ルール・ブルーに告げる



Ⅴ L'Heure Bleue





 夕焼けの橙色と夜の藍色との狭間に、目の覚めるような青がある。それはほんの短い間、世界からあらゆる音を奪い去り、世にもうつくしい停滞の只中に俺を放り出す。
 青の時。
 昼でも夜でもない一刻、青く完璧なしじまと俺の肉体とは、その境界を曖昧にしていく。じわりじわりと、水に落ちたひとしずくのインクみたいに呆気なく。身体が溶けてなくなってしまうのではないかとも思える圧倒的な青を前に、この足は役目を忘れ、蒙昧と立ち竦むことしかできない。
 やがて太陽が完全に去った頃、俺はようやく己の輪郭を取り戻す。地を踏み締める感触を思い出す。闇のにおいが辺りを満たし、つくりものの光が影を成す。
 
 青の時、太陽が盗まれた空。静寂に身を浸して瞼を閉じれば、押し寄せる寂寥感の虜になる。
 まぼろしのようなひと時、俺は夢想する。
 もしも問題児の『Crazy:B』にならなかったら。
 もしもあの悲劇が起こらず、今も要が『HiMERU』でいられていたら。
 もしも母親が病死していなかったら。

 ──もしも、あの男に愛されたなら。

 青の時、ブルーアワー。
 宵闇に侵食されていく世界で、新たなしるべとなる星あかりを見つけるまで、あとすこし。



   ◇



最終十話 シーン1
【病院】

警察庁の職員が黒葛を訪問し、話し込んでいるところに、見舞いに来た白幡が遭遇する。
黒葛が気付いて職員を帰らせる。

白幡「クロさん。」
黒葛「おう、来たのか。お前も物好きだな。」
白幡「その……足はもう良いんですか?」
黒葛「良いわけねえだろお前、風穴開けてくれやがって。」
白幡「うっ、すいません。」
黒葛「冗談だよ。お前が撃ってくれたお陰で結果的に、脳の損傷を免れた。射撃の成績が良かったっていうのはハッタリじゃなかったんだな。誇れ誇れ。」
白幡「そんな話覚えてたんですね。」

ベッドから少し離れた椅子に座る白幡。

白幡「恨んでますか、俺を。」
黒葛「まあな。」
白幡「一度きりのチャンスを潰した。」
黒葛「ああ。俺の生き甲斐も。」
白幡「……クロさん。」
黒葛「お前だけだよ、俺をその、変な名前で呼ぶの。嫌われてるからさ、俺。どうも距離を取られちゃうんだよね。」
白幡「俺だって嫌いですよ。」
黒葛「お互い様だ。」
白幡「でも死んじゃダメです、あんたは。絶対に。」
黒葛「……なんでだよ。」
白幡「病院を抜け出すつもりでしょ。」

黒葛、寝返りを打ち背中を向ける。

白幡「否定してくださいよ。」
黒葛「できねえな。」
白幡「クロさん。」
黒葛「帰れ。もう俺とお前は他人だろ。」

白幡、黒葛に詰め寄り、胸倉を掴む。

白幡「ふざけんじゃねえよ。他人ならなんで庇った? 俺はあんたの事情を聞いて、知ってた。あんたが被疑者に個人的な恨みを抱いてるって知ってたのに、捜査に関わるのを止めなかった。こうなったのは俺が報告義務を怠ったせいでもあるはずだろ。あんただけが罪を引っかぶる必要なんてないだろうが! 本当は俺だって一緒に行きたかった。クロさんみたいな優秀な刑事になりたいから、もっと近くで学びたかったし、力になりたかった。あんたの背中ばっかり見てた。腹立つくらい自信満々だし、でも冷静で判断早えし、いつだって正しいことしか言わねえんだもん。なのになんだよそれ、許せねえ。俺があんたに死んでほしくないんだよ。憧れた人に生きててほしいって願うのはおかしいか? 理由が必要かよ?」
黒葛「俺はそんな大した人間じゃない。離せよ。」
白幡「嫌だ。」
黒葛「嫌だってお前、ガキか。」
白幡「うるせえ。偽物だとか言ってたけどな、俺の見てきた黒葛梓が全部嘘だとは言わせない。あんたは大した人間だよ。諦めが悪くて一途で、悔しいけどめちゃくちゃかっこいいよ。そのあんたがこだわりたいって思ってる事件なら、俺も諦めたくない。でも俺は刑事だから、あんたとは違う方法で闘う。真正面から堂々と、法律で喧嘩してやるよ。誰も殺さないし殺させない。あんたが教えてくれたんだ。」
黒葛「ああもうまったく……馬鹿。宇宙規模の馬鹿。」
白幡「それが俺の取柄だって言ったのはクロさんでしょ。」
黒葛「皮肉だアホ。」
白幡「わかってます。いいですか、俺に任せる気になりました?」
黒葛「お前な、言いたい放題言いやがって。くそ、仕方ねえな。」
白幡「よっしゃ、任されました。」
黒葛「死ぬなよ。」
白幡「へへ。大丈夫、俺みたいな馬鹿は弾に当たんねえの。」



   ◇



 知人のカメラマンから依頼されたモデルの仕事を終えた俺は、撮影中にホールハンズに届いたメッセージをチェックしていた。送り主は桜河、七種副所長、七種副所長、お世話になっている美容師さん、ドラマの共演者、七種副所長、瀬名先輩、プロデューサー……ひとつひとつ開けていき、ある名前で手を止めた。
(……天城、)
 『ユニット』のグループチャットではなくHiMERU個人宛に送信されたそれは、『終わったら電話ちょうだい』というごく短いものだった。

「──もしもし」
『おーっすメルメル? 撮影終わったァ?』
 天城の声はあまりにも普段通りで、まあ拍子抜けした。昨日一方的に突き放したばかりなのに? と考えて、あの瞬間明らかに傷ついていた彼の表情が過って、慌てていつものHiMERUを取り繕った。
「終わりました。用件は?」
『長ゼリやべェ』
「長ゼリ?」
『最終話の長ゼリ稽古してたンだけどやべェ、全っ然入んねェの。マジで』
 ドラマ『fiction』の最終話、天城演じる白幡がHiMERU演じる黒葛に長台詞で本音をぶつける重要なシーンがある。監督の意向で、この一連のシークエンスはワンカットで撮ると聞いていた。収録は明日だ。長回しは何度もテイクを重ねるとクルー全員の負担になるし、何よりダレて緊張感がなくなる。今の時点で台詞が入っていないとなると、明日で撮り終わらない可能性も出てくるのではないか。
「……。今どこにいるのですか」
『おう?』
「稽古に付き合えと言いたいのでしょう。行きますから、どこにいるのか教えてくださいはやく」
 昨日の今日で長時間顔を合わせるのはあまり気乗りしないが致し方ない、もしクランクアップがずれ込んだらあちこちに影響が出る、実際演技の稽古には相手が必要だ。一気に思考をまとめ、場所を聞き出して電話を切った。





 ES空中庭園、その隅の方にひっそりと存在する木陰のベンチ。天城はそこでひとり、待っていた。
「──こんなところで稽古を?」
「おうよ、俺っちの特等席。空が高くて気持ちいいっしょ?」
「夏でなければ同意しますが……」
 立秋を過ぎたとはいえ、まだまだ日射しが目に痛い。日没後ならば多少過ごしやすくなるだろうか、風がよく通る場所であるし。俺はバッグを肩から下ろし、西に傾きはじめた太陽に掌を翳した。
「ちょっと一回やってみてくださいよ」
「ん、何を?」
「長台詞。まだ入っていないなんてありえないのですよ、必ず今日中に完璧にしてもらいますからね」
 はやくやれ、と顎をしゃくってみせるものの「あ〜それね、うん、そう」となんだか歯切れが悪い。何かあるなら言えと視線で促す。すると天城は摘んだTシャツの襟元で汗を拭いながら、不自然に顔を逸らした。
「それなァ、わりィ、嘘ついた」
「は?」
 驚いて飛び出た声だったが、非難されていると取ったのだろう。男はもう一度「わりィ」と繰り返した。
「本当は入ってンだ、台詞。だからそっちは心配要らねェ」
「ではなぜ?」
「おめェと話がしたかった。正直に言っても来てくんねェと思ったから。ごめんな」
 その読みは当たっている。仕事に関わることでなければ、今はこいつに会いたくなかった。これからでも断って帰ってしまおうか。すかさず天城が言い募った。
「あっ帰るとかやめろよなァ~? さすがにへこむ、俺っちも」
「……」
 クソが、心を読むな、と内心で毒づく。というかへこむってなんだ、こっちの台詞だ。一旦深呼吸を挟んでから、できるだけ嫌味ったらしく聞こえるよう、吐き出した。
「──振られたのはこちらの方なのですけど?」
 つんと顎を突き出して言ってやる。天城は眉尻を下げ、ため息混じりに答えた(なんだその顔、可愛いとか思わないからな、別に)。
「そう思ってンのはおめェだけっしょ。俺っちはまだ返事してねェ」
「え?」
「はなから返事を聞く気がなかったろ? おめェはさ」
「はあ、いや。そんなこと──」
 口を噤んだ。そんなこと、ある。確かに俺はこのひとから返事を受け取ることを拒んだ。
 一度目はあの夜、公衆トイレで。彼が返したのは親愛の〝好きだぜ〟であって、俺の持つ別種の好意に対しての回答を持ち合わせていなかった。二度目は昨日、階段で。痛みを堪えるみたいな顔で何かを口にしようとした彼を遮って、逃げた。
 つまりどういうことだ。先程の言葉を捻ったり穿ったりせずに受け取るならば、『俺は振られていない』ということになるのだけれど。
「おめェが本音を話してくれたから、俺っちも思ってることぜんぶ、話すな」
 そう慎重に前置きをした上で、天城は言葉を選びつつ、パズルのピースを嵌めるみたいに丁寧に並べていく。
「酔っ払ってメルメルとヤったって聞いた時は、その……最低なこと言うけど、〝もったいねェ〟って思った。だって記憶ねェんだもん。マジでなんも覚えてなくて、わりと本気で落ち込んだンだぜ。そんで次があったらいいのにって考えたンだよ。このへんから俺はちょっとおかしい」
「──そう、ですか」
 さああ、とふたりの間をぬるい風が吹き抜けた。夕暮れ時の濃い草木のにおいがした。
「絆されてるんじゃないですか?」
「それは、うん、そうかも、わかんねェ。でもメルメルが知らねェおっさんと会ってンの知って、びっくりした。つうかショックだった」
「……はい」
「ひでェことされて、でも会いにいくのやめねェじゃん、おまえ。俺はそのことにショック受けてるンだと思ったわけ。でもたぶん違う」
 一度言葉を切り、俯き加減だった顔を上げる。西日が沁みるのか微かに潤んだ碧の双眸が、またあの縋るような色をして俺を射抜いた。
「ほんとはすげェやだった、すっげェやだった! おまえ俺以外の奴にも触らせてンの? ンなの耐えらンねェよ、俺だけにしてほしい、危ねェことすんなってのとは別にもう一個でっけェのがあるンだよ、身勝手で嫌ンなるよな? ……もうなァ、最近ずっとぐちゃぐちゃで参ってンだ、俺」
 どんな時でも泰然自若としていたはずの男が、泣き出しそうな顔をしてひと息に捲し立て、自己嫌悪に自らの前髪を乱している。親とはぐれた子どもみたいに、途方に暮れて立ち竦んでいる。俺は勢いに気圧されて一歩後ずさった。
「う、嘘だ」
 ──ええと、それはその、嫉妬とか独占欲とか、そういう類いのやつだろうか。ぐちゃぐちゃなのはこちらも同様で、勝手に口が動いていた。
「そんな素振り見せなかったじゃないですか! 一度も!」
「見せられるわけねェっしょ? おまえにとって俺はなんでもねェんだし!」
 それは俺が言ったことだ。昨日、どうして天城があれほどまでに怒っていたのか、やっと理解した。まだ信じきれてはいないけれど。
「やだって言いたい、俺のもんになってって言いたい。これが惚れてるってことならたぶんそうだよ、おまえが好きだ」
「……本当に?」
「本当に。俺はおまえに、どこにも行くなって言える立場になりてェの」
 言語処理能力が著しく低下したみたいだった。何を言われたのか十五秒くらいかけて咀嚼して、飲み込んで、意味がわかった瞬間から一気に、顔に熱が集まりだした。あつい。嬉しい。本当に、嘘じゃない? 嬉しい。どうしよう。好きなひとからこんな風に言ってもらえたの、初めてだ。
 浮かれるあまり足の裏が地面を離れてしまいそうになる。身体の奥から湧き上がる衝動を抑え込みながら、それでも俺は逃げを打つ。
「でも俺は男なんですよ。俺は……『俺』は『HiMERU』の、」
「メルメル。なァメルメル、俺がずっと話し掛けてンのはおまえだよ、聞こえねェふりしないでくれよ」
「……っ、相棒を演じているうちに、脳が恋愛感情と勘違いしてしまったのでは? あなたは本来『こちら側』のひとではないのだから、一過性のものかも」
 もし〝やっぱ勘違いだった、なかったことにしてほしい〟と別れを告げられたら? その時こそ俺は、いよいよ苦痛と屈辱に耐えかねて、消えてなくなってしまうかもしれない。
 ノンケと恋愛をしても、恋した相手に捨てられる恐怖と隣り合わせ。だったらいっそ始まらない方がいい。夜ごと悪夢で目覚めるよりもずっと。
「先のことなんかわかんねェよ、でもだったらなんだっての? 始めなければ終わることもねェって? 俺は嫌だぜ、そんなの」
 いつしか橙色の空の半分ほどが深い青に染まりかけていた。間もなく完全に陽が沈む。どこか異様な静けさが辺りを覆う。
 その手がこちらへ伸びてきて髪を掬い、頬に触れた。そこでようやく俺は、目尻から伝い落ちる雫の感触に気づく。すぐそばで息だけで笑う気配がする。
「ふ……ばァか、泣くくらいなら愛してほしいって言えよなァ」
「っるさい、ばか……」
「なァ、試しに信じてみてくんねェ?」
 男の手はするすると器用に顔の輪郭を辿る。顎にかかった親指が口を薄く開かせた。いつの間にこんなに近くに立っていたのだろう。
「終わらせねェから。おめェがもうたくさんって言うまで絶対終わらせてやんねェ。よォくご存じだろ。俺、けっこう一途だぜ?」
 熱っぽく囁いて、くちびるを甘く吸った。

 青の時、ブルーアワー。世にもうつくしい停滞。刹那がとこしえになるひと時。幻想的な薄暗がりの中で、彼の男の輪郭だけが、背景に溶けることなくはっきりとそこに在る。
 俺のアイドル。俺にとっての一等星。夢想ではない本物の天城燐音が、初めて俺に口づけをした。

「……で? コイビトにしてくれンの?」
「ん……許可します」
 気恥ずかしくてちいさな声でそう返すと、「なんで上からだよ」と笑った。穏やかな笑みに思わず見惚れかけて──ああそうだ、俺からもひとつ、伝えておかなければならないことがある。
「天城、天城。耳貸して」
「うん?」
 ちょいちょいと手招きをして、近くへ呼び寄せる。たった三センチの身長差なのに屈みすぎだ、というのは置いておいて、そっと耳打ちをした。

「酔っ払った天城とセックスしたという話、あれ、嘘です」

 今日いちばんの悲鳴が、星あかりのともりはじめた藍色の夜空に細くたなびいて、やがてかき消えた。
 
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