ルール・ブルーに告げる



Ⅵ 運命じゃないひと



   1



 約四ヶ月に及んだ収録は本日無事にクランクアップを迎えた。
 カットがかかった瞬間から感慨と疲労感と思い出とが怒涛のようにこみ上げて、歓声を上げるクルーたちと柄にもなく抱き合った。冷静沈着なHiMERUらしくはないかもしれないが、連続ドラマの主演を務め上げたのは『HiMERU』史上初めてのことなのだ。多少興奮したっておかしくはないだろう。
「天城」
 名を呼べば、共演者と肩を叩き合っていた彼が嬉しそうに振り返る。
「おうメルメル! お疲れさん~!」
 ぱたぱたとこちらへ駆けてきたかと思うと、なんの断りもなく俺の腿のあたりに腕を回し、ひょいと抱き上げてしまう。制止も振り切ってその場でくるくる回りはじめるから参った。俺は両手で天城の肩を掴み、振り落とされないように齧りついていなければならなかった。
「あっちょっとまだ下りないで、それSNSに使う」
 そんな俺たちを目ざとく見つけた広報担当クルーがスマホを構える。
「撮るンなら一旦止まろっか?」
「ん~……はい撮った、次動画ね」
「マジか、ぎゃはは! いくぜェメルメル~」
「嘘でしょう、まだ回っ……ちょ、タケさん見てないでやめさせて……!」
「HiMERUくん我慢~」
 ぐるんぐるんと振り回されながら、からからと豪快な男の笑い声を聞く。ああ、良かった。ちゃんと終えられた。難しい仕事だったし、一時は本気でどうなることかと思った。主に個人的な理由でたいへん恐縮なのだけれど。
「よくやったンじゃねェ? 俺っちたち」
「ふふ、ええ、やってやりましたね。天城もよくできました」
「うんうん、もっと燐音くんを褒め称えなァ」
 監督とプロデューサーからそれぞれ花束を受け取った俺たちは、改めてツーショットを撮った。スタジオを片付けたり関係者に挨拶をしたりする間、天城はずっとはしゃぎ回っていた。
(犬……)
 俺も自分のSNS用にと、跳んだりはねたりと忙しないあいつの動画を撮った。





「お疲れさん、HiMERUはん。ええ仕事できたみたいやん」
 収録を終えて星奏館に戻った俺と対面した桜河はすぐに、眩しそうに目を眇めてそう言った。どうもこの子には隠し事ができない。
 末っ子にせがまれたので、『Crazy:B』で深夜の共有スペースに集まって最終話のオンエアを見届けることにした。ソファに四人すし詰めになって観賞する間、椎名は「台詞量やば……これ脚本家にクレーム入れました?」と大真面目に引いていた。
「事実やばかった」
「最終話は特にやばかったですね」
「途中から記憶ない」
「マジっすか?」
 冗談めかして言っているが本当だ。実際、あの長回しのカットは一発でOKが出た。けれどカチンコが鳴ってからの記憶がすぽんと抜け落ちているのだ、それは天城も同様だと聞いた。
「なんや知らんおひとみたいやね、おふたりはん」
 桜河がしみじみとそう呟くのを聞いて、俺はもやりとした感情を覚える。むろん褒め言葉だとわかっている、画面に映るHiMERUは確かに『黒葛』だった。それは相棒である天城が百パーセント『白幡』だったからで、その熱量に引っ張られた部分も多分にある。
 HiMERUを演じているはずが、俺は随分とムキになって黒葛と同化してしまっていた気がする。そこは反省すべき点であった。『HiMERU』の構造は複雑なのです。


 物語のラストは、反社のアジトに乗り込んだ白幡たち第一係の面々が黒幕をぶっ潰すわかりやすい勧善懲悪、復讐を成してすっきり、不仲だった主人公ふたりが互いを理解し合って終幕。よくあるシナリオではあったけれど、深夜ドラマにしては気合の入ったアクションと人間ドラマで好評を博した。『Crazy:B』ダブルセンターの白熱した競演が人気を後押ししていたことは言うまでもない。
「途中のあのアクションはあれっすか? 甘……なんちゃら拳?」
「いやいや天照大神拳じゃねェって、警視庁の刑事が使い手だったらおかしいっしょ。空手だ空手」
「鬼龍先輩に教えを乞うたのでしたっけ?」
「そ、弟くん伝いに頼んでな。けっこうマジで苛められたンだぜ」
 黒葛が最後の最後まで封印していた笑顔をついに見せて白幡を迎えるシーン、あとから知ったのだが、SNSのトレンドを『クロさん』『黒葛さん』『HiMERUくん』などの関連ワードが席巻したらしい。これだけの反響が得られたなら副所長も文句は言うまい。できれば次回以降も便宜を図ってくれるよう期待したい。
「役が憑依してたよなァ、最後の方は。お別れすンのが寂しいぜ、なァ……『クロさん』?」
「ふふ。そうですね、『シロ』」
「え~もっと最終話みたいに『♡』つけて呼んで♡」
「そんな呼び方していませんが?」
 相変わらずすし詰めで隣り合った天城と言い合っていると、椎名がにこにこと無邪気に声を上げる。
「なんかふたりの世界ってかんじっすねえ。燐音くんとHiMERUくん、前より仲良くなったんじゃないっすか?」
 天城の「だろ♡」と俺の「違う」がぴったり重なる。「息ぴったりやん」と桜河が吹き出し、和やかなムードのうちにエンドクレジットが流れきった。そうして油断したところに『予告』と題して急遽挿し込まれた劇場版製作の報せについては、俺も天城もまったく聞かされておらず。ふたり揃ってソファから転げ落ちる羽目になったのだった。



   2



 後日改めて開催されたドラマの打ち上げでは『HiMERU』も七月に成人を迎えたとあって、周りの大人たちがこぞって酒を勧めてきた。その都度隣に陣取った天城が保護者面をして誘いを突っぱねるものだから、俺は呆れてしまった。独占欲強すぎか。
「メルメルは俺っちの酒しか飲まねェの! トモさんコラ緑ハイは駄目っしょ! うちの子を潰すおつもり⁉」
「燐音独占欲強すぎか~」
 ほらやっぱり、誰が見たってそう思うよな。先輩俳優とこっそり視線を交わして肩を竦めるのを、実は隣の男がじっと見ていたことに、俺は気づいていなかった。




 二次会には行かずにふたりで雪崩れ込んだホテル。どちらもすこしはアルコールが入っていたがまったくの正気。にもかかわらず、部屋に着いた瞬間どちらからともなくくちびるを重ねた。まるで性を覚えたてのガキだった。
「ま……って、天城」
「待てねェっての」
「んんっ……! ふ、ぅ」
 ドアは閉めただろうか、部屋の鍵は? 扉に押しつけられた状態で後ろ手に探っていると、天城が「オートロック」と苦笑まじりに教えてくれた。
「なァ~トモさんおめェのこと見てたァ……」
「っ、ン、そんなことないと思いますけど……妬いたのですか?」 
「妬いたらわりィかよ」
 ジャケットが肩を滑り、肘のあたりに溜まる。ああ皺になってしまう、とか、先に靴を脱がせろ、とか。そんなことをとりとめなく考えては、口づけの気持ち良さにぼんやりとしてきて「まあいいか」と諦める。その繰り返し。
 しかし彼のくちびるが顎先を辿って首筋にまで下りようとした時、突然戻ってきた思考力が俺の身体を動かした。
「ちょ、待てって!」
「いって、あんだよ⁉」
 どんと胸を突き飛ばして距離を取る。反動でドアにぶつかった背中が痛くても、恨みがましい目を向けられても、絆されちゃいけない、今は。
「シャワーを、浴びていないので……」
「あァ?」
 そんなことで止めたの? とでも言いたげな顔だ。俺は負けなかった。
「まだ九月なのですよ。汗もかきますし、打ち上げのにおいがついたり、してますし。一度洗い流してから」
「いいだろ別に、俺っちは気にしねェって。……それによォ」
 ずいと距離を詰めてきた天城が俺の手首を掴んで縫い留める。そしてあり得ないことに、鼻先をこちらの耳の下あたりにくっつけ、すんすんと嗅ぎやがったのだ。
「おめェのにおいが濃くて、興奮する」
「ば……っかじゃないですか⁉ 発情期の犬とかかあんた!」
 赤面どころじゃない。爆発する、俺の心臓とか脳味噌とかどこかしらが。好きなひとに体臭を嗅がれるだなんて無理すぎる。……いや『HiMERU』はいつ如何なる時でも極上のいい香りがすると決まっているのですけど、それとこれとはまるっきり話が違う。
「な~ァ、メルメル……駄目?」
「ぐうっ」
 俺の作り話とまったく同じ文句で、奴はねだった。俺は深刻なダメージを負った。
 ──ああそう、作り話。そうだった。
「おい天城この馬鹿、聞け! 初めてなんだぞ俺たち!」
「ン、あァ……それなんだけど。ちゃんと説明してくれよ」
「今からする!」
 それから俺は滔々と語って聞かせた。酔って潰れた天城を幾度となく連れて帰ったのは確かだが、同じベッドで眠る以上のことは何もなかったこと。ちょっとした嫌がらせのつもりで夜の間の出来事を創作して語ったら天城が真に受けてしまい(素直か)、あとに引けなくなったこと。嘘の帳尻を合わせるために嘘をつき、更に嘘を塗り重ねていくうち、話が膨らんででっち上げのセフレ関係が成立してしまったこと。いわば種明かしである。
「おかしいと思ってたンだよなァ‼」
 悲痛な声を出して天城が崩れ落ちた。
 おかしい。それもそうだ。いくら飲み過ぎていたとは言え、毎度毎度綺麗さっぱり記憶がなくなっているなど不自然極まりない。目覚めた時の身体の状態で勘づくこともあるだろうし──逆によくもまあ今まで疑わずにいてくれたものだ。
「あ〜あ〜わりィ男に引っ掛かっちまって可哀想な俺っち」
「よくご存じでしょう。『俺』は嘘つきなのですよ」
「開き直ンな。おめェはほんと、変なとこ頑固っつうか、意固地っつうか……ンなしょうもねェ嘘つくンじゃねェよ」
「ごもっとも……」
 初日にコロッと騙されて必死に詫びるあんたが面白かったからつい、なんてさすがに言えなかった。アルコールは適量で楽しむべきだ。
 ともあれ真相が聞けてほっとしたのか、はたまた先程摂取した酒が抜けたのか。天城はいっそう元気に声を弾ませる。
「てェことはァ、メルメルとの初めて、やり直せるってわけっしょ?」
「……ああ……」
「おめェが言ってたあんなプレイもこんなプレイも未遂なんだよな?」
「……ええ、まあ……」
 そういえばこいつは〝覚えてなくて落ち込んだ〟とかぼやいていたっけ。急にわかりやすくそわそわしだした男をちょっと可愛いとか思ってしまった。いや違う、そうじゃない。もっと肝心なことがあるだろ、俺。
「初めて、は、それはそうなのですけど。つまり男を抱いたことがないのですよ天城は」
 断定口調で言い切ってやれば、彼はしばらくの間考え込み、そして絶句した。浮かれたり打ちのめされたり忙しい奴。
「ど、しよう……スマートかつ紳士的にリードしてやろうと思って、俺っち」
「はあ」
「何回もヤってンなら身体が覚えてるだろうって予習もしてねェ」
「でしょうね」
「や、ヤり方は知ってンよ⁉ でも上手くやれるかどうかは別問題っつうか」
「──天城。確認しますが」
 未だ部屋の玄関にあたる場所から先に進もうとしない天城だったが、俺は情け容赦なく核心を突いた。
「抱きたいのですよね? 『俺』を」
「抱きたい」
 即答だった。前のめりすぎたと思ったのかすぐに「あっでもおめェが上やりてェって言うなら俺っちも腹ァ括るぜ?」と慌てた様子で付け加える。思案するまでもなかった。
「いいですよ。俺が下。あんたが突っ込む」
「ムードもクソもねェ言い方」
「わかりやすくていいでしょう。……それにね」
 俺は声を潜めて悪戯っぽく告げてやる。
「あなたに抱かれる想像を何度もしたから、何度でも嘘を語ることができたのですよ?」
「……! おっま、え」
 かっと頬を赤らめるそいつに「童貞?」と声を掛けると「ちげェ」とすぐさま否定された。それは残念。
「では何が不安なのですか?」
「だってよォ〜好きな奴とするのなんて初めてなんだぜ? 手際悪かったりしたらガッカリされンのかなとか考えて、勝手に怖がってるだけ」
「へえ? 随分殊勝なことを言うのですね」
「つうかおめェはその……慣れてンだろ? 元彼と比べられたりしたらやだしィ……」
「そんなことしませんよ」
「どうだか」
 いつになく卑屈になっているらしい天城に、俺はもうひとつ教えてやった。
「俺も、好きなひととするのは初めてですよ。さらけ出すのは恐ろしいし、幻滅される可能性に怯えてる。怖いのはお互いさまです」
 そもそも俺が男たちと関係を持っていたのは自傷行為みたいなもので、慣れるとか慣れないとか、好きとか好きじゃないとかの話でもない。『朱音』という別人としてでもなく、『俺』として。れっきとした恋愛感情を伴うセックスは、正真正銘これが初めて。
 包み隠さず伝えれば、ひどくしんどそうに眉間に皺を寄せ、しばし沈黙した。
「俺っちは、おめェのすることに正しいだの間違ってるだの言いたかねェ。わかったつもりにもなりたくねェ」
 そう前もって宣言してから、今度はきっぱりと淀みなく言い切る。大事なことだぜ、と言わんばかりに。
「でもな、おめェがそうやって自分の幸せから遠ざかろうとすることで悲しむ奴もいるって、知っといてくれよ」
 ああ、やっぱりあんたは優しいな、天城。遠回しだけれど〝おまえも幸せになっていいのだ〟と言われているようで。どうやっても埋まらないと思っていた胸の奥深くにある空洞が、じんわりとあたたかなものに満たされていく心地がする。
 空っぽな己は誰からも愛されることなんてないと思って生きてきた。一度この味を知ってしまったらもう、手放せなくなる。
「わかった、もうしない」
「絶対だな? 誓えよ」
「誓う。……だからほら、先にシャワー浴びてきてくださいよ」
「ん。よし」
 風呂に向かいながら五回くらい振り返っては「帰るンじゃねェぞ」「そこにいろよな⁉」などと喚く彼を見送り、シャワーの音が聞こえはじめたあたりで──やっと息を吐き出した。左胸に右手を当ててみる。
「なんか俺まで緊張してきた……」
 これではあいつの状態を笑っていられない。
 男同士の行為には準備が必要。入れ替わりでシャワーを浴びにいき、風呂場の冷たい床に長いこと屈んでナカを洗浄して、拡張して……これまでは心を殺してただこなしてきた作業が、今日からはまったく別の意味を持つ気がした。


 じっくり時間をかけて仕度を終え、白いペラペラした寝巻きを纏って部屋へ戻った。クイーンサイズのベッドには、引退がかかったベルト奪還戦に挑む直前のボクサーが腰掛けていた。挑戦者はこちらに気づき、力なく笑みを浮かべる。なんだその悲壮感は。
「──天城」
 もしかしたらこいつは、待っている間頭を冷やして考えたのかもしれない。〝やっぱり男を抱くなんて無理だ〟と。
 俯き加減な彼の前に立って静かに見下ろす。視線に非難の色を混ぜないように。
「やめておきますか?」
 がし、と強い力で腰を抱き寄せられた俺の台詞は、〝やめておきますか〟の〝ま〟までしかちゃんと発することができなかった。天城の脚の間でバランスを崩した上体が傾く。正面からぎゅうぎゅう抱き着いて腹に顔を押しつけてくる男の表情は、見えない。
「……笑うなよ」
「え? はい」
「風呂なげェな~って待ってた時に、そういや今俺っちのためにうしろ準備してくれてンじゃん? って気づいて」
 ため息をついた。だから部屋に着いてすぐ言ったじゃないか、シャワーを浴びさせろと。まあでもそうか、ノンケには察せないのか。
「ようやくわかったのですか」
「ん……で、気づいたらすんげェ~ムラムラしてきちまって、俺っち」
「はい?」
「さっき一回抜いた」
「ぶふっ」
 俺は盛大に吹き出した。〝笑うな〟と言われたが無茶だろう、これは。おなか痛い。
「あはは! 神妙な顔で何を言うのかと思ったら、んっふふ……そんなことかよ」
「わ~ら~う~な~」
「ははっ、無理! 馬鹿じゃないですか、あんた」
「俺っちも必死なんだっての! 必死で故郷の母上の顔とか思い浮かべて収めようとしたっての!」
「ひいやめろ、本気で馬鹿すぎる」
 顔を真っ赤にした天城と縺れるみたいにベッドに倒れ込む。まだ笑いが止まらない。なんなんだこいつ、本当に俺のこと好きなんじゃないか。
 涙が出そうになるまで笑って、目を開ける。たった数センチ先にある整った顔が、不貞腐れたようにこちらを見ていた。
「まだ怖いですか?」
「んーん、ヘーキ。もう怖くねェ」
 拗ねて尖ったままのくちびるに軽いキスを贈る。
「──ご機嫌は?」
 首を傾げて上目遣いに尋ねれば、大きな両手に顔を包まれた。
「たった今最高潮になったよ、誰かさんのお陰でな」
 劣情を隠そうともしないぎらついた瞳に間近から見据えられ、これからもたらされる大いなる悦楽への期待に、背が震えた。



   3



 ちょっと待て。こんなの聞いてない。待て、頼む、止まってくれ。
 そう叫びたいのに、俺の口から溢れるのはネジの外れた喘ぎ声だけだった。
「待っ、まっれぇ♡ ひっ、もうっ……あ♡ だめ、なるからぁ♡」
 もう何度したのかわからない。いわゆる寝バックの体勢でがんがん突かれる合間に、かろうじて目を開けて周囲の様子を視界に収める。俺の視認できる範囲に打ち捨てられている使用済みのスキンが、いち、に……三個。おそらくだが見えないところにもまだある。
 ──やばい、こいつ絶倫だ。
 二回目くらいで驚愕の事実に気づき始めていた俺だったが、やめさせる術はなかった。天城燐音は細く引き締まったアイドル然とした肉体から信じられないくらいの馬鹿力を発揮し、大した身長差のない俺を完封することができる。一度抑え込まれてしまえばあとは無抵抗に蹂躙されるだけ。同じ人間とは思えない、ゴリラだゴリラ。そんな苦し紛れの負け惜しみばかりが浮かんでは、ひと突きされるごとに霧散していく。
 というかあんた、一回抜いたって言ってなかったか? 嘘だろ、怖。絶倫怖い。
「あう、ン♡ やっめぇ、も、やらぁあ♡」
 こんな媚びまくりの高い声が自分の喉から出ているだなんて信じたくない。けれどもここにいるのは俺と天城だけだから、否応なく認めることになる。こいつにアナルをガン掘りされて女みたいな泣き声を上げ続けているのは、間違いなく俺自身であると。
「う、あ~……メルメル、きもちい」
「ひっ、んっア♡」
 びくん! と大袈裟に肩を跳ねさせて、俺は達した。
 寝バックでうしろから抱き締められながら挿入されると、感じ入る彼の声が熱い吐息とともに直接耳に注ぎ込まれる。快感に濡れて掠れた、とびきりの色香を惜しげもなくまぶした天城の声。たったそれだけのことで、脳髄が痺れるくらいのとんでもない絶頂に押し上げられてしまう。俺は本当に馬鹿になってしまったのだろうか。
「あっう……♡ ん、ぅ~……」
「はは、またイッちまった? ナカ気持ちいいなァ、メルメル?」
 己の肉壁がぐねぐねとうねるのを感じる。駄目だ、もうイけない、と黄信号を発しはじめる俺の思考とは裏腹に、腸壁が蠕動して長大なペニスを奥へ奥へと誘い込もうとする。やめろ、もう限界だ、どうかしてしまう前にやめさせないと。
「あま、ぎ、あまぎ、もう……」
 懸命に首を捻り、背中にぴったりくっついて離れない男を振り返る。たぶん涙とか汗とか涎とかでどろどろになっているであろう顔面を向けるのは気が引けたが、なりふり構っていられない。
「ン、どした? つらい?」
「ん……」
 わかっているくせに。薄く微笑んでキスをしてくるのだからずるい。そんな風に甘ったるく笑ったからって、俺が許すと思ったら大間違いだからな。
 苦言を呈そうと開いた口にぬるりと舌が侵入してきた。本当にこいつは、油断も隙もない。逃れようと試みても頭を固定されているようで叶わない。俺は息苦しい姿勢のまま、ただただ口づけを受け入れるほかなかった。
「んん、ふ……ぁ、ン♡」
 噛みつくような獰猛なキスはもうすこしも手加減などしてくれなくて、息を継ぐ暇すらも与えられない。敏感な粘膜を舌先で撫ぜられるたび、鼻から甘えた声が漏れる。溢れすぎた唾液がぶちゅ、くちゅ、と攪拌される音は次第に耳を犯す。ホテルのシャンプーの香りに彼自身の汗のにおいが混ざる。先刻同じものを使ったはずなのに、天城の方だけなぜか妙なフェロモンみたいなものが発されている気さえしてくる。キスの味は特段甘いわけでも、酸っぱいわけでもない。苦しさに耐えかねて閉じていた瞼を持ち上げた。

 天城の瞳は摂氏一五〇〇度で燃えるほむらだ。その混じりけのない碧色を目にした刹那、ぞくぞくと異様な興奮が全身を駆けた。ああ、呑まれる。

「ふぅ、う♡ んん~ッ♡ あ♡」
 じゅううと強く舌を吸われたのを合図に、俺はまた頂点を極めていた。キスの間も天城はじれったいほどゆっくりと腰を動かしていて、そのかたいカリ首で前立腺を圧し潰すのをやめてくれない。
「おまえキスでイけんの? エロすぎ」
「ちが……、あんたが、ん♡ なか、こするからぁ……」
「はいはい、上手にイけたからもっとしてやるな」
「ひゃうう、~~ッ♡」
 この優しくて意地悪な恋人は、俺の夢想など遥かに飛び越えてねちっこい抱き方をするらしい。またじっくりと腰を使い、すっかり熟れて柔らかくなったナカを余すところなく味わおうとする。こんなに丁寧に執拗に俺の身体も理性もぐずぐずに蕩けさせてしまうだなんて、想像したどのパターンにもなかった。
 密着した天城の全体重が圧し掛かるこの体位は不自由さと幸福感とをない交ぜにして、俺に残された僅かな知能を根こそぎ奪っていった。時間をかけてずろろ、と引き抜かれれば排泄感とも性感ともとれる感覚に溶かされるし、ずんとひと息に突き入れられれば過ぎた快楽に目の裏で火花が散る。肝心な自身のペニスに触れることは許されず、身体とシーツの間で揉まれてもどかしい刺激に耐えるだけ。反対に前立腺は絶えず苛まれ続けるから、ひたすらナカでイかされる地獄の責め苦に遭っている。
 つまり俺は、この体勢になってからしばらく射精させてもらえていない。中イキの回数はもうとっくに数えるのをやめた。
「天城、あまぎっ♡ おれ、おれもっ、つらい♡ だしたいぃ……!」
 剥き出しの神経を直接愛撫されているようにも感じられる暴力的な快感を前に、額を枕に擦りつけて懇願した。きもちいい。きもちいい。でももう、つらい。助けて。俺を解放して、頼むから。
「……」
 なぜか天城は何も言ってくれない。黙って動くのをやめた彼はくっついていた半身を起こし、緩慢な動作で抜け出ていった。名を呼んでもふうふうと荒い息遣いが返ってくるだけで、俺は泣きそうになった。頭を持ち上げてうしろの男の表情を窺う気力すらも、もう残っていないのだ。
「あま……うわ⁉」
 唐突に、その手ががしりと強く腰を掴んだ。ベッドに腹ばいになっていた俺は尻だけを高く上げる格好になり、今更焦りはじめた。天城が出ていったあとのぱっくり口を開けたアナルを見られていると思ったら、猛烈に顔が熱くなってくる。
「……あの……」
「メルメル、あのさ。〝入った〟って言ったっしょ? あれ、嘘なんだわ」
「え……」
 奴が言っているのはあれだ、最初に正常位で挿入した時に、〝ぜんぶ入ったぜ〟と言ったやつだ。……嘘とは?
「ほんとはな、ぜんぶは入ってねェ。このへんまで」
 このへん、と言って人差し指で示したのは、完勃ちしたペニスの根本から五センチほど空いた場所。途中からほとんど何もわかっていなかったから微妙だけれど、確かに言われてみれば骨盤が当たる感触はなかった? ような? わからない。
「んひ、ぁ、ちょ……と、急に」
 言われたことを馬鹿真面目に考えているうちに再度ナカへ分け入ってきた天城は、奥へと腰を送る傍ら掌で俺の腹を撫でさする。
「さっき入ってたのが、……このへんっしょ?」
「う……♡ そ、れが何か、」
 悪戯な掌はすすす、と『五センチほど上』に移動した。今度はそこを、マッサージでもするみたいに繰り返し圧迫する。きゅうと締めつけたペニスの輪郭をまざまざと思い知る。
「ふぁ……ぁ、やめ」
 股の間にぶら下がった俺のものはだらだらとカウパーを流し続けている。尻から溢れたローションが、白く泡立って太腿を伝っていった。
「行き止まりが、あるンだけど……。あァ、ここ」
 こつん。先端が固いところにぶつかるのを感じる。さあっと血の気が引いた。
「ま、さか……天城」
「せめェけど、入れそうな気がする」
「待っ」
「メルメル……?」
「いや、無理死ぬ」
 聞いたことはあった。ゲイの界隈では有名な、直腸の行き止まりの更に奥のこと。そこをこじ開けられたら、文字通り新たな扉を開くことになると。ただ俺は知識があるというだけで一度も開発したことなどないし、できるとも思っていない。
 必死の形相で首を振る俺に、何を思ったのか天城は意地悪な恋人モードに完全シフトしたらしかった。
「メルメル、好き。好きだ。おまえのナカに入りたい」
 意地悪、違う、悪魔。この悪魔! 魔に魅入られたら最後、俺はそっちから戻ってこられなくなるかもしれないんだぞ⁉
「ちゃんとぜんぶ、おまえと繋がりてェの。駄目か?」
 悪魔はメープルシロップばりにねっとりと濃厚な甘い声で囁く。つむじに、髪に、耳に、うなじに、キスが降ってくる。熱いくちびるが触れるたびうっとりと目を細めそうになって──いけない、流されるな。取り返しがつかなくなる。
「あ、あ……だめ、だめ」
 呼吸が浅くなってくる。なんの拷問だ、これは。涙で霞みはじめた視界にぬっとフレームインした美貌の悪魔は、こんこんと奥の弁をノックする。しぶとい。
「な~ァメルメル、俺のこと好きだろ……?」
 眉を下げるな。困った顔をするな。俺はあんたのそういうところが、
「す、きぃ……っ♡」

 ぐぽん、と。およそ人間の身体から出てはいけない音がした。

「ゔあ、ぁ、い゙っ、~~~~~っ♡♡」
 経験したことのない深い絶頂の渦に俺は叩き落とされた。やばい、トぶ。こんな強いの、受け止めきれない。
「ふ……、ぜんぶ、入ったぜ?」
「……っ、……ぁ、ッ♡」
 最初の『ぐぽん』で早々に意識を手放しかけていた俺はしかし、一度は先へめり込んだ亀頭が手前に引き戻される感覚に目を見開いて、ほとんど絶叫した。
「い゙ぁッ♡ むり、むりッ♡ しんじゃ、ああ~~♡」
「はぁっ、は、うッぁ……、」
 限界まで背中を反らし、足でシーツを蹴り、手指は布が千切れるんじゃないかというくらいの力で枕に縋った。すぐそばで聞こえる獣のような息遣いまでが俺の性感を高めた。
「いっ……ぐ♡ イ゙クッ♡ ぃ、……~~ッッ♡♡」
 暴れる手足を無理矢理押さえつけられながら『どう考えても入っちゃいけないところ』を無遠慮に犯されることに、俺は気を失いそうなほどに感じていた。これまでもこの先もきっとこれ以上はないというくらいに、紛れもない愉悦に打ち震えていた。己よりも上位の雄に支配され雌に堕とされるという、この上なく背徳的な愉悦に。
 揺さぶられて、食い散らかされて、それでも俺の胸を満たすのは間違えようのない多幸感だった。ずっと頂上にいる。自分が空っぽだなんて、もうすこしも思えなかった。
(ああ、やっぱり──あんただった)
 ほとんど靄のかかった頭で、恋した男の声を聞く。
「好き、メルメル、おまえが好きだ……」
 俺の夢想の中ですら言わなかった言葉を、ここで体温を溶け合わせている現実の男が口にしている。うわ言のように、繰り返し、繰り返し。



 ずっとあんたが欲しかった。

 いけすかない奴だと思っていた。まざり合えないと知っていたからこそ欲した。進みも戻りもしない、毒にも薬にもならない関係なら、欲したことすら忘れてしまいたかった。でもあんたじゃないと駄目だった。
 なんの因果か今こうして交わっているけれど、俺とあんたは運命じゃない。もし運命なら、こんな不協和な出会い方はしていない。
 でもあんたは運命を捻じ曲げた。まぼろしみたいな停滞の時は過ぎ去り、俺は星を見出し、歯車は再び回りはじめた。世界の理など俺たちの前では無意味だと、証明しようとしている。それが如何なる困難な道であっても。

 だから、と思う。あんたの隣に立っていたいから、まだアイドルで居続ける理由があるから、俺も運命に抗おう。そのためならば綺麗な仮面を被り嘘だってつこう。それが俺の闘い方で、生きる術なのだから。

 戯言は武器。このままならない俗世を生き抜くための智慧。俺は『HiMERU』だ。そして嘘つきで強欲な『俺』は──己の幸せを手にすることだって、諦めない。
次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」