緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



第四幕 Si Vis Bellum, Para Pacem

第一場
 
 


 
 独自に調査を進める中でわかったことが三つある。
 
 一つ、『S』は市街地から小一時間ほど車を走らせた山中にある、かつて有名な富豪が住んだという豪邸跡を根城にしているということ。
 一つ、どうやら連中の財源となっている宗教法人が、巴財団に目を付けているらしいということ。未だ斜陽気味の家を信仰で乗っ取り、資産を吸い尽くそうという魂胆だろうか。
 一つ、『S』は月に一度、漏れなくすべての会員を根城に集め、『|魔女の夜宴《サバト》』と称した会合を行っているということ。
 
 HiMERUの狙いは自然と『サバト』が催される日に定まった。詳しく調べてみるとそこは違法薬物の取引現場になっていることが判明した。叩けば埃が出るかのごとく、奴らの悪事は次々噴出した。誘拐に詐欺、民事介入暴力──『サバト』ですら宗教儀式の皮を被ったドラッグパーティに過ぎない。
 とっ捕まえた会員を拷問して聞き出したその日まで僅か一週間。その間に、奴らを一網打尽にできるだけのIED──即席爆発装置──を用意しなければならない。設置すべきポイントをあらかじめリサーチするため、施設の見取り図が欲しい。可能であれば現地の下見もしておきたい。山の中腹にある建物だから、派手にやりすぎて土砂崩れなどを招いてしまってはまずい。下準備にあたっては、奴らに気取られぬよう数回に分けて物を運び込む必要がある。
(時間がない……)
 こめかみを押さえバーカウンターに肘をついた。腕に当たったコリンズグラスが、人の気も知らずからんと呑気な音を立てる。
 己の身ひとつで任務をこなすのは、こんなにも大変だっただろうか。『Crazy:B』を結成するまでは誰とも組まずにやれていたはずだ。ひとりでも何ら問題なかったし、他人と組むなど煩わしいだけ、とまで考えていたのではなかったか。
「──変わったということですね、俺も」
 ひとりでに乾いた笑いが溢れた。
〝すぐ感情的になる、流される、自分を客観視できちゃいねェ〟
 燐音に言われた言葉が脳裏をよぎる。
「ああそうさ……あんたはいつだって正しいよ、天城。俺が大人げなかった……」
 誰に聞かせるでもなく転がした独白。疲れているから、弱っているから。珍しく酒に逃げたいと思う程度には精神的に参ってしまって、だからついに幻聴まで聞こえ始めたのだと、HiMERUは思い込もうとした。
「おいてめェ、わかってンじゃねェかよ」
 やけにはっきりとした幻聴だ。それに姿まで見える。
「ふふ……変なの。幻覚が話し掛けてきた」
「は? いや幻覚じゃねェっての、いつから寝てねェンだてめェコラ」
 本当に変だ。肩を掴まれた感覚まである。記憶にあるままの香水が鼻腔を擽った。彼によく似合う、甘さを含んだウッディレザーの香り。セクシーで悪くなかった。
「……」
「メルメル? なァって……寝た?」
 燐音の胸に擦り寄って満足するまで香りを堪能したあと、HiMERUはことりと眠りに落ちてしまった。隈が濃く浮かぶ目元を親指でなぞられても無反応のままだ。
「ったくしょうがねェなァ……」
 あの時一方的に別れを告げたはずの元恋人がまさか自分を探し出そうとは、夢にも思っていなかったのだ。





 オレンジの間接照明とキャンドルの灯りだけが照らす薄暗い店内。店主の趣味なのだろう、古い映画音楽の流れる空間に、客は自分と隣のスツールに座る男のみ。『Moon River』を独特なアレンジで口ずさむ彼は、スクリーンの妖精とは似ても似つかない。
「──どうしてここがわかったのですか」
 手持ち無沙汰にメニューを捲りながら、ほとんど独り言のように零した。なんとなく隣が見られない。HiMERUはひたすら無意味に文字列を追っている。ウイスキーシングルモルト、ブレンデッド、シェリーカスク特集。ページを捲ってワイン、シャンパン。
「ん~、勘」
「勘って。動物じゃあるまいし」
「動物的勘が役に立つ時だってあるンだよ。ニキを見てたらそう思うっしょ、おめェも」
「確かに……?」
 なんだかまた流されている気がする。あんな風に揶揄しておいて、実際のところHiMERUの絆されやすさを最も理解して活用しているのはこの男なのではないかと思う。
「乾杯がまだだろ。マスター、ボランジェもらえる?」
 ベテランのバーテンダーが無駄のない所作で差し出したグラスはふたつ。薄いガラスの中を満たしていく黄金の泡をしげしげと眺めてから、彼の顔を盗み見る。ずっとこちらを見ていたのだろうか、視線がかち合って少々気まずい。
「……俺のぶんも?」
「おう。再会を祝して」
 フルートグラスの細い脚を摘まむ仕草には気品が滲む。普段は粗野で横暴に振る舞う癖して、こうして落ち着いて向き合うとしっかり歳上の顔をする。狡い男。こんなの、逆立ちしたって敵いっこない。
「誰が狡いって?」
「今、口に出てました?」
「そういう顔してる」
 ケラケラと笑う燐音は以前と何も変わらない。恋人だった時と、何も。何ひとつ。
 どうしてなのだろう。あんな別れ方をしたにもかかわらず、こいつは以前と同じく愛おしいものへ向けるまなざしでHiMERUを見る。
「……。もうひとつ、教えてください。……どうして追ってきたのですか」
 決して追って来るなと伝えたつもりだった。追ってくる気すらも起きないよう、ああいう言い方を選んだと言うのに。
「あなたは一度だって俺の望み通りに動いてくれない。最後くらい──」
 言うことを聞いてくれたっていいでしょう。
 文句のひとつでもぶつけてやろうと逸らしていた視線を戻す。彼は何故か「心底理解できない」とでも言いたげに眉を寄せていた。
「あァ? 逆っしょ、逆。追い掛けてきてくれって顔したのはおめェだろ」
 今度はHiMERUが目一杯顔を顰める。
「誰が……俺が? ですか?」
「おめェ以外に誰がいんだよ」
 キャンドルに灯された火がゆらりと揺れ、隣の男の表情を実体を持たない魔性みたいに次々変化させる。真意の読み取れないターコイズブルーに魅せられる。すっかり相手のペースに呑まれてしまっていることを、HiMERUはようやく悟るのだ。
「中途半端なんだよおめェは。本気で切り捨ててほしいなら全員から憎まれる覚悟をしろよ。未練を断ち切りてェなら言うべきは〝大嫌い〟じゃねェ、〝どうでもいい〟だ」
 ボランジェを飲み干し、燐音はギャンブルに大勝ちした時と同様に口端を吊り上げて笑った。思わず見惚れる笑みだった。
「だから俺っちはおめェの望み通り追っ掛けて、ちゃあんとおめェを見つけた」
「……っ」
 ──馬鹿。馬鹿野郎。そんなこと頼んでない、あんたが勝手に解釈して思い込んでるだけじゃないか。俺はそんなの望んでない。
 口汚く罵ってやりたいのに声にならない。嬉しいと思ってしまった。探して、会いに来てくれたことを。こうして話していられることを喜んでしまったのだ。
 俯いて黙り込むHiMERUの頭に大きな掌が乗せられる。数日離れていただけなのに、もう何年も触れ合っていなかったみたいだ。ぐしゃぐしゃと髪を乱す手はあたたかい。あたたかくて、鼻の奥がつんとする。
 そうして感傷に浸っていたのだが、すぐ近くにあった体温はすっと離れていってしまう。なんでだ。頭を撫でた次は抱き締めるところだろう、普通。
「……なんてな。迷惑なら帰る」
「え──」
「確信なんてなかった。流石の俺っちも凹んだしな……おめェが本当に俺っちを待ってるのかどうか、五分五分ってとこでさ」
 萎れた声に胸がきゅっとする。こいつが弱った様子を晒すなんてことは、HiMERUの前ですら滅多になかったのだ。強い彼をこんな風にしてしまったのは自分のせい。そう思うとどうしようもなく泣けてしまう。滲む涙を拭いもせずに顔を上げようとして、そこでやっと、横から覗き込まれていたことを知った。
「……けどま、おめェのその泣き顔が見られたなら──」
 ほんの五センチ先にあるしたり顔の、頭にくることといったら。
「賭けは俺っちの勝ちってこったな……いでで! まだ怪我治ってねェんだって!」
「知りません、知ったことではないのですよ」
 ここが外だということも忘れ、自ら燐音に抱き着いた。腹の傷を突ついたのはわざとである。鎌をかけるような真似をしたのだ、すこしは反省するといい。
「馬鹿、馬鹿天城」
「いっ……てェ、てめェなァ……。くくっ、あはは」
「──ふふ、……、……。はあ」
 あれだけのことを言ったにもかかわらず、未練たらたらなのは己の方だっただなんて。
 抱き締め返してくれる手の優しさに強く思い知る。ひどく情けなくて、居た堪れなくて。ひと頻り笑ったあとにふと我に返り、手で顔を覆った。
「笑えませんね……」
「なんでだよ。俺っちはめちゃくちゃいい気分」
「でしょうね。相変わらず腹の立つ男」
「好きだろ?」
「……」
 まったく本当に、敵わないのだ、この男には。
「──好きですよ」
 HiMERUも酔っていた。深い夜とシャンパンと、目の前の男に。
 だから、というわけでもないけれど──たまには心からの言葉を贈ってやってもいいと、そう思ったのだった。
「俺と死んでくれるのでしょう? 燐音」
「ああ。命だろうとなんだろうとてめェにくれてやる。そのために来たンだ」
「ふふ、嬉しい。やっと……叶う」
 額を寄せ、くすくすと笑い合う。密やかな儀式めいたそれは傍目には婚礼のワンシーンにも映るのに、ふたりの男の間で交わされるのは血生臭い誓いだ。徹頭徹尾見て見ぬ振りを貫いてくれているバーのマスターには、のちほどチップを弾んでおこう。
「もう俺っちを出し抜こうだなんて思わねェことだな」
「はいはい、じゅうぶん解りましたよ。どこへ逃げたとしてもあなたは必ず俺を見つける。死ぬまで……いいえ。死んでも一緒だと言いましたからね」
「わかってンならいい。つーわけで俺っちトイレ~」
 怪我を庇いながら歩くうしろ姿が完全に見えなくなったところで、HiMERUはコースターを裏返して短いメッセージを走り書きした。それをお代と並べてそっとカウンターに置き、マスターに会釈する。
「──御馳走さまでした。彼によろしく」
 ひと言告げ、店をあとにした。
 書き残したのは逢瀬の約束だ。翌日の日付と、待ち合わせの時間。
 また明日、この場所で。最後に『xxx』と付け足したのは浅はかだったかもしれない。あいつのだらしないにやけ顔が目に浮かぶ。
 HiMERUは自宅には向かわず、潜伏先のうらぶれたホテルへと足を向けた。
(──また明日、この場所で)
 約束があるだけで驚くほど足取りが軽い。すべてが上手くいくような気すらしてしまう。明日も会えるという、たったそれだけのことで。
(目的を忘れるな……『HiMERU』)
 浮かれている暇はない。ふたりの心中計画はこれから本格的に始動するのだ。
 最期の仕事だ。俺らしく、俺達らしく──完璧にやり遂げてやる。我々ふたりを相手取って無事でいられたターゲットなどいはしない。
 前を見据えたゴールデンシトリンの瞳は、静かに熱い火を灯していた。





第二場
 
 


 
 決行当日まで、例のバーは夜毎の密会の場となった。
 決まって先に店を出るHiMERUの残すメッセージを燐音が受け取り、翌日約束の時間に合わせて医務室を抜け出してくる。盗聴や尾行に備えて毎晩異なる時間、異なるルートで合流する。
「一応まだ療養してなきゃいけねェのよ、俺っち」
 言いつつ大人しくしているつもりは毛頭なさそうなのが、気にならないと言えば嘘になるのだけれど。
「情報屋の伝手で人員の確保はできました。IEDの手配のみ彼らに依頼することにして、持ち込みは我々で行いましょう。設置場所ですが──」
「侵入経路は? うしろは結構な崖だぜ」
「表にカメラが四台、東と西に三台ずつ。うしろから来るだなんて奴らは予想していない」
「あそこ降りるって? きゃは、怪我人に容赦ねェ~」
「まさかできないなんて言わないでしょうね、俺のバディが?」
「ぎゃはは! それでこそ俺っちのバディ。まァ善処しますよ」
「〝善処〟で俺が満足するとでも? 百二十パーセントのパフォーマンスをしないなら捨てていきますからね」
 ふたりで作戦を練る間は脳細胞が活性化するような気さえする。HiMERUにとってはこの時こそ生を強く実感できた。これから死にに行こうと言うのに、甚だおかしな話だ。
 永遠に続いてほしい今はいつまでも留まってはくれない。瞬く間に一週間が過ぎた。 





 新月の夜に催される『サバト』は奇襲を仕掛けるのに都合がいい。
 燐音とHiMERUは廃墟となった屋敷を眼下に見下ろし、裏手の崖の上に佇んでいた。下準備のために斜面を何往復もしたお陰で、二階建ての建物の内部構造は完璧に把握できている。
 会合が始まる頃合いだ。五分程度の短い間ではあるが、見張りの人員もすべて中へ招かれ『お祈り』とやらをする、一切が無防備になるタイミングが存在する。勝負をかけられるのは一度きり。
「さて。時間です──|《任務開始《ハニーハント》》といきましょうか?」
「あ、それ俺っちが言いたかったンですけど。最後ですし」
 唇を突き出して子供みたいに拗ねる相棒に笑い、人差し指を立てた。
「残念でした。幕はもう開いているのですよ」
 スマートフォンにパスコードを打ち込めば最初のひとつが起爆する。賽は投げられた。
 ドォン‼
 まずは玄関付近で火の手が上がる。老朽化した外壁は脆く、崩れた石の壁が出入口を塞ぐ。ここまでは計画通りだ。
 次。爆発の混乱に乗じて屋敷内に侵入する。崖の上から張ったワイヤーを伝い降りたHiMERUが辿り着いた先は、二階にある無駄に豪華な書斎だった。いっそプライベートな図書館と言っていい広さだ。上階へ逃げられないよう、ここには先に火を放っておくことにする。燃えやすいものが多くて助かった。
(屋敷の外周に仕掛けておいた爆弾はすべて起爆させた……これで逃げ場はない)
 敵も、自分達自身もだ。
 一階から入った燐音は、今頃脱出せんとする連中を片っ端から始末してくれているはず。一方のHiMERUは二階から攻め入り、挟撃する手筈である。
 書斎から廊下へ出れば吹き抜けのホールが広がっていた。灰色の煙に席巻されつつある階下にひしめく人、人、人。男女合わせて五十人程度だろうか。ドレスコードでもあるのか、見事に全員真っ黒な衣裳を身に纏っている様がとにかく異様に映る。
「ふふ。皆さんすっかりキマって気持ちよさそうですけど。俺も黒いスーツを着ていますし──歓迎してくださいますよね?」
 うつくしい微笑みを浮かべ、優雅な所作で二丁のシグMPXを背中から下ろすと、両脇に抱える。黒光りするそれを抱いたままHiMERUは、跳んだ。
 足元から悲鳴と怒号が届く。分厚い埃を被ってはいるが、一番大きく煌びやかだったであろうシャンデリアの上に降り立ち、サブマシンガンを構えた。
「Si vis pacem, para bellum──なぁんて、ね」
「伏せろッ‼」
 誰かの叫び声はゲリラ豪雨さながらの乱射に掻き消された。各三十発、計六十発が尽きるまで一秒たりとも手を緩めてはやらない。この瞬間ひとりでも多く地獄へ送ってやろう。
 砕けて飛び散ったクリスタルと鏡の破片が視界を妨げ、下からHiMERUを狙撃しようとする者は固く目を閉じて雨をやり過ごすほかない。その間にも濃密な殺意の込められた九ミリパラベラム弾は次々放たれる。『S』がばたばたと床に倒れていく。硝煙と血の匂いが濃く彩る断末魔は、マリファナなどよりもよっぽどキマる最上のクスリだ。
 と、ひとりがシャンデリアの真下に逃げれば狙いづらいということを思い付いてしまう。そこは今まさに人々の頭上に君臨するHiMERUにとっての死角だ。
 舌打ちしかかったその時、さらにその頭上、足場となるシャンデリアを吊るしている鎖に続けざまにダメージが入った。一度、二度。三度目が撃ち込まれる間際、ホールの壁に張り巡らされているベルベットのカーテンに身を隠したまま、ワルサーの銃口をこちらへ向ける燐音の姿を捉えた。恐らく次が最後。
「落ちろ」
 かたちの良い唇が動いた。
 三度の銃撃で傷付いた鎖は当然一トン超の塊を支えきれない。次の瞬間それは千切れ、HiMERU諸共大理石の床へストレートに落下していく。真下に逃げ込んだ愚か者達は憐れにも水晶の輝きで圧死するのだ。
「う、わ、危な、馬鹿!」
 慌てて遠くへ飛び退り、なんとか巻き込まれずに済んだHiMERUは思い切り悪態をついた。先の合図に勘付いたから良かったものの、拾えなかったらやばかった。
「超~クールな対応、俺っち冴えてね?」
「ギャンブルすぎます。上手くいったから良かったものの……」
「おめェの身体能力を信頼してンだっつーの」
 クリスタルの切れ端が顔のすぐ横を飛んでいったせいで、頬がすこし裂けた。伝い落ちる血を手の甲で乱暴に拭う。
「あなたはもっと俺に感謝すべきなのです」
「へいへい。メルメルが相棒で助かったぜ、いつもありがとなァ♡」
 へらへらと手もみしながら媚を売ってくる仕草がわざとらしい。「行きますよ」とにべもなく背を向け歩き出す。空になったMPXを投げ捨て、太腿のホルスターからシグザウエルP226を抜いた。
 シャンデリアの下敷きになった連中は、たとえ息があったとしてもどこへも逃げられやしないだろう。抜け出したところで辺りは焦熱地獄だ。無駄な足掻きはやめて諦めるのが利口というもの。
(あの女は──あそこか)
 広間の大鏡がずれて隙間が空いているのを見て取り、迷わずそこへ歩み寄った。幹部連中は部下を捨て置いて真っ先にこの隠し扉から逃げたのだ。
(うちも結構なクソ上司ですけど、ここも大概ですね。同情しますよ)
 胸の前で雑に十字を切り形ばかりの祈りを捧げてから、HiMERUは鏡を蹴り破って奥へと進んだ。

 中は暗くじめじめとした狭い通路だった。HiMERUの身長だと、腰を屈めなければ頭がぶつかる。
 かつてこの場所に居を構えた富豪が『もしもの時』に備えて作らせたものなのだろう――かの革命の夜に宮殿からの脱出を遂げたマリー・アントワネットよろしく、富や権力の隣にはこうした逃げ道がつきものだ。予想の範疇ではあったものの事前に通路の中まで調べることはできなかったから、この先は全くの未知数である。
「ああ、ほとんど何も見えませんね。用心して……天城?」
 返事がない。それどころか気配もない。首だけで振り返ってようやく、燐音がついてきていないことに気が付いた。その矢先にミシミシと酷い音がして、直後にドズンと重たいものが落ちたような揺れが伝わる。先程抜けてきた隠し扉を焼け落ちた柱か何かが塞いでしまったのだ。
「嘘でしょう⁉ ちょっ……天城、天城!」
 畜生、油断した。というかたかを括っていた、あの男が相棒なら何も心配要らないと。けれどそれはあいつが万全であればの話で、今のあいつは手負いで、モルヒネを注射しないとまともに立ってすらいられないくらいの重傷で──ともかく燐音とHiMERUは完全に分断されてしまったのだった。
「くそ……!」
 力任せに壁を蹴ったら朽ちかけた木材に穴が開いた。早く抜けなければ、ここが崩れるのも時間の問題だ。
 ──先に進むしかない。自分ひとりだけでも、奴を追って殺すのだ、必ず。
 知らず銃を持つ手に力が籠った。

 階段を上がると地上へ出た。とは言え山中だから周辺は暗いままだ。
 前方へ目を凝らす。数十メートル先でちらちらと揺れているのは懐中電灯の明かりらしい。暗視鏡を覗きつつ照準を合わせ、発砲した。
「──!」
 女の脇を固めていたふたりの男がくずおれた。まずは足元を狙って動きを封じ、相手がこちらを見つける前に仕留める。喧嘩の戦い方は燐音を見て学んだ。
 距離を縮めながら続けて二発、三発と、今度は胸や頭を撃ち抜く。女は足を止め、ゆったりとHiMERUを振り返った。
「ああ……あたしのプティ・プランスが会いに来てくれたのかと思ったら、あなたね」
「──お久しぶりです。会いたかったのですよ、貴女に」
 それはもう死ぬほど──否、殺したいほど。
 漆黒のイブニングドレスを纏った美女はブルネットのボブヘアを揺らし、真っ赤な唇で笑った。この場に似つかわしくないあっけらかんとした調子で言う。
「あたしは会いたくなかったかな、『あなた』には」
「この暗がりでも『俺』とわかるとは。流石ですね」
「間違えるわけないわ、恋してるんだもの。あなたは恋する人を見間違えたりするのかしら? 『要くん』」
「痴れ言を。貴女はその〝恋する人〟に恐怖を植え付け、自由を奪ったのですよ」
 恨みがましく吐き捨てれば彼女は可笑しそうに宣った。
「恋は究極の自己愛なの。叶えるためならどんな手でも使うのがあたしよ」
 弧を描く深い翡翠色の瞳に魅入られそうになる。近付くほどに甘く官能的な香水の香りが濃くなった。
「……黙れ」
「あなたこそ、彼に言えない秘密ばかり。嘘ばかり! それで家族だって言えるのかしら? 心から愛していると?」
「黙れ!」
 嘲るような声音が神経を逆撫でる。激情に身を任せてしまいたいのを唇を噛んで耐えた。怒りで我を忘れてはすべてが無駄になる。ここまで追い込んだのだ。奴の息の根を止めたことを確かめるまで、正気を保っていなければならない。
「──エマ、と言いましたか。最期に言い残すことは?」
「なんのこと?」
「贖罪でもなんでも聞いて差し上げましょう。貴女はじきに地獄へ落ちるのですから」
 銃を構えたまま、HiMERUは告げた。さあ、懺悔するがいい。俺は司祭じゃないどころか神を信じてすらいないから、赦しを与えてやることはできないけれど。
「……あははっ」
 両手を挙げて降参したかと思われたエマは、しかし肩を揺らして笑い始めた。あと一歩でも動けば撃たれるという局面で気味が悪い。
「──気でも狂ったのですか? 可哀想に。死ぬのは恐ろしいでしょう」
「いいえ、ふふ……あなた、詰めが甘いってよく言われない?」
「意味深なことを言って時間を稼いでも無駄なのですよ。死んでもらいます」
 この女をこれ以上生かしておく理由がない。そう判断しトリガーに掛けた指に力を籠める。終わらせてやる、何もかも。
 夜闇に浮かび上がる鮮やかな女の唇は、恐怖に震えるかと思いきや──笑みを象って三日月型に歪んだ。
「! しまっ──」
 不意に光が炸裂した。エマとHiMERUとの間に投げ込まれたのはスタングレネードだ。咄嗟に目を庇い、巨木の陰に身を隠す。
「くそ、仲間か……!」
 遮蔽物にした木の幹がバリバリと音を立て抉られていく。狙撃されている。
 あの屋敷にいた人間はひとり残らず殲滅したはずなのに、こんな形で劣勢に転じてしまうとは。増援がこれほど早く到着するとは考えもしなかった。
「舐めてもらっては困るのですよ」
 それでもHiMERUとて優秀なエージェントである。先程周囲が明るくなった一瞬に敵の位置を把握していた。体勢を立て直し、すぐさま反撃を開始する。
 マガジンを入れ替え、二時の方向でアサルトライフルを構えている男をヘッドショットで沈める。こはくほどではないにしろ射撃の正確さには自信があるのだ。十時の方向に更にふたり。素早く地面を転がって別の木の陰に移り、得物を弾き飛ばしてから隙だらけの心臓を撃ち抜いた。こちらも肩と腿に銃撃を受けたがまだ動ける。
 すぐ傍で仲間が倒れていく様を見てもエマは眉ひとつ動かさず、涼しい顔でドレスについた埃を払っていた。
「あ~あ、汚れちゃったわ。早く帰りたい。迎えの車はどこなの」
「へいボス、あちらに」
「はぁい、ご苦労さま。それじゃああとはよろしくね」
 〝ボス〟か。幹部どころかあいつが頭だったんじゃないか。部下を動く盾くらいにしか思っていなさそうな言動に、HiMERUの苛立ちは臨界点を超えた。
 背中を向けた彼女を取り囲むように立ちはだかる三人の男に向かって猛然と駆ける。一番体格の良い男の顔面を銃で殴打し、怯んだところで足払いを仕掛けた。右から襲い掛かってくる奴を撃ち殺そうと間髪入れずに引き金を引くが、ガチンと嫌な音がするだけで弾が出ない。
(な……っ、ジャムった⁉ こんな時に……!)
 使えないものは仕様がない。銃を放り捨てると、相手の腕を取って勢いを殺さぬまま左に投げる。もうひとりの男を見事に巻き込んで地面に倒れ伏したそいつらを足蹴にし、声を張り上げた。
「エマ‼ 死んでもらいます、今ここで‼」
「やあね、しつこい男は嫌い、よ──え?」
 鬱陶しそうに振り向いた女の瞳にようやく動揺の色が見えた。HiMERUのはだけさせたジャケットの内側、ずらりと並ぶはダイナマイト。たった今導火線に火を点けた。「逃げてくださいボス!」と足元の野郎ががなる。
「ひっ、あんた何して……」
「今からそちらへ行きます」
 淡々と告げ、一歩ずつ草を踏みしめて歩み寄る。
「やだこっち来ないでよ⁉」
 エマはハイヒールを履いた足を縺れさせながら後ずさった。一歩また一歩とじわじわ距離を詰めていく。
「貴女の恋した男と同じ姿かたちをした男に抱かれたまま死ねるのですよ」
 ついに彼女の手を掴んだHiMERUは、世にも愛らしい天使の微笑を浮かべた。
「──幸せ、でしょう?」

「何さらしとんじゃクソボケェエエ‼」

 それは何の前触れもなく耳に飛び込んできた。
なんだか懐かしい声だ。滅多に自分に向けられることのなかった怒鳴り声。どこからかエンジンが唸る音まで聞こえる気がする。
 唖然として顔を上げれば、エマも同じ動作をしていた。目線の先には宙を舞うバイク、トライアンフ・スクランブラー。目の前を横切る一陣の風に思わず目を瞑った刹那、着火したはずのダイナマイトの頭が綺麗に輪切りにされすっ飛んでいった。──なんだこれは、一体何が起こっているんだ。
 ドカッと重々しく着地した大型バイクは急カーブしてHiMERUの前に停まった。嵐みたいに登場した顔ぶれに言葉を失う。
「ふう~間に合った……HiMERUくん怪我大丈夫っすか?」
「怪我じゃ済まんとこやったんやぞ今、ああもう! いっぺん殴らせろや!」
「お、うかわ……椎名」
 ふたりをうしろに乗せてハンドルを握っていた男は汗でしっとりとした赤い髪をかき上げてから、やれやれと肩を竦めてみせた。
「間一髪ってとこっしょ。命拾いしたなメルメル」
「な、なんで……あなた達……」
 バイクを降りた燐音はドレスの裾からベレッタを抜こうとするエマの姿を認め、HiMERUを手で制す。
「お喋りはあとにしようぜ。また会ったなァ、おね~さん」
「あら……あらあらあら。あの夜以来ね、『クジョウ』」
 好色ぶってウインクしてみせると彼女は片眉を上げて応えた。
「よくここがわかったわね?」
「あァ、うちには警察犬ばりに鼻が利く奴がいてな」
 親指でちょいちょいとニキを指す。指された方の彼は不服そうな顔で土に刺さったナイフを回収している。先程ダイナマイトを輪切りにしたのはこれだったらしい。
「むむ……おね~さんの香水きついんすもん。すぐわかったっす」
「だってよ。悪事には向かねェんじゃねェの、サムサラは」
「へえ……香水に詳しいのね」
「要は女にも詳しいってことっしょ。仕事柄な」
 そう言って小首を傾げる。
「さて、どうする? この期に及んで逃げようとは思ってねェよなァ?」
 燐音の問いにエマは薄く笑うだけだった。不気味さにざわりと肌が粟立ち、HiMERUは身を竦ませた。
「──逃げるに決まってるじゃない?」
 次の瞬間、木を薙ぎ倒して突入してきたランドローバーが勢いよく割り込んだ。危うく四人まとめて轢き殺されそうになり、散り散りになって避ける。車が去ったあとには彼女の姿はなかった。
「あの女……っ! 追いましょう!」
「無理だ、足がねェ」
 真横から突っ込まれたバイクは無残な姿だ。追い掛けようにも自分達には追いつくための手段が残されていない。
「やっと追い詰めたのですよ⁉ ここで諦めるなら、俺は何のために……、やはり爆弾で一緒に死んでいれば」
「やめや」
 言い募るHiMERUを強い口調で遮ったのはこはくだ。
「それだけは言うたらあかん。次わしらの前で言うてみ、舌引っこ抜いたるからな」
 彼は静かに怒りを燃やしていた。何に対して? 聞くまでもない、己の狼藉に対してだ。
 必死に声を届けてくれたこはく、仲間に刃を向けてまで爆発を阻止してくれたニキ。覚悟を決めて飛び込んできてくれた、命を救ってくれた仲間の前で言うべきではなかった。
「それは……すみません。でもなんで、巴家は手を引いたはずでは……?」
「なんでもへちまもあらへんよ、説明したらなわからんのか朴念仁が」
 今までになく辛辣な物言いに閉口する。と、横からニキが助け舟を出してくれた。
「巴家は観光事業のためにこの山をまるっと買い取ったっす」
「──巴家が?」
「そっす。今この場所は巴家のもの。坊ちゃんの土地をめちゃくちゃにされちゃ困るっすからね~、僕らには暴れん坊を制圧する任務が与えられたんすよ」
 ──つまり『Crazy:B』が介入する必然性があると。日和がそうまでする理由など、すこし考えたらどんな馬鹿にだってわかる。
「ドウゾ」
 燐音から差し出された通信機を言われるがままに装着する。『HiMERUくん⁉』と大ボリュームのテノールが鼓膜を貫いた。
「坊ちゃ──巴さん」
『呼び方なんてどうだっていいね! ……良かった、生きてる』
「……っ」
 やっぱり、俺を助けるために。桜河も椎名も、日和坊ちゃん達も──どうにか俺の自殺を止めようとして、天城とコンタクトを取りながら水面下で動いてくれていた。
 そう理解した途端、不甲斐なさで心臓がぎゅうっと締め付けられそうになる。皆に申し訳ない。顔向けなんてできるはずもない。助けに来てくれて、嬉しい。表面張力でぎりぎり耐えていたグラスの水が決壊したみたいに感情が溢れてきて、泣いてしまいそうだった。
「坊ちゃん、俺は……」
『わかってるね。きみの言いたいことはぜんぶ、ぼく達にはわかってる』
「……」
『ぼくを誰だと思ってるの? 我が儘で自由な巴家のおひいさん、巴日和だね。何かを犠牲にしなきゃ手に入らない幸せなんて、ぼくはちっとも欲しくない。大事なものはひとつ残らず守る。ぜんぶを手にして高笑いしてみせる』
 呆れるほどに傲慢なひとだ。けれど彼はその言葉通り、ぜんぶを抱えてもなお、折れずに立ち続ける。いつだって帰り道を明るく照らしてくれる。
「そうっすよ。HiMERUくんだけに戦わせないっす。僕らは運命共同体なんでしょ?」
「せや。『Crazy:B』になったあの日からずうっと、今も変わらんよ。一緒に戦って、泥に塗れても後ろ指さされても、必ず勝つんがわしらじゃ。違う?」
「……俺は……、……」
 目頭が熱くててどうしようもない。返事に窮するHiMERUと交代し、燐音が応じた。
「俺っちも全面同意。でも坊ちゃん悪りィ、逃げられちまった……ンだけど、俺っちに考えがある」
 続けてひと言ふた言話してから通信を終え、仲間に向き直る。その手には私用のスマートフォンが握られていた。


   ◇


『もしもしィ? 俺俺』
「誰よ」
『あんたの『クジョウ』っしょ、おね~さん♡』
「お呼びじゃないわね、切るわよ」
『あっウソ待てって、ひとつ言い忘れたことがあったンだよ』
 後部座席にだらりと身体を預けたエマは、仏頂面で生返事をした。『Crazy:B』のせいでお気に入りのヒールが折れたのだ、そりゃ不機嫌にもなる。
「手短にお願いね」
『へいへい。あんたが教えてくれた番号、本当に繋がるとは思わなくてなァ。実は前会った時に俺っち、ちょっとした出来心で悪さしちまったンだけど──』
 ──あんたのルビーの指輪、すり替えといたの気付いた?
 燐音による思わぬ自白に仰天して声がひっくり返る。
「嘘っ……⁉」
 言われるまで気付かなかった。慌てて見てみても、精巧に造られたそれは一見贋作とはわからない。
「大事にしてたのになんてことしてくれてるのよ、次は殺してやるから」
『できるもんなら』
「……?」
 やけに上機嫌な様子にエマは首を捻った。今こんなことを伝えて何になる? 電話口で相手が息を吸う音が聞こえる。
『ンで、その指輪のことでもう一個あって。それ、俺っちからの着信がトリガーになって爆発すっからよろしく』
「はあ⁉」
 面食らう彼女を余所に燐音は畳み掛ける。
『特定の電波で起爆する高性能小型爆弾っしょ。色々と賭けだったけど上手くいって良かったぜェ……あんたが教えてくれたのがもし嘘の番号だったらその時点で計画はパァ。指輪もいつも着けてるって保証はなかった。けど流石俺っち、ツイてるみてェだな』
「そんな、嘘……ハッタリよね? 爆発なんてするわけ──」
『いやァまさか本物の番号教えちまうなんてなァ……あんた、すこしは俺っちに気があったって思っていい?』
「……ッ! あるわけないでしょ!」
 引っ張っても回しても指輪は抜けない。ガン、と窓ガラスに額を打ちつけた。もうやけくそだ。傷心のあまり羽目を外して飲みすぎたあの夜の自分を恨む。
「はあ……わかった、あたしの負け。ちょっと良いと思っちゃったのよ、あなたのこと。こんな色男なかなかお目に掛かれない、ってね」
『そいつはどうも。よく言われるぜ?』
「あは、ムカつく。……ねえ、最期にひとつ教えて」
 力なくシートに横たわったエマは、閉じた瞼の裏にこの世で一番鮮烈な赤を思い描いていた。間もなく終わりを迎えると言うのに、不思議と怖くはなかった。
「あなたは──何者なの」
 ふっと笑うような息遣いが電話越しに届いた気がした。
『べつに、何者でもねェよ。俺は燐音。天城燐音だ』


   ◇


 電話が切れたのを合図として、その爆弾は起爆するのだと言う。
「つまり今この瞬間にあのおね~さんは……」
「そういうこったな」
 スマートフォンをポケットに仕舞い込みつつ、何の感慨も無さそうに燐音が答えた。
「ンじゃ帰ろうぜェ~、つっても徒歩で下山だけど」
「ええ⁉ 副部長はん車出してくれへんの?」
「メルメルへのペナルティだと。ンで俺っち達は連帯責任」
「うっ……すみません、桜河、椎名……」
「俺っちにも謝れよなァ⁉」
 燐音の名前を外したのはわざとだ。何せこいつはHiMERUに隠れて本部と連絡を取っていたのだから。ふたりで計画を立てていたつもりが、蓋を開けてみれば真面目に心中を企てていたのは己だけだったというわけだ。
(これじゃ、俺が馬鹿みたいだ)
 〝命でもなんでもくれてやる〟と言われたのは、嬉しかったのだ。心から。だから本気にしたのだけれど──今回に関しては、「命を張ってHiMERUを止める」と言ったつもりだったのだろう。そういうことにしておこう。
「あ。本部からの着信、ヒメルンはんや」
「──ヒメルから?」
 こはくが通信機を貸してくれた。おそるおそる返事をすると、日和に負けず劣らずの大声が返ってきた。
『要! 馬鹿! ばかなめ!』
「ば、ばかなめ……?」
『今度からばかなめって呼ぶよ、馬鹿なんだもん、何もわかってない!』
 合間に鼻を啜る音が聞こえる。泣いていたのだろうか。
「ごめん……」
『いいよ! 許した! ちゃんと帰ってくるんだもんね? 燐音達と一緒に』
「……うん。帰るよ」
『なら許した!』
 目の周りと鼻の頭を赤くして無理矢理に笑うヒメルの顔が、容易に想像できて胸が痛む。そもそも彼にはHiMERUの──要の仕事のことだって隠していたのだ。
「軽蔑、しましたか。俺が人殺しをして得た金であなたを取り戻したと、知って」
 最後の方は声が震えてしまった。それでもしっかり聞き取ったらしい彼は、『全然!』と言った。
『俺のために命懸けで頑張ってくれたんだもん。要は少しも汚れてなんかないよ』
「……ヒメル」
『ね、これからは俺にも背負わせてよ。そうやって一緒に生きていこう。要と対等でいたいんだ、俺』
 ──そうか、と思った。胸の内で蟠っていたものが、すとんと腹落ちした。
「同じだったんだ……俺と、ヒメルは」
『なんか言った?』
「ううん──なんでもない」
 通話を終え、HiMERUは燐音と向かい合った。ずっと隣に立ちたかった、今ようやく隣に立てたような気がしている、恋人と。
「……何笑ってンの?」
「ふふ。なんでもありません」
「なんでもないことねェっしょ、言えよ」
「え~、では気が向いたら言います、たぶん」
 此度のことは恐らく氷山の一角だ。『S』を壊滅させたところで彼らの背後にいる巨大な存在が力を失うわけではないし、いずれまた魔の手が迫ることもあるだろう。それでも。
 大騒ぎしながら前を歩く同僚達を見やる。
「ぎゃ! 燐音くん重いっ、ちゃんと自分で歩いてほしいっす!」
「燐音くんは疲れてンだよォ、おぶれニキ」
「嫌っす! こはくちゃん助けて!」
「くぉら燐音はん、ぬしはニキはんに頼らんときりきり歩けや」
 この喧しい連中と一緒なら、次も無茶苦茶やっているうちに|《任務完遂《ミッションコンプリート》》なのだ、きっと。根拠もなくそう信じられる。
 HiMERUは自問する。自分は独りでも平気だったはず。己の命すら目的のための道具としか捉えていなかったはずだ。それなのに、こんな風にブンブンとうるさく周りを飛び回られたら、気が変わってしまう。
「──生きてて良かったと、思ってしまうじゃないですか」
 あなた達と出会えて良かったと。
 歩みを止めたHiMERUを顧みて、ニキが当然かのごとく問う。
「HiMERUくんも一緒に帰るんすよね? 何食べたいっすか?」
 こはくが無邪気に頷く。
「そや、一緒に帰ろ。ほんで久しぶりにニキはんのお料理囲むんよ、皆で」
 燐音はこちらを一瞥し、からりと笑った。
「解ったっしょ? おめェはとっくに俺っち達の一部なんだよ。切り離そうったってそうはいかねェ、観念しやがれ」
「はあ──解りましたよ」
 悔しいから喜びを顔に出さぬよう、ポーズだけは渋々と、ため息で応える。
「あなた達は俺がいないと駄目なのですね……」
「はァ? 逆っしょ」
「逆やろがい」
「逆っす」
「何故こういう時ばかり息ぴったりなのですか?」
 遠慮のない言いぐさに苦笑いが漏れる。こんな馬鹿馬鹿しいやり取りさえ今のHiMERUにとっては懐かしく、かけがえないものに思われた。

 東の空が白み始めている。夜明けはもうすぐ。四人で歩く帰路は、長くてもあっという間だろう。
 ふと思い出して、まだ伝えていなかった言葉を口にしてみる。
「天城、椎名、桜河。お出迎え、ありがとうございます。……ただいま」
 仲間達は無言で顔を見合わせたあと、悪童の顔をして容赦なく飛びついてきた。
「おかえり!」
 成人男性三人ぶんの体重を支えられずよろけたHiMERUは尻餅をついて、仲間にもみくちゃにされつつ文句を垂れて。それからいよいよ堪え切れずに声を上げて笑った。
 愛すべき彼らの肩越しに見た赤い赤い朝焼けは、これから何度だって思い返すあたたかな記憶となって脳裏に焼き付く。生涯手放したくない愛おしい景色。いつまでもうつくしいままで留めておくために、シャッターを切るみたいに瞼を閉じた。

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