緋色の暴君 2nd(スパイパロ)



第二幕 He Is An Anomaly

第一場





 桜河こはく、職業はエージェント。
 暗殺を生業とする家に生を受けたばかりに、生まれた時から命を奪う術を叩き込まれてきた。そういうものだと思っているから、社会のいわゆる暗部の居心地は悪くない。巴家に雇われてからの生活は、相当悪くない。スナイパーとして重用してくれている雇い主のため、こはくは今日も愛銃の手入れに精をだす。はずだった。
「……ぬしはんら。邪魔じゃ、わしの部屋やぞ」
「そう言うなよォ、こはくちゃ~ん……」
「僕は燐音くんに付き合わされてるだけなんすけど⁉ 被害者っす!」
 昼からは仕事が入っていなかった。この機会に手持ちの銃器を隅から隅までクリーニングしようと考えていたところに、なんとも騒がしい連中の突撃を受けた。そのせいで休みに浮ついていた気分は急降下だ。こいつらをどうしてくれよう。

 四人構成のチームだった『Crazy:B』から、先月ひとりが離脱した。非常に優秀な男で、ブレーン兼司令塔として頼りにさせてもらってもいた。
 かたやプライベートではグルメな彼と一緒にスイーツをお取り寄せしたり、時には店まで食べに行ってみたりもして。そこそこ仲良くしていただけに、抜けると聞いた時はショックだった。格好よくて尊敬できる、大好きな兄はんだったのだ。
「ちゅうか、燐音はんかてオフやろ。こないなとこで油売っとらんと家帰ったれや、〝俺っち達の愛の巣♡〟言うてたやん」
 燐音から「メルメルに一緒に住もうって言われた♡」と報告を受けたのが先週のこと。ウッキウキのリーダーにより、ニキと共に引っ越しに駆り出されたのは記憶に新しい。
 二階建て3LDKの中古物件は、都市部のはずれにある閑静なエリアにひっそりと佇んでいた。はじめは随分と広い家を買ったものだと驚いたが、でかい男ふたりで暮らすならこのくらいで丁度良いのかもしれない。
 そんなわけでHiMERUと同棲(?)を始めたばかりであるはずの燐音が、オフにわざわざ自室を訪ねてくる理由が、こはくには見当もつかなかった。せっかくなら好きなひとと好きなだけ過ごせば良いだろうに。
「こはくちゃんこはくちゃん。それなんすよ、燐音くんがこうなってる原因」
「んん? なんのこっちゃ。わかるように話さんかい」
「ゔう~、ニキィ、俺っちの代わりに説明して……」
 ソファに座り込みしょんぼりと項垂れる燐音からは、いつもの覇気が感じられない。目線で促すと、うんざりしながらもニキが話しだした。
「なんか、ふたり暮らしじゃなかったらしくて」
「ふた……、え?」
「要するに、燐音くんの早とちり。ふたりじゃなくて三人暮らしだったんだって」
「……すまん、聞いてもわからへん……」
 まず三人って誰だ。
「俺っち、メルメルの他にヒメルンルンがいるンだよ」
「ひめ……? 何言うてんの? 浮かれて頭沸騰したんとちゃうん」
「ひでェ! こはくちゃんが苛めるゥ~!」
「なはは~まあわかんないっすよね……僕も半信半疑だったし」
 ハテナを飛ばすこはくに、燐音が「ん」と言ってスマホを差し出す。写真を見せたいらしい。受け取って見てみると、写っているのは良く知るHiMERUと、燐音。それから。
「……HiMERUはんがふたりおる」
 元同僚の彼とまったく同じ顔に、彼なら決して見せない類の天使みたいな笑顔を浮かべた青年がいた。
「ね、混乱するっすよね。HiMERUくんの家族らしいっすよ」
「家族っち……そっくりやん。双子?」
「さあなァ、そこまでは……。ま、これでわかったっしょ? 浮かれてたのは俺っちだけで、蓋を開けたら同棲っつーよりシェアハウスでしたと、そういうわけ。しかも三人で」
「は~……そらびっくりしたやろな」
 事前に説明がなかったなら、そりゃあ勘違いもするだろう。多少憐れに思って項垂れる男に憐みの目を向けた。「でもさァ」と相変わらず覇気のない声が続ける。
「家帰ったら毎日あいつがいて〝おかえりなさい〟って言ってくれンの。それって超~~~幸せじゃねェ?」
 口より先に手が出た。
「いっでェ‼」
「のろけやん。帰れあほんだら」
 後頭部に拳骨を喰らわせてやれば、「悪りィ悪りィ」と苦笑しながらようやく立ち上がる。ほんまにのろけたかっただけなんかい。
「同情するんやなかったわ。はよ行き」
「へいへい。じゃ~な♪」
 まったく、世話の焼ける兄はん達だ。虫でも追い払うようにして見送ると、台風一過さながらに部屋が静かになった。これでやっとひと息つける。
 ところで。どうしてニキは、相方が出て行ったあともこの部屋で寛いでいるのだろうか。
「もうお昼っすからね~。こはくちゃんも一緒にどうかなと思って、レシピ調べてたっす。|魯肉飯《ルーローハン》でいい?」
「……! おん、いただくわ」
 丸い瞳をきらきらと輝かせるこはくに、料理上手の兄はんは「任せて~!」と破顔した。





第二場





「へっくちゅん!」
「ヒメル⁉ か、風邪ですか?」
 HiMERU、もとい要は、大急ぎでキッチンから飛び出した。カーディガンにブランケットに湯たんぽ、救急箱を引っくり返して体温計と風邪薬を発掘し、看病の準備は万端。
 ばたばたと駆け寄る要を、ソファに座って雑誌をめくっていたヒメルはげんなりした様子で見返した。
「ええ~、くしゃみしただけじゃん。要は大袈裟だなあ」
「〝だけ〟じゃない。風邪は引き始めが肝心──」
「はいはいわかったわかった。そろそろ燐音が帰ってくるんじゃない? 鍋大丈夫?」
 顔を赤くして風邪の危険性について熱弁していた要は、今度はサッと顔を青くした。「あわわ」とか「やばい」とか言いながらどたばたとキッチンに戻っていく後ろ姿を見送り、ヒメルは苦く笑った。





 要がヒメルと再会を果たしてから一ヶ月ほど。何年ぶりかの邂逅は、ありふれた街角でなんのドラマ性もなく終わった。
 電話で指定された場所へ向かってみると、年月と人生を懸けてまで取り戻そうとした相手がひとり、待っていた。
「……。ヒメル」
 名を呼ぶ声に気付いて顔を上げた彼の、花が咲くような笑顔の愛らしいこと。嗚呼このためなら俺は命だってなげうってしまえると、心の底から思ったものだ。
「そんなに警戒しなくても、誰も見てないよ。要」
「ヒメル……」
「大丈夫だよ、大丈夫。俺はもう自由なんだ。帰ってこられたんだ、要のお陰で。……ありがとう、頑張ってくれて」
 彼が手を握ってくれる。隣を歩いている。
「──うん」
 一緒に、帰れるのだ。ふたりで。この時をずっとずっと、夢見ていた。

 ──かつてヒメルは役者志望の普通の青年だった。純粋な目で夢を語る彼を傍らで見守り続けてきた要にとって、彼をサポートし応援するのはごく自然なことだった。
 ふたりの運命に転機が訪れたのは、彼が義勇兵の青年と関わりを持つようになってからであった。

「巽に誘われたんだ。集会に来ないかって」

 そう嬉しそうに言う彼を、縛り付けてでも止めていたら。何度悔やんでも悔やみきれない。己が判断を誤ったせいでヒメルは大怪我を負い、夢を絶たれることとなったのだから。
 集会を襲ったのは、一部の大財閥が幅を利かせることを快く思っていない裏社会の連中だった。政府と癒着した財閥は彼らにとって商売の邪魔でしかない。同様に政府の駒である義勇軍も当然、彼らの敵だ。
 トカゲのタトゥーの女は要に告げた。

「この子はあたしが預かるわ。返してほしければ金を用意することね」

 怪我の治療費も生活費も、身の安全も保障すると。
 女は役者見習いとしてのヒメルを知っており、目を付けていたのだと言う。
 正体不明の宗教法人を後ろ盾としている胡散臭い組織だったが、奴らを頼るほかなかった。高額な医療費をすぐに用意することは不可能だったからだ。背に腹は代えられない。法外な金額を請求された要は、表の仕事で稼ぐことを早々に諦めた。

「報酬は弾もう。ぼくのために働くといいね」

 巴家との契約は利害が一致したために結んだ。それ以上も以下もない。何も期待していなかった、金以外には何も。
 私情を殺して任務に徹した。そのつもりだった。けれどいつしか情が湧いていた。ヒメルだけでじゅうぶんだと思っていた『家族』の枠組みに、土足で踏み込んできた奴らがいた。その不届き者どもの名を『Crazy:B』と言った。

「──HiMERU。俺はおまえを信用してる」

 暴走トラックに轢かれるみたいな出会い(否、この時は本当の意味で轢かれそうになっていたのだけど)。ヒメルとの別れがひとつめの転機ならば、あの男と知り合ったことは要にとってふたつめの大きな転機であった。
 天城燐音。
 要の人生に突如として現れたイレギュラー。網膜を灼き視界を埋め尽くすほどの強い炎は、その熱で分厚い氷の壁を溶かし、心の在りようまでも変えてしまった。
「──こんなはずではなかったのですよ……」
「なァに、また焦がしたンかよメルメル?」
「ぎょっ⁉」
 いつの間に帰って来ていたのか、燐音が肩越しに鍋の中身を覗き込んでいた。突然耳元で響いた声に、驚きのあまり一瞬息が止まる。
「天城ッ……、この馬鹿っ、無言で背後に立たないでくれます⁉」
「おーおー、ゴアイサツだなァ。そこは可愛く〝おかえりなさい♡〟っしょ」
「あ! 燐音おかえり~!」
「はァい、ヒメルンただいまァ♪」
 こちらに気付いたヒメルがリビングから無邪気に手を振る。燐音はへらりと笑って手を振り返し、そのままの表情で要にだけ聞こえるよう小声で零した。
「まだ辞めて一ヶ月っしょ? の割には随分|鈍《なま》ってンじゃねェの。俺っちの気配に勘付かねェなんてよ」
 ふざけるな、今のはわざと気配を消して近づいてきただろ。洒落くさい真似しやがって。
「俺に説教とはいい度胸ですね、表出ろ」
「やだ怖ァい、燐音くん荒っぽいことは嫌いなンですけど?」
「この……、ヒメルが見てなければ今すぐ二、三発ぶん殴ってますよ、クソ野郎」
「どういたしまして。愛してるぜダーリン♡」
 持っていた洋菓子屋の紙袋を冷蔵庫に収めた男は、要の頬にキスを贈ったあと、踵を返して二階の自室へと上がっていった。「飯作り直すンなら手伝うから呼べよ」と残して。
「わお、見せつけられちゃったなあ」
「……ヒメル、黙ってて」
「燐音は本当に要のことが好きだよね」
「ヒメル……」
「薄々思ってたけど俺、お邪魔かな?」
 これ以上は居た堪れない。
「……勘弁してください……」
「ええ? 俺には敬語じゃなくてもいいのに~。要ってほんと可愛いよね」
「はあ⁉ どういう意味ですかヒメル、おい……‼」
 ヒメルと燐音と三人で暮らすことを提案した時は〝正気か?〟という反応をされたものだが、今では正しい判断だったと要は考えている。
 彼を取り戻すためにどんなことをして来たのかを、今更本人に明かすつもりはない。当然だ。きっと彼は悲しむ。両手を血に染めてきた数年間を知れば、軽蔑だってするかもしれない。
 これからは陽のあたる場所で彼と並んで生きてゆく──そのために選んだ手段が、燐音を用心棒としてヒメルの傍に置くことだった。そうして己はフリーのプログラマーとして働き、出来る限り自宅で仕事をするようにした。敏腕を振るっているプログラミングの技術が、エージェント時代ハッキングを繰り返すことにより身に着いたものだとは、口が裂けても言えないけれど。
 要が営業等で外出する時には極力燐音にいてもらい、隙あらば抜け出そうとするヒメルのお目付け役兼遊び相手を担ってもらってもいる。あいつは元より面倒見の良い男だ。
「おめェはひとりで平気なのかよ」
 身代金は利子まで付けて完済した、今後一切ヒメルに関わらないとの誓約書も取り交わした。とは言えこれが有効なのは常識の通じる相手に対してのみだ。例のタトゥーの女のヒメルへの執着は本物であるが故に、彼とまったく同じ顔をした自分が狙われないとも限らない、との懸念はもっとも。しかし要には確信があった。
「あの女は、俺とヒメルを間違えるようなことはしません」
 それに自分の身は自分で守れる。そう宣言したからには、平和ボケしてしまわないよう爪を研ぐことを止めてはならない。燐音が要を試すようなことをするのもそのためだ。
 しかし、である。
「──鈍っている、でしょうか」
「鈍ってンねェ」
「……」
 ヒメルが眠りについた深夜、照明を絞ったダイニングでは度々密談が交わされていた。マッカランをなみなみと注いだグラスを傾けながら内緒話をする恋人は、どこか楽しそうに映った。
「どうよ、たまには俺っちとマジの喧嘩してみねェ?」
「……え?」
「そりゃ勿論セックスも良いけどよォ。本気で殺そうとして向かってくるおめェの目、情熱的で好きだったンだぜ? 最近とんとご無沙汰っしょ」
 悪趣味な。けれど相談を持ち掛けた手前遮るのは気が引けて、ぐっと堪える。
「解るか? 殺し合いをしようって時、おめェの目は俺っちだけを映す。澄ましたツラを激情に歪めて獣になる。堪ンねェのさ、そのよォく研がれた殺意の切っ先を向けられると……ゾクゾクしやがる」
「っ、変態、ですね」
 そう憎まれ口を返すのが精一杯だった。
 〝解るか〟だって? こちらの台詞だ。自分がどんな目をしているか、あんたの方こそ解っているのか。
「くく、ンな怯えンなって。取って喰いやしねェから」
 ちょ~っと運動しようって言ってるだけだぜ?
 品定めするかのような不躾な目線を向けてくる男を、要は負けじと見つめ返した。
「──嘘つき。俺に噛み付きたくて仕方がないって顔をしてますよ。獣はどちらです?」
「おっとバレたか。紳士的に誘うつもりが失敗しちまった」
「『紳士的』の言葉の意味から勉強しなおすことですね」
 不意に緩んだ空気に笑みを零す。瞬間、耽々と機を窺っていたのであろう男に手首を捕らえられ、ぐいと引き寄せられた。テーブルを挟んで顔と顔がぶつかりそうになる。
「っ、あま……」
「プラン変更だ。正攻法がお望みだろ?」
 にや。どこまでも下品に唇を歪めて嗤う。次いで耳に低く掠れた声が吹き込まれた。
「なァ……ヤろうぜ?」
 その響きに図らずも燐音との夜を思い出し、腹の奥の奥がちくりと疼く。かぶりを振って邪な想像を追い払った。
「……。わかりましたよ」
 平静を装い立ち上がった要は、すたすたとリビングを横切った。壁に取り付けてあるテレビの裏側へ手を差し込むと掌紋認証のパネルに触れ、隠しドアのロックを解除する。ソファをずらし絨毯をめくれば、床下収納に見立てた扉が現れた。ヒメルには勿論知らせていない、地下室へと続く秘密の入り口だ。燐音が面白がって口笛を吹く。
「きゃはは! なんつーもん隠してンだよおめェは? 悪りィ男だなァオイ」
「やましいものは何も無いのですよ」
 顎をしゃくってついてくるよう促すと、彼は素直にあとを追ってきた。にやつきながら後ろを歩かれるのは落ち着かないが、我慢して薄暗い階段をしばらく下る。やがて天井の高い広々とした部屋に辿り着いた。
「俺の『秘密』です」
 人差し指を唇の前に持っていき、片目をつむって見せる。ターコイズブルーの瞳を好奇心にきらめかせた燐音が興奮気味に叫んだ。
「おめェ……悪りィ男だなァ‼」
「なんでそうなる……」
「男の子は秘密基地が大好きなんだよ」
 トレーニングのために作ったこの部屋は、筋トレ器具が一式と射撃訓練用の的、それから自身でプログラミングを施した戦闘ロボットを備えている。スパーリングはもっぱらこいつを相手に行っていたから、生身の人間と対峙するのは久しぶりだ。以前のように、やれるだろうか。
「肩の力抜けよ~?」
 ストレッチをしたり跳んでみたりと忙しなく動き回りつつ、向かい合った男が五メートルほど先から声を掛けてくる。無意識に表情が強張っていたのかもしれない。
「怪我させねェ程度に上手くやるし」
「何を見当違いなことを。機械ばかり相手にしていたので──」
 まばたきの間、コンマ数秒。
「加減を誤って殺してしまわないか、それだけが心配なのですよ」
 空気を薙ぐように真横に払われた蹴りが、確かな衝撃を持って燐音を襲った。完璧に捉えたつもりでいたのに流石の反応速度だ。咄嗟に出した腕で軌道を逸らされている。
「ッてめェ……痛ェじゃねェか、よ!」
 脚を捕まえられるわけにはいかない。素早く床を蹴って距離を取った。
「不意打ちとは成長したなァ。俺っちに正面から挑んでも勝てねェってようやく認めたか、あァン?」
「俺達の世界で真っ向勝負など、あり得ないでしょう」
 要は壁に掛かっているサバイバルナイフを引っ掴み、相手に向き直った。
「この部屋にあるものならば何を使っていただいても構いません。手を抜いたら本当に殺しますので、そのつもりで」
 言い終わらないうちに跳んだ。空中で身体を捻って高く上げた脚を振り下ろす。全体重をのせた踵落としが直撃しなくとも、続けざまにナイフを振り抜けば奴の意表を突くことができる。要が足技を得意とすることを知っているからこそ動きが予測しづらいはずだ。
「いって、掠った! マジで切れたっしょ!」
「マジで切り掛かってます、から!」
 左の細かいジャブに逆手に握った刃の斬撃を織り交ぜ、不規則なリズムで攪乱する。刃物で切り付ければ歴戦の猛者であれ僅かな隙が生まれる。その一瞬を見逃さずミドルキックで体勢を崩し、頭を抑え込んで一発膝蹴りを喰らわせれば決まる。あの『緋色の暴君』天城燐音と相対してもだ。
 攻勢を緩めずテンポ良く繰り出すワンツーに対しガードに徹さざるを得ない燐音は、「おめェこんな速かった?」と意外そうに言う。拳が耳の横を掠めた瞬間の余裕なさげな表情を見ると、こちらの溜飲も下がるというもの。
「身近にいた人物のうち、最も体術に長けていたのがあんただったので……よぉく見て覚えて、AIロボットに記憶させたのです。日々彼と訓練をしてきた俺は、以前よりもあんたの動きについていける、どころか……凌駕してしまったかもしれませんね」
「……ナマ言ってンじゃねェぞ、甘ちゃんが」
 口の中が切れたのか、悪態のついでにペッと赤い唾を吐き出した。
「〝殺します〟は脅しじゃねェってこったな……オーケー、手は抜かねェ」
 あちこちから血を滲ませた左腕をぷらぷらと振った燐音は、ふと足元に転がるフロアワイパーに目を留めた。柄をつま先に引っ掛けて蹴り上げると、アルミニウム製の軽いそれはあっさりと右手に収まった。
「そんなもので俺と渡り合うつもりですか」
「おうよ。手は抜かねェが、そのぶんハンデをやらねェとだろ?」
「……何?」
 眉をひそめて対面の男の顔を見やる。そいつはなんとも鼻につく、陰険な目をしていた。
「てめェを這いつくばらせる程度、〝そんなもの〟でじゅうぶんだって言ってンだよ。わかんねェ?」
 ぶち。要の中で血管的なものが切れた音がした。
 わかりやすい煽りだ。ここで冷静さを欠いては勝率が一気に下がる。相手の動揺を誘い隙を突こうなどと、あいつが考えそうなことだ。むろん要にはわかっている。しかしそれはそれ。
 如何な紳士であれ、ムカつくものはムカつくのだ。
「──殺す‼」
 黄水晶の瞳に爛々と光が灯る。力一杯突き刺した眼光を、燐音は悦びの声を上げて受け止めた。
「ヒャハハ‼ い~い顔だ! もっと見せろ、俺に、もっと‼」
 彼がぶうんと振り回した柄の空を裂く鋭い音が要を威嚇する。そう言えばこいつは棒術も達人クラスに極めていたのだったか。こと戦闘においては万能が過ぎて腹が立つ。
 やわな得物は一度の打撃でへし折ることだって容易いはずなのに、そのたった一度が一向に巡ってこない。なんと言う隙のなさだ。
「オラオラオラァ! 殺してみせろやァ‼」
 細い棒で刃を受け流したかと思えば猛烈な突きを浴びせてくる。よりによって足元を狙ってくるからいやらしい。正々堂々が美徳の武道ではない、喧嘩のセオリーを熟知している人間の戦い方だ。他人のことを言えた義理ではないが、性格が悪すぎる。
 脛を打たれた痛みに思わず顔を顰める。分が悪い。間合いを取ろうとすると即座にこちらの意図を察知し、大股で懐にまで踏み込んだら長い柄と腕で囲って退路を阻まれた。
「形成逆転、だなァ」
「ぐ、くそっ……!」
 棒を投げ捨てた奴が音もなく背後に回る。反応するよりも先に腕が首に絡んだ。チョークスリーパーを極める気かこの野郎。程なくして酸欠でがくんと膝が折れ、諸共背中から床に倒れ込む。
「選んでいいぜ? このままオネンネするか、ギブアップか」
 言いながらゆるやかに締め上げていく。本当に性格が悪い。要は口端を吊り上げてひっそりと笑った。
 だが──残念だったな、性悪はお互い様だ。
「ぅ……あん♡ りん、ね……♡」
「ッ、は⁉」
 驚いた声が裏返っていてつい吹き出しそうになる、が、耐えた。姑息な色仕掛けを使ってまで生んだチャンスを逃す手はない。締める力が緩んだ一瞬を見計らい、渾身の頭突きを喰らわす。流石に予想していなかったのだろう、燐音の動きが完全に止まった。その隙に両脚を引き寄せ、全身のバネを使って跳ね起きる。
「こんな古典的な罠に嵌まるとは……。形勢逆転、ですね?」
「こん畜生……」
 靴の先で脇腹を蹴ると大人しく転がってうつ伏せになる。その背にどかりと座り、拾い上げたナイフを頸動脈にぴったりと沿わせれば、クッションにした男が全身の力を抜いたのがわかった。
「降参」
「よろしい」
 要もナイフを遠くへ放り投げ、空っぽの両手を挙げて見せる。
「ふふ。やっとあなたに勝てました」
「卑怯な野郎だぜ、ったくよォ……」
「そっちこそ反則技を使ったでしょう」
「喧嘩に反則もクソもねェっしょ」
 もう一度床を転がり仰向けに倒れた燐音は、愉快なような呆れたような複雑な表情を浮かべていた。
 色仕掛け作戦はギリギリで思いついた賭けだった。けれどなんだかんだ(自分で言うのもなんだが)己に首ったけなこの男なら、うっかり狼狽えてくれるのではないかと考えた。よもやこれほど上手くいくとは思わなかったが。
「惚れた弱みってやつだよ、言わせンな馬鹿」
 言い訳みたいに吐き捨て手を伸ばす。性急に絡んだ舌は血の味がした。軽く髪を引いた指先は後頭部に回り、上からやすやすと押さえつけられてしまう。
「ン……、っぷあ、天城……」
 咄嗟につむっていた目を開けたらばちんとぶつかり合った視線。獰猛にぎらつく碧色。急激に背筋が冷えていく。「待って」と口をついた。こうなった燐音に何を言っても無意味だと解っているのに。
「待たねェよ。さっきので勃った」
「最低ですね」
「なんとでも言え。あんな熱烈に見つめられちゃ誰だって興奮すンだろ」
 熱っぽく囁く恋人は完全にスイッチが入ってしまっている。要は諦めて脱力した。本音を言えばすぐにでも汗を流したいのだが、身体をまさぐる掌からは逃れようもない。
「そんなおかしな性癖持ちはあなただけでじゅうぶんですよ……燐音」
 深くなる口づけに応えながら、頭の中ではヒメルへの言い訳を必死に捏ねくり回すのだった。

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