ルート65537
図書室や他の多目的教室、廊下、空き教室――と転々としていく度、知り合いの顔がちらつく。そのいくつかに違和感をおぼえては、ないない、と首を振って、万が一にも会話が発生し好感度アップにつながってはいけない、と逃げるようにふらふらと歩く。こういったシステムは、おそらくキャラ毎にステータスの上り幅が調整されており、初期は上がりやすいだとか、始めは上がり難いがある程度の数値を達成すると他のキャラと同じになるだとか、難易度のようなものが設定されているものだ。万が一にも好感度が上がりやすい誰かとフラグを立ててルートに入るわけにはいかない。穹は逃げた。これが恋愛シミュレーションゲームだということを忘れ、とにかく逃げた。今はなのかですら一緒にいて彼女の心情が急に変化しかねない。
結局昼からの授業をサボる、と宣言した通り、昼休みが終わり再びベルが校舎内に響き渡っても、穹は休むことなく歩き続け、授業に入り生徒たちの賑やかな声が遠ざかり、まるでこの世界に自分一人しかいないような――そんな静けさを感じながら、校内に立てられた妙に静かな建物の中にふらふらと迷い込んだ。気付かれと体力的な疲労のあまり少し感傷的になっている。これはよろしくない。少し眠って忘れるべきだ。
ふらふらと、何も知らずに入ったのはざらついた木の感触が残る、羅浮で見たような構造の建物だった。汗の酸っぱい匂いが玄関先に少し漂っていたけれど、中は開けた空間で扉を閉じてしまえば匂いもなかった。誰かが昼休みに使っていったまま閉め忘れたのか、窓が開いたままで、そこからそよそよと心地のいい風が入ってくる。明かりを燈さずとも外から入ってくるわずかな光のおかげで、中は移動に困るほど暗くはない。程よい明るさだ。
なんとなく、床が綺麗だからか――このまま土足では入っていけないような気がして、穹はその場で靴を脱ぐと、靴を軽く放り、段差を登って、奥の開けた空間に進んでいった。床は磨かれていてゴミもさほど落ちていない。ふらふらと影の濃い場所に引き寄せられるように進んでいき、穹は壁に寄りかかると、そのままずるずると体を床へ倒していった。
呼ばない限り、花火はどうやら自由に喋れないようだ。
あれこれと横から口を挟んでくるのが鬱陶しくなり、もう黙ってろ、と追い払うように言うと、むう、と少し不満そうな声を上げた後、急にぱっと目の前からぬいぐるみが消えた。それから彼女の声は聞こえない。恐らくはメニュー画面を閉じた状態のようなものなんだろう。呼んだらまた出てきそうだしな、と本当に必要な時以外は呼ばないでおこう、とひっそりと誓う。床は硬かったが、スラックスの破れを隠すために腰に巻いていたカーディガンを枕代わりに頭の下に置いて事なきを得た。少し眠ったら丁度授業も終わるだろう。きっとチャイムも聞こえるはず。
疲れ果てていたからか、うとうととし始めてから眠りに落ちるまではすぐだった。もういっそ先に今朝目を覚ましたあの部屋まで戻ったって良かったのだろうけれど、丹恒を置いていくことになるしなあ、とぼんやりと考える。いや、彼もまた自分の億質から姿を借りただけの架空のキャラクターなのではないか? それなら、普段の丹恒とは別人なのだから蔑ろにしても――。
それでも、何となく――これは自分の気持ちの問題だった。彼の事をたとえ本人ではないとしても、何も関係のないふりをするのはどうしても気が引ける。そもそも、この爆弾だらけの世界で唯一自分が安心して息を吐ける場所なのだ。そうだ――そうすればいい。丹恒にくっついていれば他の記憶の皮を被った攻略対象の好感度が勝手に上がることもないんじゃないか、と穹は気付く。
もはやゲームのクリア条件など頭から抜けてしまっていた。どうせゲームなのだ、永遠には続かない。恐らくあの名前も碌に覚えていない研究者が一人で勝手に語っていた内容から察するに、これは夢に近いものなのだろう。ドリームプールを用いればピノコニーの夢境に入れるが、そのピノコニーがあるアスデナ星域に広がる憶質すべてがピノコニーの夢境というわけではない。この地に足を踏み入れ夢を見るだけでピノコニーの夢境に行けるのであればわざわざ高い料金を払ってホテルに宿泊する必要はない。
気を失うまえに被せられたあの妙な装置はゲームのためのVR装置と言っていたか。要するに、今の自分は眠りながらゲームをしているようなものなのだ。ピノコニーの夢の中ではたとえ高い場所から落ちても死ぬことは出来ず、死んでしまった場合は普通のゲストが通常入ることのできない夢の下層へ送られる。つまり、この状態で万が一死んだりしてしまえば、同様にただ深く深く夢に潜っていくだけで、覚醒からはむしろ遠ざかる。ピノコニーでは夢から目覚める方法があったが、あくまであれはドリームプールを用いて夢境に入っていたから出来たことで、普通に見る夢の覚醒方法は自然に目覚めるか、外から起こされるかしか方法がない。
とんでもない悪夢だな、現実の俺は今頃魘されてそう、と泣きそうになりながら意識を手放し、人の気配を感じて起きる。夢にもレム睡眠とノンレム睡眠の波があるように、先ほどの状態は夢の中で眠ったわけではなく、意識が深い所へ落ちて再び浮上しただけなんだろう。おい、と声をかけられ、なに、と目を擦りながら穹は顔を上げる。
ぐるりと自分を囲む影があった。
起きたぞ、起きた、とひそひそと声が聞こえる。一番近くにある影は丹恒のもので、彼はどこか呆れたような表情でこちらを見下ろしていた。何事、と状況が飲み込めない穹に、「起きたか」と彼は尋ねてくる。
「……ひゃい」
「じゃあさっさと起きろ。部活の時間らしい。そこに居られると邪魔だそうだ」
「……オーケー」
それから、穹はいつの間にかうつ伏せになっていたことに気付きはっとして、手を後ろへ回した。もちろん敗れた穴は健在である。ひそひそと周囲のNPCが話している頭に入ってこない声がこのことを言っているような気がして、羞恥を覚えながら枕にしていたカーディガンを広げようとする。それより先に、ばさりと頭上で音がした。ん、と促される。訳も分からないまま腕を上げると、腹の前できゅ、っとカーディガンの袖部分が結ばれた。
「……あ、ありがと?」
「というか、どうせそっちの枕にしていた方も俺のだからな」
「そうだった」
制服は全部丹恒から借りたのだった。ごめんごめん、と代わりに枕にしていた方のカーディガンを返す。丹恒はそれを受け取り、ん、と僅かに眉を顰めた。じとりと、零れた唾で濡れた跡が残っていたので。
丹恒は何故か穹の分の鞄も持ってきてくれていて、穹は再び教室に戻ることなく、そのまま丹恒と帰ることになった。なのはいいのか、と尋ねたが、彼はきょとん、として、三月なら友達ともう帰ったぞ、ときょとんとして首を傾げる。学校から今朝目覚めたアパートまで寄り道らしい寄り道もせず、穹は丹恒と共に真っすぐに家路についた。丹恒の後に続いて部屋に入ろうとしたが、お前はあっちだろう、と疑問符を浮かべて隣の部屋を指さされる。今朝鞄と靴を拾いに来た部屋だった。
それもそうか、と穹は頷いて、破れてない制服は洗って返す、と軽く手を振って丹恒とはドアの前で別れた。部屋に入って、朝は碌に見る余裕もなく出てきた部屋をぐるりと見回す。
さほど物はなく、どちらかといえば殺風景だ。丹恒の部屋の方が本棚にみっしりと詰まっていた本があった分、まだ物が多く見える。ざっと部屋を見渡してもこの部屋が自分のものだとは到底思えない。所在なく、一旦荷物を床に置いて、穹は少し窮屈な制服を脱ぎ、部屋の隅に置かれた洗濯機を見、勘で動かした後、ごうごうと震えるその箱から聞こえてくる音を聞きながら、部屋の中をもう一度見て回ることにした。
ベッドはなく、ソファがあるだけだ。やたらとソファの背に重量感がないので、もしかして、と思いあれこれと試してみると、すとんと背の部分が後ろへ倒れた。ベッドになるタイプのソファのようだ。ブランケットがその背にかかっていて、枕はなく、テーブルはあるが使ってる気配はあまりない。自分の列車の部屋と同じくらい殺風景だな、と思いながら、穹は所在無げにソファの背を戻しそこへ腰掛けた。そのままずるずると倒れ込んでいく。
「不毛だ……不毛すぎる……」
今日したことと言えば、精々学校へ向かい、誰が攻略対象になっているかを見て回る事くらいものだった。明日からは行かなくていいだろこれ、と天井を見上げながら思う。ゲームの開発者と意思疎通が取れるのであれば今すぐにやめだやめ、と叫ぶのに。はああ、と深く息を吐いて、伸びをして、しばらくぼうっと天井を見上げたままでいた。そのうち、がたがたと物音を立てていた洗濯機が止まり、ごうごうとまた別の音を立てて動き始める。この音からして乾燥に入ったらしい。一時間も立たないうちにアラームと共に音が完全に止まり、しん、と部屋の中が静まり返る。部屋はすっかり暗くなっていたけれど、電気を灯す気力さえない。
外が妙に明るいのが気になった。何かあんのかな、とソファから転がるように床に落ちて、そのままずるずると床を這って動く。窓の近くまで来て、その鍵のかかっていないガラス戸を開けてベランダに出た。ベランダの上の小さな屋根のむこう、真上にまん丸の月が浮いている。星の色が霞むほど明るい。その空に、他に薄く写り込む星でも月でもないものがある。「……ヘルタだな、あれ」と呟くと、ああ、と不意に落ちた、とばかりにふと声がした。
「……うわっ!? 居たのか!?」
「すまない。驚かせたか」
壊れたベランダの敷居の向こうに人影があった。もうあとは寝るだけの格好で、丹恒が穹と同じように空を見上げているではないか。驚かすなよ、と深くため息を吐き、穹はベランダの壊れた敷居を飛び越えた。
「……? どうかしたか」
「いんや。あ! 制服多分洗濯機の中で乾燥終わってる」
「わかった。取りにいっていいな?」
「いーよお」
どうせ俺の部屋だけど俺の部屋じゃないし、と穹は答えながら丹恒の部屋に入る。朝目を覚ました部屋で間違いない。真横の部屋と広さや作りは同じははずなのに、こんな風に物がある方が落ち着く。勝手に入った部屋の寝床にそのまま転がった。朝は気付かなかったが、形の違う枕が二つ並んでいる。恐らく片方は、元は隣の部屋にあったものなんだろう。だから隣の部屋には枕がなかったのだ。
しばらくして、ベランダからざりざりとサンダルの底を擦るような足音がした。ガラス戸を閉めて丹恒が部屋に戻ってくる。手に抱えた服をそのままハンガーにかけて吊るし、穹を見降ろして小さく息を吐く。穹が寝転がったまま動く気がないと思ったのか、そのまま体を飛び越えて寝床に乗り上げてきた。
「電気消す?」
「まだ寝ない。眠いなら寝ていていい」
「んー」
半分夢の中にいるようなものだしな、と穹は曖昧な返事をする。明日からどうしようか、とこのまま変化があるまで続くであろうゲームのことを考えると気が滅入る。隠しルートとかないのかなあ、と穹は寝返りを打って天井を見上げた。視界の端に丹恒が映る。もう少し寝返りを打って、そういえば彼が主人公の親友ということであれば、もしかしてライバル枠ということも考えられるのか? 丹恒って誰かの事を恋愛的な意味で好きになることがあるんだろうか? いや、これは丹恒の皮を借りているプログラムだしな、と穹はぐるぐるとひとりで悶々と思考を巡らせる。そのうち、じっと見つめていた穹の視線に気付いて、なんだ、と丹恒が手にしていた本から顔を上げた。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「言いたいことっていうか。話がしたいんだけど」
「……? 改まってなんだ。珍しいな」
「そうかな?」
まあでも、確かに現実でも丹恒と話をしたい、とわざわざ彼に言うこともなかったかもしれない。大抵は自分から、時々丹恒から声をかけて、他愛もない話をした。本当に、他愛もない話を。
「丹恒って好きなやついる?」
「………………」
「え。いるのか」
「……何も言ってない」
けどその沈黙はなんなんだよ、と穹は訝し気な表情で彼を見上げる。こういうのって、大抵はルートに入った場合はヒロインを取り合うことになる場合が多いから、もしかすると今の段階で一番好感度が高い誰かが優先順位の一番になっている可能性はある。今日会った中で一番仲が良かったのはおそらくはなのかだだろう。「もしかして、なの?」と尋ねると、違う、とすぐに返事があった。
「今この場になのがいたらそんなにすぐ否定することなくない? って絶対文句言ってた気がする」
「あいつは何を言っても文句を言うだろう。……ともかく、違う。何をどう見たらそうなるんだ」
「んー、別にそういうつもりはないんだけどさ。いまんとこ一番仲いいし?」
見ただけではあるけれど。なのかとはクラスが違うようで、今日はあの屋上での短時間の接触しかなかったが、恐らくはこの世界で皮を借りている彼女もまた、自分と丹恒とは現実と同じような関係なのだろうと思った。丹恒は何故かそのまま黙り込んでしまう。何か気に障ったかな、とその沈黙の理由が分からずに首を傾げていると、彼は無言のまま読んでいた本を閉じて、「寝る」とそのままパタン、と横になった。「穹。……明かり」
「わ、わかった……?」
明かりを燈すスイッチは壁際にある。消せ、ということだろう。仕方がなく一度起き上がって、穹は部屋の明かりを落とした。カーテンが半分開けたままになっている。明かりを落としても外が月明りで明るいから、こちらに背を向けたその丸い頭の輪郭や体の稜線がはっきり見えた。自分の部屋に戻るべきだろうか、と一度考える。そうだった、枕はこっちに持ってきたままになっていたんだった、と先ほどまで頭を置いていた枕を拾い上げると、丹恒が僅かに頭を上げる。
「――戻るのか?」
「え? えっと……何か機嫌悪そうだから、一人の方がいいかと思って……? ごめん」
「……いや。気にしてない。――おやすみ」
「うん。おやすみ」
寝床を回ってもう一度ベランダに出て、後ろ手にガラス戸を閉める。開けたままの隣のガラス戸から隣の部屋に戻り、穹は殺風景な部屋のソファに倒れ込むように横になった。背を倒してソファベッドにする気力もないまま、抱えてきた枕を胸に抱いてまた天井を見上げる。全く眠る気は起きない。この部屋には何故か見える場所に時計すらもない。端末は朝から見ていない。
なんだか急に孤独になってきた。花火は今頃この様子をモニタリングでもしているんだろうか。それとも呼んだ時だけこちらを見るのだろうか。多分後者だろうな、と確信があった。こんな様子を四六時中モニタリングしたって、彼女からすれば面白くもなんともない。彼女は自分が困っていいように踊っている姿を見たいのであって、ぼんやりと孤独に泳ぎだす姿は求めていない。ピノコニーの夜は夢境では明けない。目移りさせながら今もきっとあちこちをふわふわとスキップで笑いながら歩いているに違いない。
あれこれと考えていたら余計に目が冴えてきた。むくりとその場に起き上がり、穹は再び、枕を脇に抱えてベランダに出た。隣の部屋のガラス戸も、半分開けたままのカーテンも変わっていない。寝ていたら起こさないように、と音を立てないようにそっとガラス戸を閉め、穹は不自然に半分空いたままの寝床に再び戻った。隣から寝息は聞こえてこない。恐らくまだ丹恒は起きている。
時々、現実でもこんな風に一緒に眠ることがある。最初はいつだったっけ。穹は思い出す。手持ち無沙汰で、理由もなく資料室に向かってくつろいでいた。丹恒はアーカイブの整理に忙しくて話し相手にすら碌になってくれなかったけれど、時折一言二言、尋ねたことに答えるくらいの言葉はくれていた。そうやって、勝手に横になっていた丹恒の布団の上で、ゲームをしながらいつのまにか寝落ちてしまい、気付けば部屋の明かりが落とされていたのだ。目を開けると、今日の朝のように、隣に丹恒が眠っていた。いつもなら自分に布団を使わせて、彼自身は部屋の椅子に座ったまま眠っていたのに。その日は初めて、彼が横で眠っているのを見た。なんだかそれが嬉しかったのを覚えている。
何故だろう? 理由はあまり深く考えたことがなかった。元々丹恒は自分の事に深く他人を巻き込むつもりがなく、線引きがしっかりしていて、頼れば想像以上に応えてくれるが、逆に頼られることはあまりなかったからかもしれない。自分の過去に向き合いたいからと羅浮への同行を頼まれた時も嬉しかった。彼がこれまであえて誰にも踏み込ませなかったものを、知ることが許されたようで。このまま、傍にいていいと言われたようで。
独占欲のようなものが、あるのかもしれない。自分は彼の特別で、彼にとっての特別は自分であると。だから、時折彼が見ている悪夢を見ない夜が少しはあればいいと思った。自分も夢見はさほどいい方ではなかったけれど、見る夢すべてが悪夢なのは、きっと酷く辛い。
「丹恒ってさ、夢見、悪い?」
「――藪から棒になんだ」
「んー……何か気になって。で、どうなんだ?」
「……、よくはない」
「え。そうなのか?」
そういうところまで自分の億質から引っ張ってきているのか? 元からそういう設定なんだろうか。だから丹恒が自分の親友の皮にされているんだろうか。ごめんな、と穹が謝ると、丹恒はその理由が全く分からない、とばかりに、何で謝る、とこちらを振り返ってきた。寝返りを打った後、思ったより近い位置に顔があって驚いたのか、す、っとすぐに後ろへ距離を取っていく。そのままではいつもの布団と同じで、さほど広くはないこの寝床から彼が勢いよく落ちていきそうだったから、穹は思わず手を伸ばして引き留めた。それにも何故か、丹恒はぴく、っと腕を少し強張らせる。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
「慌てすぎ。――さっきのだけど、……なんか謝りたくて?」
「何故?」
「んー……、……」
お前のモデルになっている当人がそうで、自分の億質の所為でここでも見なくてもよかったはずの悪夢を見ているのかもしれない、と目の前の丹恒に言ったところで何が何だかわからないだろう。本当はどちらも悪い夢など見ない方がいいに決まっている。そういえば、とふと思い出す。夢の事で、丹恒にずっと言い忘れていたことがあった。
アスデナ星域では憶質の性質の所為で、他人の夢と夢が結びつきやすい。ピノコニーの夢境のどこかにぽつんと設置されている夢覗き電話から、誰かの夢を覗きに行けるくらいには。悪趣味だとは知りつつも、好奇心が勝って、以前彼の夢を覗いたことがある。列車の中にいる彼が、今どんな夢を見ているのか気になって。あんな悪夢を見ているとは思っていなかった。多分きっと、丹恒だって知られたくなかっただろう。
本当は当人に言うべきだ。けれどずるい自分がそれを怖がっている。誠実であれ、と思う一方で、見られたくないものを勝手に見てしまった事が、彼を傷つけてしまうのではないかと。隣に居てもいいと許されたのに、そんな風に傷つけてしまったら隣に居られなくなるかもしれない。それが、怖かった。
「これは……、……独り言なんだけど。――友達がよく、悪夢を見るんだ。たまに寝てるところを起こしたりしてさ、助ける時もあるんだけど、どんな夢を見てるのかは話してくれたこと、あんまりなくて。話したいと思ったらいつでも聞くつもりではあるんだけどさ。なのに俺、勝手に夢を覗いちゃって」
「……覗く?」
「たまたまそれが出来たんだ。不思議な話なんだけど。それを謝りたいんだけど、本人に言うの、なんか怖くてさ」
「その事と、さっきの謝罪が全く結びつかないんだが」
「バレたか。……話、変えようとしただけ。別にいいだろ、何でも。そう言う気分だったってだけで」
同じ顔をしているから、話して謝ったつもりになる。自分勝手だ。ただ自分が吐き出して少しでも楽になりたいだけ。そうやってただ、気持ちよくなりたいだけ。
けれど、話したら少し勇気が出てきた。このゲームから出られたら、丹恒にはもう一度ちゃんと謝ろう。前に渡したピノコニーのお土産を彼は甘いものだったのに手紙でお礼を返してくれるくらい気に入ってくれたから、今度は丹恒が好きそうなものをもっとちゃんと選んで、一緒に持っていこう。食べ物じゃなくたっていいかもしれない。持っていくなら何がいいんだろう。やっぱり本だろうか。折り紙の小鳥は丹恒には見えないかもしれない。まあ、勝手に列車に連れて行ったら小鳥の方ははしゃぐだろうけど、きっと他の鳥が心配するからやっぱりだめだ。珍しい憶泡なんてどうだろう。見た事のない珍しい生物のことを留めた憶泡なら丹恒も気に入ってくれるだろうか。自分の目で見たいから、と遠慮するだろうか。他に何か、丹恒が喜ぶ物は何だろう。
目の前にいるのに変な感じ、と思いながら、穹は先に薄く目を閉じた。こちらを見つめたまま、丹恒はただ黙っている。なんでじっとこっちを見るんだ、と穹は思わず苦笑する。少し眠くなってきた。レム睡眠とノンレム睡眠の波の切り替わりの時間なのかもしれない。ふと、額にかかる髪を指先で除けるように手が伸びてくる。その手が頬に触れ、輪郭をなぞる様に、手の甲が少しだけ滑っていった。なに、と一度瞼を開く。「……気にしない。――おやすみ」と、丹恒はそう言って、離したはずの体をこちらへ近づけ、そして少しだけ、首の裏に手を回して穹を手前に引き寄せてきた。
「ん、」
目の前が陰る。くちびるに一瞬ふわりと熱が燈る。すぐに離れて、視界が晴れた。何が起きたのかよくわからなかった。ぽかん、と手が離れていくのを穹は黙って見ていた。丹恒はそのまま、もう一度は触れることなく、体ごと穹に背を向けていく。何が起きた、と穹は消えた熱を追って、指先をその熱が落ちた所へ伸ばした。ふに、っとくちびるが指先で軽く押される。ここに、何か。――……あれ?
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