月の精は揚羽蝶に夢を見るか



【一世一代の追いかけっこ】

「このッ……止まれ三日月宗近!」
「い、厭だぁぁッ……!」

 本丸御殿の廊下を走るなど、普通なら絶対にやってはならないことを己はしでかしている。その自覚は、勿論あるとも。しかしそんなことを言っている場合ではなかった。追いかけるなら今でなくてはならないと、頭の中いっぱいに自分の声が木霊しているのだ。大体彼方とて普段の性格と所作にはまるで似合わず廊下を力いっぱい突っ走っている。見つかって誰かしらにどやされる時は一緒だ。あの如何にも動きにくそうな差袴を両手でたくし上げてまで走っているのだから、間違いなく全力だろう。その内足袋も脱ぎ始めそうな勢いだ。戦場でだってきっと誰も、あんなにも必死で走る三日月宗近を見た者はいないのではないか。夕餉で大多数の刀が食堂に集まっていた為か、幸いにもすれ違う刀は少なくまだ誰ともぶつかってはいない。……今まですれ違ってきた者は、皆一様に目が点になっていたような気はするが。

 今までは、こんな本気の追いかけっこなどしたことはなかった。彼方が大包平に遭遇しないよう極力避けてきたのもあるが、何より大包平が心の何処かでは遠慮もしていたのだ。理由が知りたいと思いつつも、頭の片隅では三日月の嫌がることをしたくはないと行動を自ら押しとどめていた。けれど、食堂で見たあの目は違う。嫌う相手に、あんな寂し気な視線など寄越さないだろう。いくら待てども彼方が頑なに話さない以上、知りたければ此方から追いかけるしかない。眼で訴えるほどの感情をこの大包平に抱いているのであれば、躊躇なく吐き出させなければならない。でなければ、昔見せたあの馴れ馴れしさは一体なんだったのだ。

 先日のように気絶されても困る。どこか、追い詰められて適切な距離を保てるような場所は無いか。否、城内の構造を知っているのは彼方も同じだ。そんな袋小路に逃げ込んでくれるとも、思ってはいない。ならば、どうする。

「何故俺から逃げる! 理由を言え!」
「き、貴殿が、追いかけてくるから、だろう……!!」
「それは理由にならんだろうが! 俺とて貴様が逃げるから追っているんだぞ! いい加減止まれ!」

 やはり言葉を掛けて止まってくれるほど、甘くはなかった。生憎とステータス上の体力を表す生存値には差がない為、このまま疲労する時を待って追いかけていればいずれ此方も動けなくなってしまう。しかし。……機動の値なら、話は別だ。

 彼方は恐らく既に全力疾走。対して大包平はまだ、ほんの少しの余力を残している。それが僅かであろうとも、差は差だ。ただの付喪神から刀剣男士として各本丸で肉体を得て戦うにあたり、政府と大元の本尊の間で定められた限界値の差を分霊自らで超えることはあり得ない。各本丸へと分けた分霊の出力には限りがあり、それを超えることがあれば本尊に負担を掛けてしまうからだ。廊下の敷板を力いっぱい蹴った音を皮切りに、大包平は加速した。追ってくる速度が速まったことを察したのか、三日月は進路を逸らして撒こうとしている。それを待っていたのだ。

「ふはははははは、どうだ! いい加減諦めて俺に捕まれ!」
「ぜ、絶対に厭だ……! 俺は逃げ切るぞ……!」

 我ながら悪役の様な|台詞《いいまわし》である。しかし体裁になど今更構ってはいられない。此処であれを逃がせば、今後の対話の機会は喪われるも同然だ。うっかり行き止まりに逃げ込むのを防ぐ為に進むはずだった方向から逸れれば、別の進路を考えなければならない。しかし、本丸御殿の敷地面積は広大だ。なんせこの本丸、刀剣の総収容可能数が百を超える程、部屋の増築がなされている。城内はほぼ迷路と言っていい。己の機動限界値を今にも上回りそうな速度で追いかけられて、無視をすればいいだろうに律儀に受け答えもして、それでいて焦りながら次に逃げる先が安全かどうかを思案する余裕が、果たしてあるか。案の定判断にほんの一瞬迷いが生じたのか、刀剣の部屋が並ぶ宿舎を抜け東西に分かれていく渡り廊下に差し掛かった所で、三日月が完全に足を止めた。東に向かえば先程大包平が居た修練場、つまり行き止まりだ。西に向かえば湯殿や簡易遊技場、一部宿舎と繋がっている廊下がある為まだ逃げる余地はある。三日月が選択した道はやはり、西だった。間一髪袋小路を逃れたか。しかし一度でも足を止めてしまった獲物に、追いつけない筈がない。

「う、わ、ッ……」
「捕った!」

 三日月が今、内番の時のあの芋くさい作務衣を纏っていなくて良かった。走る度に棚引いていた蒼い袖を、強く掴む。長い衣は掴める所が多くて助かる。先日よりもずっと強い力で引っ張られた三日月の身体は当然後方へ傾き、大包平は反射的に倒れそうになったその身体を抱き留めた。

「この、ッ、手間、掛けさせやがって、観念しろッ……!」
「……ッ、は、ッ……ッ!?」

 状況を理解した途端、三日月は荒れる息を無理矢理飲み込んだ。抱き締めた腕の中の身体が一瞬で強張ったのが分かる。何やらちくりと胸の何処かが痛んだ気がするが、恐らく走って呼吸が乱れている所為だろう。そんなものを一々気にしてなどいられない。また逃げ出されたり気絶されても堪らないのだ。仕方なく大包平は三日月の右腕だけを掴み、強く抱き締めていたその身体はそっと解放した。

「っ、は、はなして、くれ……!」
「今離しただろうが」
「ち、ちがう、その、……腕も、だ」
「『もう俺から逃げない』と誓えるなら、腕も離してやらんこともない」
「ぅぅ……」

 ぐいぐいと大包平の腕を引っ張って無駄に抵抗してはいるが、腕力とて此方の方が上である。往生際の悪い奴め、まだ逃げる気でいるらしい。寂しそうな顔をする癖に、いざ話し掛けようとすると避けて逃げる。意味が分からない。此方は只その理由が、知りたいだけなのだが。

「理由を話してくれ。お前は今の俺の、何が、そんなに気に入らないんだ」
「……! ち、違うのだ、決して気に入らない、訳……で、は……ッ」

 何とか落ち着かせようと努めてゆっくり発した大包平の問いに、三日月ははっとして顔を上げる。しかしなぜか、後に続く筈だった言葉は途切れ、三日月は視線を外して俯いてしまった。此方の言葉に対し、咄嗟に反論しようとしたのは分かる。しかし何故、途中で言葉を切ってしまうのか。

「お前、博物館では毎日のように俺に話しかけてきただろうが。何故此処に来て、急に話し掛けなくなった。言いたいことはあるんだろう。なのに何故、最後まで話してくれない」
「う……それは、その」
「今の俺に直すべき所があるなら、はっきりそう言え。善処する。理由もわからずいつまでも避けられていては、俺とて気分も悪くなるだろうが」
「…………それは、すまないが、多分無理、だ」
「無理とは何だ、無理とは!」
「俺の態度で貴殿を不快にさせたことについては、謝罪しよう。すまなかった。……しかし……その、俺の事は、どうか気にしないで欲しい」
「お前のそのいつまでも煮え切らない態度が気になってしょうがないから、こうして追いかけてまで問い詰めているんだろうが!」
「うッ……だ、だが、俺の事など、貴殿が気にする程のものではないのだ、本当に」

 息はだいぶ落ち着いてきたのだろうが、相変わらず三日月は項垂れたまま視線を寄越そうとしない。直るものなら直すと言っているのに、何故言う前から直らないものだと決めつけて諦められなければならないのか。……これではもう、押し問答ではないか。
 意地でも理由を話す気は無いらしい。

「ええい、話をする時は相手の目を見ろ!此方を向け!」
「そ、それも、無理だ……!」

 このはっきりしない曖昧な態度を取り続ける三日月に、大包平はとうとう我慢の限界を超えてしまっていた。

「―――このッ、……いい加減に、しろッ!」
「ぅ、ぐッ!?」

 頑なに俯く三日月のその胸倉に掴み掛り、強烈な頭突きをお見舞いする。三日月が衝撃でぐらぐらと頭を揺らがせた隙にその腹が立つほど端整な顔を両手で掴んで、強引に此方を向かせる。頭突きでふらつく三日月の目の焦点が合った頃合いを見計らって、大包平は声を荒げた。

「貴様、俺に喧嘩を売っているというなら買うぞ!『放っておけ』と言うなら、食堂で見せたあの物言いたげな目は何だ! 言われねば俺は分からん! 俺に言いたいことがあるならはっきり言えと、貴様は何度言ったら分かる!」

 此処まですれば流石に口を割るだろう。そう、思っていた。
 ……しかし当の三日月はといえば、大包平が思っていたものと何故か全く違う反応を見せたのだった。

「ぅぁ、ッ……ひ、ぇッ……」

 両手で挟んでいた三日月の頬が、やけに熱くなった。この状況で、何故この男は顔を真っ赤にするのだろうか。腰が抜けてしまったのか三日月の脚はずるずるとその場に崩れ落ち、頭だけ持って支える訳にもいかず大包平は廊下に片膝を突いて一緒に座り込んでしまった。折角開いていた目はぎゅっと固く閉じてしまい、呼吸は落ち着いた筈なのに頬は上気したままだ。まだ辛うじて気絶はしていないが、三日月の唇から漏れたのは今にも意識を飛ばしてしまいそうなか細い声だった。
 此処で大包平の頭には、『何故この男神は先日顔を合わせようとしたら逆上せて気絶したのか』という疑問が再び浮かんだ。

「おい、起きろ!貴様また気絶する気か!そうはさせんぞ!」
「お、おきている、はなしてくれ、たのむ、だめなんだ、ほんとうに……!」
「だから、なにがだ!」

 その表情に浮かんでいるのは恐れ、という訳ではないだろう。だったら血の気は引いて、真っ青な顔色になるはずだ。身体は震えているが、頬が赤く染まったままな所を見る限り怯えているわけではないらしい。大体単に大包平を恐れているのであれば、博物館に在った時点で既に避けられている筈である。なら、今この男は大包平に対して、どういう感情を抱いているのか。

「……か」
「か?」
「かお、が」
「……顔? 俺の顔がどうした」
「ちょくし、できない……!」

 ……どういう意味だ。

 三日月は確かに、大包平の顔が直視できないと言った。もしや人型として顕現したこの大包平の美しい顔を、まさかこの男は、見るに堪えん程醜いとでも言いたいのか。……己の人型の見目には結構、いや相当、こだわっているというのに。
 思わぬ回答に、大包平の思考は完全に停止する。顔を押さえ込む力が抜けてしまった所為で、三日月は大包平の両手を振り払って袖で顔をすっぽりと隠してしまった。

「貴様、それは、一体どういう意味だ…………」

 聞かなくては。この顔の、どこが駄目だというのだ。
 我ながら圧倒的に美しい顔に形作れたと自信を持っていた。無論、顕現して早々主には美丈夫な付喪神だと褒められたのだし、仲間の刀達にも恰好いいと大いに歓迎されたとも。しかし天下五剣一のうつくしさを持つこの刀からすれば、大包平の人型の容姿はまだ不十分であったというのか。その上で形を作った後である今更になってそれを変えることは出来ないと、一方的に諦められたのだ。手の施しようが、無いと。
 刀剣一の美と謳われた大包平として、それは断固として認められない事態だった。

「目が、ばかになってしまう」
「……失礼な奴だな」
「ち、ちがう! つぶれる、ではなくて、こわれる……」
「貴様……! 重ね重ねに失礼な奴め……!」
「あう、違うんだ、なんと言ったらいい、その、兎に角違う、俺が言いたいことはそうではなくて」
「……ええい、ハッキリ言え! 形容出来ん程、俺の顔は醜いか!」
「なッ!? ……ま、待ってくれ! そんなことは断じて言っていない!」

 自分で言って自分で否定しているが、その三日月の口から出てくる言葉はどれも良い意味には捉えられないものばかりだ。一体、何が違うというのか。

「だったら何故言い淀む! 分かりやすく好きか嫌いかで言ってみろ!」

 袖に隠された顔が、大包平の一言にふと目だけをちらりと此方に覗かせた。しかしやはりすぐに、さっと袖に隠されてしまう。蒼い袖からちらちらと僅かに覗く三日月の目元は未だ赤らんでいた。

「……良いのか、言っても。言ってしまうのだぞ、後悔しても俺は知らんからな」
「な、なんだ急に。俺が良いと言っているのだから言えばいいだろうが」

 何故、もったいぶる。はっきりと断じてくれれば良いものを、知り合いという手前で決定的な一言だけは言わずにいたのか。全く無用な気遣いだ、一思いに断言してくれた方がよほど気はすっきりする。その無駄な気の回し方こそ、一番大包平が嫌うものであるというのに。
 
 ……しかし。

「貴殿の顔をすきかきらいかで言うなら、その、すきだ。…………とても」

 覚悟していた大包平の予想は、ことごとく覆された。
 
「は?……すき、なのか?」

 拍子抜けだった。てっきり『嫌い』と言われるのではないかとばかり思っていたのだが、その逆だったとは思いもしなかった。それどころか、とても好きときた。言われて悪い気は全くしないが、何やら背中がむず痒くなってくる。

 三日月の回答に、大包平は益々訳が分からなくなった。何故大包平が、顔が好みだと言われて後悔すると思ったのか。言葉の割に、此方を見ようともしないのは何故か。直視はできないが、しかし好みではあるという。それは一体、どういう心境なのだ。

「好きなら好きなだけ見ればいいだろう……。何故直視が出来んなどと言う」
「見たいとは、思うのだぞ……。しかし貴殿の顔は、俺の目には毒だ……。遠目で見るのが精いっぱいで、いざ面と向かうとなるとどこを見て話せば良いのか、まるで分からなくなる」
「……要は、俺の顔が好きすぎて恥ずかしくなるから、話が出来んと言いたいのか」

 つまりはこの男、あまりにも大包平の顔が自分の好みに合い過ぎていて、大包平を前にすると照れが先行してしまい、話をしようにも目のやり場に困っていたということか。そんな理由で、話が出来なかったと。

「う、……そう、だ。それが言いたかったんだ。貴殿程好みに合うかたちを俺は今まで見たことがなかったから、いざその顔を前にするとどうしてよいのか分からん……」

 事の真相を知り、大包平はどっと疲労感に襲われた。散々悩み倒していざ蓋を開けてみればこれか。未だに袖で顔を隠しながら、時たまちらりと視線を送ってはまた隠されるというまどろっこしい動作に、力が抜ける。こんなことに、一年も悩んでいたとは。

「お前な……、もっとしゃんとしたらどうだ」
「む、無茶を言ってくれるな! 話をしようにも、貴殿の顔を見ると、話そうと思っていた言葉が全部飛んでしまう……!」

 年頃の娘御でもあるまいし、なんだその体たらくは。自分だって大概に整い尽くした顔をしている癖に、この男は何を言っているのだろう。

(お前も知らぬところでは恐らく、誰かにそう思われているんだぞ……)

 主の言った『逆上せる』という言葉の意味は、単に熱いからという意味だけではなかったのだ。周囲の生ぬるい視線の訳と己の鈍さを改めて思い知り、大包平は頭を抱えた。

「だったら最初からそう言ってくれ……。俺はこれで一年悩んだんだぞ…………」
「それは、……すまんな。てっきり俺は、貴殿に嫌われているものだと思っていたんだ。まさか貴殿が、俺の事でそこまで気に病んでくれているとは思ってもみなかった」

 何故嫌っていると思われたのか疑問に思った後で、大包平はすぐにその訳を思い出した。そうだ、そういえばこの男神の事を、当初は気に入らないと思っていたのだった。それを表立ってはっきりと言葉にしたことはないが、己と違いこの男神は他者から向けられる感情を敏感に察知してしまうようだ。成程、それなら『後悔する』と言った意味もわかる。三日月の方から顔が好きだと伝えても、気分を悪くさせるだけだと思ったのだろう。

 それにしても困った。気に入らないと思っていた筈の相手を、必死に追いかけてしまう程気にしてしまうようになっていたとは。自業自得な面もあるが、手前も気付いていなかったことだったばかりに弁明のしようがない。気に入らないと思っていた時期があったのは、紛れもない事実なのだから。

「……そうだな。昔は気に入らんと思っていたのは確かだ。だがあの頃はそれもで構わず話しかけてきたのだから、今更気にするようなお前ではないだろう?」
「あ、あの時はだな……、ほんの少しでも仲良くなれたら良いと、考えてはいたんだ……」
「……しかし此処に来て初めて俺の顔を見たら、そんなことを考える余裕さえなくなったと」

 顔は見えないが、小さく頷いているという様子は辛うじて分かる。一体こいつはいつまで自分の顔を隠し続ける気なのだろう。それでやっと大包平と話が出来る状態なのかもしれないが、顔が見えないと此方としてはどうにも反応を読み取りにくい。この美しすぎる顔の所為だということは分かっているとも。しかし。

「め、面目ない。俺とて、自分でも可笑しいとは思っていたんだぞ? 俺には貴殿の顔が眩し過ぎて、面と向かってはまともに言葉を紡げなくなる。皆は普通に貴殿と会話が出来るのに、何故か俺には出来ん。……俺だけが可笑しい」

 折角、三日月は美醜関係なくこの容姿が『好き』だと言ってくれるのだ。例えこのかたちが自由自在に変えられるものであったとしても、変えてしまうのは忍びない。青の袖に包まれた顔を隠す両腕を掴んで、剥がす。
 やっと見えた顔は、―やはり真っ赤なままだった。

「ひ、ぇッ……」
「いいか、とりあえずお前は自分で勝手に納得して判断するのをやめろ。お前はちゃんと毎日鏡を見ているのか?お前の顔とて十分過ぎる程整い尽くしているだろうが」
「まぁ、顔は若いかもしれんが……中身は爺、だぞ?」
「馬鹿言え! お前が爺なら俺も爺だ! 散々人に好かれて権力者達の手を渡り歩いた自分の経歴を思い出せ! お前の顔にだって悲鳴を上げる奴が絶対に居る、別に可笑しくなどない!」
「そ、そう、か……? いや、その、俺のことはいいとして、可笑しくないと言うなら、そろそろ手を……」
「離せと? 誰が『可笑しくないからそのままで良い』などと言った! 俺の顔が好きだというなら、まずは俺の顔に慣れろ! 俺の顔は今更変わらん! このままだ! お前が適応する他ない!」
「そ、そんな、むちゃくちゃな」
「何が無茶苦茶だ!『俺の事とはいい』などと自分の事を棚に上げるな! ……お前、俺と話が出来なくなって、寂しかったんだろう? 俺と話がしたいなら、慣れろ」
「うぅう…………」

 腕を捕らえて顔を晒させたはいいが、とうとうどうしようもなくなった三日月は必死で大包平から顔を背ける。反対を向いたり俯いたりと、全く落ち着かない。どうやら顔を隠していたのは此方を見ないようにするのと、見られないようにするためでもあったらしい。このままでは埒が明かない。どう言えばこの阿呆はまともに顔を見てくれるようになるのだろう。

(……そうだ、一番伝えたかったこと大切な事を、俺はまだ三日月に話していないじゃないか)

 何のために此処まで追いかけてきたのか。元々それを伝える為に、逃げる袖を必死に掴んだのだ。面と向かっては言葉が出ないというなら、此方の方から言葉を聞かせてやればいい。

「お前が俺に慣れてくれねば、俺も困る。俺も此処に来てからずっと、……お前と話がしたかったんだ」
「……え」

 きょとん、とした顔が、思わずといった様子で此方を向く。己の関わっていない所ではいつも嫋やかに澄ました表情ばかりしているこの男の、ぽかんと口を開けた何とも間抜けな顔は面白くて、思わず吹き出してしまった。……なんだ、案外簡単なことだったのではないか。

「此処での俺は、お前よりも先に肉体を得た。……最初は大変だったんだぞ。背が高すぎる所為で、何度も鴨居に頭を打ち付けて鶯丸に笑われた。昔は肉体なんて無かったからな、どこかにぶつかる感覚なんて、知らなかった。江戸城下に出陣した時は、俺自身の鋼が長すぎるものだから何度も民家の柱を傷つけそうになって、部隊の皆をひやひやさせてしまった。『柱の傷一つで、歴史が変わってしまう可能性がある』のだと、帰還した後で新選組の刀達に叱られたさ」
「ん、んん?……待ってくれ、何の話だ?」
「昔、俺が居た白鷺城の様子を聞いてきたことがあっただろう。俺の見たものを、俺の経験してきたことを、お前は知りたがったじゃないか。お前が顕現した時、そんな知りたがりのお前に、此処での俺の経験も教えてやりたいと思ったんだ。俺はお前と、……そういう何でもない話が、したかった」

 言い終わった後で、大包平は周囲に桜の花弁が散っていることに気付いた。強く日差しが照り付けるこの季節に、その淡い色はまるで合わないものだ。輝く桜花のまぼろしは、刀剣の付喪神達が感情を昂らせた時にだけ舞う花吹雪である。己の身より溢れたものではない、それは。

「貴殿は俺と、……ずっと話をしたいと。そう、思ってくれていたのか」
「ああ」
「そうか。……そうかぁ。それは、嬉しいなぁ」

 蒼い月から溢れ出す花弁は舞い上がって止まらない。止められないのだろう。けれど止める必要など無いのだから、これでいい。時間が経てば自然に消える花弁だ。
 三日月はその月が隠れる程目を細め、唇を緩めてふわりと柔らかく笑う。その笑顔はまだ一度も見たことが無かった筈なのに、不思議とどこか懐かしさを覚えた。まだかたちの無かった頃、もしかしたらこの男はこんな雰囲気を纏って、話をしていたのだろうか。

 例えるならばその笑顔が纏うのは。
 ―――あの笊の付喪神が大事そうに握り締めていた、金平糖のような優しい甘やかさで。

「…………ッ」

 目が、ちかちかする。これは何だ。
 急に三日月の顔が見えなくなって、大包平は思わず視線を逸らした。

「……大包平殿?どうした?」

 大包平の様子を訝しんで問うてきた三日月はきっと今、先程此方に意識を向けた時の様な間抜けな顔をしているのだろう。笑い掛けてやりたいのに、やはり三日月の顔を見ることができない。三日月が顔を直視できないと言った意味が、今になって何となくだが分かったような気がした。そうか、……こういうことか。この美丈夫め。

「お前も大概じゃないか……」
「んん? すまん、聞き取れなんだ。何と言った?」

 こいつときたら、顔が見れないと散々喚いていた癖にこうして相手を気遣う時は此方の顔をしっかり見つめててくるのか。ひとのことを言えた義理ではないという気まずさと腹立たしさに、大包平は三日月から完全に顔を背ける。

「何でも無いから気にするな! …………ん?」

 しかしその移した目線の先でふと、大包平は渡り廊下の曲がり角から何かが見え隠れしているのに気付いた。ちらちらと、身体を覗かせながら此方の様子を窺っている物がいる。

 ……よく見ればそれは、しゃもじの付喪神だ。

「大包平殿? どうした?……おや、あの子は厨の」
「お前、仕事場を離れてこんな所まで来たのか。どうした? 用があるのだろう? こっちに来い」

 大包平に促され、とと、と小さな足音を立てて此方に走ってくるその細長い手に抱えられていたのは、盆に乗せられた二人分の茶と、皿に山と盛られた握り飯だった。どうやら飯も食わずに厨を飛び出したきり一向に戻ってこない大包平と三日月を、心配して探してくれていたらしい。

「態々俺達に、これを?……やぁ、ありがたいな。飯を食いはぐれるところだったんだ」

 炊き立ての白米の、ほのかに甘い香が漂ってくる。
 ……たった今思い出したように、大包平の腹がぐぅ、と鳴った。

「ふふ、刀剣の横綱も、空腹には勝てんか」
「…………、すまん」

 全く、空気の読めない身体だ。だが、御蔭で久しく感じていなかった三日月の楽しそうな素の様子を見れたことは、僥倖だったか。先程までしどろもどろになっていた三日月が、今はもうくすくすと自然に笑っている。……だめだ。やはり三日月のその顔は眩しくて、大包平にはどうしてもよく見えなかった。折角綺麗な貌で、目の前で笑ってくれているというのに、勿体ない。

「悪いな、ありがとう。食器は後で返しに行く」

 にっこりと目を細めたしゃもじが、盆を差し出してくる。大包平が受け取ると、しゃもじは柄から伸びた細長い手を此方に振ってから厨へと戻っていった。

「……ほら、立て。廊下で食うわけにもいかんだろう」
「そうだなぁ。折角だ、そろそろ涼しくなってきただろうし、庭でいただこうか」

 大包平は座り込んだままだった三日月の手を取って立ち上がらせる。片腕で盆を抱えながら、三日月の手を引いて、のんびり歩き出した。
 完全に大包平からは顔が見えない位置に居るのいいことに、三日月は歩き始めた途端、饒舌になった。

「本当はなぁ、貴殿と自然に会話が出来る皆が羨ましかったんだ。数珠丸殿も、まだ此処に来たばかりだというのにもう、貴殿と馴染んで話が出来ている。昔のように何の気無しに話しかけたいのに、それがどうしてもできない。何となく貴殿が怒っているのも分かってはいたのに、話し掛けたくてもまともに言葉が出てこないのが情けなくて、いっそ放っておいて欲しいとも思っていた」

 言葉の調子だけなら、漸く博物館に居た頃に戻ってきただろうか。それでも三日月はまだ、大包平と視線を合わせられない。振り返らない大包平の背に、声を掛け続ける。それでもいい、今は。……むしろ、暫くは顔を見てやれそうにない此方としても、有難いくらいだった。

「けれど貴殿が、また俺と話をしたいと思ってくれたのならば。もう一度、向き合えるようになろう。……だから意気地なしの俺に免じて、あともう少しだけ、待っていてくれんか」

 歩きながらずっと繋いでいる手は、お互い熱い。日は落ち、気温は下がりつつあるのに、手の汗は滲んで止まない。けれど離してやるつもりはないし、彼方も離す気は無いようだ。そんな単純な事が、こんなに嬉しいものだとは思わなかった。

「ふん、……お前とこうして話をするのに一年掛かったんだ。あとどれだけ待たされようが、今更どうということはない」

 顔はまだしっかりと合わせられずとも、これからは心置きなく三日月と話が出来るようになる。これまでのように、理由も分からずに待つよりずっと良い。妙な誤解と悩みで空白になってしまった一年は、これから取り戻していけばいいだけなのだから。
 


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