緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



終幕 E' una festa la vita! Viviamola insieme.





 巴の屋敷に帰り着く頃にはそこそこの高さまで陽が昇っていた。大きな仕事を終えて疲弊しきっているにもかかわらず結構な距離を歩いて帰らせるクソ上司(若干一名)、憎むべしである。
 疲労困憊の状態でまずはニキが作ってくれた食事をかっ喰らい、血と埃にまみれた身体をシャワーで洗い流したあとは、医務室で手当てをしてもらった。医師からは「飯を食うよりも先に怪我を診せろ」と至極もっともなお叱りを受けた。ニキの料理は絶対にあたたかいうちにいただきたいから、優先順位は何物にも勝るのだ。こればかりは許してほしい。
 要は燐音の私室のドアをノックしていた。
 本来ならば真っ先に日和に謝らなければならないし、ヒメルにも話すべきことが山程ある。けれどそれらを一旦脇に置いてでも、どうしても彼に会いたかった。
 扉の前でしばし待つ。返事はなかった。
「──失礼します」
 ドアを押せばキィと小さく軋みながら開いた。身体じゅう包帯と絆創膏と湿布だらけの恋人は、思った通りベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。

 ──ここへ来る前、医務室に燐音の姿がなかったから、たまたま睡眠薬をもらいに来ていた茨に尋ねたのだ。彼はどこにいるのかと。
「医務室はやだって駄々捏ねやがったんですよあいつ。だから部屋に返しました」
 眼鏡の上司はくっきりと隈のできた目元を擦りこすり、愚痴を垂れ流した。
「あいつ、天城氏……目を離すとす~ぐ抜け出すんですよ、もういい加減目に余りましてね。私室のあらゆる出入り口に、二十四時間見張れる監視カメラを付けさせていただきました。自業自得であります、あんなコントロールしづらい男……『ベスト・オブ・部下にいてほしくない男で賞』受賞ものですよ。HiMERU氏もそう思いません?」
「それはまあ、わかりますけど……なんと言うか大丈夫なのですか、コンプラ的な意味で」
「ああ、勿論室内までは見張っておりませんのでご安心を。我が巴家諜報部は構成員のプライバシーを守ります!」
「……ご面倒をお掛けします、副部長」
 そもそも燐音が度々屋敷を抜け出さなければならなかったのは、要に協力するためで。その行為のせいで目を付けられてしまったのならすまないと思う。
「もう脱獄の必要はなくなったのですから、ほどほどにしてやってくださいね」
「それは自分の機嫌次第でありますよ☆」
 茨は「あまりあの男を甘やかしませんよう!」と釘を刺して仕事に戻っていった。別段甘やかしているつもりはなかったのだけれど、第三者からはそう見えるのだろうか。それは気を付けなくてはいけないなと思うと同時に、自分達はちゃんと特別な関係に見えているのだなと考えては、ちょっぴり照れたりもした。
 勝手に椅子を拝借し、ベッドの横に腰掛ける。ライフルによって抉られた腹の傷はもとより、此度の潜入で新たに拵えた切り傷に擦り傷に火傷、打撲の痕が痛ましい。要も似たようなものではあるが、慕う相手の傷付いた姿は胸にくるものがある。自分が巻き込んだのだから尚更だ。
「──以前も、こんなことがありましたね」
 あれは初任務のあとだったか。敵のトラックに突っ込まれて酷い怪我を負った燐音を引きずって連れ帰り、一晩じゅう傍についていたのは。
(あの頃は……天城とこんな風になるなんて、思ってもみなかった)
 互いを替えの利かない相棒だと見なす関係に──ましてや恋人と呼べる間柄になるだなんて、当時の自分に伝えたら悪い冗談として一笑に付されるに違いない。
 布団の上に落ちている手に触れる。ちゃんとあたたかい。すこしの間指を弄んで、掌へ。爪の先で薄い皮膚をなぞると、指先がぴくりと動いた。
(……起きない)
 白いシャツの袖から覗く青白い手首を撫でる。三本揃えた指をそこに添えれば、とくとくと規則正しくリズムを刻む脈動を感じる。日頃の振る舞いや悪ぶった表情を見ていると気付きづらいのだが、天城燐音という男の顔は意外にも色白で儚げで、繊細なつくりをしている。静かに眠っていると死人のようにも見えるのだ。だから要はこうして、彼が間違いなく生きているという実感を得ようとした。
 しかし体温に触れているうちにむくむくと膨れ上がってきたのは、別の欲望で。
「……。すこし、だけ」
 左手は恋人の手を握ったまま、右手はベルトを外してスラックスの前を寛げる。下着の中で熱を持って首を擡げた性器をじかに包み、やわやわと上下に動かし始めた。
 死ぬ覚悟までして臨んだ任務から帰還したばかりの要には、戦闘によって昂った神経を鎮めることが未だできずにいた。身体は疲れているのだから眠ってしまえたら良かったのだけれど、それもできなかった。
 ならばどうするか。これまで燐音と要は、興奮を治める目的で性行為に及んだことが幾度もあった。今回もそうすればいいと考え部屋を訪ねたのだったが、気が逸って怪我で動けないということを失念していた。
 だからこれは、仕様がない。不可抗力だ。
「は、っ……」
 単調かつ事務的な動かし方でも快感は拾える。けれどわざわざここまで足を運んだのだ、ちょっと手を借りるくらい許されるだろう。ただの自慰では味気ない。
 燐音の掌に頬をすり寄せる。いつもの香水の香りは、しない。すんと鼻を鳴らすと肌からはふわりと石鹸の香りがした。
「ん、う」
 前屈みになって上半身をベッドに預けてしまう。彼の寝ているシーツからは深く濃く彼本来のにおいが感ぜられて、興奮に拍車がかかるだけだった。これでは本末転倒だ。
「──起きて、いるのでしょう?」
「ヒェ……」
 中心を擦る手をそのままに、閉じていた目を片方だけ開けて窺えば、ぱしぱしと忙しなく瞬くターコイズブルーと目が合った。ほらなやっぱり、他人の気配に人一倍敏感なこの男が目を覚まさないはずがなかったのだ。
「何やってンの?」
「夜這い」
 悪びれもせず切り返す。「まだ昼ですけど……」と困惑気味の視線が寄越された。
「起きたなら、ン、手伝って、くださいよ。イけない」
「ええ待って、俺っちまだ夢見てたりする? 現実?」
「現実ですよこの馬鹿」
 ばさり、掛布団を取っ払い床に落とす。寝台に乗り上げると燐音の身体を跨いで居丈高に見下ろした。スラックスと下着も脱ぎ捨ててしまって、身に着けているのはシャツ一枚のみだ。
「気が昂って仕方がないのです。あんたがどうにかしてください」
「おめェな。なんでンな偉そうなのかねェ……」
 要にはわかっていた。そこをいくら擦ったとて、己の身体はもう、それだけでは達することができない。そうなるように作り変えられてしまったのだ、目の前でへらへらしているこの男に。もっと深いところへの刺激が欲しくて堪らない。気がおかしくなりそうだった。
「抱いて……燐音」
 眉尻を下げた恋人はのしかかる要の顔と股の間を交互に見た。ついでにしっかり反応している自分の股座も。そして額に手をやって呻いた。
「いや抱きてェよ俺っちも⁉ こんな誘い方されたらそりゃ興奮するっしょ、めちゃくちゃ抱きてェと思ってるよ。でもどうもしてやれねェっていうか……」
「わかってます……っ」
 だからぜんぶ俺がやる。あんたは俺に身を委ねてじっとしていればいい。
 勝手知ったる他人の部屋と言うべきか、サイドボードの引き出しにはローションとスキンが常備されていることを知っている。そこからローションのボトルだけを取り出した要は粘度の高いそれを掌にとって温めた。
「寝てたら終わりますから、お願い……」
 うわ言のように呟いて燐音の屹立に直接触れる。数回扱いて硬さを確かめてから、切っ先を自身の後孔に宛がう。ヘッドボードに上体を預けてこちらを窺っている男の、顔の脇に両手をついた。慌てた様子で手首を掴まれる。
「待て待て待ておまえ、慣らさねェとつらいだろうが」
「もう、した」
「ゴム着けねェの?」
「いらない」
 いつもは衝動に任せて後先考えずに抱くくせに(それで実際に苦労したことだってある)、珍しく要が積極的だと戸惑ってしまうらしい。これは面白いものが見られた。
 欲深さを表すかのごとく存在を主張する、大きな熱の塊。膝を曲げて真上からゆっくりと腰を落とし、受け入れていく。狭い内壁を押し開いて侵入してきたそれはどくどくと脈打ちながら胎内を容赦なく抉る。あまりの質量に怖気づいてしまいそうになり、すべてを収めきる前に一度、軽く抜き挿しして慣れようとした。
「んぅ、あ……! っあ、きもち」
「ん……どこよ」
 「もっと腰動かしてみ?」とちいさな子を諭すみたいに言いつつ脇腹を撫で上げる掌。その手はいたずらにシャツの中へ潜り込み、薄い腹をゆるゆるとさすった。
「どこがきもちい?」
「ふ、う……さっきの、」
「ここかァ……?」
 ぐ。掌の底を使って強めに圧迫される。ナカを拡げられる感覚と外から押される感覚が相まってふわふわと変なかんじがする。ぐっと掌が食い込む度に「あ、あ」と甲高い声が零れでる。うしろはまだ飲み込む途中だと言うのに、そっちに集中させてもらえない。
「このへんまで入るンだっけ?」
「う、ぇ……?」
 ぐ。また腹を押される。
「俺っちのがぜんぶ入った時、どこまでいく? このへん?」
「うあ、ぁ、やめ」
「ん~、今ここっしょ? もっと入るよなァ、要は奥苛められンのだァい好きだし?」
「……っ、や」
 しばらくさすっては気まぐれに掌を押し込んで、また一連の動作を繰り返す。不随意に与えられる責め苦に要の理性は蜂蜜さながらに溶けだす寸前だった。
 男は意地悪く唇を歪めて、苛む手を緩めずに続ける。
「こことんとんってされるとおまえ、ヨがってなァんにも考えられなくなっちまうの」
「ひ、やだ」
「燐音燐音ってずうっとそればっかでさァ、とろっとろになって何回も俺っちを欲しがるンだぜ? もうエロくて可愛くて仕方ねェの。なんでもしてやりたくなる」
「やめ、ろ」
「おまえのこんな姿を知ってンのは俺だけ。きちっと着込んだスーツの下の肌の感触を知ってンのは俺だけ、ヨすぎてわけわかんなくなって泣きながら俺を呼ぶ声も、俺だけが知ってる。要のナカが死ぬほど気持ちいいのも」
「もっやめ……、っ、ひぅ、」
 頭の隅の冷静な部分を突き崩して蕩けさす低い声。甘露みたいなその響きはやわらかく包み込むようでいて、その実取り返しのつかない堕落へといざなう悪魔の声だ。
「……なァ、ここまで入っちまったら、おまえはどうなる? どんな声で鳴いてくれる?」
「いぁ、あ、ッ──!」
 ぐ。駄目押しのもう一回で、要は絶頂した。先端からとぷりと白濁が溢れ燐音の腹をひたひたに汚していく。達した拍子にすべて収まってしまった怒張が、敏感なナカを更に押し広げようとする。気持ちいい。苦しい。気持ちいい。
「きゃは、まだ動いてもねェけど。想像だけでイッちまった?」
 わかっているくせに敢えて言わせようとするのだから、こいつの底意地の悪さは一級品だ。必死に息を整えながら胸中で毒づく。
 ただ、それも自分に対してだけだと知っているから、決して悪い気はしない。燐音が〝俺だけ〟だと言うのなら、セックスの最中に彼が見せるぎらついたまなざしは要だけのものだ。獰猛な獣そのものの、相手を喰らいたいという透明で純粋な欲望を剥き出しにする瞬間は、己の前でしか発露しない。この特別な席は誰にも譲ってやらない。
「気持ち良かった?」
 気遣うように髪を梳く手は優しい。猫が甘えるみたいにぬくもりに擦り寄って、指先を甘く食んだ。勿論気持ち良かったけれど、まだ足りない。
「──もっと。もっと欲しい、燐音」
 真っ直ぐ見つめて懇願すれば、ぱちりとひとつ瞬いた碧が愉快そうにたわむ。
「は……欲しがりは嫌いじゃねェぜ」
「大好き、の間違いでしょう?」
 綺麗な弧を描く唇に噛み付いた。僅かにかさついたそれと自分のものを何度か重ね合わせているうち、先に物足りなくなった要が舌先で悪戯を仕掛ける。閉じた唇を割って侵入した口内を丹念に舐めたあと、ようやく相手の舌を捕まえる。待ってましたと言わんばかりに熱烈に迎えられ、吸い上げられ、根っこの方まで余すところなく可愛がられる。
 キスの途中で耳を塞がれた。ふたりの間でしつこいくらいに絡み合う舌のくちゅりと湿った音が脳髄に響いて、背筋が痺れた。わざといやらしい音を立てて口づけてくる行儀の悪い男の胸を強めに叩いて、どうにか引き剥がすことに成功する。
「……」
「どした?」
「……腰が、砕けました」
 正直に告白したら「ぎゃはは!」と大笑いされた。ムードがない。このあとは騎乗位のままで動こうと思っていたのに、どうしたものか。
「ンじゃあ、はい。要はこっち」
 不意に背中に手が添えられたかと思うと、くるりと景色が反転した。目に映るのは天井、それからにやけ面の恋人。
「え……?」
 軽々と位置を入れ替えられてしまい、要は当惑した。
「ど、うして、怪我は?」
「なんで動けるのか不思議なんだろ? 種明かししてやろうか? 答えは『実はそこまで重傷じゃなかった』」
「は? え? いつから……?」
「おめェとバーに通ってた週の中頃くらいから」
 つまりこういうことだ。燐音の怪我はもうほとんど治りかけていて、今は経過観察のために大人しくしているだけ。ゆうべから今日にかけて負った火傷なども大事に至るようなものはなく、心配はいらないと医師から言われているらしい。
「早く言え……‼」
「悪りィ悪りィ。ど~うしても俺っちとエッチしたいって健気に頑張る要がおっかしくて──じゃなくて可愛くて、つい」
「おい」
「それだけじゃねェよ。怪我のせいでじっとしてるって上に思わせとけば、屋敷を抜け出しやすかったってのが一番の理由だ。だから誰にも言わなかった」
「理屈はわかりましたけど……!」
 両手で顔を隠した。すっかり信じ込んでいただけにショックだ。騙された。知っていたならこんなはしたないことはしなかった。
「こんな、寝込みを襲うような真似をしたのは、あなたに負担をかけないようにと……」
「あ~あ~悪かったよ! おめェは悪くねェですゥ~嘘ついてた俺っちが全面的に悪い! ほんとごめんなァ!」
 ご機嫌を取ろうと必死な燐音は、隠れていない耳や首や背中にいくつもキスをくれた。名前を呼ぶ声にちらりと目だけを覗かせる。すっかり困り顔の彼は要の手を取り、指先に恭しく口づけを落とした。
「つづき、しようぜ? 要のしてほしいこと、ぜんぶしてやれるから」
「……それならあなたも一緒に良くなってくれないと、嫌です」
 とびきり意地悪で優しい『暴君さま』に、精一杯の我が儘を。拗ねたトーンで告げると、「りょーかい」と至極嬉しそうに相好を崩した。





 向かい合って交わる間、燐音はしきりに要の頬を撫でていた。シャンデリアの破片が掠った際に切った場所だ。今は四角い絆創膏が傷を覆っている。
「ン、なんですか。そこは、あまり……っ、ぁ」
 軽く揺さぶられつつ疑問を呈すると、彼はばつの悪そうな顔をした。
「おめェの顔に傷がついてンのは、なァんかちょっと、嫌だなァって……」
「ぷっ」
 大きな犬が耳と尻尾を垂らしてしょげるみたいにして、小さく零す。つい吹き出してしまった。腹に力が入ったせいで「うぁ」と燐音から情けない声が上がる。
「ちょ、急に締めンな馬鹿、出る」
「すみませ、ふふ、そんなつもりじゃ」
「まだ全然満足してねェくせに。今俺っちがイッちまったら困るのおめェだかんな」
「嫌、もうすこし我慢して」
 くすくすと笑い、両脚を男の腰に絡め引き寄せた。より密着する身体、深くなる結合に、自然と背がしなる。
 傷なんて今更、ここに至るまでに数え切れないほど拵えてきたと言うのに。命を捨てようとまでしていたのだ。この程度の怪我、気にしてもいなかった。
「──何を、気に病むことがあるのですか」
 口を真横に結んだ恋人はどうしてか痛がるような顔をして、吐き出す。
「……俺がもっと強かったら、おまえに無茶させずに済んだ。綺麗なツラ疵物にしてまで戦わなくても良かったンだって思ったら、なんか……悔しい」
 ああ、そんなに唇を噛んだらまた傷が増えてしまう。要はシーツに投げ出していた腕を持ち上げ、片方を彼の首に回した。もう片方は口元へ。親指で下唇を擽ってやる。
「あなたが俺の顔を気に入っているのは、重々承知していますけど。そんなことを言っていられるのは今生きているからなのですよ」
 そう、自分が今もこうして燐音と触れ合っていられるのは、燐音に救われたからに他ならない。〝俺が決着をつけます〟などと啖呵を切っておきながら結局また、助けられてしまって。要だって悔しい。
「言ったでしょう、〝あんたのそういうところが嫌い〟だと」
「うっ、悪りィ……」
「ううん。俺にも無茶くらいさせてくださいよ、これからは。あんたの隣に並ぶために俺も強くなるから」
 後ろを気遣う必要なんてないくらい、頼りにしてもらえるようになるから。
「だから──一緒に傷付いて、苦しんで。一緒に生きていきましょうよ」
 期せずして現世に留まることとなった魂だ。ならば俺も、もう一度覚悟を決めて、ぜんぶを捧げてあんたの傍に居てやろうと思うよ。
 至近距離から碧い双眸を覗き込む。そこに映る己の顔は確かに大きな絆創膏が幅を利かせており痛々しいが、彼と肩を並べて戦った証だと思えばそう悪いものでもない。
 ふらふらと彷徨ったターコイズブルーはもう一度要の顔に戻ってきて、しげしげと眺めた。ぎゅっと寄っていた眉間の皺がふと緩み、瞳が泣きそうに歪む。
「良かった。怖かった、おまえを喪うかもって思ったら」
「……ごめんなさい」
「ほんとに、良かった……」
「いますよ。ずっと」
「そーしてくれ」
 きつく抱き締められる。挿入されたままのナカが思い出したように疼きを訴え始める。もどかしさを覚え、愛しい男の名を呼んだ。「燐音」と発した己の声がどろどろのジャムみたいに蕩けていて驚いた。
「燐音」
 ぎゅう、と今度は意図してナカを締め付ける。一瞬、互いの呼吸が乱れる。背中に回した両手の爪を痕がつくのも厭わず肌に食い込ませると、胎内にいる彼が大きくなった。
「いて、こら」
「ばっちり興奮してるじゃないですか」
「そりゃまァ……」
「あ、んッ!」
 ずんと一度乱暴に突かれ、顎を反らして快感に耐えた。瞳の奥にぬらぬらと青い火を灯した恋人は、すっかり獣の顔をして嘯く。
「おまえにつけられる傷は悪くねェぜ? 『おまえの』ってかんじがして気分がいい」
 にんまりと笑んだら激しいピストンを再開する。晒した喉にぴりりとした痛みが走り、歯を立てられたのだと知る。刹那、尖った犬歯に皮膚を食い破られる想像をして、足の先から甘い痺れが駆け上がった。軽く達した。
「いっ、ァ、やだ」
「やだ?」
 意図せず漏らした拒絶の言葉を相手はご丁寧に拾い上げ、低い声で問い返す。こうなると本当のことを言うまで許してもらえない。
 相変わらず首元を甘噛みして、時折歯型のついた肌を吸っては舐めて。あけすけな所有の証は飽くことなく刻まれていく。
「うあ、ッん、や、じゃな……も、と」
「もっと、何?」
「噛んで、」
 こんな欲求を抱くのは初めてだった。喉笛に喰らい付かれると死の匂いをすぐ傍に濃く感じる。自身の生き死にを愛しているひとに委ねる行為は、なんともスリリングで背徳的で、えも言われぬほどに甘美だ。
「ほォら、イッていいぜ」
 喉仏のあたりに唇をくっつけたまま囁かれた燐音の声が、皮膚を突き破る痛みと併せてちいさな信号となり、要の最も深いところへ届く。瞬間、押し寄せた濁流に飲み込まれた。頭が真っ白になる。声もなく快楽を極め、ぴんと伸びたつま先がシーツを掻いた。一拍置いて宙に放り出されていた意識が戻ってくる。慌てて酸素を取り込んだ。最奥に熱い飛沫がぶちまけられた感覚がある。彼も気持ちよくなれたなら、良かった。
「っは、あ……ッ、けほっ……!」
「ふ、上手にイけたなァ。イイ子」
 燐音がぽふぽふと頭を撫でて宥めてくれた。深い絶頂の余韻からなかなか抜け出せず、呼吸を落ち着けようと縋った胸にぺたりと頬を寄せてみる。自分のよりもいくらか高い体温にひどく安堵した。
「ん、要」
 促されて顔を上げればキスが降ってきた。額に、こめかみに、瞼に、頬に。最後に唇に触れ、重ねるだけでは飽き足らずまた舌を吸った。
「──血の味」
「おめェのだよ」
 要の首をするりとひと撫でし、「痕残ると思う、ごめんな」と子犬みたいに眉を下げる男。つい先程までの凶悪面はどこへ行ったのだろう。苛烈な暴君の顔と甘やかし上手な恋人の顔を行ったり来たりする情事の間は、はじめから終わりまで翻弄されっぱなしだ。
 彼のためにベッドを半分空け、両手を広げた。空いたところに滑り込んできたそいつを腕の中に閉じ込める。髪に鼻先をうずめるとシャンプーの残り香に混じって薄っすらと汗のにおいがする。もうすっかり馴染んでしまったそれは要にとって妙に心地よく、睡眠導入剤さながらに眠気を誘う。
「眠い……」
「お~寝ろ寝ろ。燐音くんが添い寝してやるっしょ」
「うん……」
 あたたかい。触れた場所から伝わるぬくもりも、香りも、声も、まなざしも。
 ──嗚呼、生きて、帰ってきたんだ。
 瞼を閉じ、いざなわれるままに微睡みに落ちてゆく。きっと目を覚ます頃には燐音が先に起き出していて、要の好きな珈琲の香りで迎えてくれるのだろう。あいつはよく気のつく男だから。
「おやすみ、要」
 もうほとんど夢の中に旅立っていたから返事はできなかったけれど、眠りに沈む間際に目元を覆った掌の温度を覚えている。
「愛してる」
(……、俺、も、あんたを──)
 こんな風に穏やかで、ミルク多めのカフェオレみたいに優しい朝を、昼を、夜を、いつか死ぬまでずっと繰り返していけたら。そして願わくば、幕引きは彼の隣で。
 緞帳が下りた先のことはわからないけれど、きっと地獄の果てでも燐音は要を見つけてくれるから。いずれ約束が果たされる日を予感して、期待して、努力してみよう。自分達にできることは、この人生という宴をひたすら生きることだけなのだから。

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