緋色の暴君(スパイパロ)



エクストラ2 氷の微笑



   Ⅰ



 燐音は時たま、縋るように、存在を確かめるように俺を抱くことがある。





 雨が降っていた。大粒の重たい雫がアスファルトを叩き、ざわざわと木々を揺らす風の音が耳につく夜だった。殆ど殴り付けるみたいな勢いで窓にぶつかる水滴が眠りを妨げて、俺の心までもざわつかせた。
 ――確か今夜は、燐音が単独で任務に出ているはずだ。
 俺達はチームを組んで半年程になるが、稀に個人への仕事の依頼が舞い込むことがあった。腕っ節の強さを買われている燐音と、並外れた狙撃の腕前を持つ桜河は特に、そういった機会が多かった。
 変に胸騒ぎがする夜だ。思い過ごしだと幾ら言い聞かせてみても落ち着かなくて、あたたかい茶でも淹れようと湯を沸かすことにした。少々肌寒さを覚えて、寝巻の上に大判のストールを羽織ってキッチンに立つ。隠れ家にしているアパートは手狭でコンロも一口しか無いけれど、料理などする機会のない自分には十分だ。巴の屋敷にも一応私室は用意されているが、壁一枚向こうで知人が生活していると思うと寛げないからと、こうして別で部屋を借りて主にこちらで過ごすことにしている。
「――、おかえりなさい、燐音」
「……ん、ただいま」
 背後から抱き締められるまで来ていることに気付きもしなかった。とは言えこの家を知っているのは七種と、この恋人しかいないのだから特段警戒することもない。赤い頭が肩に押し付けられ、雨に濡れた前髪がストールに染みをつくっていく。
「うちに来る時まで気配を消すの、やめたらどうですか」
「……おー、さっきまで狩りしてたから。忘れてた」
 まさか無意識とは。この男には完全に気を抜いて安らげる時間がどれだけあるのだろうかと、思わず案じてしまう。ふと足元を見やれば、燐音から滴った水滴が床に血の色をした水溜まりをつくっていた。濁って赤黒いそれは彼自身のものではないとすぐにわかって、俺は一先ず安堵した。やはり先の胸騒ぎは気のせいだったのだ。
「とりあえず身体、あたためてきては? シャワー貸しますから」
「……ん」
 常ならば「メンドクセェしこのままでもよくね? 水も滴るイイ男っしょ?」とか、軽口のひとつでも返ってきそうなものなのだが。今夜はやけに口数が少ないと言うか、様子がおかしいように思えた。腰のあたりを強い力で締め付けてくる腕を何とか外させて顔を見ようと振り返って、ぎくりとした。
 焼かれる、と思った。聡明な彼をそのまま表すかのような切れ長の碧い眼は普段は涼しげですらあるのに、今は青白く揺らめく高火力の火焔そのものだった。そのまなざしが穴が開くくらいにこちらを見つめている。虹彩の奥に情欲の炎を灯して。
「りん……、っう」
 言葉を発する間もなく、彼の唇が荒々しく俺のそれを塞いだ。濡れ鼠が無遠慮に身体をくっつけて抱き締めてくるから俺まで全身びしょ濡れだ。冷たい。寒い。なのにあつい。息が苦しい。
「んっ、ふう……は、あっ、んは……りんね」
「……なに」
「風邪……ひきますから」
「じゃあおまえも来て、風呂」
 有無を言わさずぐいぐい手を引いて風呂場に向かう燐音は、何かに追われているようにも見えた。煩わしそうに衣服を脱ぎ捨ててしまうと彼は俺のシャツにまで手を掛けた。ボタンを引き千切られそうで恐ろしかったので、自分で脱ぐと言ったら大人しく引いてくれた。強引なのか何なのかわからない。
 俺が好んでいるよりもちょっぴりぬるめの湯を頭上から降らせながら、俺達は飽きもせず口付けを交わした。燐音の口腔に舌を差し入れて歯列をひとつひとつ辿るように舐っていくと「いてッ」と唇の間でくぐもった声がして驚いて身を引いた。一拍遅れてじんわりと舌の上に広がる鉄錆の味。
「わり、口ン中切れてるっぽい……」
「あ……ごめんなさい、痛かったですか?」
「んーん、びっくりして声出ちまっただけ……痛かねェ……多分」
 甘えたようにちゅっちゅっと音を立てて触れるだけのキスをした後、また彼の厚い舌が口内に侵入してきた。迎え入れて自ら舌を絡めてやればやわく歯を立てられて脳髄が痺れた。背中をまさぐる大きな掌が擽ったくて身を捩るが、今夜の燐音は互いの身体が離れるのをとにかく嫌うらしい。素肌と素肌の間に僅かでも隙間が出来るとその度ぴったりと身を寄せて離すまいとしてくる。そうなると自然、彼の下肢の膨らみにも気付いてしまって。
「――ッ、燐音っ……!」
「ん、あァ……今更照れることねェっしょ」
 照れることなくない。あんたは大勢の、それこそ女だけじゃなく男も抱いてきたのかもしれないが、俺は何もかもあんたが初めてなんだ。燐音と身体を重ねた回数はもう両手と両足の指を使っても数え切れないくらいになったけれど、未だに慣れないものは慣れない。
「いつも、部屋暗くしてするじゃ、ないですか」
「明るいと恥ずかしい?」
「恥ず……、そ、いうわけじゃ」
「じゃあ良いだろ、な、ほら」
 つづき、と。どろどろの、粘度の高い蜜のように甘い声。そんな風に囁かれたら従ってしまう。行儀の悪い彼の唇が、いたずらに耳や首筋に吐息を吹き掛けてくるから困る。その程度のことで、腰が砕けてしまいそうになるのだ、俺は。経験値の差を感じて悔しいが、こればかりは一生埋められそうにない。だってこれから先も、俺はこの男以外に身体を許すつもりなどないのだから。
「ふっ、このくらいで恥ずかしがってるようじゃ、ハニートラップなんざ逆立ちしても無理じゃねェ? メルメルちゃん」
「そういう機会は、全部あんたが先回りして潰してくる癖に……ッ」
「当たり前。どこぞの輩に触らせるようなこと俺っちがするわけねェだろ」
 おめェに行かせるくらいなら俺っちが女装するわ、それかニキにやらす、おめェに触った奴は漏れなく殺す、などと。また物騒なことを言うものだから笑ってしまった。任務によっては色仕掛けが有効な場合もあるのだ、実際。しかし今のところそういった依頼に動くことがないのだから、裏で何らかの力が働いていると思って良いだろう。粗暴なだけに見えて意外と仲間想いで過保護な男だ。
「なァ~に笑っちゃってンの」
「あッん、りん……んん」
「アレ、準備してくれてた?」
 彼の長い指が秘部をそうっと探ってきて、不意打ちに堪らず高い声が出てしまった。焦って手で口を覆い距離を取ろうとすると「駄目」と言って腕の中に囲われる。
「やァだ、離れないで」
「ん、ちょっと燐音、痛い」
「ごめん、でもやだ、離れないで、ここにいて」
「……」
 幾つも古傷の残る逞しい腕に抱え込まれたまま、心なしか丸まっているその背におずおずと手を伸ばして優しく撫ぜる。ほんの数センチ背の高い彼の整った顔がすぐ目の前にある。捨てられた仔犬みたいだとでも表現すれば良いのだろうか。そう言えばここを訪れた時からずっとこんな顔をしていたような気もする。濡れて落ちてきた前髪に隠れてよく見えなかっただけで。
「……また、大勢殺しちまった」
「え……?」
 彼は斜め下の虚空を見つめながらぽろぽろと言葉を散らかしていった。
「あいつら冷たくて、あァ雨降ってるし冷えるよなァ仕方ねェよなァなんて思ったりして、現実逃避。泣きながら仲間の仇討ちに来た奴にも何一つさせてやれねェでさ、だってさァ、それが俺の仕事なんだよなァ……」
「燐音、」
「俺ってさ、何か変われたのかな、戦場で人殺してた時と、今、何が違うんだろうな」
「燐音!」
 どん、とその胸に拳を叩き付ける。いつもの彼ならばその程度の衝撃ではびくともしないはずなのに、今日は足を滑らせたようで一緒になって転倒してしまった。床を叩いた掌がばちゃんと大袈裟な音を立てる。出しっぱなしのシャワーを顔面に浴びる羽目になった俺は「わぷ」と言って慌てて酸素を取り込んだ。
「違いますよ、燐音、以前とは違います。俺だって、桜河だって椎名だって、あなたの強さに命を救われているのですよ……? 何度も、何度も。俺達の仕事は虐殺じゃない、俺達の使命は、自らの意志で傅くと決めたたったひとりの主人の、彼の掲げる大義を守ること。そうして誇りを抱いて死ぬことでしょう⁉」
「……そ、だよな、ごめん」
 ――わかっているつもりだ。燐音は恐らく恐怖している。死の気配を色濃く感じる時、生をどうしようもなく遠くに感じることがある。今の燐音は死に囚われてしまっている。だからこんなにも俺に触れたがるのだろう。ただ生きていることを実感して安息を得たい、彼の望みはきっとそれだけなのだ。
「――燐音」
「……おう」
「俺はここにいますよ。ほらちゃんと、触って? 心臓、動いているでしょう?」
 風呂場の床に尻餅をついたままの男の手を取り自分の胸に導く。とくん、とくん、平常時よりも幾らか早いペースで血液を押し出していくポンプの鼓動が、触れ合ったところから彼に伝わることを願って。
「……、うん」
「あなたに触れられているので、少し、緊張しているのですよ。わかりますか……? ね、ほら。大丈夫だから……俺はいなくならないから」
「メルメル、」
「安心、してくれました?」
「……ん。ありがと」
「どういたしまして」
 ようやくその表情に穏やかさが戻ったようで、俺は目を細めて笑い返した。任務遂行中の眼光だけで人を昏倒させられそうな『暴君』天城燐音も、見る度ぞくぞくしてそれはそれで好きではある。けれども恋人同士の時間にしか見せない、存外甘えたでふにゃりと柔らかく微笑む彼が、やはり一等好きだった。
 燐音がこんな風にしきりに俺の体温に縋りたがる時は、今回のような単独任務の後であることが多い。詳細な内容については当然のことながら俺でも知り得ない。こうして頭まで血と泥塗れになって恋人が帰ってきても、その仕事がどんなに過酷なものであったとしても、痛みや苦しみを分かち合うことは出来ない。俺達エージェントには守秘義務があるからだ。無論頭では理解している。理解はしているが――せめて何かしてやりたいと考えるのは傲慢だろうか。
「――ねえ燐音。俺に出来ることは、ありますか?」
 ふたりして風呂場の床に座り込んだまま、向かい合ってしっかり目線を合わせて、問い掛ける。今は何でもしてやりたい。いつもは憎まれ口を叩いてばかりの俺だって、ちゃんとあなたを大切に思っていると、伝えたい。燐音の痛みを少しでもいいから分けてほしい。
「俺を抱いたら、楽になりますか?」
「は、良いのかよ、優しくしてやれねェぞ」
「良い。わかってるでしょう、準備してあります、から」
 腕を引いて立って、自分はタイルの壁に手をついて彼の方へ尻を向けた。こんな誘い方、はしたないだろうか。呆れられるかな。それはちょっと、嫌だな。
「……はあ~~~」
 照れ臭くて俯いていたら深い深いため息が聞こえてきて、びくりと身を竦ませてしまった。やっぱり違った? 独り善がりだった? 押し付けがましかった? 急に不安が押し寄せてますます俯く。燐音の方を見られない。
「メルメルよォ……」
「……!」
 乱暴に顎を捕らえられたかと思えばぐいと後ろを向かされ、先程自分がしたように目線を合わせられた。ああ、まただ、あのじりじりと焼き焦がすほむらのような、燃える情欲を灯したまなざし。彼がその唇を舐める仕草がやけに煽情的に映って、ちろりと覗いた赤い舌が網膜に焼き付いて離れない。
「ンなエロい誘い方、どこで覚えてきた? あァ?」
「そ、な言い方……っ」
 たちまちかあっと顔が熱くなる。揶揄うような言い回しにぐっと息が詰まって、目を逸らしたくなる。しかし燐音がそれを許してくれない。
「こっち見ろって。なァ、おまえ明るいとこじゃ嫌だって言ったよなァ。ぜーんぶ見えるぜェ、おまえのやらしーとこ。イイの?」
「……いい、から……はやく、燐音」
 居た堪れなくてつい気が逸ってしまう。恋人のサディストスイッチが入ってしまったらしく、視姦されるばかりで今度は触ってすらくれない。そんな状況なのにも関わらず頭を擡げてとろとろと先走りを溢れさせる自分自身が恨めしい。こんな風に虐められる快感を覚えてしまったのはこの恋人のせいだ。俺の知っている気持ちいいことはぜんぶ、燐音によって教え込まれたのだ。
「り、燐音、だけです……こんなの。燐音に気持ち良くなってほしくて、恥ずかしいのも我慢、してるんですから……っ、意地悪、しないでくださ……」
「くく、そうだよなァごめん。わかってるよ」
 喉奥で笑った彼がちゅ、と鼻先にキスをしてくれる。いつの間にやらサディストの顔はなりを潜めて、今はもう甘えたがりの恋人の顔に戻っていた。燐音は時折こうして俺を翻弄する。それが通例だととっくに知っているのに、懲りずに毎回振り回されている俺も物好きだなと思う。
「わかってるよ、ありがと、一緒に気持ち良くなろうな」
「っあ……! き、たぁ……」
 胎の中をみちみちと、物凄い質量が押し入ってくる。根本まで挿入する時にずんと深く貫かれ、眦に溜まっていた涙がぼろりと零れた。彼がいつ来ても良いようにと準備をしておくのが近頃の習慣になっているものの、実際受け入れる段階になっていつも、こんなに大きかっただろうかと怯えてしまう。
「あ、あっ! やっん、ああ」
「ん……はあ、キツ……わり、いっぺん、出す」
 そう言って燐音は俺の中に精を注いだ。背を向けているからイく時の顔が見られないのは残念だ。悩ましげに眉根を寄せて目をつむって感じ入る恋人は、壮絶に色っぽいのに。それはもう、大切に閉じ込めて俺だけのものにしておきたい程に。
 背中から抱きかかえて抜き挿しをする彼の、喉に引っ掛かったような掠れた声がうっとりするくらい好きだ。その声を耳に直接吹き込まれるときゅうと奥が締まるのを感じる。中でのたくる彼のかたちをまざまざと思い知ってしまう。そこまでは毎度のこと。ベッドルームで睦み合う時と違うのは、狭い風呂場の壁や天井に反響する自分の嬌声がいやに大きく聞こえてしまうことだ。
「ふあッ……ん、ンン、ンッ……んふ、」
「声、出さねェの?」
 ゆさゆさと揺さぶるのと同時に器用に胸の飾りを弄ったり戯れに前を扱いたりと、俺が気持ち良くなれることをたくさんしてくれながら、燐音がまた意地悪く問う。唇を噛んで声を抑えていたのがばれてしまった。
「こら、だァめ、噛むならこっちにしとけ」
 窘めるように言って彼が左手の指で噛み締めた唇を擽った。太くて長くて節くれ立った男らしい指――人の生命を一瞬のうちに奪いも、守りもする指。中指と薬指が唇を割って侵入してくると意図せず胎内を締め付けてしまったらしい。「なに、興奮してンの?」と燐音がくつくつと笑った。
 口腔内をあちこち虐める指にも感じてしまって、ふわふわと気持ちが良くて、知らずその指を夢中で舐っていた。まるでもっともっとと強請るように。二本の指で舌を挟まれたまま引っ張り出されてしまっては苦しくて仕方がない。
「んあ、うう、あうっ、んく……んん~!」
 息苦しさと宙に浮かぶような心地好さが綯い交ぜになって、わけがわからなくなってきた頃、俺は白濁を散らして絶頂した。ぴゅっ、ぴゅっ、と断続的にそれは飛んで、浴室の鏡を汚した。
「あ~あ、汚しちまったなァ……いけねェ子だ」
 声音にひと匙の非難の色を混ぜた燐音はおもむろにシャワーノズルを手に取り、鏡に湯を掛けた。湯気で白く曇っていた景色がにわかにくっきりとしたものに変わる。そこに映し出されているのはあられもない己の姿で、うっかり直視してしまった俺は恥じ入って俯いた。その隙にナカに収まったままの燐音がまた律動を始めて、先程よりも更に奥まったところをがつがつと抉るように何度も突いた。俺はもう身も世もなく喘ぎ散らすことしか出来なかった。
「ひっあ、ああ! あん、あッ、あ、んや、ア!」
「ん、イイ声……ッ、もっと、聞かして」
「やだ、やっ、りん、りんね」
「なァメルメル、鏡、見てみ……? エッロい顔、俺にも見えてるぜ」
「いやあ、やらっ、ああん! み、みないでぇ……!」
 突かれる度に軽く達して雫を飛ばす中心がぶるぶると震える様も、時折思い出したように爪を立てられて赤く腫れ上がってしまっている胸の突起も、全部全部、この男に余すところなく見られている。獣の交合のような姿勢でまぐわう自分達の姿。はしたない。こんなの、俺が俺じゃなくなってしまう。
「ほら脚、上げてみ」
「っ⁉ や、め……!」
 ぐっと片脚を持ち上げられると結合部が露わになって、自分の孔を燐音の男根がぐぽぐぽと蹂躙する様が赤裸々に暴き立てられて、恥ずかしくて堪らないのにどうかしてしまいそうなくらいの快楽が襲ってきて。涙と涎とシャワーの飛沫で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、俺はひんひん泣いた。ふと顔を上げた一瞬に鏡越しに燐音と目が合った。相も変わらずぬらぬらと、今にも噴出してしまいそうに揺らめくふたつの炎。そいつに、今にも飲み込まれると、思った。
「あ、あ、ああも、むりぃ……! だめれす、りんね、りんねぇ」
「イきたい?」
「あうっ、イきた、いきたいぃ」
「駄目。ちゃんと俺の顔見て」
「ひっ⁉ やだぁおれ、こわれちゃ、アア!」
 見ないで。見て。見ないで。あんたにお腹の中滅茶苦茶に掻き回されて、乱れまくってイっちゃう恥ずかしい俺を見て。
「やっいく、り、ね、いく……っ」
「ッ、俺も、」
「い、ッあ、あ!」
 ナカで熱いものが弾けるのと同時、俺は二度目の頂点に昇りつめて背を弓なりに反らした。あつい。きもちいい。とけちゃいそう。膝が震えて立っていられなくなって、俺は冷たいタイルに火照った身体を預けてへなへなと崩折れた。ずるりと燐音が出ていく感覚にまた感じて、「ひゃんっ」と間抜けな声が漏れた。
「……」
 懸命に呼吸を整える俺を黙って見下ろす彼は、未だ瞳の奥に炎を揺らめかせているようだった。その目に捕らえられた瞬間思わずヒュッと息を飲んだ。例えるならばそう、獲物を前にした捕食者の目。ああ俺は、こいつに喰らい尽くされるのだ。そんな諦念にも似た感情に支配される。
 ――悪くない。いつ何時立ち消えるかもわからない命の灯火だ。もしも死に方を選べるなら、俺はこの男の手に掛かって死にたい。そんな馬鹿げたことを考えていると知ったら、彼は何と言って笑うだろうか。
「……立てる?」
「む、り」
 小さくかぶりを振って息も絶え絶えに応える。燐音は眉を下げて困ったような表情をつくったのちシャワーを止め、脱力しきった俺を横抱きに抱え上げた。それから濡れた身体もそのままにぺたぺたと寝室へ続く廊下を歩いていく。ああ後で床を拭かなければ、シーツも濡れてしまう、替えはまだあったかななんて、逆上せて碌に働きもしない頭の片隅でむにゃむにゃと考えた。
 俺をシーツの上へと丁重に下ろした燐音は自分もベッドに乗り上げて覆い被さってきた。熱に浮かされたように蕩けたターコイズブルーに目を奪われる。段々と近付いてくるそれに焦点が合わなくなった頃、こちらも蕩けそうなほど熱い唇が触れた。どこもかしこも火が付いたみたいだ。
「ああ……足んねえな。全然、足んねえ」
 吐息をたっぷり混ぜた声で独り言のように零しながら、水分を含んだ前髪を片手でかき上げる彼。こちらを見据えて舌なめずりをするひどく魅惑的な男。俺は石化の呪いでもかけられたみたいに動けない。声も出せない。
「もっと欲しいンだよメルメル、おまえのこと、壊しちまいそうで怖いのに、止まんねえんだ、なァ……どうしたらいい……?」
「……っ、りん、ァ、」
 彼が、ゆっくりと肉壁を割り開いて入ってくる。感情的な言葉とは裏腹に宥めるように腰を揺すられて、身体の奥をぴりぴりと甘い電流が走った。風呂場で交わった時とは打って変わって至極穏やかな行為なのに、何故だか脳味噌が溶け出しそうなほど気持ちが良くて、馬鹿になってしまう、と思った。
「ン、うん、あ、燐音」
「ん……キス?」
「あっあん、して……」
「ふふ、しよっか」
 秘密を交わすみたいに囁いた恋人の、涙の膜が張ってきらきらと煌めく碧が綺麗な弧を描いた。そのうつくしい色彩の持ち主は、ベッドのサイドボードに置かれているコニャックのボトルを無造作に手に取った。歯を使って器用に栓を抜くと彼はその透き通った琥珀色の液体をひと口含んだ。
「ッ⁉ んく、ふ……」
 合わさった唇の間をとろりと流れ込んできたそれに驚いて俺は目を瞠った。重大な任務を終えると約束事のように、燐音がちびちびと大切に飲んでいるクルボアジェ。滅多に酒を嗜まない俺には刺激が強すぎる。アルコールが喉を焼き、濃密な果実の芳香にくらくらする。香りだけで酔ってしまえそうだ。
「……、甘ェ」
「っぷあ、けほっ……! んえ、」
「は……っ、エロ」
「あ、っん! ひ、おっきく、するなぁ……!」
 俺の中でずくんと存在感を増す彼に上擦った声を上げてしまう。甘やかすように好いところばかりを撫ぜる、かたい先端。揺さぶられ続けて次第に酔いが回ってくると、元々力なんて入っていないに等しかったけれど、彼の太い首に回していた腕も遂にぱたりと落ちてしまった。その手を絡め取りシーツに縫い付けた燐音の、手の甲に食い込むほど強く、爪を立てる。
「ふあ、りん、ねぇ、きもち」
「きもちい……? もっと……呼んで」
「んう、り、っね、なかきもちい、もっとして、りんね」
「うん、俺も……きもちいよ」
 慈しむような響き。内からも外からもじわじわと火傷に侵されるよう。こんな風に触れられたら朝には本当に、俺も燐音も、輪郭が溶けてなくなっているかもしれない。そうしたら、彼とほんとうにひとつになれる――なんて。愚かなことを夢想している自分に気が付いて、どうしようもなく思い知ってしまうことがある。俺達の関係は『恋人』などという聞こえの良い言葉でラッピングしてしまえるものではないのだ、決して。あちこちとんがって歪なそれは、甘くて脆い砂糖菓子で出来た包装紙なんかで覆い隠せる代物じゃない。
 燐音は時折、何かを言い掛けてやめることがある。舌に乗せたなら俺達の間の何かが変わってしまうようなことを、本当はずうっと、伝えたがっている。今だって熱を帯びた碧の双眸が、言葉以上に饒舌に訴えてくる。それが俺には正しく伝わる。
(うん……、燐音。俺も――)
 俺もね、燐音。おんなじだ。愛していると、本当は今すぐにでも口に出したくて、それでも俺達は必要とあらばいつでも命をなげうってしまえるよう、しがらみを残してはいけない。だから言わない、言えない。俺もおんなじだから、わかるんだよ。
「っ……、なァ、俺、おまえが」
 咄嗟に彼の唇を塞ぐことで無理にその先を封じてしまう。自分から遮っておきながら、何度だって俺は悔やむことになる。
「ん、燐音……だめです、よ……?」
 ――ああ俺の、うつくしいひと。ちゃんと愛しているから、だからどうか、どうか……泣き出しそうな顔をしないで。
 そんな詮無い悔恨も感傷も、急激に押し寄せて俺を襲った快楽の奔流によって散りぢりに吹き飛ばされてしまって。宇宙空間に放り出されたかのような深い絶頂の余韻の中漂いながら、確かに愛しい体温と匂いに抱かれているのを感じる。俺は次第に意識の外へと遠ざかってゆく幸福の尻尾を掴もうと手を伸ばして、しかし暴力的な眠気と疲労感に抗えぬまま、瞼を閉じた。



   Ⅱ



 鼻腔を擽る珈琲の香りと何かが焦げるような匂いで俺の朝は始まる。数度瞬きをして脳に信号を送ったら緩慢に起き上がり、大きく伸びをしてから欠伸をひとつ。
「ふあ……。懲りないひと」
 太陽が朝を連れてくると共に雨は止んでいた。

 下着とシャツだけを身に着けて寝室を出ると、図体のでかい恋人が狭いキッチンを占拠して何やら動き回っている最中だった。
「……。おはようございます」
「おあ⁉ まだ起きてくんなよメルメルゥ、おはよ」
「ああ、またトースト焦がして……椎名が泣きますよ。どうしてあなたはこう、おかしなところで不器用なんですかね」
「きゃは、ほんとおっかしいよなァ。ゆうべはあんなに器用だったのによォ」
 にやつきながら下品なハンドサインを披露して見せる男の尻に一発蹴りを入れてから、珈琲の注がれたマグカップをふたつ持って食卓に着く。いつもの燐音だ。
 食パンの焦げて真っ黒になった部分をナイフでせっせと削る。一流のエージェントと言えど、誰しもがジェームズ・ボンドのような優雅で上質な私生活を送っていると思ったら大間違いである。吐き出しかけたため息を仕舞って正面に座っている男を見やる。身支度を完璧に済ませている彼は、もう随分前に起き出していたということなのだろう。しっかりしている。
「起きたとこ……むぐ、早速でわりィけど、仕事だぜ」
 燐音は咀嚼していたものをきちんと飲み下してから喋り始めた。日和坊ちゃんの教育が行き届いているようで何よりだ。テーブルの上を滑ってきた端末の画面を片肘を突いて覗き込む。「お行儀わりィぞ」というぼやきには「話を振ったのはあなたでしょう」とそちらを見ずに応えた。
「――朔間の、次期当主とコンタクト?」
「そ。あそこんち、他のどこよりも内情が見えづらいっぽくてなァ。さしもの茨ちゃんも情報収集に苦労してるっつうんで、俺っち達が一肌脱ぐことになりました」
「それはまた難儀な。やってやろうじゃないですか」
「ぎゃはは! そう来なくっちゃなァ、『氷の微笑』サマ?」
「……? 何ですかそれ」
 唐突としか言いようのないフレーズに虚を突かれぽかんとしてしまった。彼はさも可笑しそうに声を弾ませる。
「おめェのことっしょ。〝氷の女神のような微笑みを湛えた美しい男の唇が三日月を象ったならば貴様の命はない――瞬きの間に天国へ連れて行かれる〟……なァんつって。巷じゃそんな噂がまことしやかに囁かれてるってワケ」
 大仰に身振り手振りを交えつつ、芝居がかった語り口でそんなことを言ってのけた燐音は俺に向かって片目をつむって見せた。成程『氷の微笑』か。
「はあ……何が天国ですか。俺に狙われた連中は皆地獄へ真っ逆さまでしょうに」
「最期に見る景色があの世みてェに綺麗ってことなんだろ、あながち間違いじゃねェかもしれねーぜ? 世にも美しい『氷の微笑』サマよ」
「ちょっと、やめてくださいそのこっ恥ずかしい呼び方……。ああ、やっとあなたの気持ちがわかりました」
「だろォ? きゃはは! 不本意な二つ名ほど迷惑なモンもねェよなァ」
 ずずと珈琲をひと口啜った彼は大口を開けて上機嫌に笑った。
「けどま、おめェを女神サマに例えるセンスは及第点。つってもおめェの綺麗さは俺っちが一番よく知ってっし、どこの馬の骨ともわかんねェ奴が俺のモンを勝手に語るなって話なんだけど」
 ――珈琲を吹き出してしまった。燐音は尚もからからと笑う。
「てなわけでェ、気に喰わねェからその噂の根っこは俺の個人的な恨みにより潰すけど、文句はねェよな?」
 ――ああもう、この男は。口に出せることが少ないからと言って、愛情表現の方向性を変えればいいってもんでもないだろ。
「……どうぞ、ご勝手に」
「やりィ♪」
 やはり傍若無人な暴君然とした男。呆れてため息も出ない。けれどもそれを知りながら、どうしようもなく天城燐音という人間に惹かれてしまう自分がいる。儘ならないものだ。しかし何よりも生きている実感が得られるのだ、この男が隣にいると。得難い熱を惜しみなく注いでくれる彼と、共に生きていきたいと願うことをきっとこの先も止められない。そうして自分も与えてもらったぶんかそれ以上に、彼の心臓に熱を注ぎ続けたいと、そう思うのだ。
「――まだ、召集まで時間はあるんですよね?」
「ん~? おう、あるけど」
 俺はテーブルに投げ出されていた燐音の指に自分のそれをするりと絡めた。
「ねえ、燐音。……もう一度、しましょう?」
 内緒話のように囁けば碧の虹彩の奥にまた火が灯った。俺の好きな欲を孕んだ瞳を薄い瞼が覆い隠してしまうことを少し残念に思いながら、端正なその顔が寄せられるのをじっと待つ。珈琲の香り漂うダイニングで朝っぱらから濃厚なキスを交わす背徳感と、今この瞬間は彼を独り占めしていられる優越感と。この複雑骨折したかのような厄介極まりない感情にぴたりと嵌まる名前は、とうに知っているけれど。まだその名を彼に伝えるべき時ではないから、秘密事を生業にする俺はいつものごとく口を噤むのだ。
 今は、まだ。

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