月の精は揚羽蝶に夢を見るか
己の思考に訳が分からなくなったまま手合わせを続けても、当然身は入る筈もない。ノルマの打ち合いこそ終わったものの、心此処に在らずな状態だったのか鶴丸にはやけに心配されてしまった。仕舞には「君、大丈夫かい? 余計に悩ませてしまったなら悪かった!」と謝られてしまった程だ。あの飄々とした太刀でも、他刃の心配をすることがあるらしい。
素直に意外だ、驚いたと伝えれば、鶴丸は「そりゃあ君は、俺の大事な友の弟分だからな! 俺の弟分も同然だ!」なんてほざきながらからからと笑っていた。誰が弟分だ。……|兄弟《あいつ》め、刀工が古備前の祖だからと言って普段から年上ぶったような態度で接してくるが、己の居ない所でもそのように振舞っているらしい。どうやら大包平自身とは付喪神の自我を得た時期が異なるのか、平安刀には妙に落ち着き払っている澄ました連中が多いように思う。かく言う件の三日月も大包平の感覚ではその『澄ました』一振に分類されるのだが、刀の生まれそのものは近い筈だというのにこうも違いが出てしまうのか。だから名刀として見出されたのが他よりも遅かったという事実に、腹が立つのだ。……否、決してその落ち着きが羨ましいという訳ではなく。
鶴丸の言葉が頭から離れないまま、今日という一日を無駄に終えようとしている。どうにも苛々するのはきっと、腹が減っているからに違いない。今得ている仮の肉体は主の霊力を元に作られてはいるが、維持していくには霊力のみでは足らない。肉を構成する食物から得るべき栄養が必要不可欠なのだ。それが身体に行き渡っていないと不調を来す。自らの鋼を振るう力も湧かなくなる。そこだけは、人間と概ね変わらないらしい。それは最初こそ面倒なものだと思ったが、一年も続けていれば不思議と慣れてしまった。単純に、調理された食物とは美味いのだ。特に、身体を動かして腹が減った時はその感情が強くなる。不便ではあるが、同時にこの『美味い』という感情を抱くことができる人間は実に幸福なものだと思った。逆に腹が減ると、気分が落ち込んだり怒りに支配されやすくなる。戦の絶えぬ時代に、人々が苦心して兵糧を確保していた理由も、今なら痛いほど分かる。世に存在する全ての生き物の腹が満たされるのなら、きっと争いというものも起こらなくなるのだろう。
そんなわけで、肉体は腹が減ると思考が極端に悪くなる。兎に角腹を満たしてこの妙な気を静めなければと、大包平は食堂へ向かう。だだっ広い本丸御殿は当然城の何処へ向かうにしても廊下は長ったらしく、急いでいる時程苛々する。それでも目的地に近づくほど夕餉の匂いが漂ってきて、食堂の暖簾が間近に見えてきた頃には大包平の腹からはからぐぅ、という間抜けな音が鳴った。やはり身体は切実に食物を求めていたようだ。
自分の意思とはまるで関係なく鳴ってしまった音は存外に大きく響いたのか、食堂の前に居た刀が不意に此方を振り返った。
「……おや、どなたかと思えば。大包平殿ではありませんか」
これだから、厭なのだ。空いた腹から鳴く虫は己の体調の指標の一つと思えばいいのだが、この間抜けな音はどうにもいただけない。……恰好が付かないではないか。
大包平の視線の先にある食堂の暖簾をくぐろうとしていたのは、つい半月程前漸く顕現したばかりの本丸三振り目の天下五剣、数珠丸恒次だった。
「これは、数珠丸殿。…………お恥ずかしい。今しがた鍛錬を終えまして」
頭の天辺の漆黒から毛先に掛け白銀へと徐々に移り変わっていくうつくしい色彩の髪は、床に付いて引き摺ってしまいそうなほど長い。……筈なのだが、何故かその豊かな毛束はいつもふわふわと宙に浮かんでいる。仏道を重んじる太刀由来の清澄な霊気によるものなのか、いつ見てもその光景は不思議なものだ。
天下五剣の中でも大包平が苛立ちを感じない刀、それがこの数珠丸恒次だった。自分でもその理由は何となくわかる。この刀は、とても礼儀正しい。逸話に乏しい自身を卑下することがない。天下五剣の一振に選ばれたことを驕ることもなく、ましてへりくだる訳でもない。嘗ての主に倣い仏道を志し、その果てで人を斬る道具である矛盾に思い悩みながらも、彼は『己が刀である』という事実から決して目を逸らさない。武器であるという誇りを、棄てていないのだ。そこが、卑屈になったり謙遜ばかりしたりする他の連中とは違うと思った。連中とは無論、件の|大典太《あいつ》と|三日月《あいつ》の事である。だからなのか大包平は初めて手合わせをして以来、この男を前にすると自然にすっと背筋が伸びてしまう。自分の方が先に顕現した所謂先輩の立場であるにも関わらずだ。彼のような刀でありたいという、憧れのようなものもあるのかもしれない。
「手合わせお疲れ様でした。空腹を感じられるのは体調が良好な証拠ですよ。……良ければ、ご一緒しませんか」
「ええ、喜んで」
厨と繋がっている食堂は腹を空かせた男士達の為に常に開けている。遮る必要が無い為、出入り口に障子はない。付喪神達やその日の料理当番の男士達が膳を用意する時間こそ大まかに決まってはいるが、出陣や遠征に出る時間が皆異なっている為基本的には自由に出入りできる。配膳時間外の夜食など、間食をしたい場合は自分で用意する決まりとなっている。昼間の戦闘や遠征から帰還した者達が一斉に飯にありつこうとする時間だからか、席は混んでいた。辛うじて空いていた厨から少し離れた席に【食事中】の札を立てて場所を取り、数珠丸と共に食膳が用意されたカウンターへと向かう。
「太刀魚の刺身と塩焼きか。美味そうだ」
「ええ。先程戻った遠征部隊がたくさん釣ってきたようですね」
廊下にまで漂っていた食欲をそそる匂いの正体は、これだったらしい。長芋とオクラを和えた小鉢や冷奴、定番の鶏のから揚げやエビフライ等と共に、今が混雑のピークとばかりに所狭しとカウンターに並べられている。
「大包平さん、お疲れ様ー!太刀魚は今日のおすすめだよー!」
厨房から燭台切がひょっこり顔を覗かせて、手を振っている。今日の膳は燭台切が付喪神達と共に用意したものだったようだ。当番でない時でも進んで厨房に立つような連中は、歌仙や燭台切といった装いや立ち振る舞いにも常に気を遣う洒落た刀が多い。膳も同様らしい。食欲を掻き立てるように、尚且つ見た目にも美しく。食材を引き立てる為、盛る皿選びからこだわった膳は毎度のように凝った盛り付けになる。これはもう彼奴等の趣味の領域なのだろう。何事においても美を追求すること自体は、大包平自身も決して嫌いではない。
品良く盛られた刺身は皮が銀色に輝いており、身は透き通っていながら見ただけでも脂がよく乗っているのが分かるほど艶々としている。美味いが傷みやすく日持ちしにくい太刀魚を刺身で頂けるのは、何より新鮮な証拠だ。塩焼きの方は皮がこんがりとした丁度いいきつね色に焼けていて、ほのかな潮の匂いと混ざり合った香ばしい香りが漂ってくる。シンプルな味だろうが、添えられたすだちが良いアクセントになりそうで楽しみだ。好みもある為多少メニューは選べるようになっているが、やはりここは旬のものを選ぶべきだろう。燭台切に軽く手を振り返し、大包平は盆に刺身と塩焼きを取った。
太刀魚の旬は一般的には夏から秋とされているが、実は通年で一定の漁獲が見込めるありがたい食材でもある。というのも、太刀魚は白身魚でありながら他の魚に比べ脂が多く栄養価の高い魚なのだ。その為一年通して味はそこまで変動することもなく、美味い。只単に、夏から秋がよく獲れるというだけの話だ。とはいえ万屋等の城下で人数分を買い付けるとなると、それなりの金額にはなってしまう。しかし、遠征等で釣ればタダだ。旬のものは、本丸の財政にも優しい。
カウンターの傍らではしゃもじの付喪神が大きな土鍋の付喪神の手を借りながら頭を突っ込んでせっせと炊き立ての白飯を茶碗に盛っている。その隣で、鍋の付喪神が取っ手から細い手を伸ばしては味噌汁をよそっていた。本丸の刀全員の食事量を概ね把握している付喪神達はちらりと大包平の姿を見ると、勝手に大きめの椀に持ち替えてくれる。有難いことではあるが、量を調節したい時は事前に申し出る必要があるのだ。
「今日はいつもより少し量を増やしてくれ」
さくさくと米をほぐしていたしゃもじと土鍋は大包平の声に反応し、合点、と親指を立てるとたっぷり茶碗に盛っていく。並々と注がれた味噌汁も受け取ってから隣を見て、ぎょっとした。数珠丸が、大包平のそれよりも大きい茶碗に相当量の白飯をよそわれている。顕現して間もない彼と食事を共にするのは初めてだが、どうやら見掛けに寄らず数珠丸は健啖家らしい。あの細い見目のどこにそんな量が入るのか謎ではあるが、見掛けで判断してはならない良い例だ。
「お待たせしました、戻りましょうか」
数珠丸が厨のカウンターから食膳を取り終える。初めは二種だった主菜がいつの間にか四種に増えているのはこの際見なかったことにして、大包平は席に戻ろうと後ろを振り返った。
その時だった。
席に向かう筈の己の視線は、吸い寄せられるように別の方向へと流れていく。
その先にあったのは、立ち尽くす蒼の衣。
ただひとり大包平を見て、時間の流れが無くなったかのようにぴたりと動きを止めた男の姿が、そこには在った。
「―……ッ」
こんなにも綺麗に視線が交わったのは、いつぶりだろう。
此方を確と見とめたのは、月を閉じ込めた水晶の様に透き通る宝玉の瞳。そのうつくしい眼から感じたのは、微かな寂寥だった。普段感じていた、ただ『見ているだけ』の視線とはまるで違う。男の何がそうさせたのかは分からない。けれどその目には、寂しい、という明らかな意思があった。真っ直ぐに大包平のみへと向けられた切なるそれは、例え僅かでも此方の時さえ止めてしまう程の感情が籠ったものだったのだ。
「…………三日月?」
殆ど無意識だったのだろう。大包平の呟きで、男ははっと我に返ったようだった。その途端、あからさまに視線は外される。大包平から顔を背け咄嗟に袖で覆っていたが、もう遅い。
見てしまった。
その頬が、数日前接触したあの時の様に真っ赤に染まった所を。
あれはもはや、逆上せた訳ではあるまい。
散々避けて突き放してきた癖に、何故そんな目でこちらを見る。寂しいと思うならば、来ればいい。博物館に居た頃は、手前の方から勝手に寄ってきては話しかけてきただろう。遠慮など柄ではない癖に、昔は簡単に出来た筈の会話を何故今しようとしないのか。何故それが、此処に来て急に出来なくなった。
……要は。
(そうだ、俺は、……それがどうしても知りたかったのではないのか)
自分自身もまた、『寂しい』と思っていたからだ。三日月と話がしたかったのは、同じ刀として初めて轡を並べ共に戦う名誉を分かち合いたかったからだ。おしゃべり好きで聞きたがりだったあの刀に、肉体で得た初めての経験をたくさん話してやりたかったからだ。
「……数珠丸殿。折角のお誘いでしたが、申し訳ない。食事はまたの機会に」
「ええ、構いませんとも。……むしろ私の方こそ、邪魔をしてしまったかもしれませんね」
「とんでもない、この埋め合わせは後日必ず。……失礼」
あれほど感じていた筈の空腹など、何処かにすっ飛んでしまっていた。追われる気配を感じたのか慌てて食堂を出た三日月を、追いかける。うっかり注目を集めてしまったのだろう、此方へ注がれた何振りかの視線は、やはりいつものように生温かかった。「やっと目ぇ覚めたのか、朴念仁」と、野次を飛ばしてきたのはどいつだ。後で殴り飛ばしてやる。気付いていたなら何故もっと早く、教えてくれなかったのか。
……否、この言い方は良くない。
周囲としては散々教えたつもりが、自分が気付いていなかっただけなのか。
だから周りの刀の視線がぬるいままなのだ。どいつもこいつも、馬鹿にして。
三日月と入れ替わりになるように入ってきたにっかり青江が、三日月を振り返って訝し気な顔をしている。丁度いい。この膳を持ったまま食堂を出る訳にも、断った手前数珠丸に一人で食事をしてもらうにも心苦しかった所だ。量は……まぁ、にっかりが普段どれほどの量を食べているか改めて注視したことはないが、同刀派の数珠丸があれだけ食べられるなら問題ないだろう。食べきれなければ、彼に食べてもらえばいい。
「すまん。献立を選べなくて悪いが、俺の代わりに数珠丸殿と食べてくれ」
「……ええ? まぁ、良いけど。大包平さん、いってらっしゃい」
持っていた膳を唐突に渡し、食堂を後にする。にっかりはほんの一瞬目を丸くしたが、すぐに状況を理解してくれたらしい。大包平の咄嗟の行動にもすぐに反応して盆を受け取り、名の通りの妖しい笑みを浮かべて送り出してくれた。
……太刀二振りが嵐の様に食堂を去っていった後で、代打とばかりに宛がわれたにっかりが数珠丸の隣の席に着く。
「おやおや、数珠丸。振られてしまったのかい」
「ふふふ。ええ、残念ながら。一人寂しく食事をする私を、慰めてくださいますか」
「その割に君、量的に全然寂しそうには見えないなぁ。……それにしても彼、今日はよく食べるんだねぇ。ご飯が山盛りだよ」
「お腹が空いておられたようですよ。……そう言いますけれど、貴方なら食べられる量でしょう」
「ふふふ、まぁ僕としては、鶏の唐揚げも追加して欲しかった所なんだけど。これはこれで身体に良さそうで好きだし、美味しいからいいよ。……あとでおかわりはするけどね」
細く美しい二振りの指が、優雅に箸を取った。しかしその箸はすぐに、不釣り合いな程の食物量をあれよあれよとその薄い唇に運んでいく。先程まで大包平と三日月に生温かい視線を送っていた刀達の視線が、狼狽に染まっていった。その平べったい腹の一体どこに入っているのやら、それでも刀達の目の前で起こっていることは事実だ。
そんな様をすぐ側の席で目の当たりにしていたとある短刀はぽつり一言。
「同刀派は、間違いなく似る」と青ざめた顔で言っていたそうだ。
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