緋色の暴君(スパイパロ)



エピローグ 緋色の暴君



   Ⅰ



 巴の屋敷に間借りしている自室の扉を潜るとすぐに、HiMERUがこちらの襟首を掴んで顔を寄せてきた。彼らしくもない性急さで迫られ、がちんと軽く歯が当たったがお構いなしに唇を合わせる。口付けに応えながら手探りでドアの鍵を閉める(本当はそんな間すらも惜しいのだが)。かちゃり。その音を合図にふたりしてずるずるとその場に座り込み、抱き合ったままキスをする。口腔内をそっくりそのまま交換するかのように深く深く交わる。開きっぱなしの唇から切れ切れに吐き出される息は火傷しそうな程熱く、こちらの体温まで上がるようだ。舌に絡み付く粘ついた唾液が蜜のように甘いのは、例の薬のせいだろうか。
「んっはぁ、あふ……んむ、」
「ん……大丈夫か?」
「う、ん、くるし……あつい、燐音ぇ……」
 目を落とせば彼の右手は下着の中でゆるく兆した自身を弱々しくさすっていた。長い間身体の奥で熱を燻らせていたのだろう、同性故にその辛さは十二分に理解出来る。そうだ、あのクソ忌々しいギャングの男が「遅効性の媚薬」だとか抜かしてやがったが、体外に出してやれば薬の効果は薄まるのではないか。
「な、抜いてやるから……一旦手ェ退かして」
 なるだけ優しく囁いて、いやいやとぐずるHiMERUの手首を掴みそこから外させる。そのまま口元へ運んで掌にキスをしてやると情欲に濡れた瞳がこちらを射抜いた。ぐっとこないと言えば大嘘になるが、薬でおかしくなっている恋人を欲に任せて襲ってしまったら、それこそあの連中と同じだ。努めて理性的に、苦しむ彼を楽にしてやるのだ、それだけだ。そう自分に言い聞かせて抱き合っていた身体を一度離し、キスひとつで腰砕けになってしまったらしいそいつをベッドへ運んでやろうと膝下に手を差し入れればまたむずがった。
「やだ、燐音、や……はやく、触って」
「こぉら、駄々捏ねンじゃねェ。ここじゃ辛ェだろ」
「うう〜、やだあ俺、もういっぱい我慢した、」
「わかった、わかってるから……ベッドいこ、な?」
 まるで子供に返ってしまったかのような物言いに思わず流されそうになるも、鋼の意思でぐっと堪えた。部屋に着いた途端たがが外れたみたいにぐずぐずになってしまったHiMERUは、ふたりきりになるまではと理性の糸をぴんと張って耐え続けていたのだろう。そうそう他人に懐かないこの男に気を許されているという実感を得て内心は小躍りしたいくらい嬉しいのだが、正直今はそれどころではない。ぽかぽかと胸や肩(そこは怪我をしている場所だ)を拳で叩いてくるそいつをどうにか押さえ込んで抱え上げると寝室の扉を足で開けて奥へ進み、ようやくベッドへ強制連行することに成功した。本当に聞き分けの悪い子供を相手取っているようで厄介だ。けれどそれを可愛いと思ってしまうのだから、イカレてるのは自分の方なのかもしれない、なんて考えて燐音はひっそりと笑った。
「スイートみてえに上等なモンじゃねェけど、床よりこっちのがイイっしょ」
「ん……燐音の、においがする……」
「……おい」
 寝転んだHiMERUは枕に顔を押し付けてすんと鼻を鳴らした。あまり可愛いことをしないでもらいたいものだ、こちらが必死で欲望と闘っているのが馬鹿馬鹿しくなってくるから。
 身に着けていたものを丁寧に脱がせてやってから仰向けで脚を開くよう促せば、彼は案外従順に従った。自分も硝煙と血がこびり付いたジャケットを脱いで床へ放るとその脚の間に割り込んで屈み、中心を掌で包んで刺激してやる。たちまち素直に膨らんだそれを躊躇いなく口に含む。「ぁ、」と頭上で控えめな喘ぎ声が零れた。
「っ、ああ……ん、ァ、あ! うあ、」
「んむ、きもひい?」
「ふぁ、アア、きもち、ぃ……っ、ひぁうッ⁉」
 竿を扱く手をそのままに唇は下へ下へと降りていき、ぱんぱんに張り詰めた袋へと到達する。そこをべろりと舐め上げれば驚きと快感が入り交じった嬌声が飛び出した。
「ひッ……⁉ ど、こ舐めて、ぁんっ! やあ、んんッ」
「ン〜? メルメルも機嫌イイとこうしてくれンじゃん? きもちいっしょ?」
「あっあっ! き、もひい、けどぉ……ひううっ、あっいく、いきそ、りんね、」
「ん。いいぜ、イけよ」
 扱く代わりに性器を口内へ迎え入れ、裏筋を舐りながらじゅぽじゅぽと吸い上げてやる。HiMERUの指がこちらの髪に差し入れられたかと思えばぎゅうと掴まれる。絶頂へ向かう直前の、恐らく無自覚な彼の癖。上下のストロークを数回繰り返すうち、程なくしてそれは燐音の舌の上で弾けた。独特の苦味と生臭さが鼻腔にまで広がって彼に気取られぬよう一瞬だけ顔を顰める。――HiMERUはオネダリすれば口淫をしてくれるし飲んでくれることすらしばしばあるのだが、毎度こんな美味くもないものを受け入れてくれていたのか、と。そう思うと、たった今施していたのは燐音のはずなのに、日頃自分へ向けられる情の深さに気がついて浮かれてしまった。口の中をそのままにしておくわけにもいかないのでごくんと喉を鳴らして飲み下す、熱っぽいまなざしが一部始終を捉えていて何故だか興奮した。とろんと惚けている彼に覆い被さって口付ける。素面ならば「その口でキスするなんて」と苦言を呈されそうなものだが、大人しくされるがままになっている様が珍しくて可愛らしい。
「……ちょっとは落ち着いたかァ」
「あうう……だめ、足りないぃ……」
 非合法の媚薬だなんてとんでもない物に決まっている。やはり一度射精したくらいでは効果は薄れないようで、透明な雫を零す中心は再び首を擡げていた。達したばかりのぼんやりとした目と目が合ってまた下肢に熱が集まる。そりゃあ、彼氏としてはこんなしどけない恋人の姿を前にして平常心を保っていられるわけがないし、本音を言えば滅茶苦茶に抱き潰してしまいたい。けれど駄目なのだ、ひと度スイッチが入ってしまえば制御出来ないのはわかりきっている。
 HiMERU自身任務として割り切っていたとは言え恐ろしい目に遭ったはずで、それは下らない罠に嵌まってしまった自分の失態だ。だから燐音は冷静でいなければならない。目の前の据え膳に手が出せない。出来るのは俯いて後悔にきつく奥歯を噛み締めることだけだ。唇を引き結んで押し黙っていると、遂に痺れを切らしたらしいHiMERUがのろのろと上体を起こした。何をするのかと思えばこちらに体重をかけて圧し掛かってきて、あっという間に天井を背にした彼で視界が一杯になる。
「ちょ、メルメル?」
「あんたが、してくれないならっ……もう、いい、自分でやる……ッ」
 そう言うなり彼は自らの中指と薬指を口に含んだ。唾液で雑に濡らすとその手を後孔へと差し入れていく。小さく声を漏らしながら根元まで挿入し終えたら、こちらの腹のあたりに跨り膝を大きく開いたまま出し入れを始めた。はじめは恐る恐るといった様子でゆっくりと、少ししたら指を三本に増やし中の好いところを何度も擦る。大して慣らしてもいないそこからは間もなくぐちゅぐちゅと淫猥な音が聞こえ始めたので、やはり碌な薬ではないと知る。ともかく自慰を見せつけられる形になっている燐音はたまったものではない。
「ハッ、エッロい顔しちゃってよォ……」
「ぁ、あ、……っ、」
 ……こっちの声も聞こえねェくらい夢中になってるっつーのかよ。
 揶揄いの言葉に何の反論も寄越すことなくひたすらひとり遊びに興じる恋人に不服を覚え、燐音は大人げなくむくれた。気に食わないと思ってしまっている、気高く綺麗なHiMERUを乱してしまえるのは自分だけだと、のぼせ上がっていたからだ。他所の男に打たれた得体の知れない薬によってまともでなくなった姿を見せられれば、そりゃ面白くないに決まっている。そんな思いとは裏腹にスラックスの中でしっかりと存在を主張する自分自身にも辟易していた。
 彼は指では物足りなくなったのか、燐音のスラックスの前をもたもたと寛げて下着ごと下ろしてしまった。血管の浮き出た太い幹が天井を向いてそそり立つ様を恍惚と眺め、てらてらと濡れそぼった唇が「ああ……」と声とも吐息ともつかない微かな音を漏らした。
「ふふ、俺のオナニー見てコーフンした……? んふふ、燐音、かわいい」
「ぐっ……てめェなァ……」
 こいつぜってー泣かす。うっとりと微笑んでそんなことを宣う恋人に喉を詰まらせながら、そう固く胸に誓った。もう降参だ。この美しい男に心底惚れてしまっている自分には、彼の好きにさせてやる以外の選択肢などはじめから無かったのだ。だから今だけは諸手を挙げて主導権を譲ってやる。正気に戻ったら泣かすけれど。
 現実逃避にそんなことを考えていたら自身の先端が熱い粘膜に包まれる感覚に背筋が震えた。ぎょっとして見ると燐音の屹立がHiMERUの蕾に飲み込まれていく、まさにそんなさ中で。開かれた股の間で揺れる彼の中心がまた硬さを持ち、とろとろと涙を流す様がよく見える。その淫靡な光景から目が離せない。ごくりと唾を飲み込む音がいやに大きく響いた。
「ッ……ナカ、あっちい……溶けそ」
「ふっんん、ア、はいっ、た……?」
「ん、あと半分」
「うぇ、あっ、まだぁ……?」
「……もーちょい……」
「あんっ、あうう、無理ぃ、でかくしすぎなんだよっ……燐音のスケベ」
「……」
 ぶちん、と、何かが切れる音がした。脳の回路とか、堪忍袋の緒とかそういうものが、とにかく焼き切れた。気付けば目の前の細腰を掴み上げて中途半端に浮いていた尻を一息に落とさせて、その胎の中を深く穿つように、はち切れそうな怒張を奥へ奥へと捩じ込んでいた。どちゅんと耳を覆いたくなるような音がして、衝撃に喉を反らして目を見開いたHiMERUの性器が白濁を飛ばした。声も出せぬままに快感を極めたようだった。搾り取らんとするかのようにうねるナカの動きを息を詰めてやり過ごしてから、ゆるゆると抽挿を開始する。あつい。あつくて、気持ちいい。どうにかなってしまいそうだ。
「あーあーもォ〜知らねェ! 紳士的に抱いてやるつもりだったけどよォ、もうやめだやめ。おまえがエロいのが悪い」
「ひゃ、っ⁉ あああん! うあ、あ、ああっ!」
「これが、っ、欲しかったンだろォ……? お望み通りくれてやンよ……っ!」
「やあ、おく、きたぁ……きもち、んひぃ、きもひいよぉ……!」
 かぶりを振って過ぎた快楽を逃がそうとする彼の柔らかな髪が躍る。突き上げに合わせてぽろぽろと涙が散る。あれほど苛烈に煌めいていた瞳は蕩け切って零れ落ちそうだ。例えばあの黄金色した宝石を舐めたなら蜂蜜のように甘いのだろうか、などと馬鹿みたいなことを考えて、自嘲する。なんだ、やっぱり狂ってるのは俺の方じゃねえか。
「いッア! ふか、深いぃ……あう、は、ぁん! い、っく……イク、燐音、りんねぇ!」
「は、ァ……ッ、……好きだぜ」
「んえ、っ、? や、アア、〜〜〜ッ!」
 腸壁がぎゅうと引き絞るように蠢く。HiMERUがぐんと背を反らし、がくんと一度大きく痙攣した。射精せずに達したらしく、彼の性器は硬さを保ったままだ。はく、と酸素を求めて開いた唇に噛み付いて、無意識に逃げを打つ舌を捕まえて吸い上げつつ、器用に体勢を入れ替える。組み敷いた身体に刻み付けるように、何度も何度も楔を打ち込んで、呪詛の如き睦言を滔々と注ぎ込む。
「好きだ、なァ、好きなんだよ……おまえが何処の誰かも知らねェがな、ンなこたどうでもいい。俺はおまえが大事だ、傍にいてくれ。俺を置いて勝手に死ぬなんざぜってー許さねェから」
「……っ! り、ね……やめ、も、言わな、れぇ……」
「なんで。好きなの。好き。言わせてくれよ、今だけはよォ……」
 神への祈りか、或いは懺悔か。どちらにせよ切実な響きを持ってぽつぽつと落とされる告解は、HiMERUの耳に届いているのだろうか。ひと度決壊した想いは濁流となって渦を巻き、燐音をも呑み込んだ。何者も信仰してなどいないのに、今この時だけは強く念じずにはいられなかった。この恋情のひと欠片でも良いから、ただひたすらに焦がれ共に生きたいと願った彼の肌に、星が生まれて死ぬまでの時間よりも幾久しく永劫に痛む痣となって留まってほしかった。
「ッあ! また、またくる、りんね、すごいのっ、くるぅ……ぁは、ァ、や、ああ!」
「ん、いいぜ、ちゃあんと俺に、イくとこ見せて……?」
 好きだ、愛してる、そんな言葉を吐く度、彼の胎内がきゅうと強く締まった。求めに応じて燐音は幾度目かの精をそこにぶちまける。声は届いている、ちゃんと、こいつに。逃がさないとでも言うように絡み付いてくる内壁をしつこく可愛がってやれば、HiMERUは全身を断続的に震わせて何度でも絶頂に至った。
「あはっ、メスイキ止まらねェの? かーわい」
「ふあ、も、やらぁ止め、てぇ! あた、あたまへんになりゅ、ひんッ、こんなの知らな、ぁ、あん! だめっだめぇ……!」
「イイじゃねェか、変になっちまえよ……なァ、もっと俺ので気持ちよくなって」
「ひうっ、やあぁ、なか、へんっ……り、っね、りんね、たすけ、てぇ」
「はあ、あ、……やっべえ……」
 燐音、燐音、と。彼は砂糖をまぶしたような甘やかな声で繰り返しその名を口にした。その度ぞくぞくと、えも言われぬ快感が背骨のあたりを駆け上がる。行為に耽る時、こいつの声はどんな媚薬よりも強く本能に働きかける猛毒だ。下手なドラッグなんかとは比べ物にならないくらいの刺激で、脳髄をどろどろのピンク色に溶かしてしまう劇薬なのだ。
(遅効性の、媚薬。はは……そうかよ)
 今更、ひとつの解に思い至った。燐音がようやく思い知ったこと。この男と初めて交わったあの日、既に毒は回り始めていた。飽くことなく身体を重ねるうち繰り返し注がれるそれは、血液に混じって身体じゅうを巡り続けていたのだった――内側からじわりじわりと侵食し、いつか脳味噌を腐らせるその時まで。
 彼が目を覚ましたら、無体を働いたことを叱られるだろうか。そうしたらいつものように平謝りをするだけだが、おまえにだって責任の一端はあるのだと、今日は食い下がっても良いだろう。こちらにも責める権利くらいはあるはずだ。依存性の強いクスリにハマって気が違ってしまったのは、おまえのせいなのだから。燐音は唇を歪めて笑い、性懲りもなくHiMERUの最奥に熱い飛沫を塗りたくった。



   Ⅱ



 HiMERUが覚醒すると、うすぼんやりとした景色の中でもなお鮮明な緋色が視界の隅で揺れた。よく知る煙草の匂いにひどく安堵してほっと息をつく。身じろぐ気配を敏感に感じ取ったのか、赤い頭がこちらを振り向いた。
「……起きた?」
「――、はい」
 まったく何も覚えていませんといった顔で形ばかりの返事をすれば、恋人はまた煙草を咥えてふいと顔を逸らしてしまった。素っ気ない、だが当然だ、と思う。だって、聞いているこちらの胸が痛むくらいの悲痛な告白だった。届いているかもわからない、事が終われば忘れ去られるかもしれない恋慕を、それでも切々と燐音は訴え続けた。自傷行為だ、そんなものは。案の定HiMERUは目を閉じ、耳を塞ぎ、燐音が刺した傷など痛くも何ともないような振りをして無感動に踏み付けにしようとしているのだから。
 このまま知らぬ振りを続ければ良い。揺蕩う煙をぼうっと眺めながらHiMERUは考えた。こんな風に死の淵に立たされることは、きっとこれからだってあるだろう。それは自分達の職業を思えば仕方のないことだ。自分は目的の為に巴家の力を必要とし、その対価として命を賭ける。対等な取引だ。そんな生き方しか出来ない、他は知らない。知らなくて良い。だから言葉は与えないし、受け取らない――それが絶対的に正しいことだと信じていたのだ、確かに、この男に愛されるまでは。
「燐音」
「……なァによ」
 腕を伸ばして彼の背にそっと指を這わす。あちこちに傷痕の残る広い背中。まだ半分は残っていた煙草を灰皿に押し付けて、燐音は大きな身体を寄せてきた。どこか痛がるような表情。行為を終えた後彼が清めてくれたのであろう自分の肌から髪から、纏っているちょっぴり袖が余る白いシャツから、彼のと同じ匂いがすることに気が付く。縮まった互いの距離に堪らなくなって、その口唇にちゅうと吸い付くと驚いたような顔をした。
「どした、急に」
「んん……急じゃないでしょう、別に、恋人なんだから。――ねえ燐音、もう一度言ってくれませんか」
「……へっ?」
 目を丸くして素っ頓狂な声を出した恋人に迫り、なおも言い募る。
「だから、『好きだ』と。さっきは言ってくれたでしょう? また聞きたい」
「さっきって……は? おまえ、えっ?」
「〝おまえが大事だ、傍にいてくれ〟」
「ぶっ、てめ、正しく繰り返すンじゃねェよ!!」
「ああすみません、つい意地悪を」
 意識して呑気な声を出せば彼はばつが悪そうに頭を掻いた。「いつから正気だったンだよ」と掠れた声で問われたので「〝俺のオナニー見てコーフンした?〟あたりから」と平然と答えてやったら大袈裟に頭を抱えていた。こういう時の燐音は嘘が下手だ。HiMERUが正気を取り戻していたことなんて、とっくに気付いていた癖に。告白の言葉だって本当は一字一句違わず覚えていてほしい癖に。臆病者。
「無かったことにされるかと、思った」
 しおしおと、枯れて丸まった葉っぱのように情けない声を出すものだから、衝動的に抱き締めてしまった。胸にかき抱いた頭が擦り寄ってくる、まるで大型犬だ、それもとびきり弱気で従順な。
「……今までの俺なら、そうしていたでしょうね」
「は、ンだそれ」
「俺もね、燐音。いよいよ死ぬかもしれないという時に、あなたのことばかり考えていたんですよ……意外でしょう?」
「……マジ?」
「マジ。――ふふ、臆病者は俺も同じですね。怖かったのですよ……大事なものをつくるのが。死にたくないと、思ってしまうから。それでは本懐を遂げられない」
 HiMERUは一旦言葉を切って燐音の目を見つめた。いつものふてぶてしさはどこへやら、不安げに彷徨う視線を捕らえて対峙する。ずっと言えなかったこと、言いたかったこと、もう見ない振りは出来ない。万感の想いを舌に乗せて、不格好な音にする。
「でもね……もう大事なんです、あなたが。あなたと生きたい」
「……っ、」
「燐音。一緒に生きて、最期は俺と一緒に死んでくれますか?」
 ――大事なものが増えたら、弱くなってしまうと思っていた。けれどそれは間違いだと知った。死ぬ理由がある者よりも、泥を啜って血を被ってでも生きる理由がある者の方が強いに決まっている。この程度の簡単な答えにようやく辿り着いた、自分はまだまだ未熟だ。なればこそ欠けた部分を補うように、俺にはあなたが必要だ。
「りーんーね。返事は?」
「……ずっりィぞ、おまえ」
「おや、泣いているのですか。顔を見せなさい」
「うっせ……ちっとは噛み締めさせろ……」
 彼は小さい子のようにぶんぶんと首を振って拒んだ。「暴君の目にも涙」――などと取り留めもないことを考えては小さく笑って、神様みたいに強くて綺麗なこの男のしみったれた姿を独り占めしていることを思っては舞い上がって。慕わしく思う相手の言動によって必要以上に振り回される己の感情がHiMERUには愛おしかった。しばらくそのままにさせておくと、ずると鼻を啜りながら「あのさ」と燐音が口を開いた。
「我が儘。聞いてくれるって言ったっしょ」
「ええ。あなたのお気に召すままに」
「好きだって言わせるつもりだったンだよ。けどもっとスゲェこと言われちまったからどうしようかと思って」
「へえ? 無欲ですね、意外と。とんでもないスケベなお願いとかを覚悟していました」
「てめェは俺っちのことをエロオヤジだとでも思ってンのか? あァん?」
 顔を上げた男の目と目がぶつかる。納得いかないとでも言うように跳ね上がった眦が僅かに赤くなっていて、また笑ってしまった。「では、どうします?」と続きを促すと不服そうに一度口を噤んだ後、ぶっきらぼうに「名前」と言った。
「おまえが呼んでくれるの、嬉しいンだよ。だから俺も呼びたい」
 HiMERUは知らず詰めていた息を吐き出した。これまで決して踏み込もうとしなかった彼が初めて『HiMERU』の深部の柔らかいところに触れようとしている。それが擽ったくも嬉しくて、つい口許が緩んでしまう。
「ふふ、優秀なエージェントは身内にも素性を明かさないものですよ?」
「え〜、いいじゃねェか教えろよ。ヤッてる間しか呼ばねェしさ」
「それは……ううん……仕方ないですね、ではファーストネームだけ……」
 満更でもない、と。そう感じてしまっている自分が面映ゆくて、照れ隠しに少しだけ躊躇う素振りを見せて。それからこほんとひとつ咳払いをするとやっと決心して、男の頬を両手で包み鷹揚に告げた。
「あなたにだけ、『要』と呼ぶことを特別に許可します」
「ふはっ、偉そう。……かなめ」
 すうとゆるやかに細められるターコイズブルーの双眸、ふわりと鼻先を擽る緋色。鮮烈でうつくしい獣、俺だけの暴君。「かなめ」と大事そうに呼ばうその声は春雷のようにHiMERUの、――要の頭から足の先までを貫いて痺れさせた。ああ、確かにこれは、癖になりそうだ。
「好きだよ、要。俺におまえをぜんぶちょうだい」
「ん……もうとっくに、あんたのもんだよ」
 誘惑じみて脚を絡めながらそう言えば啄むように軽く口付けられた。今度ははじめから正気のままで抱いてほしくて、要は燐音の首に腕を回して強く引き寄せた。 

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