ルール・ブルーに告げる



Ⅲ 毒にも薬にもならない



   1



 ぱん、ぱん。手を叩く乾いた音が鋭く二回、次いで音楽がぴたりと止む。もう何十回と繰り返したレッスンだから、このあとあいつが何を言うか知ってる。〝ストップ〟だ。
「はいストップ」
 やっぱり。奴は次にこう言う。〝もう一回〟と。
「もう一回サビ頭から」
「ちょお待って、燐音はん」
 事務的に端末を操作し音源を流そうとした天城を、桜河が遮る。少々汗を滲ませてはいるものの、息ひとつ乱していないのは流石だ。
「今の、止めたんはわしがとちったせいじゃ。もっぺん踊るんはわしだけでええやん、HiMERUはんとニキはん休ませたれや」
 違う。先程俺は、ターンの速度が甘く三十度ほど足りていなかった。桜河のせいで止められたわけではない、己のミスは己がいちばんよくわかっているし、ゆえに何を言われるかわかったのだ──そしておそらく、振り入れを仕切りつつじっと俺たちのダンスを眺めている天城にも、見抜かれている。
「──桜河、HiMERUも何度か確認したいので……。天城、もう一度お願いします」
「……インテンポでやってっけど、もうちょいテンポ落としてもいいンだぜ」
「いえ、このままで。正しいテンポを身体に覚えさせたいのです」
 彼は「わかった」と頷き、ぼーっとしている椎名を一喝する。
「ニ〜キ〜! 僕は関係ないっす〜みてェな顔してンじゃねェぞてめェ、今ンとこ掌は顔の方向けンだって何度言ったらわかるンだよ!」
「えっ僕また間違ってたっすか?」
「そう言ってンだよォ〜それじゃ眩しがってるひとになっちまうっしょ⁉」
 ぎゃんぎゃん騒ぐ連中を尻目に俺は呼吸を整える。大丈夫だ、次はできる。
「これ終わったら休憩入れっから頑張れよォ~。いきまァ〜す……ファーイブ、シックス、セブン、エイ」
 天城のクラップに意識を集中させ、身体を動かす。歌詞を口ずさみながら手足を操り、筋肉をしならせる。さっきはターンの終わりが拍をはみ出てしまっていたから今度は起点をすこし食い気味に、かつ軸がブレないよう、脚運びが雑にならないよう注意して──
「よォしよし、いいかんじ。十分休憩にしようぜェ~」
「ふひい、疲れたあ!」
 リーダーによる朗らかな宣言と同時、文字通り床を転がった椎名は猛スピードでバッグに飛びつき、チョコバーを貪り食いはじめた(包装を破る動作が速すぎてほぼ視認できない)。その場にぺたんと座り込んだ桜河の「今日イチキレッキレやなニキはん」というぼやきにすこし笑ってしまう。
 俺は新しいペットボトルの封を開け、ミネラルウォーターを一気に煽った。カラカラに乾いていた喉が潤うと五感が冴えてくる。休憩の間だけ、と十八度に設定した空調が懸命に唸っている。そういえば今年はまだ、蝉の声を聞いていない。

 ドラマのクランクインから二ヶ月。新緑の時期にスタートした全十話の撮影は中盤に差し掛かり、季節は盛夏を迎えた。

 冷房でひんやりとしたフロアに懐く桜河が恨めしそうに低い声を出す。
「燐音はんの振付、タイミング取り辛うてかなわん。やらしいねん。なんで裏拍やねん」
「この曲は裏の方がノれンの」
 天城の回答は端的なものだった。桜河はさも腑に落ちないと言いたげに眉間の皺を深め、空調に負けないボリュームで唸る。
「ん゙~~~わからへん、わからへん! わかるぅ? HiMERUはん」
 頭の中で覚えたばかりの振付を反芻していた俺は、名を呼ばれても咄嗟に反応できなかった。一拍遅れて返事をしたところ、一対の碧とばちっと目が合ってしまう。そして気づいた。天城燐音とやたらとよく視線がかち合うことに。



   ◇



第六話 シーン5
【警視庁捜査本部 2】

警視庁廊下。白幡、捜査本部を飛び出した黒葛に追い付く。

白幡「クロさん、クロさんってば! ああもう黒葛刑事! 止まれって!」
黒葛「うるせえな、何。」

早足で歩きながら話を続ける。

白幡「何か気付いたんでしょ。なんで本部で言わないんですか。」
黒葛「連続子女誘拐殺人事件と聞いて、お前は何も気が付かないのか。」
白幡「はい?」
黒葛「九年前。今回と手口は違うが、似たような事件があった。課長達は勘づいてるだろうな。何しろ未解決だ。関連を疑って、過去の事件と繋がる手掛かりを探ってる。」
白幡「九年前? 確かあんたの妹さんも九年前って。」
黒葛「俺はもう見つけた。無能な警視庁と足並み揃えてる暇なんてない。じゃあな。」
白幡「ちょ、ちょっと待てって!」

エレベーターに乗り込もうとする黒葛の腕を掴む白幡。

白幡「待てって言ってるだろ! あんたらしくねえよ。俺には規律規律って言うくせに、あんたは一人で出て行くのかよ!」
黒葛「俺らしいってなんだよ。」
白幡「は?」
黒葛「チャンスなんだ。連中に接触できるかもしれない機会が、やっと巡ってきたんだよ。俺はあいつのためだけに生きてきた。それだけが俺を俺たらしめるものなんだ、お前にわかるか。」
白幡「わかんねえよ。わかんねえけどあんたを行かせちゃダメな気がする。俺の勘は当たるんだよ、馬鹿だからな、あんたも知ってるだろ。どうしてもって言うなら俺も行く。」
黒葛「お前の助けは借りない。もう俺に構うな。」

黒葛、白幡の手を振り払い、突き飛ばす。

白幡「あっ、おい!」
黒葛「お別れだ、シロ。」

閉まったエレベーターの前、立ち尽くす白幡。

白幡「クソッ……」

(カメラ切替。エレベーター内で遠くを見るような表情をした黒葛を映し、暗転)



   ◇



 実を言うと、ここ数日すこぶる調子が悪い。
 素人にはわからない程度に振りが遅れるとか、ステップがひとつ足らないとか、そのくらいならマシな方。本当はさっき、回った時に足首を軽く捻ったりもしている。これはまだバレていないはず、大丈夫。
 まずかったのはドラマの方だ。カメラが回っているにもかかわらず台詞を飛ばすという、HiMERUにあるまじき失態を演じたのはゆうべのこと。天城演じる白幡に詰め寄られるシーンでのことだった。
 台詞は完璧に頭に叩き込んでいたし、天城とふたりで何度も動きの確認をした。職業柄どうしても意識してしまうカメラの存在は一旦忘れて(今回はアイドル映画でもないのだから『真夜中のButlers』の時とも勝手が違う)、『HiMERU』に求められている演技の準備は万全に整えた。その上で、俺が構築したものは無残にも蹴散らされた。他でもない、天城燐音そのひとによって。
「『あんたらしくねえよ』」
 天城の瞳は摂氏一五〇〇度で燃えるほむらだ。否、この時は天城ではなく白幡なのだけれど、あの強く輝く碧い双眸に射すくめられたら、俺の呼吸はいともたやすく止まってしまう。
「……ッ、ぁ……」
 呆けた俺はさぞ滑稽だったろう。ぽかりと口を開けたまま無言で見つめ合っていた数秒間が、千秒にも一万秒にも感じられて、カットがかかった瞬間壁に手をついて身体を支えなければならなかった。
「え~どうしたの、HiMERUくん珍しくない?」
 俺がNGを出すなんて、珍しいどころかこの撮影が始まってから初めてではないか? 監督が半笑いで、残りの半分は不安そうな顔で近づいてきた。そこへすかさず天城が割り込む。
「おいお~い、間近で見た俺っちの顔が美しすぎて気絶しちまった? メ・ル・メ・ル~?」
「死んでください」
「やだァ~! もっと相棒に優しくしてください!」
 若干の緊張感が漂いはじめていた現場は、「ねェ監督~?」なんてしなをつくる天城によって穏やかさを取り戻した。つくづく場のコントロールが得意な奴だなと思う。
 クルーたちが次のテイクの準備を整える間、俺の『自称:相棒』は楽しげに鼻歌さえ歌っていた。貴重な貴重な俺のミスが余程お気に召したらしい。腹の立つことだ。
「ンじゃもっかいお願いしまァす!」
「はい、いきまーす。テイク2」
「──よろしくお願いします」
 天城のフォローがあったお陰か、撮影が変に滞ることはなかった。先の失態に関して奴が言及することもなかったし、俺も調子を取り戻せた──と、思い込んでいただけなのかもしれない。

 あんたの色彩に見惚れて言葉を失っていたと、本当のことを言ったなら、彼は笑い飛ばしただろうか。





 足首の様子を見がてら水分補給をしに来た俺は、ドリンクスタンドの陰に蹲っていた。
(──『あんたらしくねえよ』、か)
 ああそう、まったくその通り。俺らしくない、違う、正確には『HiMERUらしくない』。これに尽きる。
 捻った部位は、幸い大したことはなかった。今日のレッスンは乗り切れるはずだし、明日以降もしばらく踊る機会はない。当面の間は撮影メインにスケジュールを組んでいるからライブもない。ラッキーだった。あいつに気取られずに済みそうだ。
「……はあ……」
 正直参っていた。天城の視線に耐えられない。不調の原因はまず間違いなくこれだ。
 なのにやたらと目が合うのは、俺があいつのことを無意識に目で追ってしまっているからで。そして奴が見返してくるのはおそらく、最近の俺の露骨な不調を目の当たりにしているから。結果不本意にもあの瞳と正面きってぶつかることになってしまっている。いい加減やめたい。やめられたら苦労していない。
 わかっている。俺は、あの男に対して特別な感情を抱いているのだ、心の底から遺憾ではあるが。

 俺と天城燐音の妙な共寝は、あのあとも続いている。
 大人げない監督たちに付き合って潰れた彼を持ち帰るのはいつも俺の役目。ベッドで目を覚ました彼(前夜の記憶はすっぽり抜け落ちている)に状況を仔細に説明するのも俺の役目。一度目は顔面蒼白で謝っていた天城だったが、二度目には「またやったか」と呆れ顔、三度目からは開き直るようになった。「いっそセフレってことでいいか、俺っちたち」と。何も良くない。
「良くねえよ……!」
 憤りに任せて壁を蹴ろうとした脚を、すんでのところで正気に戻って止めた。こんな場面を誰かに目撃されようものならことだ。レッスン室に戻ろう。
 床に落としていた目線をのろのろと上げかけて、視界に入ったスニーカーのつま先を捉え、固まった。今いちばん会いたくない人物が、どういうわけかそこにいる。俺は努めて平静を装った。
「──もう休憩は終わりでは?」
「うん。戻ってこねェから様子見に来たンだけど……余計なことした?」
「ええ、まったく」
 顔を背けて冷たく言い放っても聡い男は動じない。純粋に『ユニット』の仲間を案じての行動なのだとわかる。それがまた、俺のささくれ立った神経を逆撫でする。
「……すこしも変わらないのですね、あなたは」
 事実、天城はこうなる前と何も変わらない。俺はこんなにもペースを乱されていると言うのに、だ。
 理由は単純、情があるのは俺の方だけだから。〝男なんか無理〟な彼は、俺という人間になんの感情も抱かない。愛や恋にはなり得ない。俺への接し方に一切の変化がないのが何よりの証拠だ。
 二ヶ月もあんたとべったり一緒に仕事をして、演じている時の真剣なまなざしや、飲みの場での気の利いた振る舞いや優しさを見て。あんたの体温やにおいを知って、俺はもう、とっくに取り返しのつかない深みに嵌ってしまっているのだけれど。俺だけは身動きが取れずに途方に暮れているのだけれど、あんたには知る由もないのだろう。そりゃそうか、男の俺が男のあんたをそういう目で見ているだなんて、想像すらしないだろうから。
「ん? おお、俺っちはいつも通り絶好調っしょ♪」
「ええそうですね、HiMERUもなのです。あなたに心配される謂われはありません」
 今度は目を見て、毅然と告げる。するとこれ以上追及しても無駄だと判断したのか、あっさりと身を引いた。
「あ、そ。なんもねェならいいンだけど」
「だから何もないのですよ」
 男は「まァ、」と屈託なく笑う。
「もし万が一なんかあっても、相棒の俺っちがカバーするから任しとけよ。逆に俺っちがやべェ時は頼むな。頼りにしてるぜェ」
 ぽん、と軽く肩を叩いた手はほんの一瞬のぬくもりを残し、すぐに離れていく。先を歩く背中を眺めながら、俺はある決心を固めた。




   2



 認めよう。俺は天城燐音に恋をしている。不本意ながら。
 同時にこの想いは、恋というかたちを成した瞬間に終わってもいる。なぜなら俺はゲイで、彼はヘテロだから。俺たちの関係はこれ以上進みようがない。笑える。
 よって俺は、自分の感情をなかったことにすることに決めた。つまり上書きすることにしたのだ。葬り去りたい過去も、不毛な恋の記憶も上書き保存。恋慕なんてそもそも生まれなかったことにしてしまえばいい。
 これがちいさな子どもならば、綺麗で大切なものをおもちゃ箱の底にしまい込んだりするのかもしれない。けれど俺は慎重で賢く物わかりのいい大人だ。そんな愚かしいことはしない。だって大事に隠しておいても、ひっくり返したらまた見つかってしまうのだ。うっかり箱を蹴飛ばしてぶちまけたりなんかして、他人の目にでも触れてしまったら最悪だ。俺だけのものを生涯俺だけのものにし通すにはこうするしかない。
 そうやって俺は自身の心を守ってきたし、これからもそうしていく。ただそれだけの話。
 ドラマの撮影が始まってから──というか天城と寝るようになってから見向きもしていなかったマッチングアプリを思い出し、ログインしてみた。誰でも良かった。嫌なことを忘れさせてくれるなら、誰でも。
 直近でメッセージをくれたひとのうち、身長体重年齢顔つき、いちばんあいつから遠い男を選んだ。自然と小デブハゲのおっさんに絞られた。この際気にしてなどいられなかった。





 俺は数ヶ月ぶりに『朱音』になった。気の強そうなキャットライン、ヘーゼルブラウンの瞳、赤い癖毛のウィッグを身に着け、別人となって街へ出た。
 相手のおっさんは、見た目はともかくとして親切だった。真夏にもかかわらずきっちりとスーツを着込み汗だくで待ち合わせ場所に現れたから、汗が引くまではやや距離を取ってしまった。彼は左手の薬指に銀色に光るリングを着けていた。ふと目に入ったスマホの壁紙は、たぶんだけど娘の写真だろうと思った。
「朱音くん、おくちちっちゃいねえ」
「そうかな〜? ひろぽんさんと変わらなくないですか?」
「変わるよ〜。ちょっとおくち開けてみて、あ〜んって」
「ええ〜恥ずかしいなぁ」
 レストランで食事をしている時点で、既にだいぶ雲行きが怪しかった。気持ち悪い。けれどここで断ってしまっては俺の計画がふいになる。俺はもう、相当に自棄になっていた。
 フリではなく本当に渋々、「ちょっとだけですからね」と言ってぱかりと口を開けてみせる。おっさんは思春期の中学生かという勢いで手を叩いて喜んだ。
「うっわちっちぇ〜! ぶゅふ、ほほほ!」
「……」
 何がそんなに面白いのかさっぱりだ。俺はさっさとやることヤって帰りたいだけなのだが。もういいですか、と言おうとして乾いたくちびるを舐める。その矢先、恐ろしいほどの悪寒が背骨を駆け上がった。上機嫌だったはずの男の目はすこしも笑っていない。
「うふふ、うふふ〜朱音くん、ねえ」
「──っ、もう、ぅぐっ……⁉」
 がぽ、と太い指が二本、口腔に突っ込まれた。あまりのことに嘔吐く俺をよそに、そいつは声にねっとりとした愉悦を混ぜ込んで囁く。
「こ〜んなちっちゃいおくちに、僕のおちんぽ入るのかなあ? ねえぇ?」
「……‼」
 奴の弧を描いた口元が、ぶれる。視界が白や黒や赤に明滅する。口から指が引き抜かれるが感覚は遠い。プールに潜ってでもいるみたいに、周囲のさざめきがぼやけて聞こえる。己の頭が傾いてテーブルに落ちた音がした。
(まず、い……何か、盛られた)
 いつだ。飲み物を置いたまま席を立ったタイミングはなかったはず。では運ばれてくる前か。あの男は、〝知り合いの店〟だとか言っていた。
(店員もグルかよ、くそっ……!)
 不覚だった。店を選ばせるんじゃなかった。先に席に着くべきじゃなかった。どっと汗が吹きだす感覚と併せて次から次へ、後悔が浮かんでは滑り落ちていく。この野郎、絶対常習犯だ。殺してやる。殺してやる。殺してやる。
「なぁに〜? そんなとろんとした目で見つめて……朱音きゅんってば欲しがりだね♡ おほほ、かわいっ♡」
(くそ、くそ……! 殺す!)
 最悪だ。今の俺はおおよそ酩酊状態で、どれだけ眼光を尖らせたところで奴に傷ひとつ負わせられない。





 男は俺に肩を貸すような形で店を出た。ほとんど引き摺られながら通りへ向かう。タクシーを拾うためだろう。
 昨日、軽く捻っただけだった足首が熱を持ちはじめた。痛い。そこだけ突き刺すようにちりちりと痛んで、あわや昏倒しそうになる俺の意識をプールの底から浮上させた。
「タクシー……面倒だな。ここでいいか」
 立ち止まったのはちいさな公園の前だ。蜂の形をしたなんてことのない遊具とベンチ、ひと気のなさにも打ちのめされることなく気丈に蛍光灯を光らせ続ける公衆トイレだけがある、寂れた広場。
「ちゃんと歩けよオラ、男は重いんだからさ」
 冷えきった声音にまた脂汗が滲む。こいつのやろうとしていることを察すると同時、対面した時から薄らと感じていた不信感に思い至った。
 ──マイノリティは身を守るため、あるいは権利を手にするために、自身の属性をカモフラージュする場合がある。同性愛者が異性と偽装結婚をする、などがその一例だ。この男もそうなのだろうと捉えていたが、違う。疑念は空気を送りすぎた風船さながらに膨らみ続け、今や破裂寸前だ。吐き気がする。
 公衆トイレの個室へ雑に投げ込まれた俺は、なけなしの平衡感覚を総動員してぎりぎり便座の上に留まった。床に顔を擦りつけるのだけは御免だった。足首はまだ痛む。
「く、そ……絶、対に、ころしてやる……」
「ハア、そう」
 尻のポケットを探ったそいつが取り出したのはなんだろう、よく見えない。
「終わったあともおまえが生きてたら、かなあ」
 真っ白い照明が奴の手元を照らす。つくりものの光をぎらりと鋭く反射する、長く尖った針──チューブの中身を透明な液体で満たした、注射針を。
(……〜〜っ、やばい、やばい!)
 クスリだ、間違いない。この畜生以下のクソ野郎は俺にやばいブツを打ち込んで犯そうとしている。どうして気づかなかった。真夏に汗だくになってでもスーツのジャケットを脱がなかったのは、やましいことがあるからだ。例えば、そう、腕が注射痕だらけで、ひどい瘢痕を隠さなければならない、とか。
「おいお〜い暴れるなよ。気持ち良くなれるから大丈夫だって」
 薄ら笑いを浮かべた男は、俺のベルトをまさぐってはへらへらとのたまう。
「男はいいよな〜、後腐れがなくて。中出しし放題、最高っすわ! あざす笑」
 瞬間、怒りで目の前が真っ赤に染まった。膨らみきった風船がついに破裂したのだ。疑念は確信に変わった。やっぱりこいつはゲイなどではなかった、直視すれば死にたくなるような現実と闘いながら懸命に息をしているひとたちを、嘲笑って食い物にしているだけのクズだ。
「……ふ、ぅっ、……ッ、」
 悔しくて涙が溢れた。
 どうして。どうしてこんな奴がへらへら笑いながら生きていて、俺たちが泣いたり、苦しんだり、踏みにじられたりしなきゃならないんだ。
 でも、ああ──こんな時にまで、俺が思い出すのはあのいけすかないリーダーの顔だった。だから、
「おい大丈夫か、おい! しっかりしろ!」
 あのおっさんがいたはずの場所に息を切らした天城が立っているのを見たら、ドラッグでキマってしまったのだと思い込むのが普通だろう?



   3



 天城は一撃で伸したおっさんを別の個室に押し込むと、その手に注射器を持たせた上で中から鍵をかけ、現場を偽装してしまった。するすると壁を上る様子なんて軽業師顔負けだった。こいつの身体能力はどうなっているのかと、時々不思議に思う。
「落ち着いたか?」
 買ってきた水を一度俺に持たせ、未開封であることを確認させてから、目の前でキャップを捻って手渡してくれた。
「……は、い」
「そっか。間に合って良かった」
 ここを通りかかったのはたまたまだったと言う。はじめは酔っ払いの介抱かと思ったそうだが、俺が僅かに抵抗を見せていたのが気になって様子を見にきた、それで襲われているのを見つけたと。
「ありがとう、ございます」
「いいよ」
 すこしだけ躊躇う素振りを見せてから、天城は名を呼んだ。「メルメル」と。
「……え?」
「メルメルっしょ」
「ちが、」
「俺の目が誤魔化せると思ってンの」
 あの瞳だ。静かに怒りを滾らせる碧。薬を盛られたせいだけじゃない、喉が引き攣って震えて、声が出せない。
「ぁ……」
 両手で己の身体を掻き抱いて震える俺を見下ろし、ふ、と息を吐く。
「おめェを責めてるわけじゃねェ。何も聞かねェ、今はな」
 今は、と彼は念押しした。それから膝を折り、トイレの床にしゃがみ込んだ。繊細な芸術品でも扱うかのように、俺の片足を掬う。
「……腫れてる」
 靴を脱がせ、靴下をずらし、患部を露出させる。そこは確かにひどい色をしていた。
 力なく便座に体重を預ける俺にかしずいたうつくしい男は、お伽噺の王子さまと見紛う恭しい仕草で、足の甲を撫でた。俺はやっぱり何も言えない。

 このひとが好きだ。悔しくて悔しくて泣きたいくらいに、天城燐音が好きだ。
 俺が欲しいのはあんただけなんだ、ほんとうに、他には何も要らないと叫びだしたくなるくらいに。結局俺は、天城への想いを自覚する前には戻れなかった。

「好きです」
「ん?」
 聞き返す音は優しい。きっと彼の大切な弟がいとけなかった頃にも、こんな風に声を掛けたのだろう。まつ毛はやわらかく伏せられ、澄んだ碧色は、今は隠れている。
「あなたが好きです」
「きゃは、俺っちも好きだぜ?」
「そうじゃなくて」
 天城の言っているのは親愛だ。友愛だ。性愛を伴わない至極純粋な、誰にでも抱きうる慕情だ。俺のは違う。
「俺は、あんたとセックスしたいって言ってるんだよ、天城」
 あけすけな言葉を選んだのは、わざとだ。ここまで言わなければ伝わらない、俺がどういう属性の人間で、どういう欲を持っていて、あんたをどれだけ汚い目で見ているのか、伝わらないと思ったから。
 俺は観念したんだ。気味悪がられても嫌われてもいいから、自分の望みと向き合うことにした。
 嘘をつかないということは我儘になるということだ。醜い獣になるということだ。それがどんな結果を生むかなど、考えずに。

 ゆっくりと噛み合わないまま回っていた歯車が、嫌なノイズを発してついに止まる、音がした。

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