緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



幕間





 朝一番にフローリングに正座させられた燐音は、不満に唇を尖らせた。
「なんっで俺っちだけ⁉」
「要が、先に手を出したのは燐音だって言うから」
「あァ⁉ 俺っちの主張は聞いてくんねェの? なァヒメルン~」
「う~ん、ごめん! 俺は基本的に要の味方!」
 地下室の存在をヒメルに明かせない手前、要と燐音は〝夜中に殴り合いの喧嘩をして少々怪我をしました〟で通すことにした。寝て起きてみたら同居人があちこち傷だらけだったとあれば、心配して理由を尋ねるのは至極当たり前だ。ヒメルは友達想いの心優しい青年であるし。
 しかし本来なら、喧嘩両成敗で要ともども罰を受けるのが筋ではないか。己が一方的にバッシングされる謂われはないはずだ。
「ずりィっしょ! なァ~メルメルも仲良く正座しようぜェ、なァってば」
「ごめんね燐音、要は今日商談の予定があって忙しいんだって。だから正座してる場合じゃないの」
「何、俺っちは暇だから正座させられてンの?」
「そういうことです。悪く思わないでくださいね」
 見慣れない明るいベージュのスーツに揃いのハットという出で立ちの要は、ヒメルからは死角になる位置でべっと舌を出した。あいつマジで性格悪い。
「それじゃ、ヒメル。俺は出掛けるから」
「うん」
「外出する時は天城を連れて行くのですよ」
「わかってるよ。忘れ物ない?」
 同じ顔のふたりのやり取りをぬぼーと眺めていた燐音は、保護者ぶってる要の方が案外手綱を握られてる側なのかもしれねェな、などと失礼なことを考えた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 玄関でぱたんと扉が閉まる音がする。それからとてとてと床を踏む音。リビングに顔を出したヒメルが、「もういいよ!」と悪戯っぽい笑みで告げた。





 一緒に暮らしてみると──別人だからそれが自然なのだが──ヒメルと要はまったく似ていなかった。
 確かに顔の造形に関して言えば限りなく近い。こはくがそうだったように、初対面で区別できる人間の方が稀だろう。けれど性格は正反対と言っていいほど違っていた。
「今日はお祭りがあるって聞いたから。久しぶりに食べたいんだ、屋台飯♪」
 無邪気が服を着て歩いてるみたいな奴。それが燐音のヒメルに対する印象だ。役者を志すだけあって、人懐っこい笑顔の似合う彼からは周囲を惹きつける魅力やオーラのようなものを感じる。要が熱心に庇護しようとするのも頷けるというものだ。
「あいつもヒメルンみてェにニコニコしてりゃいいのにな。そう思わねェ?」
「なあに? 要のこと?」
 露店が立ち並ぶ通りをのんびりと歩く。隣の彼はキャンディやらドーナツやら何やらを持ちきれないほど抱え、要へのお土産にと買った紙袋をいくつも燐音に持たせていた。
「燐音はさあ」
 ヒメルはダブルのアイスクリームをぺろりと平らげ、ハート型のストローで吸い込んだハニーレモネードをごくんと飲み込んでから身を乗り出して尋ねた。
「ニコニコしてない要が好きなんでしょ?」
「……」
 燐音はついさっき買ったタコスに齧りつきつつそっぽを向いた。サルサソースがやたらと酸っぱい気がする。
「黙らないでよ。好きでしょ? 強がってツンツンしてる要、可愛いもんね」
「……可愛い」
「でしょ~⁉ わかる~!」
「はっず、何これ」
 ──マジでなんだこれ。女子同士の会話か。
 どうやらヒメルは要と燐音の関係について突っ込んで聞きたかったらしく、ここぞとばかりに食い付いてきた。馴れ初めをありのままに聞かせるわけにはいかないため、ふたりで口裏を合わせて嘘を教えなければならないのは心が痛むけれど。
「ああやって壁をつくるのはさ、要なりの生存戦略なんだよね。きっと」
 「内緒だよ」と言って彼が教えてくれたのは、要は燐音といる時本当にリラックスしているようだということ。以前と比べて感情表現が豊かになったということ。燐音の話をする時の照れた顔がまた可愛いということ。
 最後のひとつはより詳しく教えてもらいたいところだったが、「これ以上は俺と要の秘密」と断られてしまった。しっかりしている。
「要は昔から綺麗だったけど、最近また綺麗になったなって思うんだ。燐音のお陰かなあ」
 もしそうなら俺も嬉しい。ありがとう。
 屈託のない微笑みを浮かべた青年は、大好きな家族の幸せを心の底から祝福しているようだった。
「……はは、あいつにとっちゃ今でもあんたが一番だよ。ヒメルン」
「そう? いちばんは何人いてもいいと思うけど」
「ンな器用な奴じゃねェからなァ……」
 あの男の中での優先順位はきっとこれから先も変わらない。極端な話、崖から落ちそうになっているヒメルと燐音のどちらか一方しか助けられないとしたら、あいつは躊躇いなくヒメルを選ぶだろうし。
 もっとも〝あなたなら自力で這い上がって来られるでしょう?〟という厚い信頼があればこその選択だから、それでいいと思う。むしろ万が一ヒメルよりも先にこちらに手を差し伸べようものなら、〝大事なもんほっぽって何やってンだてめェは〟とでも言ってその麗しい横っ面を張り飛ばしてやるところだ。
 あいつとは恋人同士である以前に互いの命運を託し合った相棒だ、だから、おめェが大切に抱えてるもんは俺も取り零さずに大切にしてやりてェンだよ。
「ンじゃ今度は俺っちから質問な~。ヒメルンを軟禁してたのって、どんな奴ら?」
 尋問じゃねェンだ、答えたくなけりゃ言わなくていい。大して関心がない振りをして横目で隣を窺う。目が合った彼はしかし、動じなかった。
「悪い人達だった──と、思う。たぶん」
「へェ? 断定しねェのな」
「うん。俺は彼らと長い時間を過ごしすぎた」
「ストックホルム症候群、的な?」
「そんなとこ」
 ヒメルは眉を下げてすまなそうな顔をした。にっこり笑うだけが仕事のお人形さんかと思えば、意外と聡い上に肝が据わっている。
「俺がいたところはどこかのアパートだったみたいだけど、あの人達の本拠地は別にある。頻繁に様子を見にきた女のひとは、帰る時にはいつも車を呼んでた」
 ──あの女だ。直感だがそうに違いない。『エマ』だ。
 エマのお気に入りだったヒメルは、彼女の目の届く場所で管理された。そして組織においての彼女は、いつでも好きな時に迎えを呼べる程度には高い地位にいる。幹部クラスであるのは間違いない。
「奴らを、恨んでるか?」
 そう尋ねればヒメルは迷わず頷いた。
「要につらい思いをさせちゃったから。後悔してるよ」
「……」
「ねえ燐音」
 恋人と同じ高さから静かに見つめてくる瞳は、やはり彼と同じ黄金色をしていた。先程まで元気に露店を冷やかしていた男と同一人物とは思えない怜悧さに面食らう。
「教えて。要は俺がいない間……何をしていたの」
 この色にはどうにも弱い。口止めされているから本当のことは言えないけれど、つい甘やかしてしまいそうになるのは悪癖かもしれない。気をつけよう。
「……言えねェ。あいつが隠したがってることを、俺っちからあんたに話すのはルール違反っしょ」
 今度はヒメルが目を丸くする番だった。
「あは、意外。〝ルールは破ってナンボっしょ!〟とか言いそうなのに」
「俺っちをなんだと思ってンだよ……まァそういうことだ。悪りィな」
「ううん。要の恋人が君で、俺も安心だよ」
「そいつは光栄」
 にかっと歯を見せて笑い、それきり彼は追及をやめた。誤魔化せた……わけではないだろうが、ひとまず見逃してくれるらしい。
(メルメルよォ……どんな天使みてェな奴かと思ったら、案外こいつもおめェに似て性悪かもよ?)
 少なくとも要が信じているような〝馬鹿で可愛い、何も知らないヒメル〟などというものはきっとどこにもいない。否、あいつが自分自身のためにそう思い込みたいだけなのかもしれないけれど。
「冷えてきたね。ホットココアでも飲もうかな?」
「俺っちはしょっぱいのがいいなァ……」
 キラキラしたスイーツを片っ端から口に放り込んでいくヒメルを見ていると胸焼けしそうになる。山ほど買ったカラフルなバルーンが絡まないよう、気を遣いながら歩くのだってひと苦労であるし。
「ヒメルン、そろそろ」
 帰ろうぜ。言い掛けて、人波の向こうの物陰からこちらを窺う複数のまなざしに気が付いた。口を噤んだ燐音に前を歩く彼が不思議そうに問う。
「どうしたの?」
「……。いや、なんか急~に猛烈に腹が痛ェ気がする~……」
「え⁉ 大丈夫? トイレ行く?」
 勘付いたことを悟られてはまずい。心配するヒメルに甘える体で急ぎ車へと向かう。人ごみを抜ける際ちらりと振り返ると、先程の視線はどこかへ消えていた。
「まだおなか痛い? うちまで我慢できる?」
「あ~悪りィ、急に治ったみてェだわ! ほんとごめんな!」
 奴らの姿は見えなくなったが、早急にここを離れるべきだ。胸がざわつく。
 アストンマーティンの助手席にヒメルを乗せ後部座席に荷物を押し込み自分はハンドルを握ったところで、燐音はサイドミラー越しに不審な車を認めた。黒のアルファロメオはパーキングを出てからもぴたりと後ろをくっついてくる。
(気のせいか……?)
 試しに横道に逸れてみる。するとそいつもウィンカーを出してあとに続く。
「気のせい……じゃ、ねェな」
 さっきの奴らで間違いなさそうだ。目的はヒメルか。
 ──さて、どう説明してやろう。
「ヒメルンってさァ、ジェットコースターとか好き?」
「わりと好き」
「ンじゃあ今からしばらく目ェ瞑って、イイ子で座っててくんね?」
「ええ~何なに? なんか面白いこと考えてる?」
 ドキドキする~! なんて言いつつ両手で目を覆うヒメル。苦し紛れの嘘に乗っかってくれるようだ。悪いけどちょっとの間そのままでいてくれよ。
「ロケットスタートいくぜェ、舌噛むなよ~? Three……」
 信号待ちでサイドミラーを睨み付ける。追手の車は一台、恐らく三人組。
「Two」
 シフトをDレンジに入れアクセルとブレーキの両方を限界まで踏み込む。エンジンの回転数は急上昇、空転したタイヤが面白いくらいにスモークを撒き散らす。
「……One」
 グオオオオオン‼
 耳障りな轟音を引き連れた車体は弾丸さながらに飛び出した。ゴミ捨て場を吹っ飛ばし狭い路地を一気に駆ける。ここを抜ければ目抜き通りだ。
「うわ、」
 パンッという軽い音と共にリアガラスにひびが入った。ヒメルがぎょっとして後方を振り返る。ただし律儀に目隠しをしたまま。
「な、何が起きてるの?」
「ん~撃たれてンねェ……」
「撃たれてるの⁉」
 巴家諜報部のメカニックが手を加えた燐音専用車は全面防弾ガラスだから貫通はしないはずだけれど、実際に弾丸を打ち込まれるとヒヤヒヤする(今は大事な彼もいることだし)。さっさと千切ってしまいたいところだ。
「ちょっとお願いがあるンだけど……」
「お願い? 目隠しやめていい?」
「いい、いい。その代わり今日見たことは全部忘れるって約束してくれ。メルメルにも内緒にすること」
「わかった」
「そんじゃ頼むわ」
 後部座席に移動したヒメルがドアを開け、色とりどりのバルーンを解き放つ。狭い道にひしめくギラギラの赤や銀や金のそれが奴らの進行方向を覆ってくれている隙に、撒菱型爆弾をばら撒いた。小型だが威力は抜群だ。狙い通りにパンクさせたアルファロメオを引き離し、路地を抜けて広い道路へ出る。
「よォしよくやっ……おお?」
 目抜き通りをすこし走ったところで再び異変を感じた燐音は、バックミラーをちらと確認した。片側三車線の道でついさっき撒いたのと同じ車種が三台、整然と並んで追ってきている。仲間がいるとはツイてない。
「おいおい、しつこい男はモテないぜェ……?」
「どどどどうするの燐音」
 助手席に戻ったヒメルがシートベルトをしっかりと締めながら上擦った声を上げた。
「どうするって──こうするンだよ!」
 信号は赤。Rレンジに切り替え、猛追してくる車に向かって勢い付けてバックする。激突の瞬間にガシャンと物凄い音がして、向こうのバンパーからボンネットまでが派手に潰れた。ドライバーはエアバッグに押し潰されて気絶したらしい。ざまァみろだ。だがこれで終わりじゃない。青信号に変わればカーチェイスの再開だ。
「掴まってろ!」
 ぐんぐん加速して時速百九十キロ。車間を縫うようにすり抜け、そのままの速度で交差点へ突っ込んだ車は十字路のど真ん中で華麗にドリフト、ヘアピンカーブして来た道を引き返し追手をぶっちぎる。右斜め後ろの奴が曲がり切れず中央分離帯にぶつかって自滅したから、残るはあと一台。なかなかしぶとい。
「燐音運転上手いね。オートマでドリフトってできるんだ」
「だろォ~? 今度のんびりドライブしてェよな、鬼ごっこじゃねェやつ」
「うん。無事うちに帰れたらだけど」
「帰る帰る、当たり前っしょ!」
 周囲の風景は市街地から山間部へ。直線のトンネルに入ったところで、ハンドルの下にある緊急用のレバーを引く。『銃撃戦に備えて搭載されているアシストドライブ機能』をオンにし、燐音は身体を反転させた。シートに膝をのせ、窓から半身を乗り出す。オレンジのライトが照らす薄闇の中、後続車に向かってウインクを飛ばした。
「あばよ」
 懐から抜き去ったワルサーPPKが火を噴いた。三発でフロントガラスを粉々にする。視界を失ってふらついた車体を狙ってもう二発。弾はドライバーの胸を的確に撃ち抜き、壁に衝突した車は完全に停止した。そこまでを見届けてようやく運転席に座り直す。
 (『Crazy:B』のやり口が特殊なだけであって)本来ならエージェントは目立つべきではないから、トンネルにいるうちに片を付けられたのは不幸中の幸いだろう。
「よしよし、もう大丈夫──」
 ヒメルと一緒にほっと息をついたのも束の間。
『あー、グレーのアストンマーティン、停まりなさい』
「げっ」
 ──重ね重ねツイてない。赤と青のランプを忙しなく点滅させて迫ってくるのは警察車両だ。そっちはまったく警戒してなかった。
「ひえっやばいよ燐音」
 上空にはいつの間にやってきたのか中継ヘリまで現れる始末。これは非常にまずい。どうすれば逃げおおせるか、車を走らせながら必死に脳味噌を回転させる。
 丁度その時だ、天使のラッパにも聞こえるブザーが鳴り響いたのは。
「わっ今度は何……⁉」
 カーナビに表示された名前は『P』──七種茨が部下の指揮をする際のコードネームである(聞いた話によると『poison』の頭文字らしい)。瞠目するヒメルへ黙っているようサインを送ると、一生懸命頷いてくれた。
「……はァい、蛇ちゃん」
『派手にやってくれやがったようですねえ~天城氏? ドライブはお楽しみいただけましたか? え?』
 開口一番チクチクと刺してきた茨は、画面の向こうで青筋を立てているに違いない。相変わらずでかい声に辟易としつつ、あくまで平然と切り返す。
「あっれェ……怒ってる?」
『怒るなどとんでもない! あなたが一連の騒動で破壊した公道、民家の壁、巻き込まれた市民の車両その他諸々……損害額は締めて五千万L$! これら全て我々の軍資金で軽~く賄えますからねえ~、この程度痛くも痒くもない出費であります、あっはっは!』
 いわば社用車であるこの車は必要とあらばGPSで特定することができるため、燐音がはたらいた狼藉はすべて上司に筒抜けであった。悪いことはできないものだ。
「あ~ウン、反省してっから車没収すンのだけは勘弁してくんね?」
『お説教は後日に。警察とは現在日和殿下が交渉中です、良かったですねえ命拾いしましたねえ! ですからどうか、どう~かこれ以上悪さをする前に、真っ直ぐ自宅へお帰りください。寄り道は厳禁であります! わかりましたね?』
 助手席に目配せをしてやればほっとしたような笑顔が返ってくる。恩着せがましい言い方は気に食わないけれど、今日のところは従順に振舞ってやるとするか。
「へいへい、あんがとねェ~。……もういいぜ」
「……ぶは、苦しかった~!」
 黙っているついでに息を止めていたのか、何故かヒメルは肩で息をしていた。そこまでしろとは言ってない。
「なんか怖そうな人。誰? 嫌いな上司?」
「わお、大正解百点満点っしょ。ハナマルあげちゃう」
「やった。そっか今のひとが燐音の……。社会人、大変だね……」
 ──もし、ヒメルが同乗していることがバレていたら。
 巴家の暗部の存在が明るみに出てはならない。そして一般人を関わらせてはならない。よって燐音は茨の指示により、ガジェットを駆使してヒメルの記憶を消さなければいけなかった。だがそれはしたくなかった。理由は『なんとなく』だ。もう彼を他人とは呼べなくなってしまったからかもしれない。
「ヒメルン。……今日見たことも、さっき聞いたことも、忘れる約束だ。いいな?」
「わかってる。でもひとつだけ……答えてくれる?」
 窓の外を見つめる彼の表情は窺えない。
「俺のせいで、燐音が危ない目に遭ったの?」
「……。ヒメルンのせいじゃねェよ、悪りィのは俺っちだ」
 そう、ヒメルのせいではない。彼が察する前に危険を取り除けなかったこちらの落ち度だ。見せるべきではなかったのだ、本当は。
 追ってきた奴らは何者だったのか、『エマ』の組織と繋がっているのか、そっち方面の調査は本部に任せるとして。
「俺っちが──俺と要が、必ずあんたを守る。安心しな」
 今燐音に言えるのはそれだけだ。
 海沿いを走る車の窓から差し込む西日が、要よりもいくらかあどけない横顔を照らす。ヒメルは深く頷き、「頼りにしてる」と言った。

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