月の精は揚羽蝶に夢を見るか




【まずは様子見】


 三日月宗近気絶事件より数日が過ぎたが、相変わらず三日月当刃からの接触は無い。しかしそれとは別に、少し変わったことも起こり始めた。

 ふと気づくと、どこかから誰かの視線を強く感じるようになったのだ。
 振り返ると、途端に視線は途絶える。
 柱の陰。廊下の曲がり角。庭の木々の隙間。
 視線を感じた方へ向かっても、いつもそこには誰も居ない。

 邪なものではないことくらい分かっている。古来は魔避けの呪具とされていた日本刀の神が集う城だ。時間遡行軍から隠蔽する為の結界が張り巡らされた空間だが、それがあろうとなかろうとも本丸御殿そのものが邪を寄せ付けない神の域である。ならばこの城に住まう、誰かであることに間違いはない。

「おい、そこの。お前だ、お前」

 恐らく畑から厨に向かう途中だったのだろう。忙しなく廊下を駆けていた細長い手足の生えた笊の群れの中から、大包平はひとつを呼び止めた。この城に住んでいるのは刀の付喪神のみではない。幾つもの本丸がある為に割ける人員は当然限られており、刀から顕現した刀剣男士だけでは到底生活は成り立たないからだ。自ら掃除をしてまわる桶や箒も居れば、飯を炊く釜戸にも魂は宿っている。大抵は顕現システムが消費する霊力の節約の為に物そのままの形で動いているが、万屋等の城下に棲む付喪神達の中にはより動きやすいよう人の形になって働いている者もいる。戦に出る男士達にとって彼らは生活の手助けしてくれる大切な存在であり、それぞれの形で共に戦っている同志だ。無論彼らに頼りっぱなしという訳ではなく、男士でも手の空いているものは皆積極的に彼らの仕事を手伝うことも多い。物に宿った妖同士、お互い様であるのだから。

 大包平に突然話しかけられて驚いたその笊の付喪神は、「ぴゃっ」と小さな悲鳴を上げて飛び跳ねる。その拍子に、笊は自分の身体に乗せていた収穫したての胡瓜や赤茄子をごろごろと床に落としてしまった。

「む、すまん。驚かせるつもりはなかった、許せ」

 廊下を転々と転がっていく鮮やかな色合いの赤茄子をいくつか掴み、胡瓜を拾い集めている慌てん坊な笊に戻してやる。つい先程まで水で冷やしていたのだろう、赤茄子には水滴が沢山ついており、艶々として美味そうだった。昼餉の材料にするようだが、このまま塩だけ振って齧り付いても良いかもしれない。廊下の先では、たっぷりの野菜を乗せた仲間の笊達が不思議そうに此方を眺めて立ち止まっていた。

「仕事中に仲間を呼び止めて悪いな! 歌仙が待っているのだろう? こいつは後から厨に送り届けてやるから、お前達は先に行っていてくれ!」

 大包平の声に、「相分かった」と答えるようにひらひらとそのか細い手を振った笊達は、忙しなく廊下を駆けていった。落とした野菜を全て拾い終えた笊をひょいと抱えてやり、歩きながら話しかける。

「お前、さっきそこの廊下を曲がってきただろう。誰か、いなかったか」

 丸い小さな目をきょろきょろと動かしていた忙しない笊は、大包平の言葉を聞いて何故か困ったように瞬きを二、三度繰り返した。

「……いたんだな?」

 笊の瞬きが、ぱちぱちと明らかに増える。誰かに口止めをされているらしい。無言で暫くじっと見つめてやると、やがて諦めたのか笊はおそるおそる大包平に細い手を差し出した。

「成程。お前、賄賂を貰っていたのか」

 その小さなてのひらにちょこんと乗せられていたのは、一粒の金平糖だ。大包平から逃げる為だけにそんなことをする奴など、ひとりしかいない。やはりあいつで間違いないらしい。答えはそれだけで十分だった。

「安心しろ、言わん。大体俺にバレた所で、お前にそれを寄越した男はお前を責めるような奴でもないだろう」

 あの男、気絶したことを少しは悪いと思っているのか。審神者に何か言われたのかもしれない。話しかける機会を、伺っているのだろうか。来るならとっとと来ればいいだろうに、まどろっこしい男である。それでも審神者の言うようにまだ、『言えないでいる』のか。話し掛けようとしている努力は認める。どちらにせよ、待てということなのだろう。

 明らかにほっとした様子の笊を抱え直してやり、大包平は引き留めた詫びにと厨へ急いだのだった。

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