ルート65537
ここ二日ほど見ていた天井だ。
はた、と目覚めて穹はぼけ、っとその天井を見つめる。視界の端に本棚。皺の寄ったシーツ、ソファーベッドではない低い位置にある寝床。このゲームの中での丹恒の部屋だ、とすぐに理解する。
丹恒の姿はベットの上にはなかった。部屋は暗い。外も暗いが、昨日と同じくらいの月明かりがあって、次第に目が慣れていくうちに物の輪郭もはっきりと見えるようになってきた。
体はまだ少し重い。汗をかいた、気がする。気持ち悪くはないが、すう、っと背中を風が通り抜ける度にぞく、っと少し冷えたように感じる。最後に着ていたのは制服のはずだったけれど、今はきちんとしたパジャマに着替えさせられていた。恐らく丹恒のものだろう。
影がベランダから部屋に伸びている。丹恒はベランダの硝子戸を開けたまま、そのサッシの縁に腰掛け、月明かりで本のページをめくっていた。「……目、悪くなるぞ」と尋ねてすぐ、丹恒がふと顔を上げる。起きたのか、と彼は静かに本を閉じていった。
「喉は」
「からから」
「腹は」
「……んー、減ってない」
「それでも何か少しはいれろ」
丹恒は立ち上がると、部屋の中に戻って寝床を越え、水場の方へ歩いていった。バタン、と何かを開く音、ガラスのグラスが立てる綺麗な音、そこへ注がれる水のくぐもって透き通った音。足音は静かにまた近づいて、ぽい、と何かをこちらに放り投げてくる。かしゃ、と音がした。パウチに入ったゼリーだった。
「甘やかしてくる」
「急に熱が出た後気絶したのは覚えてるか」
「ぼんやりと?」
「熱は下がったか?」
伸びてきた手が額に伸びてくる。思わず、反射的に体を後ろへ引いてしまった。あ、と思った時にはもう遅い。それに気付いた丹恒が、一瞬、少し悲しそうな顔をする。手は再び額に触れる前に引っ込められてしまった。少し待っていろ、と彼は再び立ち上がって、スツールの引き出しを引っ張っていく。
ん、と今度は小さな装置が放られてくる。ぱたん、と布団の上に落ちてきたそれを見てきょとん、と穹は首を傾げる。
「なにこれ」
「体温計だ。ここにはスキャナーがないからな。電源を入れたら、細い方を脇に挟んで十数秒静かに待つ」
言われた通りに小さなボタンを押して電源を入れ、細い方を脇に挟んだ。汗がまだのこっていて、少しべたべたとする。待っている間に、先に放られたゼリーを口に入れて啜る。ものの十数秒で胃の中に納まった。ん、と続けてグラスに入った水を差し出される。一口飲んだ後、ごくごくとすべて飲み干してしまった。
ゲームをしているはずなのに感覚はリアルだ。脳波がどうとか言っていたから、これも多分頭の中で起きているただの錯覚の類なのかもしれない。グラスを空にすると、それを受け取って「まだいるか」と丹恒が尋ねてくる。緩く首を振ったタイミングで小さな機械音がなった。ん、と手を差し出される。脇に挟んでいた体温計をそのまま彼に渡した。
「元から体温は高いから、下がった方だろう。何か気になる所はあるか」
「ない」
「そうか。じゃあもう少し寝ていろ。またぶり返すかもしれない」
「ん」
言われるがまま穹はまた横になる。しばらく物音が響いた。その物音が妙に気になって、聞きながら耳を澄ませる。跳ねた水飛沫がシンクに落ちていく音、グラスを置く音、きゅ、っと蛇口をひねる音。足音がまたこちらに近づいてくる。丹恒はまた寝床を通り過ぎ、ガラス戸の近くに置いていた本を拾い上げた。
「お前のところで寝てる。何かあれば起こしに来ていい」
「え? 何で?」
「何でも何も……。お前がそこを使っているから代わりに使おうとしているだけだ」
「だから、何で? 丹恒も寝たいなら寝ればいいじゃん」
昨日だってその前だって一緒に寝ていたのに、何を今更寝床の交換をする必要があるのだ。あ、ちょっと汗臭いかな、と穹はすん、と軽く胸元のパジャマを引き上げて匂いを嗅いでみる。少しだけ丹恒の匂いがする。頭もちゃんと匂いのことを覚えてるんだな、としみじみとしながら一旦手を離した。
「嫌じゃないのか」
「何が?」
「……いや、――わかった。暑いからと蹴り出すなよ」
「むしろ今はちょっと寒いから大丈夫だろ」
丹恒は本をそのあたりに積み上げた本の上にさらに重ねて置いていくと、そっと寝床に乗ってきた。穹が布団の端を捲り上げてやると、それを引っ張ってそのまま横になる。じゃあおやすみ、と、彼はそのまま穹に背を向けてしまった。
何故急に熱が出たのか――本当に、なのかが言った通り知恵熱だったんだろうか? 分からないまま今横になっているけれど、今は丹恒がいるから花火に聞くのもな、と彼の背を見ながら考える。いや、でも彼はただの自分の億質から皮を持ってきたこのゲームのシステムにしか過ぎないのだし、もしかしたら他のNPCと同様認識しないかもしれない。ただ、今花火を呼んだところできっとけらけらと笑って揶揄われるだけだろう。
何か、どこかで起きたエラーをずっと見落としていたんだろうか。本当は他の攻略対象が行うはずの行動を、誤って丹恒がしてしまったとか? 可能性としてはあり得るのかもしれない。まさかこのまま攻略対象がバグを起こしたままゲームが進むのだろうか? そうなると、進むルートと言うのは――。
「……丹恒?」
「……なんだ」
「あ、いや、こっちの話」
ゴメン、と謝ったけれど、結局丹恒は穹の方を振り向いた。目の前にある彼の顔は、やはり間違いようもなく彼のものだ。じっと黙ったまま見つめてくるものだから、そのうち視線に居た堪れなくなってしまい、ふい、っと穹の方から視線を逸らす。本当に何もないから、と言ったところで信じてくれるのだろうか。何を言うべきか迷いながら言葉を探す。何も言えないままだった穹の代わりに口火を切ったのは丹恒の方だった。
「――三月が」
「え?」
「お前が知恵熱を出したと言っていたが、……本当に知恵熱だったらすまない」
「何で謝んの?」
「……朝から変だっただろう。もしかすると昨日の、……ことを――考えていたのかと」
静かに目を見開いて、穹は尋ねてきた丹恒を凝視した。彼は先ほどと違い真っすぐにこちらを見てはおらず、所在無げに視線を落としている。瞼に前髪がかかっているのにそれを除けもしない。手を伸ばして流してやってから、「何でキス?」と、穹は彼に尋ねた。「……なのが言ってた。家族にはしないもんだって。くちびるは」
「……そうだろうな」
「友達ならするのか?」
「人によってはそうかもしれない」
「それは、気持ちいいから? ……丹恒もそう言うの興味あるのか」
むっつりか、それならそうと言ってくれよ水臭いな、と穹はそれをなんだか照れ臭くなって茶化そうとしたのだけれど、不意に伸ばした手を取られて何も言えなくなった。握られた手は少し冷たい。自分の手はまだ酷く熱かったから、その冷たさが心地よいくらいだった。何、と尋ねながら、少しずつ自分の手のひらに触れて温かくなっていく彼の手の温度を追う。
「一時的な快楽や心地よさのために口付けをしようとは思わない」
「……じゃあ、昨日のあれってなに」
「これ、と名を定めるのはまだ、……わからないというか」
「したいからしたくなった?」
尋ねた言葉に、丹恒は答えない。何だろう、この胸の方からふと降って湧いてきたくすぐったさのようなものは。穹はこの、目の前で今、困ったように眉を下げて、視線を彷徨わせては何かを考えるように静かに瞬きをして、けれど、まだ一向にこの手を話す気のない男が、青年が、友人が、親友が、酷くかわいい生き物のように思えて仕方がなかった。それと同時にごめんな、と心の中で謝る。結局は、目の前の彼はただのシステムで、しかも本来与えられたはずの役から逸脱したかもしれないイレギュラーで、バグで、つまりはそう言った偶発的なものによって動かされているだけのものなのだ。そこに自分は親友の姿を憶質から被せていて、こうやって触れて、言葉を交わしている。
本当の丹恒は、きっと今頃列車でアーカイブの整理でもしているだろう。そんな彼に自分の億質の所為で、恐らくは彼が考えもしないことをさせている。かもしれない。
丹恒の事は好きだ。好きだけれど、それをこんな風に感じた事は今までなかった。もしかすると、思っていたよりずっと自分は彼の事が好きだったんだろうか? それこそ、口付けの理由を、彼に問い尋ねてみたいくらいには。
知ってどうするつもりだったのか、自分でもまだよくわからない。答えが見つからない。誰かに恋などしたこともないのだから当たり前と言えばそうなるのだが、誰かの事を好きでいても、それが形を変える瞬間なんて今まで知りようもなかった。「驚いたけど嫌じゃなかったよ」と答えた穹に、丹恒が漸く顔を上げる。こちらを見る。「俺も触ってみていい?」と確かめたくて尋ねると、彼は少し驚いたような表情になった。言葉もなくただ一度だけ頷く。掴まれていた手が離れたから、少しぬるくなったその手を穹は目の前の丹恒に伸ばした。
触れた感触は柔らかい。もう少し冷たいと思っていたけれど、今の自分の掌より少し熱いくらいだ。黙ったまま、丹恒は触れてくる掌を気にするように所在なく視線を反らす。昨日彼がそうしたように、近づいてくちびるに少し触れてみた。昨日感じた柔らかさは一瞬だったけれど、こちらから触れてしまえば時間はいくらだって引き延ばせた。口付けて離してみても、柔らかくて、温かくて、思っていたより気持ちがいい、としか思えない。嫌悪感はなかったし、なんだかもっと触れてみたいとすら思う。
ぐるぐると、頭の中を「あれ?」「なんで?」「俺ってもしかして」「丹恒の事好きだったのかな」と言葉の切片だけがぐるぐるとまわり出す。は、と呼吸を深く零して己の息苦しさに気付く。穹は、無意識にもう一度丹恒へ口付けていた。ごめん、丹恒。勝手にこんなことして。くちびるを放して、視線を交して、少し目を伏せると今度は丹恒の方からまた口付けてくる。
互いに熱に浮かされたようにぼう、っとしている。息苦しさのせいか少し視界がとろんとして、体の中が酷く熱い。汗ばんだ首筋に手がまわる。項へ回ったその手に引き寄せられて、今度は深くくちびるを重ねた。それまでただ合わせるだけだったくちびるが、もっと深く重なり合う。どうすればいいのかも分からずに、穹はただ丹恒の胸に手をついた。
「――そうだって分かると、なんかちょっと……空しいな」
「……空しい?」
「だってさ、丹恒は、……本当の丹恒は、俺とこういう事したくないと思う」
「どうしてそう思うんだ」
「んー……、だってさ。俺に都合が良すぎるだろ?」
もしかすると、自身に自覚がなかっただけで、ずっとこんな風に触れてみたいと心の奥底では思っていたんだろうか? 思いがけなく自分の内側を暴かれてしまったようで、今酷く心細かった。問い尋ねてくる声はどうしたって優しくて、耳に触れてくすぐったくなるほどで、余計に自分の都合のいいように螺子曲げられているような気さえする。いや、でも、丹恒は元からこんな風に優しく答えてくれていた。そんな彼を好きだった。多分この先も嫌いになることはないだろうな、と思う。
「まあ、これで『分かった』だけでもよかったのかな? ――なあ丹恒。俺、多分丹恒の事好きだと思うんだけど、お前は?」
「…………、」
「なら、今回は一緒ってことで。……ゲーム的にはこれでクリアじゃないか? ――早く終わってお前に会いに行きたいよ、丹恒」
それから、これがゲームで、本当の彼は目が覚めてもいつも通り親友で、変わらず自分の冗談や行動に呆れて、時々心配してくれて、何かあればすぐに飛んできてくれて、頼るだけそれに答えてくれて、傍にいることを許してくれるであろうことを、会って確かめたい。
「そういう、今までの俺達にさ、多分――これはなくたっていいんだ。むしろ余計かも。ここからバグでも一応条件通りだから、ゲームが終わると想定して、今だから言うんだけど――俺さ、攻略対象、とかいって友達が出てきたあと、このままなし崩しに皮を被せられたシステムとでも、こういうことしちゃうのは、なんか嫌だなって思ったんだよ。これまでの友達でいられなくなりそうで。……だから、これで一旦忘れる。そんで、やっぱ、……どうしても忘れられなかったら、その時はちゃんと本当のお前に言わなきゃな」
先ほど自分がそうされたように、穹は丹恒の首筋に手を回して彼を自分の方へと引き寄せた。口付けて、ちゅ、っと軽くそのくちびるを吸い上げて、それから甘噛みをして離す。もう一度深く口付ける。どこかまだぼんやりとした表情で、丹恒が尋ねてきた。
「何を、……言うんだ」
「んー? そりゃあさ」
――俺、お前の事、好きみたい? って。
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