緋色の暴君(スパイパロ)



チャプター2 Cigarettes & Alcohol



   Ⅰ



 桜河こはくは愛用のSVLK-14Sの銃身をひと撫でし、スコープを覗いた。
 ――常々感じていた疑問を口にすべきか否か。
「……またけったいな格好してはるなあ……。曲がりなりにも密偵やろ」
『こはくちゃーん、なんか言ったァ?』
「なんも」
 政財界の要人や海外から訪れるVIPも多く宿泊する五つ星ホテル、その正面エントランスの車止めに佇む燐音とニキの姿がスコープ越しに見える。
 チャコールグレーのスリーピーススーツにダークブルーのシャツ、ボルドーのネクタイとリンクさせた同系色のファーのロングコート。鋭利なターコイズブルーの瞳をイエローレンズのサングラスで隠し、黒いレザーの手袋とハットを身に着けた燐音は、その長身も相まってそれはもう目立ちまくっていた。隣に並ぶニキはネイビー地に白のピンストライプのスリーピース、ライトブルーのシャツにピンクのボウタイとロングストールを合わせ、燐音程ではないがやはり華やかな出で立ちだ。
 此度の任務は一般人にはその存在すらも隠匿されている会員制ラウンジへの潜入捜査である。調書によればどうやら、巴家と敵対関係にある家の者がこちらへ間諜を放っている可能性が高いが、現時点では決定打に欠ける。日和に言わせれば「目の上のたんこぶ」であるところのお相手に揺さぶりをかけ取引を有利に進める為には、揺るがぬ証拠が必要だ。今夜このラウンジを貸し切って催されるパーティに出席するらしいターゲット(敵方の三男坊だそうだ)に無関係を装って接触し、裏を取れればミッションコンプリート、そしてその大役を光栄にも『Crazy:B』が仰せつかったわけだが。
 ぬしはんら、えろう人目引いとるで。
『まァまァ、木を隠すなら森の中……つーことっしょ。パーティだぜ? フツーのカッコじゃ逆に悪目立ちしちまう』
「森ん中にビカビカの金で出来た木ィ生やす奴がおるかい」
『ぎゃはは、そんだけ俺っちがゴージャスでセクシーな伊達男ってこった。宗くんの見立ては間違ってねェっしょ!』
「やかましいおひとやな。誰も似合うてへんとは言うとらへんやん」
 今回もそうだが、潜入捜査の度に新しい衣装を仕立ててくれる宗とみかには頭が上がらない。半ば趣味でやっている節はあるのだろうが、自分達の仕事柄せっかくの新作に穴を開けたり破ったりは日常茶飯事だし。
『――燐音、お行儀』
『はァ〜い』
『ありがとHiMERUくん、黙らせてくれて助かるっす……』
 因みに燐音とニキが声を吹き込む揃いのカフリンクスはブラックオニキスに蜂の意匠が黄金で刻まれており、通信機能だけでなく録音録画及びリアルタイムに映像を送信する機能も搭載された優れ物――こちらは同僚の双子の手による最新ガジェット――だ。ひなたとゆうたは燐音に潜入捜査のいろはを叩き込んだ先輩エージェントで変装の達人、その上手先も器用とあって、まだまだ新設チームの『Crazy:B』は大小無数に世話になっている。
 ともあれHiMERUの叱責により利口に口を閉ざした燐音(と、とばっちりのニキ)は、いよいよ建物内に入ったようだった。
「燐音はんニキはん、わしは風向きの都合上、予定変更してポイントCにおる。荒事になりそうやったらターゲットをポイントIまで誘導しいや。ぶち抜いたるわ」
『そうならないことを祈るっす……さくっと終わらせてご飯食べたいし』
『おうよ。頼りにしてるぜェ、俺っち達の|死の女神サマ《・・・・・・》♪』
「アホ、今回はへカートの出番は無いねんで。あないなもん市街地で撃たすなや」
『違う違う、今のはこはくちゃん自身のことっしょ。……お、入るぜ』
「そう何人も女神はん要らんやろ……。気ぃつけや」
『――俺もいつも通り近辺で待機していますので。くれぐれも穏便に、今回は情報を掴んだ時点で撤退です。良いですね』
『わァってるよ。じゃーな!』
 プツ、と音声が途切れる。一度ヘッドセットを外しビルの屋上から眼下を見下ろせば、街の喧騒が遠く聞こえる。
「……嫌な夜じゃ」
 びゅうと壁面を沿うように吹き上げて髪を踊らせるひんやりとした風に、こはくは誰に聞かれるともなく呟いた。



   Ⅱ



「おに〜さん。ウォッカマティーニ、シェイクでよろしく」
「ちょっと、あんまり強いの飲んじゃダメっすよ? ああ僕、ジントニックで」
 燐音と共にラウンジに潜り込んだ椎名ニキは、一先ずカウンターに腰掛けて様子を窺っていた。茨が偽造した会員証のお陰で潜入はスムーズ、宗とみかのお手製衣装は特殊な素材で金属探知機を通さないため、何事もなく得物を持ち込むことが出来た。お次はターゲットを見つけて接触を図りたいところだが、店内には想定していたよりも人が多い。
「こりゃ難儀しそうっすね〜。先に腹拵えしたいとこっす……」
「てめェさっき車ン中で食っただろうが。さァて、俺っちのハニーはどっこかなァ~♪」
「ハニーって。相手オッサンっすよ」
 グラスに添えられたレモンピールを指先で弄ぶ燐音に一瞥をくれてから、店内を見渡す。事前に頭に叩き込んできたデータによるとターゲットは三十八歳、長身痩躯の金髪の男性。品の良い顎髭がよく似合う理知的な顔つきで見目も悪くなかった。さぞおモテになることだろう。
 不当な嫉妬に好きなタイミングで食事が取れないことへの苛立ちも乗算され、何だか段々腹が立ってきた。憮然としつつも引き続き周りを見回しているうち、何やら十人程の若い女性が集っているボックス席が目に留まる。その中心で悠々とソファに座しているのは――いた、ターゲット。
 念の為にカフスをいじくって映像送信のスイッチを入れたニキは、隣の相方を肘で小突くと先方を顎でしゃくって示した。
「燐音くん、あそこ」
「んァ? ……おお、でかしたニキ」
 燐音は既に一杯目のグラスを空けていた。二杯目に高価なシングルモルトのスコッチをオーダーしてご満悦の様子だが、今は潜入捜査中だ(それを承知の上で平気で酔っ払うのがこの男の最低なところである)。飲食代も経費で落ちるからと言って好き放題やっていいわけではない、と自分の食費を棚に上げてニキは憤った。
「もお~飲むのやめて。……見つけたはいいけど、これじゃ近付けないっすね」
「あ〜……わかった、俺っちに任せとけ」
 燐音はひとつウインクをするとグラスを手にしてカウンターを離れ、大股でフロアを横切り目的の座席へと近付いた。ざあっと人波がふたつに割れる。遠い昔に読んだ旧約聖書の一場面を想起しつつ、相方のやろうとしていることを何となく察した。ターゲットは話に夢中で燐音の動きに気付いていないようだった。
「おっと、失礼」
「きゃあ!」
「ああ申し訳ありません、レディ。せっかくのドレスを汚してしまいました……すみません、こういった場所は不慣れで、緊張してしまって。非礼をお許しください」
 あ〜あ、あのおね〜さん、もう燐音くんに落ちたな。
 ごく自然に身体にぶつかって、大ごとにならない程度にドリンクを零して切っ掛けをつくって。あのお綺麗な顔面を仔犬のようにしょんぼりとさせて女性の目を見つめれば、後はもう相手の方から転がってくるのを待つだけ。普段は暴君の癖して、こと任務においてはやはり優秀、舌を巻く程の役者だ。
 突如躍り出た派手な伊達男にざわつくフロア、女性達の関心はたちまち謎の新参者にかっ攫われていく。すっかり取り巻きがいなくなったテーブルには男がぽつりと残された。
「こんばんは。……ご一緒しても?」
「ああ、構わないよ。君は……」
「シイナと申します」
 世間知らずな若者を装って男の隣に腰掛け、目だけで燐音に合図を送る。歳上と見られる綺麗な女性の肩を抱いたそいつからは調子の良いウインクが返ってきた。ため息を吐きたいのを我慢しつつ、自然な素振りで静かに笑む男に視線を戻す。話し出そうとして、すぐに違和感を覚えた。つい先程までとは男の纏う雰囲気が違う。この剣呑な匂いは、何だ。
「シイナ君。人払いをしてくれて、有難う」
「……え?」
「私はね、君達を待っていたんだ」
 彼は至極穏やかに、ゆっくりと言葉を発した。直後、ごり、と背中に硬い物が押し当てられる感触に冷や汗が伝う。振り返らずともわかる、銃口だ。――嵌められた。
 視界の隅で相方が殴り倒されるのを見た。いくらあの男が有能とは言えども、これだけの観衆の前での不意打ちには対応し得ない。自分もいつの間にか数人の男に囲まれてしまっている。不味いことになった。
(通信は切れてない……HiMERUくん、こはくちゃん、ごめん! 助けて!)
 心中で仲間へのSOSを唱えたまさにその時、雑音と共に音声が流れ込んでくる。今から助けに行くから安心して待てと言ってくれるはずのその声が、よもやニキに今以上の絶望を与えることになろうとは思いもしなかった。
『――おや、招かれざる客、ですね。ノックのひとつも出来ないのですか?』
『アンタが女王蜂か? さあ立て。俺らと来てもらうぜ』
(嘘でしょ、HiMERUくん⁉)
 あろうことか頼みの綱であるHiMERUの居場所が敵方に知られていたらしい。いつでも不測の事態を回収出来るよう完璧に準備を整えて隠れ潜んでいる彼が、どうして。
 動揺を押し隠して男の顔を見やると、彼は勝ちを確信したようにほくそ笑んでいた。
「そろそろ私の部下が君達の仲間を捕らえている頃だ……あの色素の薄い、女のように綺麗な男。あいつだろう? 君達を動かしているのは」
「……あんた……、目的は何だ」
「目的、ねえ。そうさなあ……害虫駆除、かな」
 こちらを見下ろす目つきに侮蔑の色を滲ませる男に、ぎりりと奥歯を噛み締める。
 ――ああ、こんなことなら美味しいご飯をお腹一杯食べておくんだった。



   Ⅲ



 しくじった、とHiMERUは内心で思い切り舌を打った。現場から程よく距離を取り、いつでも動けるようビジネスホテルの一室に潜伏していたのだが、さていつから尾けられていたのだろうか。
 荒々しく部屋に闖入してきた柄の悪い男共は、こちらに拳銃を突き付けニタニタと笑う。相手は四人、ここは三階、不意を突いてグレネードでも投げて窓から脱出するか。背中に隠した左手をジャケットに忍ばせようとしたところで、「抵抗はよしな」と凄まれる。クソ野郎が。
「へへ、オマエらの情報は高くついたぜえ……いい加減目障りなんだよなあ、派手に動き回りやがって。羽虫がブンブンと煩わしくってかなわねえ。今夜全員仕留めてやるよ。残りのひとりももうじき見つける」
 ――成程、情報屋か。おおかた車を特定されて尾行されたのだろうが、仲間に売られたか、以前潰した奴等の残党の仕業か……あの上司が身内の不始末を見逃すはずがないし、まあ間違いなく後者だろう。だとすれば身から出た錆だ。
 ともあれ先程の言葉で確定した、燐音と椎名を襲ったのもこいつらの仲間だ。そして桜河、少なくとも彼の所在はまだ知られていない。今も息を殺してこの会話を聞いているだろう彼の為にも、もう少し情報を引き出しておきたい。
「――あなた方の飼い主は、人を訪ねる時のマナーも教えてくれないのですね。可哀想に。程度が知れるというものです」
「ハッ、俺らは誰にも飼われねえ、ただのギャングさ。報酬を弾んでくれるってんで、今回限り手を組んだだけだ。挑発しても無駄だぜ」
「これは失敬。俺をどうするつもりですか?」
「さてな。依頼主が好き者でよ、アンタだけは生かしたまま捕らえろって言われてんだ。拷問した後は慰み者にでもされるんだろうよ」
「それはそれは……趣味が良いですね」
 ニコ、と微笑む。冗談じゃない。
 男は聞いてもいないのにべらべらと喋り続ける。
「アンタが頭だろ、ここで抵抗すれば俺の仲間にアンタの部下を殺させる。大人しく従え」
「……。言う通りにしたら?」
「今すぐには殺させない。時間の問題だがな」
 女王蜂、頭。口ぶりからして敵の誰も、燐音が本来の頭だとは気付いていないようだった。この思い違いは都合が良かった。上と直接情報を交わしているのは燐音だし、自分がどうこうされたところで上司にとっての痛手にはほぼなり得ない。それに相手も一枚岩ではないらしい、時間さえ稼げれば桜河がどうにかしてくれるかもしれない。ともかく今、俺達のリーダーを殺させるわけにはいかない。
「――わかりました。どうぞお好きに」
 両手を挙げて無抵抗の意志を示すと、一際体格の良い男が背後に回った。首の後ろに手刀を打ち込まれる衝撃を最後に、HiMERUの意識は闇に沈んだ。





「HiMERUはん……っ! くそ、どないせえっちゅうんじゃ……!」
 こはくは慌てていた。現時点で無事なのはどうやら自分だけらしい。HiMERUが控えていたホテルの地下駐車場から怪しげな車が出て行くのが見える。狙撃しようとライフルを構えて、しかし物凄い風に煽られた。照準が定まらない。
 こうなってしまっては仕方がない、まだ支給されたばかりで起動したことすらないガジェットだが、こいつに頼るしかない。藁にも縋る思いで、ジャケットの胸元から蜂を模したゴールドのラペルピンをもぎ取る。
「こない緊急時に使こてええもんかわからんけどっ、ぬしだけが頼りじゃ! 頼むで!」
 手に取ったのは『Crazy:B』専用カメラ&追跡機能付小型ドローン、通称『ハニービー』(名付け親は開発者のひなた)――スマートフォンを操作して例の車を追うよう指示を出すと、そいつは小さな羽根を震わせて夜空に舞い上がり、すぐに見えなくなった。
 こはくは『ハニービー』を見送ると、その場にぺたんと尻餅をついた。暫し呆然として、それからはっとして手元の端末を見た。
(絶望すな……絶望すな! 助けるんじゃ! 全員!!)
 そうして意を決してとある番号をコールするのだった。



   Ⅳ



「いたた! ちょっ、乱暴にしないで〜⁉ 手は僕の命なんすよ⁉」
 縄で後ろ手に拘束されたニキがキャンキャン鳴く。オレンジ色の白熱灯がひとつだけ灯る薄暗い部屋の中、冷たいコンクリートの床に転がされながら、燐音は努めて冷静に自分達が置かれた状況を分析しようとしていた。
 ターゲットは『Crazy:B』がここに来ることを知っていた。予め情報屋とやり取りして準備を整えていたらしい。これまで多方面に喧嘩を売りまくったツケか、任務の為とはいえ表立って暴れたせいか、あるいは両方か――自分達の情報が連中の間で高値で取引される程度には、あちこちから恨みを買ってしまっていたようだ。『宿主不明の厄介な害虫』を野放しにして得をする者など(巴家以外には)いないわけで、そりゃ待ち伏せして潰そうと考える奴が出てくるのも道理だよなァ、と納得せざるを得ない。ともあれ『Crazy:B』は蜘蛛の巣に掛かった哀れな蜜蜂よろしく、まんまと敵さんの掌中に落っこちてしまったのだった。
 燐音とニキは潜入したラウンジで罠に嵌まったのち、先のボックス席の奥の壁に仕掛けられていた隠し扉から、今いる地下室へと引き摺って来られた。得物は取り上げられ手足を縛られ転がされているが、どちらかが縄から抜けられさえすれば、ここにいる八人のならず者とひとりの坊っちゃんくらいなら簡単にのせるはずだ。無論、ここでむざむざと殺されるつもりなど更々ない。問題はHiMERUだ。
 「女王蜂」と呼ばれていた彼は、その誤解を逆手に取って敵の気を逸らすつもりだろう。今頃自分達を救出しようと奔走してくれているであろうこはくの動く時間を稼ぐ為に、そしてもしもの場合には、本物のリーダーに成り代わって始末される為に。
 ンなの、俺っちが許可すると本気で思ってンなら、てめェは俺っちのことなんざ何ひとつわかっちゃいねェよ。
 それが何よりも気に食わない。さっき横っ面を殴られたせいで口の中が血の味で一杯なのは、まあ良い。トラップに気付けなかった自分の間抜けさも、腹は立つが今は置いておこう。スパイ稼業なんて常に死と隣り合わせだ、仲間が、部下が死のうが任務の遂行が最優先、だからこの場合生き残るべきは燐音だろう。HiMERUの判断は正しい。だからと言って仲間を切り捨てられる程非情にはなれなかった。傭兵時代に戦場で見殺しにしたたくさんの命を、背負った咎を忘れたことなど一日だってない。今度は捨てない、そう決めたのに、だ。
 他ならぬおまえが俺にとってその程度の、身代わりに死んでも構わねえような存在なわけ、ねえだろうが。
「おい。仲間を助けに行かせろ」
「……君は自分の立場をわかっているのか?」
「わかってるに決まってンだろ。てめェの命が惜しけりゃさっさと縄を解け」
「解いても解かなくても殺すだろう」
「当たり前っしょ」
「ならば解かないよ。残念だったね」
 ……駄目だ、頭に血が昇っている。青い顔をしたニキが隣から心配そうな視線を送ってきたから、これでは不味いと一度深く息を吸った。落ち着け。落ち着いて勝ち筋を探せ。
「それで、君達はどこの家の手先なんだ?」
「言ったら解放してくれンのかよ」
「しないし、正直どうでもいい……。私もそこら中に敵を作っているから、誰に刺されたっておかしくないのさ。天祥院にも、巴にも、朱桜にもね。そんなことより、私もさっさとあちらに合流したいのだがね。いつまでも君達の相手などしていたくない」
「……あンだと?」
 低い声で呻くように問い返すと、そいつは上機嫌に笑った。
「君達の女王蜂のところさ。美しい男だねぇ、彼のことは生け捕りにするよう命じているんだ。君達をふん縛ったのも、そうした方が彼を従わせやすいからだよ」
「!! 下衆野郎がッ、死ぬより酷ェ目に遭わせてやるッ……!!」
「ククク、負け犬の遠吠えだな。安心したまえよ、君達は今から見せしめに殺すが、彼だけは私が快適に飼ってやるから。私専用の奴隷としてだがね」
「ッの野郎……!」
「ダメ!! 燐音くん……っ、ここで冷静さを欠いたらあいつの思う壺っすよ!」
 ふうふうと、浅い呼吸を繰り返しながらニキの声に振り返る。必死にやめろと訴える相方は顔を真っ青にして泣きそうになっていた。縛られた自分の手首は、無闇に暴れたせいで縄目に擦れて血が滲んでいる。鮮やかな赤を視認した瞬間ぴりりとした痛みを覚え、急速に頭が冴えていくのを感じた。
 是非も無い、伸るか反るかの大博打に打って出てやろうか。男がギャングのひとりからリボルバーを受け取るのを見ると、燐音はにんまりと片方の口端を吊り上げた。
「なァ、おっさん。ロシアンルーレットで勝負しねェ?」
 ニキが口をあんぐりと開けてこちらを見ている。とうとう気が狂ったか、とでも思われているのだろうが意に介さず「どう?」と小首を傾げて駄目押しする。こいつは乗ってくるという確信があった。
「それ、あんたの? コルト・パイソンじゃん。良いの持ってんなァ、そのグリップだとプレミア付くだろ。イイじゃねェか、そいつ使ってロシアンルーレットやろうぜ」
「ふむ……」
 その気にさせてやろうと重ねて得物を褒めちぎってやると、男は手元を見て満更でもなさそうな顔をした。
「……良いだろう、どのみち貴様は死ぬんだ、今際のゲームに付き合ってやろうじゃないか。ただしルールはこちらで決めさせていただこう……そうだな、六弾装填式のシリンダーに弾は一発。交互に一度ずつ引き金を引いていく。こめかみに向けて撃つ前に、シリンダーを廻すか廻さないかは、各々の自由とする。どうだ?」
「お好きに」
「良かろう」
 控えていたギャング達の手により拘束が解かれる。奴の自信満々といった表情が癪に障るが、じきにその無駄に高い鼻っ柱ブチ折ってやるから腹ァ括れよ。
「おおい、準備出来たかァ」
「ああ。……もしもゲームの途中で変な気を起こそうものなら、周りで見ているこいつらが貴様を撃ち殺す。わかっているだろうね」
「アホか、ンな野暮なことしねェよ。そっちからだ、ホラ」
「では……遠慮なく」
 無言で撃鉄を起こし銃口をこめかみに向けた男は、少しも躊躇う素振りを見せずに引き金を引いた。地下室に静寂が落ちる。人差し指をガードに引っ掛けてくるりと銃身を半回転させ、グリップがこちらに向けられたので、何も言わずに受け取った。シリンダーを廻す。カラカラと乾いた音を奏で、しばらくしてぴたりと止まる。慣れた手付きで撃鉄を起こす。ひとつ深呼吸をして目を閉じ、銃口を自分に向けた。こればかりは運だが大丈夫だ、負けが確定している博打は元より打たない主義なんだから。引き金を引く、カチリ。はずれだ。ニキの方をちらりと見やる。手足を折り畳んで蹲ってしまって顔を上げもしない。大袈裟に肩を竦めてから銃を返す。三発目、はずれ。四発目、はずれ。五発目の引き金を相手が引いてやはりはずれだったところで、もう一度ニキの様子を窺った。まだか。六発目、シリンダーを廻す。完全に止まる前にもう一度、更にもう一度、廻す、廻す。やがてゆるやかに速度を落とし、回転が止まった。時間稼ぎも限界だ、まだか、ニキ。勿体つけてのろのろと撃鉄に指を掛ける。がちん。腕組みをしてこちらを眺める男は下卑た笑みを浮かべている。
「怖気付いたか? 当たりだと思うなら天井に向けて撃っても良い。もし違ったら君の負けだがね」
抜かせ。当たりなんて初めから無かっただろうが。
「ひっ、ひいいいいいい⁉」
 ぴんと張り詰めた空気は、突如響いた汚い悲鳴によって引き裂かれた。つい先程まで余裕を見せていた男が弾かれたように振り返る。そこでは殆ど正気を失ったニキが縄を引き千切り、すぐ傍のギャングの腕に噛み付いていた。
「なっ、貴様!」
「おっせェンだよ、ニキ!!」
 この時を待っていた。
 空のリボルバーを放り投げると腰を抜かした連中の手元からオートマチックの拳銃を二丁奪い取り、両手で構えて全弾容赦なくぶっ放す。弾切れのタイミングを狙って背後から襲いかかってきたナイフを銃身で受け止めて、鳩尾に思いっ切り踵を叩き込んでやると、相手が気持ちいい程吹っ飛ぶ。身体を捻ってニキに狙いを定める手元目掛けて後ろ蹴りを放ち、そいつが取り落とした銃をすぐさま拾って間髪入れずに引き金を引いた。別の男がサブマシンガンをこちらへ向けている。連続で撃ち出される弾が頬や肩を掠めるのもお構いなしに床を蹴るとぐんと距離を詰め、そいつの頭を抑え込んで勢いよく地面に叩きつけた。仕上げに後頭部に鉛玉を撃ち込めば一丁上がりだ。
「はっはァ!! 爽・快ッ!! てめェら全員地獄に落ちろ! そんでもって向こうで会おうぜェ~! ぎゃはははは!!」
「ヒッ、たすけ、助けてくれえ!!」
 男が取り乱して叫ぶと、外で見張りをしていたらしいギャングの仲間が五人、異変に気付いて地下室へ雪崩れ込んで来る。けれども死体と死体の間にゆらりと佇む燐音と目を合わせるなり、全員足が竦んだようにその場に固まってしまった。頭から返り血を被ってなお爛々と光る碧い瞳、全てを焼き尽くす火焔のように赤い髪、そして驚異的な反射神経と胆力。恐怖に震える指がこちらを指す。
「きさ、貴様、リンネと呼ばれていたな……まさかあの、あま、天城……」
「ピンポーン、大正解☆ 俺っちがかの有名な天城燐音くんでェ〜す」
「ひ、緋色の、暴君っ……!」
「チッ……だァから、その二つ名で呼ぶなっての」
 言い終わる前に銃声が響いた。弾丸は脳幹を正確に撃ち抜き、男はその場に崩折れた。
「殺すぞ、……っつう前に殺っちまった……。おいニキィ~、捌いていいぜ。けど食うなよ不味いから、ひとりも逃がすんじゃねェぞ」
 言うと、がるる、と飢えた獣のごとく喉を鳴らすニキがナイフ両手に飛び出していった。阿鼻叫喚の地獄絵図を余所に部屋の隅へ歩いて敵に奪われたままだったホルスターとジャケットを取り返し、自前のワルサーPPK二丁の無事を確認する。内ポケットから煙草を取り出し咥えたがライターが無かったので、手近な屍を探って拝借した。すう、と肺にニコチンを取り込むと煮えていた脳味噌が冷えていく。やがて悲鳴も呻き声も聞こえなくなった。
「……終わったかァ」
「へっ、ああ⁉ 僕またやっちゃった⁉ もお〜燐音くん、なんでもっと早くに起こしてくれなかったんすかあ!」
「いいンだよ、おめェに賭けて正解だったっしょ。チョコあったからやるよ、ほい」
「うへえ~僕が暴走するの待ってたんすか、マジやめてほしいっす……いただきます」
 見渡せば死屍累々であった。一先ず自分達の身に迫る危険を退けることには成功したが、さてここからどうしたものか。紫煙を燻らせながら思案していると「そう言えば、」とチョコレートを食べ終わったらしいニキが思い出したように声を発した。
「燐音くん、それどころじゃないのはわかってるんすけど、どうしても気になって。なんであんな勝負持ち掛けたんすか?」
「あァ……。あいつ、店で女とゲームしてたっしょ?」
 燐音の言う通り、男はラウンジで女に囲まれてカードゲームに興じていた。ポーカーだ。ちらとテーブルを見た時は、スペードのストレートフラッシュで女共相手に一人勝ちしていた。勝負好きだが接待プレイも知らない幼稚な負けず嫌いに加え、勝ち誇って他人を見下すのが好きな性格。いい歳してそんなパーソナリティを持った人間がイカサマに手を染めないはずがない。
「あのリボルバー、弾なんざ入ってなかったよ。六発目が終わったら問答無用で俺っちを撃つ算段だったンだろうよ――馬鹿にされたモンだぜ。てめェの命も賭けられねェ、手も汚さねェ、この俺が手を下す価値もねえチキン野郎が」
「なはは……暴走までの時間稼ぎにしても、危ないからもうしないでね……」
「わりィって、コラ、まだ安心すんな」
 へらりと笑ったニキはずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。心配させたことを悪いと思いながらも腕を引いて立たせると、わかってるとでも言いたげな意思の強い目に見返される。……俺は良い相方を持ったものだ。
「ニキ。ここの後処理は任せた」
「はいはい、任されたっすよ燐音くん。HiMERUくんを頼みます」
「……てめェ偉そうなンだよニキこの野郎♪」
「んぎゃあ! はやく行け!」
 仲間からの信頼がむず痒くて一発ヘッドロックをお見舞い。付き合いの長い相手だから、照れ隠しだということは恐らくバレているだろうが。――それに言われなくたって飛んで行くさ、お姫様を救出するのは王子様の役目って、相場は決まってっからな。
 無言で突き出した拳にごつんと拳をぶつけ返される。想いは受け取った。振り返りざまニイと不敵な笑みを残して、燐音は階段を二段飛ばしで駆け上がり地下室を後にした。





 相方の背中が見えなくなるまで見送ったニキは地よりも深くため息を吐いた。
「はああ。まったくもう、簡単に言ってくれちゃって……」
 放られていたジャケットを拾い上げ、埃をはたいてからポケットを漁れば次々と非常食が出てくる。これは燐音くんからもらったミックスナッツ、これはこはくちゃんからもらった羊羹、……これはHiMERUくんからもらったタブレット。緊急用にと上司に持たされている栄養補助食品もある。何はともあれまずは腹拵えだ。
 HiMERUくん、平気かな。まあ燐音くんが行くんだし、こはくちゃんもいるし、何にも心配要らないと思うけど。
 ハニー味のバーを咥えた口をむぐむぐと動かしつつ先の広い背中に思いを馳せる。同時に辺りに目を配ることも忘れない。ようやく目が慣れてきてわかったことだが、この地下室はホテルの食糧庫の前室のようで、通路を進むと小麦粉の詰まった袋が大量に積み上げられていた。その奥には缶詰やら食品の入った段ボールやらが所狭しと置かれている。道理でお腹が空くわけだ――こんなに近くで食べ物の匂いがしていたなんて。血と火薬の匂いが濃すぎて気が付かなかった。
「……はっしまった、涎が」
 今は任務中、今は任務中。
 ――さて、気を取り直して。業務用の巨大な冷蔵庫から塊のチャーシューを引っ張り出し、豪快にかぶりつきながらニキは唸った。ええっと、まずは死体を片付けないといけないでしょ、僕らがここに潜入した痕跡を消さないといけないでしょ、あ、ラウンジにいる人達の記憶も消さないと。うーん。
「うーーーーーん。地下室爆発させて埋めちゃえばいっか」
 呑気な響きで発されたとんでもない独り言に返事などあるわけもなく。料理人を生業にする自分としては食べ物を粗末にするようで気が引けるが、仕事をしなければご飯を食いっぱぐれてしまう。ここは致し方ない、やるしかあるまい。
「ふんふふ~粉もん大好き~♪ お好み焼き~たこ焼き~パスタにおうどん~♪」
 陽気に鼻歌を歌いながら小麦粉の袋をナイフで引き裂き、地下室じゅうに粉が充満するようばら撒いていく。幸いこの部屋の空気は乾燥しているし可燃物は山程ある。人間の身体だってひと度火が付けばよく燃えるのだ。火種は……先刻相方がしていたように死体のポケットからジッポを拝借することにした。燐音に倣って階段をとんとん上る。ターゲットが待ち受けていたボックス席はカーテンで仕切られておりホールからは死角。これなら燐音も人目に付くことなく脱出出来ただろう。
 ……そんじゃま、僕もひと仕事しますかね。
 カーテンの隙間からホールへ向かってひょいと閃光弾を投げ込む。カッと白い光が一瞬辺りを包み込んだ。茨から「滅多なことでは使わないように!」と念押しされているこいつは、光を浴びた人間の脳細胞に作用して自分達に関する記憶をごっそり抜き去る代物だそうだ。それって放射能とかの類じゃないのだろうか。大丈夫かな。
 まあいいや、次。物陰に隠れて発煙筒を焚く。もくもく、白い煙が立ち昇るのを確認してから、「火事っすよ~! みんな逃げて~!」と死角から声を張り上げた。言いながら手元のジッポに火を灯す。そいつを階段下の暗がりに投げ入れたら即座に両耳を塞いで、スリーカウント。いち、にい、さん……ドカン、ガラガラ。遥か下の方から耳をつんざく大きな音がして爆風が景気良く吹き上げてくる。上手く小麦粉に引火したようだ。うんうん、粉塵爆発は怖いんすよ。死体は瓦礫に埋まって最早発掘は困難、監視カメラの映像は茨にハッキングしてもらって消せば良いし、後は混乱に乗じて逃げるだけだ。最後に念の為、受付に置き去りにされていたPCからラウンジの会員名簿を抜き取ってミッションコンプリート。いやあ僕って有能っすね、なんて思わず笑みが漏れた。なるべく目立たないよう非常階段を使って屋上へ向かう道中、もう一度駆け出していった後ろ姿を思い描く。
 燐音くん、いいところは譲ってあげたんだから、かっこよくHiMERUくんを助けてちゃんと帰ってきてね。じゃないと僕、あんたを拾ったことを一生後悔するっす。
 胃のあたりをずしりと重たくさせる不安は一心不乱に走ることで振り切って、ニキはひたすらに前を向いた。今は離れたところから仲間の無事を祈ることしか出来ない自分が歯痒くて仕方なかった。

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