緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



第一幕 The Long Goodbye

第一場





 女性の心を手に入れるために、欠かせないことが三つある。

 一つ、紳士的な立ち振る舞い。
 一つ、清潔かつ裕福そうな身なり。
 一つ、ウィットに富んだ会話術。ちょっとしたハプニングがあればなお良い。

「ペンをお忘れになったのではなくて?」

 ダークブラウンのツイードジャケットにボウタイを合わせ、オペラ鑑賞を終えたばかりの人波に溶け込んだ燐音は、ブルネットの美女に呼び止められた。
「おや、……ああ、確かに私のものです」
 女性の手から万年筆を受け取る際、思わずといった風を装い指先に触れていく。不自然にならない程度に軽く握って、すぐに離す。目を逸らして「失敬」と付け加えれば完璧。
「感謝いたします、レディ」
「大袈裟。……あたしの顔に何かついてるかしら?」
「おっと、これは失礼。つい見惚れてしまって……貴女のような素敵な女性にお会いできるだなんて、嬉しいな」
「お上手ね」
「嫌だな、本心ですよ」
 とろけるような微笑みを添えることも忘れずに。
 女慣れしていると思わせてはいけない。至って真剣に口説いているのだと信じ込ませるのは至難の業だが、日和と茨からみっちり仕込まれた籠絡術(と生まれつきのツラの良さ)のお陰で現在負けなしである。
 鮮やかなグリーンのミニドレスを纏った彼女は、すこし考える素振りを見せたあと、口を開いた。
「貴方……このあたりでカクテルの美味しいお店をご存じ?」
 店はリサーチ済みだ。抜かりはない。これでも俺っちは超優秀なエージェントなんでね。
「エスコートしましょう」
 燐音は唇に穏やかな笑みをのせ、その腰に手を回した。



 オーセンティックバーのカウンターで隣り合う美女は、燐音が追っているターゲットその人である。彼女はエマと名乗った。こちらも適当に名乗ることにする。
「クジョウです。今宵の出会いに」
「ええ」
 互いにグラスを掲げ、燐音はいつも通りマティーニに口をつけた。
 乾杯をしたあとは、先のオペラの感想を述べ合ったり、嘘の身の上話をしたり──己が巴家傘下の建設会社役員であると話すと、エマは身を乗り出して食い付いてきた。良い情報源を得たと確信したのか上機嫌の彼女は、モヒートにはじまり、XYZ、ギムレットと、水でも飲むみたいな勢いで酒を煽っていった。
「気持ちのいい飲みっぷりですね」
「がっかりした?」
「いやァ、むしろそそられます……ですが、」
 言葉を切って思案げに黙り込めば、アルコールで濁った翡翠色の瞳がこちらを向く。
「〝心の渇きを癒して〟〝永遠に貴方のもの〟そして〝長いお別れ〟──やけにセンチメンタルなチョイスですね。まるで失恋でもしたみたいだ」
「カクテル言葉? 案外ロマンチストなのね」
「ロマンチストな男はお嫌いで? ……まァそれだけじゃないですが」
 濃いメイクに縁取られた目がゆっくりと瞬く。燐音は殊更甘い声音で言葉を紡いだ。
「貴女は──。いや、あんたははじめっから寂しそうに見えたぜ。俺っちにはな」
 さァさァ勝負だ女スパイ。誘いに乗れ。俺っちの伊達男っぷりの前に屈服せよ。
 任務は〝ド派手にスマートに〟が信条だが、女を口説く時は少々勝手が違う。じっくり虎視眈々と、なおかつスマートに。相手が陥落するまで駆け引きを繰り返すのもまた、命のやり取りと同じくらいスリリングで楽しいものだ。
 焦りは禁物。じっとイイ子にして返事を待つ。するとスツールの背もたれに乗せていた手に、彼女のそれが重ねられた。こうなれば勝ち確だ。
「それが本当の貴方? 面白い|男《ひと》ね……いいわ、あたしを慰めて頂戴」
「喜んで」
 差し出された右手を取り、中指に嵌ったルビーの指輪にキスをひとつ。ここからは消化試合といこう。





「あんたのタトゥーは別れた男に関係してンのか?」
 近場のモーテルにシケ込みそれなりに盛り上がったあと、煙草をふかしながら問うてみる。エマはベッドに寝ころんだまま、どこかうわの空で答えた。
「いやあね、まだ別れてないってば。もうすぐ迎えが来るの。あたしの元から彼を連れ去ってしまうのよ。そういう運命なの」
「ふゥん? 随分ぞっこんなこって。こんな男前捕まえといて、頭ン中じゃそいつのことばっか考えてるってわけかァ? ち~っと妬けちまうねェ」
 はぐらかされたなと思いつつ、「どんな人?」と水を向ける。彼女は漆黒のポリッシュで彩られた指先でスマートフォンを弄り、一枚の写真を表示させた。興味本位で覗き込んだ燐音は、そこに写った青年を見て──言葉を失った。
「ね、美しいでしょう。……クジョウ?」
「──! っ、おお、美人のあんたとお似合いの色男じゃねェか」
「あたしと彼はそういうんじゃないのよ。彼はお星さま。あたしは遠くの地上から、綺麗な彼をただ眺めていられればいいの」
「……あ、そォ……」
 言葉が上滑りして、ちっとも情報が頭に入ってこない。流石に動揺しているらしい。吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、二、三度深呼吸をしてみても駄目だった。頭を冷やしたくて、「シャワー浴びてくる」と声を掛けそこを離れた。



 バスルームから戻ると既にエマの姿はなかった。
「……なんか俺っちが振られたみてェじゃね?」
 ぐるりと部屋を見回す。と、サイドテーブルに置かれた手書きのカードに気付く。ご丁寧に真っ赤なリップマーク付きだ。
「あァ、電話番号……あんがとね」
 ふと彼女が身に着けていたサムサラの香りが思い出され、燐音は試合に勝って勝負に負けた心地がした。すこしだけ悔しかった。
  




第二場





 巴家に戻った燐音は、報告もそこそこに自室へと急いでいた。
「燐音先輩おかえりなさ~い! 任務は──クッサ!」
「ああ燐音先輩お疲れっす。早くHiMERUさんとこ行ってあげた方が──くっせえ!」
「お勤めご苦労さまであります、天城氏! 報告書は明日までで……なんですかその匂い」
「だァ~! てめェらうるせェよ! 畜生あの女、俺っちの服に香水ぶっかけやがった!」
 やべェよやべェよ、宗くんに怒られる。
 仕立ててもらったばかりのジャケットを駄目にしてしまいました、なんて今日の今日で言えるわけがない。彼のこよなく愛する芸術鑑賞の場で身に纏う衣裳だからと、今回は特に気合を入れてデザインしてくれていたのを知っている。手伝ってくれたみかにも申し訳ない。それと。
「これじゃああいつンとこにも行けねェな……」
 別宅に籠っているらしいHiMERUのところにすっ飛んで行ってやりたかったのに、染み付いた香水の匂いが取れないことには会ってくれそうもない。
 頭から冷水を引っかぶり、自前のシャンプーで洗髪をし直し、新品のシャツに着替える。
 あいつはまだ待ってくれているだろうか。いや、たとえ待っていなかったとしても、会いに行かねばならない。そういう約束なのだから。





 コンコン。
 開け放たれた寝室のドアをノックする。ベッドの上でこんもりと盛り上がっている塊がぴくりと動いた。
「入るぜェ」
「……」
 返事がないのを了承とみなし、暗い室内へ足を踏み入れた。ベッドに腰掛けると塊が縮こまる。そういう生き物みたいな動作をするものだから、なんだか可笑しくなってしまう。
「ふは、ただいま。……メルメル」
「──おかえり、なさい」
「まだ拗ねてンの?」
 厚手のブランケットをめくるとあちこち跳ねた髪の毛が覗いた。次いでぎゅっと眉を寄せた顔も。
「……。拗ねているわけでは」
「ハイハイ。お約束通り来てやったぜ、あんたの燐音くんですよォ」
「……、……重い」
「拗ねてンじゃん!」
「拗ねてないのです」
 こうなったHiMERUは決して発言を覆さない。折れるのはいつも燐音の方で、その甲斐あってかこれまで大喧嘩に発展したことはなかった。
 しかし今回に限っては、気になることがひとつ。
「らしくねェな。任務に私情を持ち込むなんざプロのやることじゃねェって、いつも真っ先におめェが言うことっしょ」
「っ……」
 虚を突かれたような表情をしたHiMERUは、何か言いたげに唇を噛んだあと、黙って目を伏せた。反論もできないほどに参っているということか、とどこか納得する。
「おめェも戸惑ってンのか」
 己の変化に。問えば不安そうなまなざしが燐音を捉えた。
「俺は──あなたを好きだとわかってから、感情をコントロールできないことが増えて」
「……おう」
「ハニートラップなんて、俺達に言わなかっただけで……あなたは今まで何度もこなしてきたはずなのに。でも、いざやるって聞いてしまったら駄目なんです、腹が立って仕方なくて。誰にって、俺に対して。私を殺して任務に徹することができない自分が許せない」
「ん~……おめェをそんな風にしちまったのは、俺っちだなァ……」
 血も涙もねェ氷の人形みてェな奴だったのにな。
 苦笑して、ブランケットごと抱き締め、背中をさする。心情を吐露して落ち着いたのか、彼が身体の向きを変えて抱き締め返してくれた。
「満足ですか?」
「あ?」
「俺をこんな風にして。満足?」
 先程までの触れたら壊れそうな儚さから一転。今度は男を誘惑する微笑を浮かべてそんなことを言うものだから、燐音にはHiMERUという人間がわからない。
「……もっと俺好みなとこ見せてくれねェと、満足できねェな」
 誘われたから、乗った。それだけ。男なんてそんなものだ。





 キスの合間にシャツのボタンを外し、前をはだけさせる。きめの細かい素肌に掌を滑らせた。そうしてしばらくの間なめらかな手触りを愉しむ。
「ぁ、ふ……んんっ」
 胸の先端にはほとんど触れていないのだが、そこはツンと尖って刺激を強請るよう。衝動のままに吸い付くと頭の上で悲鳴が上がった。
「は、あ! っう、ああ……」
「きゃは、超敏感」
「やめ、言うなっ……んっあ!」
 見下ろした身体はつるりとして平坦だ。当たり前だ、男の身体なのだから。なのにどうしてか、うるさいくらいに鼓動が逸る。こんなにも血が沸きたつ。戦場にひとり立った時と同じかそれ以上に、高揚してしまって抑えが利かない。
(おかしくなっちまったのはおめェだけじゃねェ、俺もだ)
 ほんの数時間前に見下ろしていたような豊満なバストやきゅっと括れたウエストが無くても、HiMERUは美しい。
 組み敷いて暴いて、蕩けるほど甘やかしたいとも縛り付けて支配したいとも思わされるのは、後にも先にもこの男だけだ。彼を抱いて燐音の内に湧き起こる情動は、その喉笛に喰らい付いて自分のものにしてしまいたいという凶暴な欲求のみだ。
「かなめ……要」
 キスがしたい。呼吸を奪い合うような、互いを貪り合うような甘いキスが。
 こちらの意図を悟った彼が首を僅かに倒し、口づけがしやすいよう計らってくれる。きっと無意識なのだろう、こういうところが愛おしくて、気付く度に堪らない気持ちになる。
 顎に手を添えて口を開かせる。舌先が親指にちょんと触れたから軽くちょっかいをかけてやると、仕返しと言わんばかりに甘噛みされた。
 すり、と濡れた唇同士を擦り合わせ、触れたところからじんわり伝わる体温を堪能する。重ねて離してを何度か繰り返しては、吐息の擽ったさに笑って。焦れたHiMERUがうなじに添えた手でぐいと引き寄せてきたから、お望みのままに口づけを深めた。伸ばした舌で自分のより薄いそれを絡め取り、キャンディを転がすみたいに満遍なく舐ってやる。
 さて、燐音にはHiMERUの舌も唾液も甘く感じられて仕方がないのだが、彼が行為の前に甘いものを口にしたかと言うとそんなことはなく。というか全身どこを舐めても汗までも蜜のように甘い気がしてしまうから、これは精神的な問題に他ならない。
「っ、狭ェ、な……」
 HiMERUの胎の中は離すまいとぎゅうぎゅう絡み付いてくる。男と女の構造の違いなどは些末事だった。それよりも『こいつ』を組み敷くことを許されたのは己だけだという特権意識が、燐音をひどく興奮させた。興奮は快楽を増長させ、快楽は恋慕を、恋慕は執着を強めていく。自身にも制御し得ないリビドーの発露を抑えるのに、いつだってただ必死だ。
「へ、いき、です。り、っね……動いて」
「はっ、ドエロい声で鳴いてくれよ……?」
 我慢はいっときだった。愛しい女王蜂さまのおゆるしをいただいたら、あとはもう我を忘れて食い尽くすだけ。一体獣と何が違う? 大した差などありはしないと言うのに。
「んぅ、んっ、あん、あ、……」
「ん……、なに?」
 艶めいた喘ぎ声に混じって、恋人が何かを囁いた。腰を押し付けるついでに上体を大きく倒し、唇に耳をくっつける。
「激しく……して。俺のものだって、わからせて。……できますよね? あなたなら」
 危うく爆発しそうになった。何がとは言わない。
「くっそ、言うようになったじゃねェか……」
 イエスユアマジェスティ、女王陛下の御意のままに。この身も心も余すところなく、俺のぜんぶあんたのもんだ。
「ああ、っ! き、もち……なか、だめになる」
「は、ッ……良い、いーから、だめなとこ見せて」
「だめ、うあ! ッ、あっン、うう~」
 彼の好きなところばかりを狙いすまして突いてやれば、理性がどこかへ行ってしまいそうで恐ろしいのか、怖がってぐずる子どものような反応を見せる。そんなのは男を煽るだけだということを、いい加減理解してもいい頃だと思うが。
「好いンだろ、おまえっ、も……! だめンなっちまえ、なァ、だめンなろうぜ? 要ェ、俺と一緒にさ……」
 思考に靄がかかって、自分でも何を口走っているのか定かでない。興奮からくる酸欠で頭がぐらぐらする上声も掠れ、想定よりも切実な告白になってしまった気がする。格好つかない。
「り、ね、やあ、やら、ぁ! き、もちいの、だぇ、ひうう」
 懸命に燐音の欲望を受け止めるHiMERUは、涙と汗と涎とで美しい顔をぐちゃぐちゃにして鳴いた。両脚が顔の横につくくらいに身体を折り曲げ、真上からプレスするようにして最奥までひと息に突き入れる。馬鹿みたいに何度も腰を打ち付けると、ナカのうねりが激しさを増す。
「あっあ、いぅ、いく、──!」
 びくん! とひと際大きく腰が跳ねた。痙攣する媚肉に根負けしてナカに吐き出してしまう。
「〜〜ッ、ぁ、」
「ぁ、っあ……」
 絶頂の余韻に震える白い腹を彼の精液が汚していくのを見て取り、掌でゆるゆると撫でつける。未だ蠢くのをやめない内壁にもう一度擦り付けてから、名残を惜しみつつ時間をかけて引き抜いた。
 ──なんと言うか、凄かった。女を抱いたあとだから尚更かもしれない。もうこのナカでないとイけないと思わされる程度には凄かった。HiMERUを変えてしまったのが燐音なら、燐音をこんな風にしてしまったのは、HiMERUだ。
「チクショウおまえ、責任とれっての……」
「なにを、言っているのですか……? ナカに出した責任を取るのは、あなたなのですよ」
 つい先程の狼藉を思い出してさっと血の気が引く。しょげる燐音に手を差し伸べ、彼は「あとでいい」とキスをした。






「あのね、天城」

 珍しい、と思った。
 いつも行為のあとは寝てしまうか、起きていても会話はほとんどない。ただ黙って隣にひっついているのが常なのに、今夜は話したいことでもあるのだろうか。
「俺は──」
 斯くしてその予感は的中した。
「俺は、この仕事を辞めます」
「……は?」
 突然のことに二の句が継げない。脳がフリーズして、すべての活動を停止してしまったようだった。
「あなたの言いたいことは承知しています。ですが……ようやく目的が果たせそうなのです。俺の、命を賭す目的が」
 事後の気怠さを孕んでいたはずのゴールデンシトリンのまなこが、活力を得て輝きだすのを見た。
「おまえ、」
「これまで黙っていたことは、申し訳なかったと思っています。でも今はすこしほっとしてもいて」
 彼は遠くを見るみたいに目を細め、「これからは椎名や桜河に気を揉ませずに済むでしょう?」なんて、眉を下げて笑った。
「……本気か」
「はい。明日にはこの家を引き払って、巴家を発ちます」
「……」
 HiMERUがこんな冗談を言う人間ではないことは、他でもない燐音が一番よく理解している。本当に、本気なのだ、こいつは。
「……わかった。じゃあ最後ついでにちょっと、聞かせてくんねェか」
「俺に答えられることなら」
 緊張で指先が冷える気すらする。気取られぬようブランケットの下に突っ込んで、隠した。秘密主義のこの男の核心に、無遠慮に踏み込むことを恐れたのだ。
 地雷を踏み抜くかもしれない。慎重に慎重に、言葉を選ぶ。
「今回の……任務に関わることだ。トカゲのタトゥーの女に心当たりは?」
「……!」
 空気が一変した。驚きに目を見開いた彼が「どうして」と呟く。
「まさかターゲット……?」
 返事はこくんと頷くだけに留めた。一方のHiMERUは普段ではあり得ないほどに殺気立っていた。
「あいつ……あの女! どこにいる、どこに──」
「そいつは俺っちも知らねェ。おめェと同じ顔した男の写真を持ってたから、なんか繋がってンのかと思ってな。最初おめェかと思ったが別人だった。上手く言えねェけど……なんか違った」
「『ヒメル』です」
 感情を抑えた静かな声。予想外の答えに素っ頓狂な声が飛び出る。
「へあ?」
「俺の目的。『彼』のために、俺は命を賭けていたのですよ」
「……身内か?」
「……はい……世界で唯一、『彼』のためなら死んでもいいと思えるひと」
「あの女が──『エマ』が関わってンのか」
 HiMERUにとっての特別である『彼』、『ヒメル』。トカゲのタトゥーの女。〝もうすぐ迎えが来る〟──〝目的が果たせそうだから仕事を辞める〟? 繋がりそうで繋がらない。
 思索に耽る燐音の頬に、ひた、と掌が触れる。顔の向きを変えさせられ、恋人の整ったつくりのかんばせと正面から対峙することになる。
「天城。俺はここを離れます、ですが──俺は『彼』のためになら死ねますが、最期の瞬間まで共に生きたいと願ったのは、あなたが初めてなのですよ。ねえ天城、俺にとって最初で最後のひと。どうかそれを覚えていて」
 触れたら切れそうなまでに研ぎ澄まされた美貌が、真っ直ぐにこちらを見つめ、幻のように微笑んだ。

 そしてこれが正真正銘、この部屋で過ごす最後の夜となったのだ。





第三場





「|暇《いとま》をいただきます」
 応接室にて、主人と向き合ったHiMERUは毅然と告げた。
「いいんじゃない?」
「ちょっ……おひいさん!」
 あっさりと許可を与えた日和をジュンが慌てて制止する。
「そんな簡単に……っ、あんたちょっとは引き留めるとか、理由を聞くとか、こう、無ぇんですか⁉」
「だって、ひとの人生でしょう。ぼくの知ったことじゃないね」
「あんたねぇ……」
「お気遣いなく、漣さん」
 苦虫を噛み潰したような顔をするジュンに笑顔を向ける。本当に、見かけによらず優しい青年だ。
「いや怒っていいんすよぉHiMERUさん……」
「……私は、理由が気になるかな。君はどうしてこの家を出ていくの?」
 凪砂がいつもの調子で淡々と言葉を発した。多少なりともひりついた空気の中で、このぶれなさは有難かった。
「……ねえ、HiMERUくん。どうして?」
「──少々、複雑な話になりますが。『HiMERU』の名を、本来の持ち主に返します」
 この名は元々『彼』のものだ。本物を取り戻せるのならば、己がHiMERUである必要はもうなくなる。そして命を賭してまで求めた『彼』と引き換えるための金は、これまでの働きにより十分すぎるほど貯まった。だから辞めさせてもらう。
「成程、成程! 涙ぐましい努力! 純愛! 美しいエピソードではありませんか」
「……茨、茶化さない」
「茶化すなど滅相もない! 自分は心の底からHiMERU氏を讃えたいのであります。そう、努力は必ず報われます! ああ、できることならおふたりの再会の瞬間に立ち会い、共に歓喜の涙を流したかっ」
「結構です」
 拍手をするな、泣き真似をするな。この男の喧しさもまた、ぶれない。別れ際まで悪い意味で印象深い奴だった。きっと一生忘れないだろう。
「──ありがとうございます、坊ちゃん」
「もうきみの坊ちゃんじゃないね」
「では──巴さん。長い間、お世話になりました」
「なぁにそれ、もっと他人行儀だね!」
 日和が眉を吊り上げ大声で抗議する。ティーカップががちゃんと音を立ててテーブルに置かれた。常に隙のない優雅さを保っている彼にしては珍しく、荒っぽい所作だ。
「HiMERUくん、ほら!」
 向かいのソファから身を乗り出した主人は、テーブル越しに右手を差し出している。
「……ええと……?」
「握手だね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 鼓膜が破れるかと思った。言われるがままこちらも右手を差し出し、握る。太陽さながらの熱でもって強く握り返される。
「うんうん。きみはきみの人生を生きればいい。……でもね、一度はぼくの人生と交わった、共に歩んだ、家族になった。だったら、幸せにならないと許さないからね」
 聡明なふたつの紫水晶は光を取り込んできらきらと輝いている。
「それがいい日和」
 その瞳の中に自分が映っていることを、HiMERUはこの先もずっと誇りに思う。


   ◇


 屋敷の門前で最敬礼をし、それからゆっくりと歩き出したHiMERUを、日和達は窓越しに見送っていた。
「寂しくなりますねぇ……」
「……本当に良かったの、日和くん」
「凪砂くん。大丈夫だね、あの子ならきっと」
 『Crazy:B』のメンバーも彼のことを大事にしていた。もし何かあったら頼ってきてくれるはずだ。
「しかし……殿下。水を差すようですが、ひとつ懸念事項が」
「茨は情報漏洩でも心配してるのかね。彼に限ってそれはない──とは流石に言えないけれど」
「見張りはよろしいのですか?」
「う~ん」
 日和はしばし考え込んだあと、「ああ」と膝を打った。
「必要ないね! 彼の傍には燐音先輩がいるし、下手なことはできないはずだね。まあ、万が一あの子の裏切りによってうちに危険が及ぶようなことがあれば、その時は──」
 両手で銃の形をつくると、門の方角へ向けて発砲するような仕草をして見せる。
「ふたりまとめてBANG! だね」
「……怖いおひいさんっすねぇ……」
 勿論、そうならないに越したことはないのだけれど。
「……今はそれよりも、彼の門出を祝福してあげよう」
「うん。……うん、そうだね」
 邸内の日本庭園では、梅の蕾がほころぶ季節。春の足音がすぐそこまで迫っていた。

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