ルート65537
ベルは鳴る。
静まり返っていた教室で、すでに数回。がたがたと椅子や机が床に擦れ、俄かに騒がしくなる。続けてその騒がしさの後に、あれ、と声がした。きゅーう、きゅうー? 「――穹? 穹ってば!」と、目の前にひらひらと手のひらが揺れる。それでも穹が全く反応しないものだから、目の前に現れた少女ははて、と首を傾げた後、誰かを探すようにきょろきょろと視線を彷徨わせ、再びあれ? と首を捻った。
「丹恒は? どうしたの」
「へっ!?」
「あ、やっとスイッチ入った。何? さっきまで寝てたわけ?」
少しずつ頭の中に情報が入ってくる。騒がしかった教室は、今半分ほどの生徒が教室の外へ出、何人かが等間隔に並んでいた机を寄せ集めて広いテーブルに替え、各々そこで昼食を取り始めている。丹恒、と聞いて穹は彼が座っていたはずの席を見た。だがそこに彼の姿は既になく、彼が一体いつからいなくなっていたのかも記憶にない。無言のまま首を振ると、なのかはよくわからないと言った表情で、また首を傾げる。アンタ、どっか悪いの、と続けて尋ねてきた。
「なんかぼんやりしてるし。具合悪いなら保健室行く?」
「いや……、平気」
「そう? 屋上行く?」
「……行く」
自販機だけ寄る、と穹はなのかに答えて席を立つ。居なくなった丹恒がどこに行っているかは少し想像がついている。昨日の昼もそうだったから。
なのかと共に自販機によって飲み物を買って、二人で屋上へ上がる。丹恒はまだ来ておらず、屋上も今日は数人がフェンスを背凭れにして隅に座っているだけで人は少ない。「今日は学食の日替わりランチが食べ時」となのかが端末を見ながら言う。「今日は辛さ選べる江戸星カレーだって。だから屋上にみんないないんだ。穹はよかったの?」
「気分じゃない」
「ふうん? ……いやホント何」
さっきから変だし、いつも変だけど今日は特に変、となのかは続けて尋ねてくる。彼女は昼食を持ってきていて、水色とピンクの花がプリントされた布の包みを開いてそこからランチボックスを取り出す。いただきまーす、とフォークの先に頭足類を模して切り込みを入れたウィンナーを突き刺し、あーん、と先に食べ始めた。穹が買ってきた飲み物にストローすら刺さないのを見、自分のランチボックスと穹を交互に見、次第に信じられない、とばかりに表情を強張らせていく。
「え? え!? 本当にどうかした? ウチのハンバーグ勝手に取っていかないじゃん」
「ハンバーグ」
「それを見越していつも姫子に一つ多く入れてもらってるんだけど!? 何、悩み?」
「悩みって言うか……」
「悩みなんだね!?」
思い切りが早い。まだ何も言っていないんだけど、と突っ込むのは諦めた。何々お姉さんに言ってごらん、とこんな時ばかりお姉さん面をしたがる彼女は現実そのままだった。まあ、システムに言ったところでただの現状整理にしかならないだろう。穹は淡々と彼女に今自分の頭の中にあることを零してみた。
「友達にさ」
「うん」
「急に」
「急に?」
「キ――……、やっぱ何でもない」
「は!? ここで言うの止めるの!?」
何それキって、となのかはずい、と詰め寄ってくる。ねえねえねえねえ、と言葉の続きを促すように身を乗り出してくるものだから、それに押されるように穹も体を斜めに傾けた。そのうち、なのかの体重がこちらに少しずつ寄りかかっていく。よもやそのまま押し倒されるのではないか――とくっついてくる彼女を支えるようにそのまま一緒に倒れてやっていると、不意に階段を上って、屋上の扉から誰かが出てきた。その扉からすぐに見える位置にいた穹となのかは、出てきた青年に、あ、と声を上げた。「丹恒」と先になのかが声をかける。その拍子にこてん、と穹はそのまま屋上の床に体を転がした。
「ねえー! 何? 何なの!?」
「…………」
「…………」
「ねえ丹恒何か知って――え。何? こっちも変なの? どういうこと?」
無言のまま、丹恒はこちらを見上げている。彼は買ってきたパンを二つ穹に差し出してきた。味の異なる総菜パン。穹はそのうちの一つを選ぼうとして、結局昨日と同じように素直に自分の好きな方を選べずに一度手を引っ込めた。
「丹恒が先に選んで」
「いいのか」
「買ってきて貰ったし文句は言わないって。丹恒はお茶でよかった?」
「ああ。ありがとう」
昨日もこんな風にそれぞれにパンと飲み物を二つずつ買って交換した。それが当たり前の事のように。この世界でも彼は自分の親友。隣の部屋に住んでいるし一緒に寝るし、もはや家族みたいなものだ。なら、家族にキス、くらいはするよな。するかも。
「しないでしょ」
「嘘~」
結局、あまりにも様子が可笑しい、と丹恒もぼんやりとしていた穹を不可解に想い、ちょっと触るぞ、と額に触れられて、熱がある、と穹はそのまま丹恒となのかによって保健室に無理矢理担ぎ込まれた。カフカは丁度離席中だったが、入ってすぐの大きなソファが空いていたので、そこに座って今丹恒が来るのを待っている。さっきの話の続きだけど、となのかに家族にちゅーってする、と聞いたら返ってきた答えがそれだった。なのかは続ける。
「挨拶とかで頬をくっつけるとか、ハグするとか……そういう文化圏はあるっていうのは聞くけど」
「されたのはくちびる」
「口~? ないない。酔っぱらってキス魔になってたりとか? それなら許してあげなよ。酔ってたんだし」
「素面」
「警察行く? こういうのって専門の相談所とかだっけ?」
あれ、でもアンタの親って今いないんじゃ、となのかは首を傾げる。まあ元々人造人間だしいるはずがないのだが、ゲームの設定上そう言うことになっているらしい。どうせ星外にいるだとかそんなところだろう。
「そうか……。そうだよな……? なのとちゅーするつっても、精々ほっぺたとかだもんな」
「乙女のくちびるは安くないからね~。って何……? ウチとちゅーしたいのアンタ……?」
「やめろ、フラグを立てるな。そのつもりもない。美少女が美少女とちゅーしても絵面的には可愛いだけだけどお断りだ。俺はもっと自分を大切にしたい」
「そこはウチに『もっと自分を大切にしろ……』って言うとこでしょ!? 何、フラグって? ていうか、アンタ自分の事美少女だと思ってんの?」
「は? どこからどう見ても美少女だろ」
「はいはい。――で、その美少女ちゃんが、なんでキスのお話で知恵熱出してるんでちゅか~?」
そう揶揄うように、なのかは額をとんとんと指で叩きながら続けて尋ねてきた。それをうざ、と払うようにして避け、穹はハア、と深く息を吐いた。熱がある、と言われると途端に本当に体が熱く、怠くなってきた気がする。怪我なんかもそうだ。傷口を見たりしていないうちは痛みなんて気にならないのに、いざ抉れた皮膚を見ると急に痛みが増すような気がする。
熱もあるし早退しよう、と丹恒が言って十数分。早退の手続きと、教室に置いた荷物を持ってくる、と言ったきり、まだ彼はここに戻って来ていない。急に熱出すなんて知恵熱か何かでしょ、となのかは端からそう決めつけて、穹にぼんやりの理由くらい聞くよ、と話をしてきた。話す気はなかったのだが、あまりにも執拗に尋ねてくるので結局は穹が折れた。こうなると思ったから聞くのを止めたんだ、と穹は一つ息を吐く。
「まあ御覧の通り。全然わかんなくてさ」
「わかんないも何も。そもそも、酔ってないなら、好きでもないのにキスなんてしなくない?」
「そういうもん?」
「気持ちいい事が好き、とか……そういう人は別だろうけど。ああ……なんだっけ? キスだけする付き合ってない友達関係とかもあるもんね。添い寝するだけとか」
「……なるほど」
丹恒もこの世界では思春期――設定上は学生だ。そう言うこともあるのかもしれない。添い寝もしているし。つまりシステムに振り回されている。考えない方がいい、とわかっているのに、彼が丹恒の姿をしているばかりに。こんなに気になるのは、もしかして自分が彼の事を好きだからなんだろうか? 確かに丹恒の事は好きだ。でも、その好きがどんな好きかなんて今まで考えたこともなかった。あんな風に触れられるまで。
「ていうか、家族にされたって、キスを?」
「いや……厳密には……友達?」
「友達なら、もうそれってアンタの事好きって事なんじゃない? ――え!? まって、されたの!? 嘘、ウチの知ってる子?」
「……ノーコメント」
「されたんだ!?」
知っているも何も先ほどまで一緒にいた男ですけど、と穹はなのかに答えられないまま、もったいぶってないでいいなよ、ウチらの仲でしょ、と好奇心が今にも爆発思想になっているなのかに、続けて額をずんずんと指で突かれる。お前の爪痛いんだよ、と恐らく額にいくつも出来ている三日月型の跡を思い浮かべながら、穹はどういうつもりだったのかなあ、と考える。昨日、一通り攻略対象と会ったが、誰のルートに入るつもりもなく、接触を絶っていたから、エラーでも起きたのだろうか。穹はなのかを見上げ、ふと尋ねてみる。
「なのは俺の事どう思う」
「へ? ……どうって」
「好きとか嫌いとか」
「何、改まって。……き、……嫌いじゃないけど?」
「あ、マジで勘違いしないでくれ。本当にお前とフラグを立てる気は一切ないから。俺は何かあった時、お前のノンデリ発言に耐えられる自信がない繊細な心の持ち主なんだ。悪いな。他を当たってくれ。銀河も広いし、どこかにお前がいいって言うやつは絶対にいると思う。……まあ、その、……多分。一人くらいは」
ハア? となのかは眉を顰め、少し機嫌を損ねたような表情をする。よし、これで好感度も少しは下がっただろう。セーフだ。穹は、こんな風に――碌に会話をした覚えがあるのだって、昨日はなのかと丹恒くらいのものだったな、と記憶を整理する。誰かと出くわすイベントをすべて回避していて、殆ど丹恒と行動していたから攻略面の進捗はゼロのはず。ゼロであるのなら現状は変わらないはずなのだが――。
考えても仕方がない。今は花火を呼び出すわけにもいかないし、一人になった時にエラーが起きているかくらいは聞いてみてもいいだろう。というか、と穹ははくはくと何度も意識的に呼吸を続ける。少し、苦しい。本当に頭がくらくらとしてきた。熱が上がったのだろうか、とぼんやりとし始めた視界で天井を見上げる。水に溶けていくみたいに視界が流れる。遠くで音が響いて、あ、丹恒、となのかの声が意識の上を通り過ぎていった。額に触れた何かが冷たくて心地よく、額に張り付く熱を逃がしたくて、もっと触れていたくなる。穹はその熱に額を摺り寄せ、ほっとしてそのまま意識を手放した。
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