緋色の暴君(スパイパロ)

チャプター1 Show Me The Light



   Ⅰ



 ゆらゆらと彷徨う視線が、ここではないどこかを見ていたから。大人げないとはわかっていてもやっぱり気に入らなくて、先程とは角度を変えて奥を抉ってやると、不意を突かれたような声に合わせて細い腰が面白いくらい跳ねた。
「っあ……! なに、す、んん」
「いんや? 俺っちにぶち込まれてるってのに、えらく上の空じゃねェの、って、な!」
「ひ、あうッ! ば、か……明日の、任務のっ、ァ、手筈を……浚っていたの、ですけど……っ?」
「あ、そ。まァいーや。そんならこっちも好きにさせてもらうぜ……ッ」
 面白くない。
 顔に出ていたのだろうか、それまで揺さぶられるに任せていた男が上体を起こして頬に触れてきたから、渋々動きを止めて目線を合わせた。
「燐音。構ってほしいならそう言ったらどうです?」
「……」
 男の劣情を巧みに煽る、それはそれは見事な上目遣いだ。こいつは影に潜む参謀なんかよりもハニートラップの方が向いているんじゃなかろうか。
 ――まあ、たとえ任務であろうと、俺以外の人間がこいつに触れようもんなら速攻ドタマぶち抜いてやるつもりだが。
 舌打ちの代わりに、ベッドへ押し倒してキスを贈ってやる。上唇を食むとぬるついた舌を差し出してきて、こちらも舌を伸ばして応じる。くちゅ、じゅる、と下品な音を立てて吸い上げれば「んんッ」と鼻にかかった吐息と共に長い睫毛を震わせるから、ますます下半身が重たくなる。その間もいたずらな指先が掌や指の股を擽ってくるので、主導権が握れそうで握れない、恋人同士の睦事だと言うのにこの駆け引きめいた攻防は何なのだろう。
「あん、りんね、それで、ん、っふ、わかっていますよ、ね?」
「あァ……俺らの飼い主サマ――巴の坊ちゃんの、不興を買わねェように……精々、やってやンよ。いつも通りド派手に、スマートに、な」
「ひうッ、そこ……、アア、ッ、きもちい」
「……っ、聞いちゃいねえ」
 ついさっきまで任務のことで頭ァ一杯にしてた癖して、切り替えの早いこった。
 本能に従いゆるゆると腰を揺らめかせて快楽を追うこの美しい男は、所変われば涼しい顔でチャカの引き金を引き自らの手を血に染める冷酷無比なエージェントだ。こうして組み敷いている間は恋人として振舞ってくれるが、基本的には仕事のことしか考えていないような奴だ。今日だって逢瀬のつもりで嬉々として迎えに行った自分と、打ち合わせのつもりでいた相手との温度差に愕然としたものだ。ともあれ、結局こちらが満足するまで付き合ってくれるところは、恋人に甘いと言えようが。





 天城燐音は彼のことを殆ど知らない。わかることと言えば、彼自ら『HiMERU』と名乗ったことと、出身がこの国であるということ。何らかの退っ引きならない目的を持っておりその為に裏社会で手を汚しているという点は、まあここに属している者ならば皆共通しているだろう。燐音も同じだ。
 かつては傭兵として戦いの最前線に立ち、何千人も殺した。戦時中は英雄として祀り上げられたものの、大衆とは移り気なもので、終戦を境に燐音へと注がれる視線は百八十度引っ繰り返ってしまった。戦争で多くの命を奪った者は、平和な世の中では単なる大量殺人者として忌避される。命懸けで得た名誉も武勲も塵芥同然に打ち捨てられる。全てがどうでも良くなってごみ捨て場で野垂れ死にかけていたところを、偶然通りかかった椎名ニキに声を掛けられなければ、そのまま産業廃棄物に紛れて処理されていただろう。
 ニキはえらくあっけらかんとした男で、浮浪者同然の身なりをした燐音を警戒することもなく食事にありつかせたのち、「おに〜さん僕んち来ます?」などと言って半ば強引に引っ張っていったのだった。そうして着いた先がこの国に名を知らぬ者はいない大財閥、巴家の屋敷だったのだから燐音は目を剥いた。ニキはこれまたあっけらかんと「あれ、言いませんでしたっけ? 僕ここん家のお抱え料理人なんすよ〜。うちの坊ちゃん、僕の作ったキッシュが無いと臍曲げちゃうらしくって! 参っちゃうっすよねえ」と聞いてもいないことまで喋ってくれた。坊ちゃんと言うのは巴家次男坊の日和のことで、ニキの主人は彼とその義兄弟の凪砂だった。
「また随分小汚い犬を拾ってきたものだね! ぼくはジュンくんのお世話だけで手一杯なんだけどね!」
 ハキハキといっそ爽快な程の大声で悪態をついた後日和は、その高貴な煌めきを湛えた紫水晶の瞳に物々しい光を宿し、声を低めて言い放ったのだった。
「まあでも、ぼくと凪砂くんの――巴家の役に立ってくれると言うなら、飼ってあげてもいいね。ジュンくん、茨」
 その一声を合図に「さて、お手並み拝見といきましょうかねぇ〜」「アイアイ! 弱者は淘汰されるのみ!」などと物騒な口上と共に目の前に立ちはだかったのは、それぞれ日和と凪砂の従者であるジュン、茨だった。
 燐音は狼狽えた。一歩また一歩とこちらへ近付いてくるふたりの従僕は殺意に目をぎらつかせている。全く話が見えず自分を連れてきたニキを縋るように見た。あれほど軽佻浮薄な笑みを絶やさなかった男は、もう笑っていなかった。
「おに〜さん。生きたいっすか?」
「え」
「生きたいなら、ここで生きていく為に今生き残るしかないっす。ダイジョーブ、今回は僕も味方っすから」
「何言っ……」
 言うが早いか、ニキは懐から数本のサバイバルナイフを抜いた。上体を捻って腕を前に突き出す勢いのまま二本を投擲、避けられはしたがそのどちらもが正確に相手の頭のあった位置を通過していったから燐音はぶったまげた。
「おま……、料理人なんじゃ」
「そうっすけど。ちょっとした用心棒みたいなのも兼ねてるっす。強いっすよ? 僕」
「ンなの聞いてねェっしょ……」
「そんで、ジュンくんと茨くんも、めちゃくちゃ強いっす」
「……そいつァ、言われなくても」
 見ればひと目でわかった。数多の死線を潜り抜けてきた燐音には、ふたりが今この瞬間にも主人の為に命を散らす覚悟で自分と相対していることが即座に理解出来た。手にした得物がモップとデッキブラシだろうが何だろうが、覚悟を決めた人間は強い。
「……ンで、俺っちはどうすれば?」
「殺されなければ勝ち」
「きゃは、イイねェ! 単純明快!」
 生きたければ殺されなければいい。丁か半か、自らの命を賭したギャンブル。戦場と同じだ。燐音はその辺りに転がっていた適当な木の枝を引っ掴み、木刀さながら両手で握って応戦した。
 二対二の乱闘は拮抗した。燐音は持ち前の勘の良さと体捌きで、従者達から浴びせられる猛攻を躱し続けた。デッキブラシを棍棒と見紛う巧みさで操る茨から仕掛けられる雨のような乱れ突き、かと思えば大きく振り回して足払い。突きが一撃だけ頬を掠めたが怯むことなく、大きく跳躍して半回転、地面に手を着いて飛びすさり、軽々と着地。それを見た茨は「ふむ、」と眼鏡のブリッジを押し上げ、日和を振り返った。
「日和殿下。彼は件の戦で名を馳せた傭兵、『緋色の暴君』天城燐音に間違いありません」
「へえ! かつての英雄が今やホームレス同然だなんて憐れだね! それで、使えそう?」
「どうですかジュン?」
「いやめちゃくちゃ強いじゃないっすか、オレじゃ全く歯が立ちませんでしたよぉ〜?」
「……良いんじゃないかな」
 凛とした低音が響いた。それまで日和の隣に座って事態を静観していた凪砂が、初めて口を開いた。
「……彼には――生への執着がある。罪を背負ったまま、それでも生きていく覚悟がある。私は、彼を認めてあげたいな。『緋色の暴君』さん……だっけ」
「……。その忌々しい二つ名で呼ばないでもらえませんかねェ? ダサくて嫌いなンでね」
「……そう、じゃあ、燐音。これからよろしくね」
 凪砂の声はただただ静かに、燐音の心に染み入った。ここに居てもいいと、言われた、誰からも相手にされなかった自分が。「おに〜さん泣いてるんすか?」とニヤつくニキも、「うんうん! 凪砂くんがそう言うなら文句はないね! 皆もそうでしょ?」と気ままに喋り続ける日和も、誰も燐音を煙たがらない。その日から燐音は、この新しい居場所に自分の残りの人生を全て賭けることを、誰にともなく誓ったのだった。
 巴家は国内有数の大財閥であるが、その実斜陽を迎えつつあった。当代の当主である日和の父は病床に臥し、現在は長男――日和の兄が外交を一手に担っている状態だった。
「兄上が光なら、ぼくは影だね。巴家の後ろ暗い部分はぜんぶ、ぼくが抱き締めて闇に葬る。そういう役割分担だね」
 日和はそう静かに語った。もう一度、巴家の地位を揺るがぬものにする為に。彼もまた大切なものを賭けていた。
 財閥間の権力闘争は目に見えない形で火花を散らしていた。現代における戦は情報戦だ。化かし合い、腹の探り合いを制した者が即ち覇者となる。巴家も例に漏れず、日和を筆頭とした諜報部を擁していた。表向きには従者や料理人として振舞っている彼らもそこに所属し裏社会で暗躍する、所謂エージェント達だった。
 戦場での作法しか知らずに生きてきた燐音には、学ぶべきことが山程あった。まずは教養。読み書き、歴史、政治経済、果ては天文学や芸術文化の細部に至るまで、本の虫こと凪砂による解説を事細かに頭に叩き込んだ。次に立ち居振る舞い。「貴族の何たるかを教えてあげるね!」と豪語する日和から仕込まれたのは、言葉遣い、立ち方歩き方、テーブルマナー(ここはニキが手伝ってくれた)にダンス、酒や煙草の嗜み方、それに女性のエスコートの仕方。金持ちってのは日がな一日こんな面倒なことをしてンのかよ、と燐音は胸中で愚痴を垂れた。
「中身が整ったら次はそのむさ苦しい外見を何とかしようね!」
 そう言って引き摺っていかれたのは高級ブティックが立ち並ぶ一等地の裏路地にある、小ぢんまりとしたテーラーだった。日和に従って奥へ進むと、いかにも神経質そうな桃色の短髪の店主と、烏の濡れ羽色の髪に左右で色の異なる瞳を持った助手が待っていた。店主は不機嫌を隠そうともせず、しかし丁寧な手付きで燐音のぼさぼさの髪を綺麗に整え、髭を剃り、助手の手を借りて全身の寸法を測ると、「一週間後にまた来たまえ」とぶっきらぼうに告げてバックヤードに引っ込んでしまった。「宗くんはああだけど、仕立ての腕は確かだから安心するといいね」と日和が苦笑した。実際にしつらえられた背広は袖を通すのを躊躇ってしまう程に上等なものだった。
 屋敷に戻ると休む間もなく戦闘訓練である。「勉学にかまけて身体がなまってしまってはお笑い種です! 自分達の仕事はあくまで身体を張ること! 常に有事に備え牙を研いでおくことをどうかお忘れなきよう!」とは茨の弁だ。ジュンを交えた三人で毎日のように、それこそ倒れるまで修練に明け暮れた。
 初任務はそれから程なくして与えられた。命じられたのは不審な動きをしている身内の炙り出しと粛清というものだった。招集された応接室には、日和とお茶汲み係のジュン、ニキ以外に見知らぬ男がふたりいた。彼らはHiMERUと桜河こはくと名乗った。
「これからきみ達四人はチーム、ううん、運命共同体だ――コードネームを『Crazy:B』……いいね?」





 それ以来、任務の度に『Crazy:B』の四人で動いている。もう一年になるだろうか。自分達はそれぞれの得意なスタイルがかっちり嵌まって、バランスの良いチームとして機能していると思う。主に燐音とニキのコンビが前線に出ての陽動、時には撹乱。こはくは小柄な体躯に似合わぬ大型のスナイパーライフルを背負い、遠方からの援護を請け負っている。そしてHiMERUが常に全体を見通し指令を下す参謀として君臨し、『Crazy:B』は今のところ、上手いこと歯車が噛み合っている。
 実際、上と直接やり取りをしているのは燐音だし、仲間達からもチームの頭として一目置かれている、とは思う。しかし作戦を練る際、自分ひとりで組み立てたものでは心許ないという時に、燐音が見落としていた小さな綻びをHiMERUが完璧に拾って繕って、百パーセントの状態にまで磨き上げてくれるから。そんなことを繰り返すうち、いつしか彼に対し相棒のような安心感を抱くようになっていたのだった。向こうがどうかは知らない。けれど、秘密を共有し、過去には踏み込まず、互いを甘やかすような距離感でそっと寄り添い合う関係が心地好いのは彼も同じなはずだ。だから恋人になった。
 ……いや、俺もこいつも好きだとは一度も言ってねえけど。
 互いにいつ死ぬともわからない仕事をしているのだから当たり前なのかもしれないが、それでも、言葉が欲しいと願うことくらいは許してほしいものだ。
 悶々と考え事をしていたから、車が停まったことに気付くのが一拍遅れた。後部座席のニキがドアを開けて降りて行くのを認めて、はっとしてシートベルトに手を掛ける。すると隣の運転席から手が伸びてきて、白い手袋を嵌めた人差し指にくいと顎を持ち上げられた。シルバーのメタルフレームの眼鏡をかけた彼の麗しいかんばせ、薄いガラスに隔てられたゴールデンシトリンのまなことかち合う。見とれている間に距離が縮まって、唇の横を掠めるように口付けられた。
「――何をぼうっとしているんです。いつも通りやればいい」
「……う、オウ」
「ふふ、おかしなひとですね」
「なァ」
「はい」
「帰ったら抱くから」
「あなたが満点の働きをしてくれたら、いくらでも」
 月光のように柔らかく微笑んで、HiMERUは燐音のネクタイに両手で触れるときゅっと締め直した。「これでよし」とぽんと軽く胸元を叩かれる。嗚呼、こんな時にまで憎たらしい程綺麗な男。色っぽく伏せられた睫毛に恨めしげな視線を注いでやるが、飄々と振る舞う彼は果たして気付いているのかいないのか。満足したのかふと顔を上げた男から慌てて目を逸らした。
「いってらっしゃい、色男」
 燐音とニキをその場に残して車は走り去って行った。ザザ、と耳に仕込んだ小型の通信機がノイズを発した後、呆れを通り越して笑いを含んだようなこはくの声を拾った。
『ほんま見せつけてくれはるわあ。ぬしはんら、緊張感っちうの無いん?』
「え? 燐音くん達何したんすか?」
『……さて、何のことでしょう』
「何のことかねェ」
 緊張感ならある。先程のやり取りは、死地へ赴く前に毎回交わす儀式のようなもの。必ず生きて帰る、だから信じて待っていてくれよと言外に伝える、切実さを孕んだ口約束だ。
 髪をかき上げる素振りで袖のカフリンクスを口元に近付けた燐音は、勿体つけてゆっくりと、そこへ声を吹き込む。さて、お仕事といきますか。
「さァ、いくぜェ……|任務開始《ハニーハント》だ」

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