぽつりと呟いたのは凪砂だ。
「そ。五人はデモンストレーション、そんで最後の仕上げとして、俺っちは見せしめのために殺されたってわけ。胸糞悪すぎるっしょ」
「でも見せしめって、誰に対してっすか……?」
「椎名の疑問はもっともなのです。しかし……その答えはもう、出ているでしょう」
 部屋に集まった面々をぐるりと見渡せば、日和が低く長く息を吐き、鬱陶しそうに前髪をかき上げた。
「ぼく達……いや。巴家に対して、ってことだね。目的は何?」
 HiMERUは静かに首を横に振った。
「ここからは、俺の憶測の域を出ません。ですが──皆さんに、聞いていただきたいことがあります」
 そうして包み隠さずすべてを打ち明けた。ヒメルのこと、『エマ』という女のこと、その背後にちらちらと見え隠れする、トカゲの紋を掲げた組織のこと。
「その組織が──仮称『Salamander』、『S』としますが──奴らは巴家に何らかの方法で取り入ろうとしているのだと、俺は推理したのです」
「なぁるほど? 何らかの方法、ねえ。例えば……恐怖による支配」
「……巴家の主戦力たる燐音くんの敗北は私達にとっての恐怖たり得るということを、向こうはよく理解しているんだろうね。……でもわからないのは、燐音くんがうちの子だという情報の出処」
 次から次へと降って湧く謎に、ニキは早々に音を上げて茶菓子を消費する係に徹していた。その様子を同じく置いていかれ気味のジュンが遠巻きに眺めている。
「俺っちがドライブ中にちょーっと追い掛けっこした奴らがいたっしょ? あの時撃ち込まれた弾を、ヒナ達に頼んでこっそり調べてもらってなァ。ほら、あいつら情報通だし?」
 燐音の車のリアガラスに残された弾痕をひと目見たひなたとゆうたは、すぐさま「これ変だよ」と言ったそうだ。先端がドリル構造になっている特殊な弾頭は流通経路が限られているらしく、製造元を問い質せば数少ない得意先に辿り着くことは容易かった。
「あの連中も『S』だった。銃撃は囮で、本来の目的は蛇ちゃんとの通信を拾うことだったっつーわけよ。中継ヘリなんてのも大嘘、あれも『S』の偽装だ」
 相手の方が一枚上手だった。シンプルな話である。
「てっきりあいつらはヒメルンを狙ってるもんだと思い込んじまってたけど、まさか俺っちの方だったとはなァ。きゃはは! モテる男は辛いねェ」
「ふざけとる場合とちゃうやろ、あほ。そもそもなんで燐音はんが狙われなあかんねん」
 こはくが呈した当然の疑問に、沈痛な表情で唇を引き結んだのはHiMERUだった。会話に参加してもいなかったニキが目敏くそれを見つけてしまう。
「HiMERUくん……どうしたんすか」
 強く握り締めた掌に爪が食い込む。痛い。痛みを感じていなければ立っていられない。
「──俺の責任、なのです。すべて」
「……え?」
 皆が一斉にHiMERUを注視した。燐音も黙って成り行きを見守っている。
「お話しした通り、俺はこの家に雇われたお陰でヒメルを取り戻すことができました。ですが……俺が金を用意するまでに要した期間は、奴らの想定と比べて圧倒的に短かった。真っ当に働いていたら一生掛かっても手に入らない大金です。裏社会の人間は金に関わる契約を違えることはしませんから、取引に応じました。しかしそのあとは? 金の出処を知りたがるのが自然でしょう」
 水を打ったように静まり返る室内で、誰かの衣擦れの音がいやに大きく響いた。
「俺の身辺を調べていた奴らは、俺やヒメルと行動を共にしている男の存在に行き着くのです。──天城燐音という男に」
「ほうほう、成程。それ以降は周知の通り、ということでありますな」
「……」
 無言で頷いた。ニキとこはくの案じるような視線から逃げたくて堪らない。
「──それで、きみの要求は?」
 主人の温度のない瞳に震えそうになる膝を、懸命に叱咤する。
「ここまで来てぼく達に言いたかったことは、それだけじゃないよね?」
「──はい」
 HiMERUは暇を求めたあの日と同じく、毅然としてふたつの紫水晶と対峙した。
「巴家には、この案件から金輪際手を引いていただきたいのです」
「ばっ……何言ってンだてめェは⁉」
 即座に声を張り上げたのは燐音だった。腹の傷が痛むせいで立ち上がれはしなかったようだが。
 リーダーによる横槍は無視することにして、続ける。
「どんな手を使ってでも、どんな犠牲を払ってでも──俺が決着をつけます。あなた方に傷ひとつ付けさせません。それを条件に、ひとつだけ、お願いを聞いてくださいませんか」
「……言ってみるといいね」
 日和の返事にふわりと柔らかく微笑んだHiMERUは、こはくの端末を借りてビデオチャットを始めた。状況を見守るしかない面々は沈黙を保ったままだ。
『──もしもし、』
「HiMERUです。ゆうた、彼はそこにいますね?」
『あっ、はい! 一緒にいますよ、ヒメルンさん。よく寝てます』
「ふふ、ありがとうございます。……では坊ちゃん、彼のことをよろしくお願いします。丁重に保護してあげてくださいね」
 ヒメルは現在『2wink』と共に邸内の一室にいる。ここへ来る前に彼らの元へ寄り、預かってもらえるよう頼み込んだのだ。彼の知らぬ間に出ていくつもりだったから、安全な薬で少々深く眠ってもらっている。これで数日は目を覚まさないだろう。
「……。わかった。きみの要求をすべて受け入れよう、巴家はこの件から手を引く」
 突き放すみたいな、平坦な声だった。ちくりと胸が痛んだが突っぱねられるよりはいい。だって受け入れてもらえないと、要求を呑んでもらえないと自分を許せない。大切な人達を危険に晒して傷付けた、また傷付けるかもしれないその身体でのうのうと生きるくらいなら、自殺行為だと非難されても敵と心中することを選ぶ。
「──ありがとう、ございます」
 深々と頭を下げ、顔を上げたHiMERUは、誰とも目を合わせずに踵を返した。それ以上ひと言も発することなく出口へと向かう。何か言おうと口を開いたニキが、あまりのことに何も言えず出した手を引っ込めるのを見た。「死ににいく」と決めた仲間を引き留める言葉など誰ひとり持ち合わせてはいないのだ。チームの精神面の支柱であったこはくですら、打ちひしがれて蒼白になっている。
「──」
 一切の綻びもない完璧なしじまを打ち破ったのは、声とも呻きともつかない低いノイズだった。次いで、ガン‼ と耳を覆いたくなるほどの騒音。見るとHiMERUの背後から投げ付けられた松葉杖が鉄の扉にぶつかり、真ん中からばっきりと折れていた。
「待てっつってンだよ……『HiMERU』‼」
「ああ──どこの手負いの獣かと思いましたよ。あなたでしたか……天城?」
 自動扉の手前で足止めを喰らったことでようやく振り向き、声の主を視認する。燐音は大きく息を弾ませ、ふらつきながらも立っていた。大怪我を負った当日のうちによくそれだけ動けるものだ。こればかりは素直に感心する。拍手を送ってやってもいい。
「てめェ、ふざけてンじゃねェぞ」
「……はあ。キレて怒鳴る、暴力的になる、最悪ですね」
 これ見よがしにため息を吐いてやれば「ハッ」とせせら笑う声が返ってきた。
「てめェがもうちょい利口だったら、俺っちも心穏やかでいられたンだがな」
「──撤回してください。誰が利口じゃないって?」
「おー怖、そういうとこだよ。煽り耐性がなくてすぐキレんのはてめェの方っしょ。てめェの欠点を俺っちに見出したからって八つ当たりか? ダセェぞ」
「……おまえ……っ」
「わかりやすく言ってやろうか? すぐ感情的になる、流される、自分を客観視できちゃいねェ。てめェひとりに任せちゃおけねェ」
 噛み締めた奥歯にぎり、と力が籠る。HiMERUの癇に障る語彙を選び取ることにおいては、この男の右に出る者はいまい。
「あんたの……そういうところが、嫌いなのです」
「……おう、聞いてやるよ」
 思わず舌打ちが漏れた。
「それですよ。〝俺が助けてやる〟〝俺がなんとかしてやる〟みたいな態度。施し癖と言うのですかね……無意識なのでしょうけど、俺は常々気に入らないと思っていたのです。それで実際になんとかしてしまうところも腹が立つ、憎らしい、大嫌いだ」
 自分でも驚くくらいに淀みなく、言葉がするすると転がり落ちた。本当に、ずっと思っていたことだったのだ。〝俺がなんとかしてやる〟に鏡合わせみたいについて回るのは〝俺が傷付けばいい〟〝俺が背負えばいい〟という自己犠牲だ。そうして苦しみを肩代わりしてもらうことに、内心疲弊していたのかもしれない。仲間だなんだと言いながら、どうして共に背負わせてくれないのか、と。
 ──だけど。これもまた本心だ。
「大嫌いで、でも、愛していました」
「! メル──」
「俺はあんたにとって年下の子供で、〝守ってやるべき〟対象で。相棒だなんて口だけじゃないですか。……対等だと、隣に並べたと思っていたのは、俺だけだったのですね」
 燐音は鳩が豆鉄砲を食ったように間の抜けた顔をしていた。言うなら今だ。
 ひとつ息を吸い、完全に背を向ける。
「──終わりにしませんか、俺達」
「……、は……?」
 背後の気配がざわりと色めき立つのを感じる。「燐音くん!」とニキの悲鳴が飛んだ。HiMERUは静止したまま動かない。
「なん……、どういう、」
「わかりやすく言って差し上げましょうか。お別れです──燐音」
 声は、震えていないだろうか。指先は。
 ──彼は、どんな顔をしているのだろう?
「俺のせいで大切な人が不幸になるところを見るのはもう、嫌なのです。我が儘を許して。どうか俺を、楽にさせてくださいよ……お願いですから」
 反論はない。しんと横たわった静けさの中小さく息を吐き出し、愛しい男の姿をこの目に焼き付けるべく最後に一度だけ、振り返った。

「さよなら。天城燐音……あなたのようになりたかった」


   ◇


 HiMERUの後ろ姿を見送った数秒ののち。ぷつりと糸が切れたように力の抜けた燐音の上半身をニキが咄嗟に受け止め、こはくが腰を支えた。
「わっちょっと、しっかりするっす……!」
「このスカポンタン、やっぱし痩せ我慢しとったんやないか! はよ座らんかい」
 半ば強制的に椅子に座らされてようやく視線を落とすと、白いシャツの脇腹のあたりが鮮血で染まっていた。縫合してもらったばかりであれだけ暴れたのだ、無理もない。モルヒネが切れたのか疼痛も戻ってきたし、額には脂汗が滲んでいる。こっそり抜け出してきたから、今頃看護師があちこち探し回っているかもしれない。
「……手酷く振られたね」
 ぽつりと凪砂が呟いた。夢中で失念していたが、そう言えば彼らもいたんだった。別の傷をこれでもかと抉るひと言にがっくりと項垂れる。
「……」
 あいつは巴家から自分だけを切り離した。本気で、たったひとりで死ぬつもりで。誰ひとり追ってこないよう、ああいう形で釘を刺して。
「もういいでしょ? 会議はおわり。解散だね」
「ああ……そうですね、皆さんお疲れさまでした! また何かあれば召集させていただきますので、いつも通り待機をお願いしますね! 天城氏は医務室で安静にしているように」
「わかってンよ……」
 こはくがどこかから運んできてくれた車椅子にぎゅうと押し込められる。情けない話だけれど、今はこうしてもらわないと移動すら満足にできないのだから致し方ない。
「……日和坊ちゃん」
 さっさと退室しようとする主人の背中に問い掛ける。どうしても確認しておきたいことがあったのだ。
「今後巴家は、『S』にまつわる一切に関与しない。そういうことだよな?」
「そう言ってるね。巴家は手を引く。何か文句があるの?」
「いや、わかった。悪りィ」
「……はやく治してね、燐音先輩」
 片手を挙げ、苦笑で応じる。日和に従い、凪砂、ジュン、茨も出て行った。
「燐音はん、……HiMERUはんのことやけど」
 上司達がいなくなったのを見届けてから、遠慮がちに話し始めたのはこはくだ。
「聞いたっしょ? 坊ちゃんがああ言ってる」
「せ……っ、せやけど! わしらだけでも助けたらんと、あのおひと、ほんまに死んでまうんやぞ⁉ おんどれはそれでええんか、ええわけないやろ、なあ」
 悲痛な訴えにニキが目を伏せた。彼の気持ちが痛いほどわかるからだ。むろん燐音にだってわかる。それでも頷くわけにはいかない。
「こはくちゃん。あいつがどこへ行ったのか、俺っち達の誰にも知る手立てはねェンだ。これでも何かできるって言うのか?」
 この末っ子はHiMERUを特別慕っていた。他に掛けてやれる言葉がないのが口惜しいが、飲み込んでもらうしかないのだ。
「理解してくれ」
「──ッ、くそが……!」
 行き場のない怒りを込めた拳が壁に叩き付けられる。それきり誰も何も言わぬまま、時間ばかりが無為に過ぎていくのだった。

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