ルート65537
カランカランとグラスに落とした氷が涼しいベルを鳴らす。
いつもは静かなバーも、何故か今日は酷く忙しい。先ほどから休む間もなくモクテルを作り続けており、もはやマドラーと手が一体化してしまいそうだ。そんなときに限って、「ペーパームーンひとつ」だとか、もう手が覚えてしまったものではなく、「甘くてぇ、でもちょーっとほろ苦くて、氷は多めで、あ、あと小さなグラスがよくて、それから~、綺麗な色で、かわいい感じのがいい。あ、やっぱりほろ苦いのはやめて、ぱちぱちはじける方がいいかなあ。それとも胸焼けするほどすーっごく濃いのがいい? どう思う? 葦毛ちゃん」なんて、クソみたいな注文が入る。穹はこのクソ客、とモンスター相手であればグラスの代わりにバットを取り出しそうな注文を寄越してきた少女を振り返った。にぱ、と彼女はカウンターに腰掛けて軽く首を傾けている。
「お客様お帰りでーす」
「んも~! 花火、まだ一杯も飲んでないんですけど」
「水でいいか?」
「モクテル飲みに来たのに」
「じゃあこれ」
どん、と穹は瓶を二つほどカウンターに置いた。少女――花火は、きょとん、としてその瓶を見つめる。
「ビンダしていいならするけど」
「…………」
冗談だよ、と穹はカウンターに出したクールスラーダと金銀花の清露の瓶を引っ込めた。ビンダって、って穹は彼女に尋ねる。聞いたことはないが大体の意味は察せる。穹は端末を取り出して、たんこー、と軽い調子でビンダって何、と尋ねた。すぐに既読がついて、ものの五秒ほどで参考資料が送られてくる。
「……江戸星だかどっかの――サービス業の特殊文化の用語? お前、なんでそんなの知ってんだ?」
「ん~? それはね~、花火が演じた事あるからだよ~。演じる前に色々調べたもん」
「演じた?」
「そ。ほら、最初は全然飾り気無くて~、でもちょっとずつ都会に染まって垢抜けてく感じの女の子。その子がねー、その特殊サービス業のわるーい男に捕まって少しずつ壊れていくの~。花火は主役じゃなかったけど、みーんな、その映画で花火の事を見てたんだよ」
「……ふーん?」
まあ、彼女の言っていることが嘘だろうが本当だろうが興味はない。穹は結局何でもいいんだろ、と適当に残りの少ない瓶の中身を片付けてしまいたくて、グラスにジャムを落とした。ペッパードクターでそれを割って、軽くマドラーで掻き混ぜ、上からそっと星空のシャンパンを注ぐ。飾りは余っていた赤いリボンを、マドラーの先にきゅっと結んで渡した。
「これ、何てモクテル?」
「あまりも――……開拓者スペシャル」
「ふふ、ださーい。花火の名前、貸してあげようか?」
「いらない。飲んだらさっさと帰れ」
「葦毛ちゃん冷た~い」
というか何で来てるんだよ、と穹はうんざりした表情で花火を睨む。タイミングの悪い事に、先ほどまで目の回る忙しさだったはずなのだが、花火が目の前に現れた途端、丁度客の波が引き、どこのテーブルもグラスと共に空いてしまった。彼女は自分ともう少し遊んでほしい、とばかりににこにこと貼り付けたような笑みを浮かべている。
彼女の事は――よくは知らない。教えた覚えもないのに急に詐欺めいたメッセージを送ってくる愉快犯。胡散臭いの代名詞のような知り合いと同じ派閥に所属する少女。掴みどころもなく、何がしたいのかも彼女がどんな人物なのかも全く分からない。
花火はマドラーをグラスから引き抜くと、ぱちぱちと弾けるシャンパンの泡がグラスの中で消えていくのをじっと見つめ、ピンク色と透明な色の境目が静かに溶けあっていく様を満足げに鑑賞していた。引き抜いたマドラーの先をかるくくちびるでぬぐって、指揮棒のように降ってリボンを揺らす。遊ぶなら帰れよ、と言うと、彼女はやーだ、と笑って答えた。
「だってまだ葦毛ちゃんとコイバナしてないし」
「あ? 何て?」
「コイバナ。あれれ~? 可笑しいなあ。聞いたんだけどな。ここの若いバーテンダーくんが、恋愛相談に乗ってくれるって」
「そんなデマどこで聞いたんだ?」
確かに客の悩み事を聞くのもバーテンダーの仕事の一つではあるし、これまで何人ものモンスター――いや、人の些細な悩みにも適当に答えてきた。その中には恋愛に関するものもあったかもしれない。あまり覚えていないけれど。
「コイバナって言っても……お前の方こそ何かあるのか? そういうの興味なさそうだけど……」
「そんなことないよ~? 気になる子ならいるし」
「え。誰」
「んー……ちょっと花火につっけんどんで~」
「お前と関わり合いになりたくないからな……」
「それから、嫌がってても話聞いてくれるし~」
「お前が一方的にしゃべってるだけじゃないか?」
「あとあと、花火が花火だよ~って伝えてなくても、花火のことすぐに気付いてくれる!」
「サンポ?」
「葦毛ちゃんだってば」
「勘弁してくれ。鳥肌立った」
見ろよこの見事なぶつぶつを、と軽く腕を捲って見せる。花火はまあサンポちゃんも気に入ってるけど、とカウンターテーブルに肘をつき、ぶうぶう、と唇を窄めてみせた。
「ほら、花火はコイバナしたよー。葦毛ちゃんの番」
「いや、恋愛相談だろ。コイバナは別に恋愛相談じゃない」
「葦毛ちゃんは気になる子いる? 花火が知ってる子?」
「もーやだこの子話通じない」
さっさと飲んで帰れ、とこれ以上彼女と会話を続けていても時間が無駄に過ぎていくだけだ、と穹はグラス磨きを始めた。そこへ足音がひとつ近づいてきて、よっしゃ客、とぐっとカウンターの下で手を握る。角を折れてぐるりとこちら側へ回ってきた影は、カウンターにいた穹に気付くと、その表情を少しだけ柔らかくした。おわ、と思わずその顔にどう返していいかを一瞬忘れる。
「た、――丹恒!?」
なんでここに、と穹は驚いて彼に尋ねる。今日はここにいると聞いたんだが、と彼はきょとん、と首を傾げた。
「はじめ、バーにいると聞いてホテルのVIPルームの方へ向かったんだが、お前の姿が見えなかったから……。探していたところで、たまたまメモキーパーに逢ったんだ。彼女が、お前ならここだと」
「はっ、だからさっき返事爆速だったのか? 今夢境にいるのになって思ってた」
何かあったのか、と穹は丹恒に尋ねる。彼は穹の前に座っていた花火を一瞥し、「すまない、話の邪魔だったか」と尋ねて来た。いやこいつのことはいいから、と穹はすたすたとカウンターの中を歩き、こっちこっち、と花火から離れた席を丹恒に案内する。彼は不思議そうな顔をしていたが、隅の方が他の客の邪魔にならないか、と納得したようで、角の席に腰掛けてくれた。
「で、何なに。もしかしてお客さんで来てくれた感じ?」
「……三月が一度外へ行って飲んで来いとうるさいんだ」
「なの? あはは。そういえば飲みに来てくれたなー。まあ、俺もシヴォーンもいるし、手伝ってくれって頼まれた時しか来ないよ。今はほら、ピノコニーもばたばたしてるしさ」
あんなことがあって、調和セレモニーも頓挫し、それを目当てに滞在している客たち、それからホテル・レバリーを筆頭としたピノコニーの各クランは、今も騒動の対応に追われている。公演が結局どうなるのか、ロビンは結局歌うのか、チケットの払い戻しはされるのか、残りの滞在期間中の補填はあるのか――と、現実でも夢境でもてんやわんやだ。
星穹列車も一旦次の動きがあるまで足止めを余儀なくされており、その間、穹は時たまいつものように依頼を受けたり、こんな風にバーの応援にはいったりしている。列車に残る、と言ってピノコニーには降りるつもりがなかった丹恒だが、せっかくだから観光でもする気になったんだろうか? 賑やかなところは苦手だと言っていたのに。
「もしかして俺に逢いに来るためだけに来てくれた?」
「……? ああ。他に目的はないが」
「え」
「何だ」
「い、……いや、何でもない……」
じゃあ期待されてるし何か作るよ、と穹は誤魔化すように、何がいい、と続けて丹恒に尋ねた。彼はモクテルのことは何もわからないからお前に任せる、と全面の信頼を寄せてそう返してくる。穹は任せろ、とそれに答えてグラスを手に取った。
先ほど磨いていたグラスを使おう、と一度丹恒の傍を離れ、不本意だが花火の前に戻ってくる。彼女は戻ってきた穹を見て、「お友達?」と丹恒を一瞥し尋ねてくる。そうだと言えば丹恒に興味を持つだろうし、違うと言ってもきっと同じように興味を持つ。穹はどちらも選ばず「飲んだなら帰れ」、と彼女にそっけなく答えた。
「えー? もうちょっと遊ぼうよぅ」
「何が何だって? 俺がいつお前と遊んだんだ」
「今から遊ぶ?」
「遊ばない。忙しいんだ、回転率上げたいから帰れ」
「ふうん……そういうこと言うんだ? くすん。いーよ、別の子と遊ぶから」
「丹恒は駄目だぞ」
「……? ふうん。まだ何も言ってないけど――」
花火はカウンターの反対側に座る彼を見、それから穹を見、ふと、何かを思いついたような表情をした。ただ、何も言わずににぱ、っと穹に微笑みかけてくる。穹はそれに対して、しっしっ、と虫を追い払うように手を動かし、彼女の前にあった空のグラスを勝手に下げていく。花火はすっと僅かに目を細めた後、じゃあまたね、と今度は素直に引いて席を立った。
丹恒に作るモクテルを考えながら、穹はその背を追い、消えたところでとっとと忘れよう、と彼女と話した記憶すら頭の中から追い出そうとする。おまたせー、と気を取り直して、丹恒の前でグラスを宙へ放りくるくると回して見せた。
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