緋色の暴君(スパイパロ)



チャプター3 Fly Me To The Night



   Ⅰ



 勇み足で出てきたは良いが、状況を把握しようにも肝心のこはくと連絡が取れない。おおかた敵さんが妨害電波でも出していたのだろう、通信が途切れたまま一向に繋がらないのだ。ターゲットの懐から車のキーをちょろまかして追う準備は万端だと言うのに、行先に心当たりなどあるはずもなく、燐音は運転席にだらりと座って途方に暮れていた。やはり奴を殺したのは早計だったか。
 ずれたサングラスを人差し指の背でおもむろに押し上げて、ふとそのテンプルに付いたボタンの存在を思い出した。物は試しとばかりにカチリとそこを押してみる。
「! ついた……」
 レンズに映し出されたのは飛行するドローンからリアルタイムに送られてくる映像だった。そう言えば双子にもらったばかりのガジェットがあったなァ、と自分の胸元についた蜂型のラペルピンに目を落とし、恐らくこいつを飛ばしてくれたのであろうこはくに感謝する。レンズにはご親切に位置情報も表示されている、これなら追える。
 サンキューこはくちゃん、ヒナにゆうたくん。俺っち飛ばしちゃうぜ。
 二人乗りの真っ赤なスポーツカーのクラッチを踏み込み、指先でシフトレバーを操作してアクセルに乗せた足に力を込めると、エンジンが低く唸る。あァ、車の趣味はわりィがイイ音だ。そうしてホテルの駐車場をギリギリ法定速度で抜け夜の街へと飛び出した。
「さァて場所は〜……っと、ンだこりゃ」
 イエローのレンズに投影される位置情報はここから十キロ程離れた高級ホテルの一室を示していた。最上階、ガラス張りのスイートルーム。四人のギャングが囲む中心には椅子に手足を拘束されたHiMERUがいる。彼は項垂れて気を失っているようだった。その傍に屈んだ一人の男が、手に持った注射器で何らかの薬液を彼の腕に射ち込んだように見える。それを認識した瞬間、燐音には体内の全ての血液が沸騰するように感ぜられた。
 ド畜生が。絶対に、死んでもブッ殺す。
 ハンドルを握る手に自然と力が籠もる。エンジンはますます唸りを上げ、車は深い夜を背後へと吹き飛ばして疾走した。



   Ⅱ



 唐突に冷や水を浴びせられたような感覚に意識を引き戻された。それもそのはずで、HiMERUは実際に例えでも何でもなく、頭から冷水を被せられていた。髪の先からぽたぽたと滴る水滴をいっとき目で追い、自由を奪われた自身の手足を見、それからこうなった経緯を思い出した。桜河は、椎名は、……燐音は無事だろうか。決して彼らの実力を見くびっているわけではない、あの仲間達はひとり残らず優秀なエージェントだ。だが過信してもいけない。常に最悪を想定して動くのが参謀たる自分の役目だ。
 ホテルの備品と思しき異常に細工の細かい置き時計をちらと確認すると、ビジネスホテルで奴らに襲われてから五十分は経過していた。そこそこの時間稼ぎは出来たようだ、後は上手いことやってくれていると良いが。
 思考を余所に飛ばしていたせいか、俯いた目線の先に近付いてきたやたらと大きな靴への反応が遅れた。ぐいと前髪を乱暴に掴まれ上向かされると鋭い痛みで頭が冴える。間近からこちらを覗き込む大柄な男はここへ来る前に自分を気絶させた奴、ガタガタの黄ばんだ歯が不愉快。
「――ギャング風情が、あまり近付かないでくれますか」
「げへっ、まだそんなこと言えんのかよオマエ、大した度胸だなオイ」
「っ、離しなさい。息が臭いのですよ、あなたは」
「……野郎……」
「顔はやめとけよ。報酬が減るだろうが」
 大男の後ろから声を掛けたのはリーダー格らしき男、会話の主導はこいつ、他の奴らよりはいくらか小知恵が回りそうだ。大男が振り上げた拳はリーダー格の言葉により一度空中で止まったが、思い直したのか角度を変えて脇腹に数回叩き込まれた。あばら骨が軋む音に顔を顰めるが意地でも声は出さない、いや普通に痛い。他ふたりの敵は見張り役のようで、ここからやや離れた入口付近に武装して立っている。通信機器の類は連れ去られる際に全て手放していたし、忍ばせていた銃火器はジャケットごと取り上げられ、遠くの無駄に高級そうなガラステーブルの上に置かれているのが見える。黒い革製のベルトで椅子に固定された手足はろくすっぽ動かせない、くそ、打つ手なしか。
 こんな事態を招いたのは尾けられていることに気付けなかった自分の落ち度なのだけれど、あの時はどうも燐音の様子がおかしいことに気を取られて仕方がなかった。助手席に座り頬杖をついて遠くを見つめていたあの強くうつくしい獣のような男は、一体何を考えていたのだろう……らしくもなくぼんやりとしていたようだったが。そこまでを走馬灯のように思い起こし、HiMERUは自嘲した。
 ――このような状況に陥ってまであなたのことを想っているだなんて、知ったらきっと笑うでしょうね。ああ、一度くらい好きだと伝えておくべきだったでしょうか。否、互いにこの裏社会に頭の先まで浸かってしまっているのだから、遅かれ早かれこうなる運命だった。どうせ死に別れるのならば執着は薄い方が良いと、そう思うから、やはり言わないでおいて良かった。帰ったら抱かれるという約束は、もしかしたら果たせないかもしれませんが――どうか許してくださいね。
 恋人を想ううち薄く笑んでいたのだろうか、リーダー格の男が妙な顔をしてこちらを見下ろしていた。その手に強い力で顎を掴み上げられ、濁った虹彩とかち合う。そこでようやく自分の身体に起きている異変を知った。白い靄がかかったかのように頭がぼうっとして、全身が怠くまるで発熱しているかのようだ。水を被って水分を含んだシャツが肌にべったりと纏わり付くのが気持ち悪い、それだけではない、布が擦れる感触にいやに過敏になっている。
「――薬、ですか。大抵の毒ならば、耐性をつけているはず、っなのですけれど……自白剤でも、仕込んだのですか……?」
「自白剤ならまだ良かったかもなあ」
 ギャング達が揃ってゲラゲラと笑う。――もし自白剤であれば、こちらの不利益になるようなことを口走る前に自ら舌を噛み切って死ぬのだが。
 しかし次に男の口から吐かれた言葉は、HiMERUが予想もしないものだった。
「媚薬は初めてかあ? 女王蜂さんよ」
「ぁぐ……ッ⁉」
 口腔に銃口を押し込まれ、否応なしに言葉を飲み込む。泳いだ舌先が冷たい金属に触れる。ひやりとした汗が背を伝った。男は手に持った鉄の塊で口内をずりずりと苛めながら機嫌良く言い放った。
「依頼主と連絡が取れねえし、俺らもここで待ってるだけじゃタイクツだしなあ。ちょ~っと悪い遊びに付き合ってくれよ。遅効性の媚薬さ、じわじわ効いてきただろ? トべるって評判だぜ、違法だけどなあ」
「ふ、ンぐ、っ……ぉえ、は、ぁっ……?」
 べっとりと唾液に塗れた銃口が口から引き抜かれると、ぐらり、支えを失った頭が傾ぐ。身体に力が入らない。縛り付けられていた椅子から解放されベッドへと雑に放り投げられるが、情けないことにまったく抵抗出来ない。それどころかシャツ、スラックス、シーツに肌が擦れる度、快感を拾ってびくびくと反応してしまう。何だこれは。
「は、っやめっ、ろ……俺に、さわるなッ……!」
「おやぁ? まだ正気保ってられんのか、流石に訓練されてるみてえだな。そんならコッチも初めてじゃねえんだろ?」
「ひあっ……! や、めぇ、ああッ」
 スラックスの上から後孔の縁をくるくるとなぞられ、背筋をぞくりと何かが駆け抜ける。悪寒だと思い込もうとしたが、繰り返し触れられるうち紛れもない快楽に変わってしまうそれに恐怖を覚える。意思に反して飛び出てしまう甲高い声を抑える為に唇を強く噛み締めたせいで、口じゅうに血の味が広がっている。嫌だ。こんな薄汚いクソ野郎に触られて感じたくない。そう幾度念じても媚薬の効果は絶大なようで、次第に外の刺激だけでは物足りないと、腹の中を圧倒的な質量と熱で埋めてほしいと秘部が切なく収縮し出して泣きたくなってくる。今だけは自分をこんな身体に作り変えてしまったあの愛しい男が憎い。
 ――確かに初めてじゃない、初めてじゃないけど。そこは彼にしか……燐音にしか明け渡していない場所だ。
「おうおう、別嬪は泣き顔もソソるなあ。オラ、テメエ頭押さえてろ」
「いや、やぁ、んんッ! あ、いやだ、やだ……っ! んぶっ、うぐ、ん~っ!」
 仰向けに寝かされたかと思うと、リーダー格の男が上から圧し掛かってグロテスクな形状の性器を唇に押し付けてくる。「おっと、歯ぁ立てたら撃つぜ」との言葉通り、頭を押さえ込む大男の手に握られた拳銃がごり、と額に押し当てられる。こいつら依頼主に渡す気なんて無いじゃないか。そんなことを考える間もなく男根が口腔に侵入してきて、まだ撃たれたくはないので仕方なくそいつに舌を這わせた。媚薬の効力なのか、思考がどんどん蕩けて男の体液を取り込みたいという欲求に脳が支配されていく。蒸れた雄の匂いに嫌悪感を抱くどころかむしろ興奮を煽られ、舌に絡みつく先走りがやけに甘く感じて、次第に自ら舌を差し伸ばして竿を舐めしゃぶっていることに気付けない程に、もう頭の中はぐずぐずだった。シャツの前を肌蹴させられ胸の突起を摘まれると喉奥をきゅんと締め付けてしまう。無意識のうちにもじもじと内腿を擦り合わせていたことに目を留めた男が嘲笑う。
「もうオネダリかあ?」
「んぷ、はあっ、あ……ん、ちが、ッ、ああんっ」
「おーおー乳首も感じるのかよ、淫乱な女王様だぜ。オラ、上の口でイかせられたらちゃあんと下の口にもぶち込んでやるから……っ、よおくしゃぶれ、よッ!」
「ひゃ、やら、あうッ、んうう、っふ……ッぐ、げほっ……!」
 男根が喉の奥へと突き込まれ思わず嘔吐くが、息苦しさはすぐにそれをも上回る悦楽に押し流されてしまう。脚からスラックスが抜き取られる感覚にびくりと震えた。
 ――ああ、俺の人生、こんな屈辱的な終わりを迎えるはずじゃなかった。けれどもう駄目だ、脳味噌が蕩けて、気持ち良いこと以外何も考えられない。全てを明け渡したあの男以外に犯されるくらいなら死んだほうがましだ。自分からはしたなく強請ったりする前に、早く。早く。早く。
 僅かに残った理性を必死に手繰り寄せ、せめてもの抵抗を試みる。力の入らない両腕をのろのろと持ち上げ額に当たったままの銃へと運ぶと、手探りで震える指を引き金に掛け、ぎゅうと瞼を閉じた。



 Ⅲ



 間近から鉛玉を二発撃ち込めば鍵は存外あっさりと壊れた。スイートルームの重厚そうなドアは少し助走をつけて思い切り蹴り飛ばせばそのまま室内に吹っ飛んでいった。ドア付近にいたらしき下っ端がふたり、哀れにも巻き込み事故に遭ったようだが構わない。足音を隠しもせずどすどすと中へ突き進むと、残りふたりのギャングが部屋の奥からこちらへ向けて銃を構えていた。ひとりは拳銃、ひとりはショットガン。その背後のベッドに横たわる恋人の姿を見て取ると、燐音は片目を眇めて悪党よりも凶悪な笑みを浮かべた。
「みィ~つ~けた♡ 先に死にてェのはどっちだ?」
 地獄の底を這うかの如き低い声だった。目が合ったリーダー格の男は「ひっ」と怯えたような声を発したかと思うと、ぐったりとしたHiMERUの腕を掴んで引っ張り上げ、その身体を盾にするように抱えた。
「くっ、来るな! こ、こいつを助けに来たんだろ、俺を見逃せば渡してやるから、武器をこっちに寄越せ!」
「そいつァ出来ねェ相談っしょ。仲間は助けるし、てめェらはここで殺す」
 言いながら一発、大柄な方の男の手元を狙って得物を弾き飛ばし、怯んだ隙に三発を頭と胸、腹へ命中させて片付けた。まずはひとり。
「止まれ! 止まれぇ!!」
 ショットガンが爆ぜ、弾が上腕を僅かに掠ったが瞬きすらしなかった。両手で二丁の愛銃を構えたままじりじりと距離を詰めていく。
「てめェ程度の鍛え方じゃ片手でそいつを扱うのは無理だぜェ。この距離で俺っちを殺れねーンだ、本モンに触んのは百億光年早えなァ。おままごとから出直しな」
「な、なんだオマエはっ、化け物……ッ!」
「化け物たァ随分なご挨拶じゃあねェか……燐音だ。天城燐音」
 相対したギャングは蛇に睨まれた蛙のように身を竦ませて動かない。一方背後では人の動く気配がする。先刻ドアと共に吹っ飛ばした連中が起き上がってきたようだ。……さてどう動こうか。
 その時男の腕にだらりと抱えられたHiMERUが、重たげな瞼をゆるゆると持ち上げこちらへと視線を寄越した。未だ苛烈に燃えるゴールデンシトリンのまなこがすっと細められる。そうして彼は艶やかなよく通る声で一喝したのだった。
「燐音っ、後で何でも我が儘を聞いてやるから、俺の為にこいつらを皆殺しにしろ!!」
 燐音は鼓膜を揺らした恋人の声にニイと口角を吊り上げると、深淵の色をした瞳をぬらりと邪悪に煌めかせた。
「はいよ姫サマ、いっちょやってやンよ。俺に抱かれる想像しながらそこで見てな?」
 ぱちんとウインクして言うと振り向きざま、脚を水平に振り回してつま先に引っ掛けた花瓶を蹴り飛ばした。即座に身を翻すと厚みのあるソファの端に全体重をかけて飛び乗り、反動で起き上がったそれを壁にして背後から浴びせられる銃撃を防いだ。目の前に迫る花瓶に驚いたギャングは反射的にショットガンの引き金を引いたらしく、散弾が当たって砕け散った陶器の破片、水と花がその頭上へばらばらと降り注ぐ。咄嗟に顔を庇ったそいつへ一気に詰め寄るとその手を容赦なく蹴り上げ、HiMERUと宙を舞ったショットガンを奪取した。ついでにもんどり打って倒れ込んだそいつの股間を靴底で思いっ切り踏み潰してやると、いくらか胸がすく心地がした。抱き留めたHiMERUが腕の中で身を捩ったので、顔を覗き込んであやすように額に口付けてやる。
「わりィ、遅くなった。……よく頑張ったな」
「……っ、はい……」
 頭を撫でてやると泣きそうに瞳を歪ませて唇を噛む、彼らしくないいとけない仕草にぎゅっと心臓を掴まれる。随分無理をさせてしまったようだ。
 まだまだ可愛い恋人に構っていたいとは言えども、ここにはまだ動ける奴がふたりいる。利き腕でHiMERUを抱えたまま素早くポンプを操作し空いた手でショットガンを構え、壁にしたソファの陰からひとりを狙撃して始末した。悲鳴を上げながら部屋の出口へ向かって走り出したもうひとりは、手に馴染んだワルサーに持ち替えて仕留めた。やがて騒がしかった室内が静寂に満たされると、それまで大人しく抱えられていたHiMERUが不意に小さく吹き出した。
「――ふふ。片手で、それも左手で、それだけ反動の大きなショットガンを命中させるとは……。やはりあなたは、化け物なのです」
「うるせェな。……まァいいけどさ。俺が化け物だったお陰で、おまえを取り戻せた」
 畏怖されるばかりの自分の強さを誇りに思えたのはおまえのお陰だよと、そう伝えたくて。キスをしようと顔を近付けたが「こら、まだでしょう」と掌で弱々しく押し返されてしまった。
 HiMERUに夢中で言われるまで忘れていた。所謂キンタマを踏み潰したから最早動ける由もないが、あの野郎にはまだ意識があるのだった。HiMERUをそっと下ろしソファに凭れさせると、絨毯に倒れ伏したままのそいつの傍へ歩み寄り、よっこらせとしゃがみ込んだ。
「ヘイヘイ、オッサ〜ン? 気分はどォ? きゃは、まだ生きてえかァ?」
「ヒィッ! い、生きたい! 殺さないでくれえ……!」
「ハイ駄目〜」
 パン。乾いた音が響いて、銃弾が男の股間を撃ち抜いた。痛みに蹲ってしまったそいつを靴のつま先で転がし仰向けにさせると、肺の真上を踏み付ける。
「がはっ……!」
「てめェの仲間は地下室にいた連中も全員殺した。他にもいるンなら吐け」
「い、いないいない!」
「あっそォ」
 パン。弾が右手を貫通する。続けざまに左手、左脚。
「どっから俺っち達の情報を仕入れた」
「うぐ……だ、ダウンタウンの……二丁目の、情報屋だよお……」
「へえ。後でシメとかねえとなァ」
 パン。今度は右脚に一発撃ち込む。仕上げにぐっと屈み込むと、殆ど屍のような男に顔を近付けて目線を合わせ、ゆっくりと、子供に言い含めるように囁いてやった。
「てめェは俺が大事に大事に守ってた宝石に手を出した……その汚らしい手で俺のモンに触った罰として、惨たらしく死ね。あばよ」
 パァン。額に銃撃を受けた衝撃で男の身体が跳ね、それからぴくりとも動かなくなった。数拍置いて背中に呆れたような声が掛けられる。
「……やりすぎでは」
「やりすぎてねェっしょ」
「まったく。子供じゃ、ないんですから……」
 言い終わらないうちに、ふらりとHiMERUの身体が傾いた。慌てて駆け寄りその身が大理石の床に投げ出される直前に受け止める。触れた肌はじっとりと汗に濡れ、ひどく発熱していた。苦しげに息を吐き出す唇が震える。
「うぁ、燐音……っ、あまり、さわらないで」
「えっあ、ごめん、そうか媚薬……? 解毒剤は?」
「ない、みたいです……薬が抜けるのを、待たないと。それよりあなた、怪我を」
「俺はいい、アドレナリンドバドバ出てっから痛み感じねェの」
 実際自分は大丈夫なのだ、確かに全身真っ赤だがその多くは返り血だし、傷はどれも大したことない。そんなことよりもHiMERUが辛そうで見ていられない。どうにかしてやれないものかと知恵を絞っていると、突如室内に警報音が鳴り響いてすっかり気を抜いていた燐音は飛び上がった。次いでこれまで沈黙を続けていた通信機がジジとノイズを発し、直後に耳慣れた声が聞こえてくる。
『あっ繋がった! 燐音はん、HiMERUはんも無事なん?』
「うおっこはくちゃん⁉ あァ、お陰さんで……」
『御託は後じゃ。今サツの機動部隊がこぞってスイートに向かっとる。このままそこにおったらぬしらお縄んなるで』
「げっ、マジで?」
『あほんだら、ぬしがドアぶち破って侵入しよったせいじゃろがい。よう聞きや、はようHiMERUはんと窓から離れて待っとき、わしが風穴空けたる。そしたらせーので飛び降りるんじゃ、ええな?』
「え……えくない! ちゃんと説明して⁉」
『そんな時間は、あらしまへん!』
 返事などさせてもらえなかった。何故ならこのスイートルーム御自慢の都市の夜景を一望出来るパノラマビュー、部屋中ぐるりと取り囲むように張られた強化ガラスが、空からの機銃掃射によりガッシャンガッシャンと耳障りな音を立て瞬く間に破壊されていったからだ。咄嗟の判断でHiMERUに覆い被さって降りかかるガラス片から庇わなければ、恋人の玉の肌があちこち切り傷だらけになるところだった。
「こ、こはくちゃァん! 乱暴はよしなさい!」
「……っ、燐音? 何が起きてるのです、これを桜河が……?」
「そーそー桜河が……ったくあの子は、仲間ンとこにまでカチコミかけるかねェフツー?」
『聞こえてんで燐音はん。ゴチャゴチャ言いなや、はよ飛び降りんかい』
「こはくちゃんホントに味方だよなァ? 物騒すぎて燐音くん泣いちゃいそう」
 こはくの言葉通り今の今までガラスのあったところには巨大な風穴が開き、地上五十階のスイートルームはあっという間に吹きさらしになった。同時に闇夜に紛れたヘリコプターの駆動音が荒っぽい風の音に混じって耳に届く。
「……成程なァ? そういうことかよ」
 ここにきてようやくこはくの意図に思い至った。そういうことなら、と燐音は吹き荒ぶ風の中をてくてくと歩いて床に転がったウイスキーのボトルを手に取り、近くにあったオールドファッションのグラスへとぽとぽと注いでいく。廊下の先、部屋の外ではチンと電子音が鳴り、エレベーターの到着を告げていた。
「ちょっと燐音……?」
「なァにちょっとした度胸試しだよ、おまえは心配すんな。俺は皆のお兄ちゃんだからなァ……日和っちゃいられねえよな」
 わけがわからないといった様子のHiMERUへグラスを掲げて見せてから、その中身をぐいっと一気に煽る。よし、と小さく自分に言い聞かすと動けない彼をシーツでぐるぐるとくるみ横抱きにした。十数名分の足音が聞こえる、廊下で隊列を組んで突入するタイミングを図っているのだろう。もう遅いぜ。俺は床と夜の境界線に立って、身投げの用意は万端だ。
「あなた何を、……まさか」
「そのまさか♡」
「――本気なのですね」
 言葉はこれだけで十分、この肝の据わった恋人は自分なんかよりもずっとすんなりと運命を受け入れたらしい。そんな男前なところも好きだな、なんて考えてしまう。そうしたら、およそ普段は言わないような言葉が口を衝いていた。
「……なァ、死ぬ時は一緒だぜ」
「――ふふ、死んだら一緒にいてくれないのですか?」
「ばァか」
 よおく理解した。俺達の間に言葉は要らない。
 燐音はひとつ微笑むと床を蹴り、眼下に広がる色とりどりの光の海へと背中からダイブした。



   Ⅳ



「死……っぬかと思ったァ〜!!」
「コッコッコ。今回の賭けはわしの勝ちやな」
「え〜、乗ったンだから俺っちも勝ちっしょ。仲良く一緒に上がりだぜ、こはくちゃん」
 あわやというところでHiMERU諸共救出された燐音は、ヘリコプターの機内で暫くぶりの安息を得ていた。こちらの疲労感を知ってか知らずか(99パーセント確信犯だろうが)操縦席に座ったひなたとゆうたが大はしゃぎしている。
「新作の捕獲網バズーカ、発射速度も強度も完璧! 大成功だねっゆうたくん!」
「うん、アニキ! 試作段階だったけど上手くいって良かったね!」
「……なんか聞き捨てならねェ台詞が聞こえたンだけど」
「ええ〜、俺達のお陰で助かったんだからもっと感謝してよねっ、燐音先輩?」
「命中精度はわしのお陰やで、燐音はん」
「はいはい、サンキューおめェら、愛してるぜェ」
 自分達が潜入先で危機に陥りHiMERUが攫われてから、こはくはジュンに連絡を取り、助けてくれるよう頼んだのだそうだ。飼い主からすればいくらでも替えが利く、いわば使い捨ての駒である(ともすればその存在自体が飼い主にとっての弱みたり得る)エージェント側からの、前代未聞の救援要請。しくじったのなら勝手に死ねと突っぱねられてもおかしくなかった。
「そんでジュンジュンはなんて?」
『はぁい、こちら本部の漣ジュンです。危ないとこでしたねぇ天城さん。サクラくん、お手柄ですよぉ〜』
「お~、噂をすればジュンジュン!」
 タイミングを見計らったようにぱっと点灯したモニターにジュンの顔が大写しになる。その背後には日和や凪砂、茨の姿も見える。雁首揃えた上司達がこぞって渋い顔をしているので、流石に気まずくなってそろそろと目を逸らした。
「あ~……坊っちゃんすんません、手ェ煩わせちまって」
『まったくその通りだね! 悪い日和!』
『殿下声が大きい……。天城氏、お勤め御苦労様であります! 敬礼~☆』
『……顔を上げて。日和くんは、怒ってない』
『ううん、ぼくは怒ってるのっ!』
 高い声がキンキンと機内に反響する。躊躇いがちに顔を上げれば、画面の中で意外にも悠然と微笑む日和がこちらを見下ろしていた。その紫水晶の貴い輝きはいつだって揺るがない。
『……こはくくんが助けを求めてくれて良かった。ぼくが怒ってるのは、きみ達が生きることを一度は諦めてしまったからだね。足掻きなさい。足掻いて、ちゃんとうちへ帰ってくるといいね。家族でしょう』
 「家族」と日和は念押しした。その言葉に驚いてHiMERUと顔を見合わせた後、燐音は叱られた子供のようにしゅんと項垂れてしまった。「……すんません……」「――すみません、でした」と揃って謝罪の言葉を口にすると日和は満足そうに笑った。
『まあ、きみ達はいつもぼくの役に立ってくれているしね。今回の任務もお疲れさま、無事完遂だね。ねえ、茨?』
『ええ、ええ。流石は『Crazy:B』の諸兄でありますなあ、優秀優秀! 椎名氏から報告は受けておりますよ。HiMERU氏を害する目的で接触を図ってきたターゲット……奴さんにとってこれ以上ない弱みを握ることが出来ました』
『うんうん、うちの子を苛めようとするなんて許せないからね! でももう安心してね、今にぼくが一泡吹かせてあげる。ぼくの身内に手出しをすればどうなるか……彼らに思い知らせてあげなきゃね』
『……ふふ。日和くんは皆が大事なんだね。……私にも、〝おかえり〞って言わせてほしい。早く帰っておいで』
 目を細めて恐ろしいことを宣う日和とは対照的に、ゆったりとソファに腰掛けた凪砂はいつもの調子で穏やかに告げた。その愛に、そのマイペースさに何度だって救われる。
 包み込むような声音に胸が一杯になって、ふたりして俯いたまま何も言えずに、少しの間気まずい沈黙が流れた。ひなたとゆうたが「にひひっ」と笑い、こはくが「やれやれじゃ」と肩を竦めて。それから明るい声で宣言した。
「ほな、ニキはん拾って帰ろか。お腹空かしとるやろなあ」
「了解~! いっくよ~、急加速、急旋回~♪」
 がやがやと賑やかなヘリコプターはきらきら光る星屑の合間を縫って飛ぶ。自分達には帰る家があって、帰りを待っていてくれる人達がいるのだ。しかもその人達は自分を家族と呼んでくれる、これ程幸せなことがあるだろうか。
 こりゃますます死ねなくなっちまったなァと燐音は多幸感に満ちた胸の中で密かに呟き、そして苦笑した。

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