徒然あずちょも
目覚めると、目の前に小豆の寝顔があった。
寝顔は穏やかだった。瞼は閉じられ、まつ毛が薄い影を落としている。寝息はほとんど聞こえない。あんまり作り物のようだったので出来心で鼻先をつついてみた。軟骨がふにりとへこんで、また元に戻る。ちょっと面白い。何度か繰り返しても起きる気配はない。調子に乗って眉毛をさりさりと撫で、それから眉間から鼻先まで鼻筋をなぞった。密集した毛が指先をつつく感触に、脂っ気のない肌の上をスムーズに滑る感触。やっぱり面白い。
子供が初めて砂場遊びを覚えたときのように、山鳥毛は触ることを楽しんでいた。なんだか新鮮だったのだ。今だって全裸であるし、昨晩は互いにしか許さない場所を共有したが、まつ毛を爪弾くときの手触りなんて知るはずもない。熱に浮かされていたのだから、そんな繊細な感触を意識する余裕なんてなかった。
小豆と恋仲になったら、肌を重ねたいと思い詰めていた。そうすれば彼のことを自分のものにできる気がしていた。昨日の山鳥毛なんて、内心とてつもなく緊張していたのだ。上手く完遂できるか、小豆が途中で幻滅しやしないか、心配の種は尽きなかった。だが終わってしまえば、あっけないものだった。別に一線を超えることは、ふたりにとっての全てでも、至上の目的でもなかった。良かったし、またしたいし、代わりの存在しない行為だが、互いのほんの一部を重ね合わせるだけのことだった。そんなの普段からやっている。それともこれは念願叶ったゆえに生まれた心の余裕なのだろうか。指の腹でなぞり続けていた唇から手を離し、頬を掌で包み込んだ。計ったわけではないが、この体勢は接吻の流れだ。キスは好きだった。昨日思いつく全ての種類の接吻をしたというのに、またしたくなってきた。
顔を近づけると、小豆が唸った。ぎゅっと目を瞑り、それからゆっくりと瞼が開く。何度か瞬きをしてから目の前に山鳥毛の顔があることに気がついた。眠気の滲んだ声で「おはよう」と言う。
「おはよう」
気が変わったので、頬をつまんで引っ張った。予想していたより全然伸びない。
「へ? なに?」
「固いな」
ひょいと手を離す。
「え、なに? どういうこと?」
「まだしたことはなかったと思ってね」
「うん?」
小豆の頬は固い。このさき永遠に役に立つことのない知識が手に入った。気が済んだので体を起こすと、腕を掴まれた。
「なんだったのだ」
ちょっと考える。
「恋仲との触れあいだな」
「それならきすのほうがいいのだぞ」
追い縋るように小豆も起き上がった。首に手を回され、鼻先同士が触れそうなほど顔を近づける。今にも唇が重なりそうだ。普段通りの穏やかな微笑は、山鳥毛を揶揄っているように見えなくもない。付き合い自体は長いので、接吻をねだっているだけというのは分かるのだが。
「ね? いい?」
触れる吐息がくすぐったい。焦ったくなって、僅かな隙間は山鳥毛が埋めた。ぎゅっと唇を押し付ける。マナーを守りちゃんと目を閉じたため、小豆の表情は見えなかった。だが、小豆は情熱的に唇を重ね合わせ、囲い込むように抱きしめてきた。表情よりよほど雄弁だった。
初めて体を重ねた、その翌朝のことである。
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