ルート65537
間に合った、と息切れをしながら、穹は玄関に辿り着く。
約一時間前、穹は何も知らないまま、ぼんやりと起き出して、部屋の外に出ていった丹恒を起きる時間かあ、と思いながら見送っていた。彼は顔を洗って戻ってきて、何でまだここにいるんだ、とでも言いたげな視線を穹に向け、「朝食は」と尋ねて来たので、食べる、と答えて彼と二人で食卓を囲んだ。
焼いただけのパン、両面を焼いた目玉焼き。それに加えてオレンジジュース、丹恒はコーヒー。食べ終わってその食事をした部屋でぼんやりとしていると、丹恒はさっさと服を着替えて鞄を手にし、どこかへ出かけようとした。どこに行くのかはわからなかったけれど、「行ってらっしゃい?」と、彼に声をかけると、彼は何故か訝し気な表情になり、お前は行かないのか、と穹に尋ねてきた。何の事、と尋ね返した穹に、彼は不可解な表情を浮かべたまま、学校に、と続けたのだった。
そこから十五分、穹は慌てて状況を整理――つまりは、自分の設定を理解することになった。ある朝目覚めると記憶がすべてなくなっていた。そう親友に話すと学校ではなくまず病院に連れていかれることは明白だったので、制服破れた、なんて嘘を吐いて、少し太腿の周りのサイズがきつい、丹恒のスラックスを借りてシャツを着て学校へ向かう羽目になった。
会話の断片から推測、するに、どうやら自分と丹恒は幼馴染で、アパートの部屋も隣、部屋と部屋はベランダを隔てて繋がっており、尚且つ部屋と部屋の間を隔てる仕切りが壊れ、何故か度々丹恒の部屋に勝手に入り込み眠っていた――らしい。それを裏付けるかのように、すこしくたびれたスニーカーが隣の部屋にあったし、その部屋の鍵は自分が持っているキーホルダーにぶら下がっていたものだった。玄関に鞄が放置してあったのでこれ幸いとさほど重くもない鞄を片手に玄関を出ると、急げ、と丹恒が急かしてきた。
学校までは走って平均十分。準備に時間を取られていたから実質七分程度しかなかったが、どうにか間に合ったようだ。同じようにギリギリで学校に滑り込んだ生徒の姿も見える。この後どこに行けばいいんだろ、とその場に立ち尽くしそうになったが、行かないのか、と丹恒に促され、穹は彼の後をついていった。
教室は既にほぼ席が埋まっていて、丹恒が先に空いていたうちの一つに腰掛けたので、じゃあのこりだな、と迷わず選んで座ることが出来た。朝からどっと疲れた、と席についてぐったりしていたところで、教室に入ってきた教師が「ホームルームだ、席に付け」とぴしゃりと言い放った。その瞬間がやがやと騒がしかった教室の中が静まり返る。どうみてもドクター・レイシオだなあ、と入ってきた男の姿を見て、役職や固有名詞を持つ登場人物は同様にビジュアルを借りているってこういう事か、と遅れて理解した。
ではつまりあの丹恒も、プレイヤー、つまり主人公である自分の親友のビジュアルを借りているのだろう。どう見ても丹恒本人だが、参照元が自分の憶質なのだから、そりゃあ本人に近いはずだ。周りを見渡してみれば、確かに見覚えのある顔が何人もいる――ような気がする。
レイシオの話をほぼ右から左に聞き流していると、ホームルームの終わりを告げるベルが鳴り響いた。そのベルと共にまた教室の中はおもちゃ箱をひっくり返したようにざわざわと賑わいはじめ、何人かがタブレットを手に教室を出ていく。どこに行くんだろ、とそれをぼんやりと見ていると、「移動だぞ」とぽん、と軽く頭をタブレットで小突かれた。どうやら次の授業のために部屋を移るらしい。
忘れてた、と誤魔化すようにそう言って、穹は鞄から自身のタブレットを引っ張り出し丹恒の後に続いた。入った部屋は横に四人ほど座れる長いテーブルがいくつも並んでいる部屋で、部屋の隅にはシャーレやフラスコ、顕微鏡といった道具が並べられていた。化学分野の授業か、と遅れて気付く。なら教師は、と想像していた通り、ゆったりとした動作で部屋に入ってきたのはルアン・メェイだった。
何を言っているのか半分もわからないまま授業を終え、また次の授業、次の授業、次の授業。もう飽きた、と穹は何一つゲームらしいやりとりがないことに集中力が切れ、やってられるか、と教室を飛び出しかけた。それを、「昼は上で食べるのか」と丹恒が引き留めてくる。どうやら次は授業ではなく昼休憩らしい。あまりに嬉しくて、勢い余ってやったあ、と丹恒に抱き着いたら、その拍子にビリ、っとしてはいけない音がした。
*
「――丹恒に借りてた制服、破れたんだって?」
腰回りにカーディガンを巻いたまま、帰るまでそれを取ることが出来なくなってしまった穹を揶揄いに、知り合いのひとりが屋上までやってきた。
まあ出てくるよな、と穹は目の前に現れた少女――なのかを見上げ、彼女が同じように腰にカーディガンを巻いているのを見て、「おそろいだな~」と答えながら丹恒の方へ頭を傾けた。「俺と被るから今日は取ろうぜ、なの」
「なんでウチがアンタに遠慮しないといけないの? お尻破れちゃったのアンタの方じゃん」
「穴から今日のパンツ丸見えで可哀そうだと思わないのか!?」
「丹恒の制服は可哀そう」
「それはそう」
でも本当に笑えるくらいケツからぱっくりいったんだぜ、と穹はパックのジュースをストローで啜りながらなのかに答える。もはやゲームということを一瞬忘れそうになっていた。もしかすると、と穹はなのかを見上げ、きょとん、とした表情でこちらを見下ろしている彼女をじっと見つめる。違和感。この違和感は恐らくあれだ、とすぐに納得する。
「……何」
「いや……。さすがにない。なのはない」
「何が? 今なんかすっごい不名誉な天秤に掛けられた気がするんですけど」
「いや~……ないない」
もはや彼女に対して抱いている感覚を、恋愛感情に切り替えろと言っても難しい話だ。家族に近いから。愛はある。多分。親愛、友愛、家族愛。そういう類のもの。決して恋愛感情にはなり得ないのだ、自分の中では。攻略対象でもなのかはパス、と頭の中で先にルートを潰しておく。そういえば、と穹はふと思いつき、凭れていた丹恒の肩から頭を上げた。
「医務室いってくる」
「医務室? ……保健室のこと?」
「よくわかんないけど多分それ」
「どうした。どこか悪いのか」
「いや、ちょっと気になることがあってさ。あと丹恒、昼からサボるからよろしく」
「何がよろしくなの!?」
食べ掛けのサンドウィッチを口に押し込んで、パックのジュースの中身を飲み干しながら後ろに手を振る。もー、と後ろからなのかの声が聞こえてきたが気にしている場合ではない。この授業を受け続けるくらいならさっさと教師になっている攻略対象を落としにかかりゲームを終わらせる方が早い。絶対いらないぞこのシステム中の授業パート、と苛立ちながら、穹は件の保健室を探して校内を駆けた。
先ほど授業を受けた際に勝手に憶質から拝借されたビジュアルを被ったルアン・メェイには、先ほどなのかに感じたような違和感はなかった。今朝聞いたあの腹の立つぬいぐるみから聞き齧った話を思い出していくと、どうやら好感度システムは目に見えなくなっている。だがゲームと言うくらいなのだから、攻略対象とそうではない登場人物の違いくらいは分かってくれないと狙った行動が出来ない。「おい、どこかにいるんだろ花火」と宙に向かって話しかけると、はあ~い、と人の神経を逆なでするような甘い声が聞こえてきた。肩に違和感がある。
「出たな」
「お化けみたいな言い方する~」
「似たようなもんだろ。馬鹿野郎、半日何もせずに過ごし終わっただろうが。これのどこが恋愛シミュレーションゲームなんだ? 返上しろ」
「んー、製作者が凝り性なんだろうねえ。リアルを追求した結果?」
「スキップ機能の実装求む。授業だるすぎ」
「要望に書いておくねぇ。……で、なあに? 花火を呼び出したってことは~、葦毛ちゃん、何か聞きたいことでもあるの?」
お前に聞くのはかなり癪だけどこのままじゃ埒が明かないからな、と穹は彼女に尋ねる。
「なんか見た時に妙な違和感があるのが攻略対象? なのもそうなんだよな」
「ステータスがオフになってるけど、それはわかるんだあ。そうだよ! さっきの子は『変なコ』のカテゴリ!」
「バカヤロ、攻略対象の見分け方までオフにしてどうすんだ。あまりにリアルすぎてこれじゃ何もわかんないだろ。もう攻略者を一覧で出してくれ。そこから誰の攻略に行くか選ぶ」
「えー? それじゃつまんないでしょ? もっと、びびびってきた子を選ぼうよぅ」
「お前が、俺が困るのを面白がってるのはわかってるからマジで腹立つな。勝手に人の頭からビジュアル借りといて……」
「だって、その方が一から作るより楽でしょ? そういうのを作れないお兄さんだったんだよ、許してあげなよ」
「……お前は俺の憶質からじゃなくて本人だよな?」
「んふふ~、どう思う?」
「くそっ、お前とグルだったのか? あの研究員。まんまと嵌められた」
ぶつぶつと話しながら廊下を歩いていても、こちらを気にするような生徒はいない。ゲームの攻略に関係のないただのNPCだからだろう。つまりこの花火のぬいぐるみがナビゲーターのようなもので、今行っているのはメニュー画面からヘルプを開いている、と言う所だろうか。
「攻略対象が何人かは分かんないけど教師で行く。どうせ攻略するなら綺麗なお姉さんがいい」
「ふうん。葦毛ちゃんってそういうのが趣味なの?」
「綺麗なお姉さんは……だって、綺麗だろ。柔らかくてふわふわしてるし、いい匂いするし……」
「語彙なさすぎ」
けらけらとぬいぐるみが笑う。保健室ならそこの角を右だよ、と彼女は続けた。廊下を折れると、部屋がいくつか並んでいる。ドアの上にはめ込まれたプレートは、確かに保健室、となっている。
ドアを開くと薬のつんとした匂いが漂ってきた。部屋の内装は――ナターシャの診療所とよく似ている。カーテンの仕切りがついたベッドが数台、部屋の隅にデスクと花瓶、それから治療のための道具が乗ったワゴン、洗面器やガーゼ、包帯、瓶が並んだ薬棚。
それらの道具は揃っていたが、肝心の先生の姿が見えない。恐らくナターシャだと思ったんだけど、ときょとんと首を傾げる。留守なのか、と部屋の中に入った途端、あら? と声がした。振り返ると思いがけない人物が立っている。
「カ」
「……穹? もしかして、怪我でもしたの?」
「カ、フカ?」
「ええ。何かしら」
にこ、っと軽く首を傾げ、スーツに白衣を羽織った女性――カフカはそう微笑みながら尋ねてきた。コーヒーの香ばしい匂いがする。手には蓋が付いた紙のカップがある。どこかで買ってきたのだろう。彼女を見た瞬間に気付いた。違和感がある。彼女もまた攻略対象なんだろう。穹はぐ、っとくちびるを噛んで息を吸い込んだ。
「な、なんでもない!」
「……? そう? お昼は食べた?」
「食べた」
「何か違和感があればいつでもいらっしゃい」
その問いかけに、うん、と頷いて、じゃあ、と穹は踵を返す。保健室を出てから、「あれ、いいの?」と花火が声をかけてきた。「教師の攻略対象はさっきの保険医だけだけど……」
「人選ミス! あそこはナタ、もしくは次点、医者じゃないけどブラックスワンでも置いとくべきとこだろ!」
「ええー?」
「いやでも姫子の可能性もあったか……。姫子もだめだ」
「葦毛ちゃんって、実は理想がすっごく高いタイプ?」
「そういうんじゃない。……気付くのが遅かったけど、これ、そもそもゲームとして欠陥があるぞ。攻略対象のビジュアルを俺の憶質から取ってるなら、知り合いとそういう関係になろうなんて俺は微塵も思ってないんだから、そもそもその先入観が邪魔してゲームが成立しないだろ」
「ゲームだって割り切ればいいのに」
「あまりにリアルすぎて頭が切り替わらないんだよ。これで誰かの事を攻略したとして、現実に戻った後にどんな顔すればいいんだ」
「笑えばいいと思うよ? ――ん~、じゃあ本当に残りの子も攻略出来ない? 今なら近くにまだいるけど」
「どこ」
「そこの渡り廊下を出た中庭の方に数人」
どれどれ、と花火に言われるがまま穹は歩いて中庭を覗く。その中庭に、確かに数人女生徒や男子生徒がいる。ベンチに座っているのがブローニャとゼーレ、中央でジャグリングの練習をしているのが桂乃芬と素裳。違和感を感じたのは全員だ。穹は盛大にため息を吐いた。安寧が欲しい。
「丹恒の所に帰る」
「えー? 全員駄目?」
「俺はあいつらが仲良くしてくれてたらそれでいいから……異分子は俺、不必要なのは俺、特にはさまっちゃだめなんだあそこは……ペラとフォフォでも連れてこないと……」
退散だ退散、と声をかけることすらせずに穹は踵を返す。彼女たちに気付かれる前に廊下を戻った。保健室の前まで戻ってきて、廊下を折れる。これじゃ全然攻略が進まないよう、と花火がぽすぽすと綿の腕で肩を叩いてきた。
「駄目なもんは駄目。みんな友達なんだって……」
「ふうん……。――あ、じゃあじゃあ」
ドンッ、と交差した廊下の死角から誰かが飛び出してくる。わ、っと穹は飛び出してきたその誰かを慌てて支えようとする。降ろした長い髪がさら、っと手の甲をくすぐっていく。ごめんなさい、と謝ってきた少女が、ずれた眼鏡を直しながら、顔を上げてこちらを見る。髪もおろしている、表情もあどけない。印象は素朴で、少し地味で、無害そうだ。だが、それが誰だかわからないほど馬鹿でもない。耳元で花火が囁いた。
「――花火は?」
絶対にヤダ。
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