月の精は揚羽蝶に夢を見るか



  
【後日談】

 そよそよと、涼しくなった爽やかな風が庭から吹き込んでくる。簾越しに夕陽が微かに注ぎ、少しずつ薄暗くなっていく一室で、只管己の煩悩と戦い続ける男がいた。

「…………まだ早かったか」

 深い溜息と共に独り言ちた男のことなど露知らず、その膝を枕にして寝こけているのは老いたとは名ばかりのうつくしい月だ。湯あたりの汗はすっかり引いたのだろうか。生乾きだった片側だけ長い前髪に指を差し込んでやれば、指の間をすり抜けてさらさらと落ちていくいく。

 膝に頭を乗せてやり、団扇で扇ぎ始めてもうどれくらい経っただろう。硬くて分厚い男の膝を枕にするには辛いだろうに、風呂で逆上せて苦しそうにしていた翁月はいつの間にやらすやすやと寝こけていた。人の気も知らないで、暢気な爺である。

 季節が一つ過ぎ去ってしまう前に、お互い何とか顔を見ながらでも会話を続けられるようになったのは良かった。が、共に風呂に入るのはまだ早かったようだ。脱衣所で浴衣の帯を解くのにやたらもたついたり洗い場で何度も滑って転びそうになったりと、この爺風呂に浸かる前から既に行動が怪しかったのだが、湯船に浸かって数分も立たぬ内に湯あたりし伸びてしまった。男の顔と向き合うだけでも一年以上かかっているのだ。鍛え抜かれた筋肉美は、この月にとって些か刺激が強すぎたらしい。

 冷水で濡らした手拭を時々頬や首筋に当てて熱を逃がしてやっていたのだが、冷たさと庭から吹いてくる風の涼しさが心地良いようだ。先程まで水に浸けていたまだ冷たい手をそっと頬に添えてやると、月は身じろぎながら自ら頬を摺り寄せてきた。

「ん、ッ……」
「……お前なぁ」

 正直言うと、男にとってはこれがよくない。
 ほんの先程まで甲斐甲斐しく世話をしてやっていた時は、特に意識していなかった筈なのだ。ふうふうと熱い息を吐き続けて、逆上せて真っ赤になった顔は相変わらずで、「しょうがない奴め」と団扇で扇いでやっていたまでは良かった。けれどこの安心しきった穏やかな寝顔をじっと見ていたら、何やら今度は腹の奥底が落ち着かなくなってきた。先程湯殿で見た、月の白い躰を思い出してしまう。湯船から抱え上げて、身体も拭いてやって、浴衣も着せてやって。こうして月の頬を撫でていると、あの時触れた腕やら太腿やら腰やらの程よく引き締まったその肉体の、滑らかな肌触りまで思い出してしまう。

 正直に吐こう。刺激が強いと感じたのは、此方の方だった。逃げられていた以前に比べ、暇があれば側に居てくれるようになるまで気を許してくれたことは嬉しい。それは嬉しいのだが、此処まで無防備だと気が狂ってしまいそうだ。ふとした瞬間、堪え切れなくなって、ひどいことをしてしまいそうで。築き上げた信頼や親愛を、いつかめちゃくちゃにしてしまいそうで、おそろしくなる。

 けれど、それでも。

「おい、そろそろ起きろ。また飯を食いはぐれるぞ」

 耐えてみせよう。いつの日か月が、望んで求めてくれるようになるまでは。
 一年ずっと同じ屋根の下、すぐ近くに居ながら、話はおろかロクに顔も合わせることが出来なかった。あの途方もない苦痛の日々に比べれば、これもまた可愛いものなのだから。

 



powered by 小説執筆ツール「notes」