緋色の暴君(スパイパロ)



エクストラ1 Creep



   Ⅰ



 これは今から約一年前、俺達の出会いにまつわる話だ。





「これからきみ達四人はチーム、ううん、運命共同体だ――コードネームを『Crazy:B』……いいね?」
 そう言って日和坊ちゃんが探るような目つきを向けてきた。いいも悪いも、飼い主サマが仰るなら俺達の返事は「はい」か「イエス」だ。
「ほーん、チームねェ、そりゃ結構。ところでなんで俺っちなんすかァ?」
「おひいさんに代わってオレが説明しますねぇ~。今回天城さん達に行ってもらう任務はネズミの炙り出しと粛清ってとこです。まあ、オレら幹部の監督不行き届きのせいでこんな面倒な事になってるわけなんで、本当ならオレか茨が行くべきなんすけど。生憎オレらは向こうに面が割れちゃってて、動くに動けないんすよぉ」
「成程なァ。要するに新入りが出た方が都合が良いっつーことか」
「そういうことだね! じゃあ後は任せるから、四人で親睦を深めるといいね♪」
「――お待ちください」
 ジュンジュンを伴って立ち去ろうとした坊ちゃんの背中に声を掛けたのは、HiMERUと名乗った男。やたらと綺麗な顔立ちをしている上に声も艶っぽくて綺麗な奴だ。
「お言葉ですが。俺は反対なのですよ、内部粛清程度のこと単独でこなせなくてどうします。俺はひとりでも四人分の働きをしますし、これまでもひとりでやって来たのですから、チームで動く必要性を感じません」
 日和坊ちゃんの背後に控えたジュンジュンが、必死の形相で人差し指を唇に当てて「黙れ」とジェスチャーしていた。逆らうなということだろう。けれどHiMERUとやらはなおも食い下がった。
「はっきり申しましょう。彼らは足手まといだと言っているのです」
 明らかに部屋に満ちる空気が重たくなる。「僕が出なくても良くなるならそれがいいっす。任務よりお屋敷で料理してた方が楽しいっすから」とか何とかニキがほざいて、HiMERUにギッと睨まれていた。お~こわ。美人の怒った顔はえらく迫力がある。
「まあまあHiMERUはん、ええやないの。わしもチームっちもんは初めてじゃ。いっつもひとりぼっちで遠くから狙うだけっちうのもつまらんし、丁度飽きてきとったんよ。せやからちっとワクワクしとる。えーっとニキはんに……燐音はん? これからひとつ、よろしゅう頼んます」
 不思議な訛りのある口調でのんびりと話し掛けてきたのは、桜河こはく。小柄で可愛らしい少年じみた風貌だが、その口振りから察するに狙撃手らしい。彼が諭すとあれほどぎらぎらしていたHiMERUも口を噤んだ――歳下に弱いのだろうか。一連のやり取りを黙って見守っていた坊ちゃんが「あはは! 思った通り、きみ達バラバラだね!」とニコニコ笑う。
「ふふ。これからが楽しみだね。くれぐれもぼくの期待を裏切らないでね」
 最後にとびきりの笑顔で放たれた言葉に、その場にいた全員が顔色を失った。言外に「期待を裏切ることは許さない」と宣告されたようなものだ。
 上司が部屋を出て行って、はじめに沈黙を破ったのは彼、桜河こはくだった。
「わしが淹れたるから、お茶にせえへん? とっときのお饅頭があるんよ」
 何だか気の抜ける提案に思わず吹き出してしまったのはニキと同時だった。見る限り最年少の彼が、どうやら誰よりも豪胆らしい。





 とまあ、『Crazy:B』のスタートはなかなかに先が思いやられるものだった。リーダーに任命されてしまった俺は、メンバー間のコミュニケーションを図ろうと躍起になって絡んであだ名までつけてみた。
「なァ~メルメルゥ~」
「――もしかして俺のことですか。美意識の欠片も感じられない呼び方をしないでもらいたいものです……そもそも愛称で呼び合うような仲でもないでしょうに」
「これからそーいう仲になンの。……あ~嫌そうな顔すんな、しょうがねェだろお上の意向なんだから。本チャンで連携取れなかったら洒落になんねェし、まずは仲間を知ろうぜ」
「仲間、ねえ。顔合わせの時にも言いましたけれど、俺はひとりでもやれるのですよ」
 ――出た、またこれだ。この男は自分の能力に随分な自信がおありのようだ。それ故にいっそ尊大とも呼べる態度で他人を突き放す。それならば、とひとつ提案。
「試してみる?」
「……ほう? 度胸だけは認めてあげましょう」
「認めるのは俺っちにコテンパンに負かされてからでイイっしょ」
「さえずるなよ盆暗」
「きゃは、おめェ口わりィな」
「ふん……俺が勝ったら単独行動の許可をいただきますからね、リーダー」
「へーへー」
 そんなわけでメルメルと俺は、互いの力試しと称して手合わせをすることになったのだった。

 屋敷内の修練場でふたり対峙する。ギャラリーはニキとこはくちゃんだけ。そちらからどうぞの意を込めてちょいちょいと手招きをしてやると、メルメルが奥歯を噛み締めたのがわかった。一切の無駄を削ぎ落としたかのような痩身が躍る。正面から打ち込まれるジャブを受け流しつつじっと彼を注視する。パワーは無いがテクニックは十分、コンビネーションも小賢しく隙が無い。こいつ虫も殺せねェような顔して意外と容赦ねェな。
「ハッ、てっきり名前の通りのか弱い『お姫さん』なのかと思ってたぜェ……ちゃアんとてめェで人を殴れるンじゃねェか」
「べらべらと、よく喋る……ッ、そのまま舌噛んで、死ね!」
「うわ同僚に向かってそれはねェっしょ」
「うるっ、さいんだ、あんた!」
 前蹴り、上段回し蹴り、軽やかに身を翻して後ろ回し蹴り。リーチが長い分足技の方が得意なのだろう。体型のわりに威力もある、まともに受けたら失神してた。相当訓練していなければこうはならないし、彼は大人しげな見かけに似合わず、こちらの想像以上に戦闘慣れしているようだった。
「っくそ、でかい図体でちょこまかと……!」
「ヘイヘイヘイどうしたどうしたァ、当たらねェなァ~?」
 浴びせられる攻撃をいなすことにもいい加減飽きてきたので、いざ反撃開始。相手の顔面の高さに振り抜きかけた拳はすんでのところで軌道修正した。何しろメルメルは顔が綺麗だ、暴君だの破壊神だのと呼ばれたこの俺も女子供と美人は殴りたくない。そんな俺の気の迷いを感じ取ったのだろう、彼は柳眉をこれ以上ないくらい寄せて憎悪を露わにした。「舐めやがって」と小さく零された恨み言を耳が拾った。次の瞬間、野良猫を彷彿とさせるしなやかな動作で一瞬のうちに距離を詰められたかと思うと、瞬きする間に背後に回られていた。鞭のようにしなる腕が頸動脈を締め上げにかかる。その長い脚を絡ませて確実にこちらの動きを封じてくるあたり、勝負を決めにきてるなこれは。
 ――でもザンネン、確かにおめェは強ェけど、今の相手は天城燐音くんなんだよなァ。
「ッ!? うわ!」
 絡み付く手足を力技で振り解き、目を丸くするメルメルの襟首をぐいと引っ掴む。バランスを崩した身体を流れるような所作で肩に背負うとそのまま前へと投げた。一本背負い投げ。思ったよりずっと軽かったその肢体は宙に放り出され無様に床に落ちるのではないかと思われたが、彼は素早い反応を見せて空中で上体を捻った。やや体勢を崩しながらもしっかり足から着地したところは素直に称賛に値する。素晴らしい体捌きだ。
「おーすげェすげェ。俺っち相手によくやるよ、一本取り損ねちまった」
「はっ、はあっ……まだ負けてません、から……!」
「イイねェ負けん気。けどおめェ煽り耐性なさすぎ。イライラするとすーぐ攻撃が大振りになるの悪い癖っしょ、直しとけよ」
「ご助言恐れ入ります。黙るか死ぬかしてください」
「どういたしまして♡ やれるモンならやってみな」
「……」
「……」
 暫し黙って睨み合う。心地好い緊張感がぴりぴりと肌を刺す。ふっと短く息を吐き出して、後ろ足にぐっと力を込める。向き合ったあいつとぴたりと呼吸が合うのを感じる。
 ――来る。
「ちょっ、ストップ! ふたりとももうやめよう!?」
 振りかぶった拳とメルメルが振り下ろした踵がまさに触れようとした刹那、間に割って入ったのはニキだった。ひたと喉元に突き付けられたナイフの切っ先に遅れて気付く。
「動かないで。そこまでっすよ、あんた達見てるだけでお腹空くっす」
「アホらし。おんどれらええ加減にせえよ、HiMERUはんもじゃ」
「ぐっ、桜河っ……」
 いつの間にかメルメルの背後を取ったこはくちゃんがそいつの腕を軽く捻り上げた。可愛い外見に反して馬鹿力の持ち主だから、もうちっと加減してやらねェと折れンぞ。
「痛い痛いです桜河、ギブ」
「ムキんなりくさった時点でぬしはんの負けやで。諦めて認め」
 ぎりと握力を込めるこはくちゃん。可哀想にメルメルは痛みを堪えて顔を歪めている。
「あ~……そろそろ離してやれって、こはくちゃん」
「――、……俺は、認めませっいだだだだわかったわかりましたから!」
 こうして俺達は(半ば無理矢理という形ではあるが)全員の合意のもと四人でチームを組むこととなったのである。



 メルメルは大変な秘密主義者で、相手が誰であっても彼のテリトリーに踏み込むことを許さなかった。そのくせ仕事のこととなるとえらく饒舌だった。俺にとってはこれが初めての任務だったからか、彼は明らかにこちらの様子を気に掛けていた。それは俺のことが心配で――というわけではないのは言うに及ばず。ただ単に信用されていなかったのだ。
「――それでは、あなたのプラン通り陽動は天城と椎名に任せるとして……潜入ルートは考えてあるのですか?」
「ん。これな、見取り図。昨日下見してきたンだけどよ、監視に引っ掛からずに抜けられそうなルート見つけたぜ。こっからならフェンス破って入れる」
 私室のデスクに広げた図面を覗き込んだメルメルは「ふむ」と顎に手を当てて呟いた。あの手合わせの日から一週間、決行の日は早くも三日後にまで迫っていた。潜入先はうらぶれた波止場から程近い倉庫街の一角、表向きにはごみ処理施設として稼働している建物だ。真っ先にここが怪しいと睨んだのはメルメル。ハッキングなんかの小技も一通り習得しているらしい彼は、ネズミが秘密裏に繋がっていると見られるならず者達の本拠地を突き止めたそうだ。俺はその手のことはからっきしだから助かる。
「ごみ処理場ねェ……俺っち達クズにはお誂え向きっしょ」
「一括りにしないでほしいのです。あなたはクズで構いませんが」
「きゃはは! 同じ穴の狢がよく言うぜ。俺らお天道様に顔向け出来ねェ同士じゃねェか」
「……」
「沈黙は肯定の証、ってなァ。認めたくねェってのはよおくわかったっしょ」
 裏社会にずぶずぶに浸かって真っ黒に染まっちまってる奴が、往生際悪くその血塗れの両手から必死に目を逸らそうとしている様はいっそ滑稽だ。まだ出会ったばかりのこいつのことは碌に知らないけれど、そう在らねばならない理由がきっとあるのだろう。それを問い質すことはしない。この場所に身を置く者ならば誰だって、触れられたくない過去のひとつやふたつやみっつ、心の内に抱えていると知っているからだ。
「ん、まァいいさ。おめェが誰だろうと俺っちは気にしねェし、仲間でいるうちは信用してやっからよ」
 ぽんとその頭に手を置くと即座に叩き落とされた。「歳上ぶるな」とか何とか言って。
「……つうかおめェいくつよ?」
「――24」
「いやいや嘘じゃん? サバ読むのやめたら?」
「俺は嘘吐きですが、今のは嘘じゃありませんよ。天城相手にサバを読む理由もない」
「そりゃそうか。えっ、マジ?」
 オイオイオイ、みっつも歳下じゃねェか。
「――驚きました?」
 悪戯っぽく微笑んで小首を傾げて見せるそいつが放つ色気は、どこからどう見ても24歳のそれではない。俺は無意識にこくりと唾を飲み込んだ。
「メルメルさァ……ハニートラップとかどうよ?」
「次同じこと言ったらあんたを不能にするぞ」
「ははっ、だよなァ」
 ぴしゃりと拒絶されたことに少なからぬ安堵を覚えて、ああ俺は、この純粋で美しい男を今以上に汚すことはしたくないのだと、他人事のように思ったものだった。今にして思えばこの時には既に入れ込み始めていたのだ、しっとりとした紫色の朝靄に覆われたかのような謎めいた魅力を一杯に湛えた、このHiMERUという男に。
「あ」
 どこか中性的な美貌の横顔にぼうっと見惚れているとふと彼が声を発した。
「あ?」
「――妙ですね。ここ、見てください」
 そう言ってメルメルが見取り図の何もない箇所を指で示した。三階建ての建物の二階、照らし合わせてみれば真上にも真下にも同じような形と大きさの部屋があるとわかるのに、そのフロアのその場所だけがぽっかりと白く切り取られていた。成程これは何かある。恐らくごみ処理施設の見取り図には大っぴらに書けない何かが。
「ははーん? よく見つけたなァ、お利口さん。燐音くんが褒めて進ぜよう」
「は? 怒りますよ。ともかくこの空間……推測するに、うちから横流しされている武器の保管庫でもあるのでしょうね。当日は天城と椎名で取引現場を押さえる手筈ですが、こちらも押収しておかないと。あなた達ふたりには精々暴れてもらって、目眩ましになってくれている間に俺が動きましょう」
「りょーかい。うちの参謀サマは有能だねェ、感心感心」
「――はあ。あなたの作戦に綻びが多いのですよ、このド素人」
「だって俺っち強いもーん。戦場の華、一騎当千の英雄よ? 何とかなるっしょ」
「誰が華ですか。石ころの間違いでしょう」
「え~、ひっでェの」
「今回は椎名がついているから問題ないでしょうけれど、くれぐれも羽目を外さないように。戦場と違って誰彼構わず殺せばいいというものではないのです」
「へーへー、わかってンよ。お姫サマの仰せのままに」
「……いちいち腹の立つ男ですね。いつか寝首を掻いてやるから覚えとけよ」
 透き通った黄水晶の双眸を勝気に煌めかせる彼。その目を見返してふっと胸中に生まれたのは確かな全能感だった。こいつと一緒に知恵を絞れば何だって出来るんじゃないか、そんな根拠のない手応えを感じていた。



   Ⅱ



 そして俺達は決行当日を迎える。
『――俺です。ポイントBにて待機中。そちらは?』
『わしは予定通りポイントDにおるよ。ぬしはんらがよう見えるわ』
「はいはァい、こっちも準備出来てンぜ~。ニキくんはお食事中です」
「ひふれもひへうっふ(いつでも行けるっす)!」
 ワイヤレスタイプの通信機の向こうからこはくちゃんの含み笑いが聞こえる。メルメルは何も言わねェけど……ぜってー苛ついてンだろうな。ともあれ気を取り直して、だ。ここはリーダーの自分が発破をかけるべきだろうとひとつ咳払いをする。
「いいかァてめェら、俺っち達チームの初陣だ、いっちょド派手にぶちかましてやろうぜ」
『ふっ、ド派手て。わしら密偵からいっちゃんかけ離れとる言葉やなあ。まあええけど』
『多少不本意ですが……『Crazy:B』などと呼ばれている俺達には相応しいのでは?』
「そうっすねえ。イカレた蜂らしく、ブンブンって暴れちゃいましょっか!」
 仲間達からそれぞれに頼もしい言葉が返ってくる。一時はどうなることかと思ったが、この分なら心配要らなそうだ。
「おうよ。振り落とされンなよ同胞! プランA、|任務開始《ハニーハント》といこうぜ」
 口元を覆って「ぶっは、なんすかそれ」と吹き出したニキを一発殴って黙らせてから、俺達は各々行動を開始した。

 夜間は稼働していないごみ処理場は水を打ったような静けさに包まれていた。聞こえてくるのはこの先の埠頭に打ち寄せるさざ波の音くらいだ。丁寧に研がれたニキのナイフは、それはもうあっさりと鉄製のフェンスを切り裂いた。恐ろしい切れ味だ。そっと敷地内に足を踏み入れ辺りを見渡す。日中でも人気のない裏口からの侵入だ、トラップなどが仕掛けられていないか慎重に見極めつつ進まねばならない。と、不意にこはくちゃんの落ち着いた声が耳に飛び込んできた。
『燐音はんニキはん、動かんとき』
 足を止めた俺の背中にニキがぶつかって「ぷぎゅ」と蛙が潰れたみたいな声を出した。直後後方でドサリと物音がして、揃ってばっとそちらを振り返る。自動小銃を携えた男がふたり、側頭部を撃ち抜かれて地面に倒れ伏していた。
「ヒュウ……こはくちゃんナイスキル……」
『――天城。何が〝監視に引っ掛からずに抜けられそう〟ですか』
「ンだよ、抜けられたンだからいーだろォ?」
『まあまあ、こういう時の為のわしじゃ。援護は任せたって』
「こはくちゃんが味方でマジ良かったっす……」
 チーム戦なのだから援護射撃ありきで潜入ルートを組み立てるのは当たり前だ。そもそもこはくちゃんに二キロ先の狙撃ポイントを見繕ったのは俺だし。メルメルには綻びだらけの作戦だと苦言を呈されたが、それはあくまで個人戦での話。得意分野の異なる面子が集まったなら、多少の無茶は誰かがフォローする――そうやってバランスを取るものだろう、ふつう。まあそれを期待したからこそ、日和坊ちゃんは俺をリーダーなんかに任じたのだろうけれど。
 物言わぬ屍となったならず者達から得物を取り上げる。引っ繰り返して|製造番号《シリアル》を確認すれば、それは巴家の身内の手にしか渡らないはずの代物に違いなかった。これで武器の取引が行われていることが確実になったわけだ。ついでにそいつらのポケットを探って金目の物を回収する。手元から金の指輪を引き抜いていると「うわ! 手癖悪ぅ!」とニキがドン引きしていたが無視した。この程度の小遣い稼ぎは戦場じゃ日常茶飯事だ。
「……うし。背中は任せたぜェ、こはくちゃん。行くぞニキ」
「あっ待って、置いてかないでほしいっす!」
『――』
 この時メルメルが思案げに口を噤んでいたことには、敢えて気付かない振りをした。





 施設内部に忍び込めば真っ暗であるはずの廊下には煌々と明かりが灯っていた。
「ビンゴ。ここで間違いねェな」
『――五分おいたら俺も入ります。先におっ始めててください』
「あいよ」
 ひたすら真っ直ぐ続く廊下をニキと進んでいく。近くに人の気配は無い。周囲に気を配りながら更に奥へと進むと、巨大な鉄のシャッターが現れた。見ればそれは下りきっておらず数十センチの隙間が開いている――丁度大人の男がひとり、通れるくらいの隙間が。
「ニキ。人の匂いは」
「う~んん……色んな匂いに隠されちゃってるかんじっす。ていうか臭い。生ごみ臭い」
「おう……俺っち今だけは鼻が利かなくて良かったと思うわ」
 ニキの優秀な鼻には頼れないということがわかったところで、互いに顔を見合わせて頷き合う。多分、確実に、この先にターゲットがいる。脇のホルスターからワルサーPPKを片方抜くと、物音を立てないよう細心の注意を払ってシャッターを潜った。だだっ広いそこは、ここいらの地域一帯の廃棄物を一緒くたに燃やし尽くしてしまう特大の焼却炉の真下だった。つんと酸っぱいような生臭さが鼻を刺し、ざりとコンクリートを踏み締める音がいやに耳につく。
「……、……の……」
 身を隠したコンテナの向こうから数人分の男の話し声が聞こえてくる。俺とニキはじっと息を潜めて様子を伺った。
「ほら。頼まれてたブツだ、受け取れ」
「確かに。ご苦労さん」
「……? おい、金はどうした?」
「……」
「おい?」
 自分達同様ダークカラーのスーツを身に着けた三人の男達、恐らく件のネズミ。それからラフな身なりをした育ちの悪そうな奴らが十人。連中はこの馬鹿みたいに広い空間のど真ん中で向かい合って話し込んでいるが――何やら様子がおかしい。一緒になってしゃがんでいるニキを突っつけばそいつも変な顔をしていた。瞬間、ぶおおんとけたたましい音が俺達の真後ろで轟いた。あまりにも大きな音だったから脳が混乱してすぐにはそれとわからなかった――ディーゼルエンジンが暴れる音だ。出所はその巨体をぶるぶると震わせる大型のごみ収集車。待て、これはちょっと……ヤベェんじゃねェか。
「おっわ、ッぶねェ!」
 爆音で吠える車がアクセル全開で迫るのをぎりぎりのところで地面を転がって避ける。悲鳴を上げなかったのを褒めてもらいたい(ニキは「ふんぎゃ!」って言ってた)。何とか体勢を立て直した俺達は、目の前で繰り広げられる光景に目を疑った。ヘッドランプを爛々と光らせた暴走トラックがスーツ姿の男達にノーブレーキで突っ込み、瞬く間に三人を撥ねたのだ。
「な、……っ!?」
「う、うそ」
 あの勢いでぶち当たられたらほぼ確実に即死だろう。ネズミの粛清どころじゃねェぞこれ。言葉を失う俺達の耳元で『燐音はんどないしたん!? おい、返事せえ薄鈍!』とこはくちゃんの怒号が響いた。はっとして、出来る限り冷静に通信機の向こうへ話し掛ける。
「こはくちゃん。プランD、|最終手段だ《ウルティマ・ラティオ》。吹っ飛ばす準備しといてくれ」
『……!! 任しとき』
 このカードを切るのは最後の最後、出来ることなら使いたくない。だから可能な限りここで、俺とニキで片をつけなければ。
「いけるかニキ!?」
「嫌っす!! 嫌だけど、いかなきゃいけないんでしょっ!?」
 殆ど叫ぶようにして言いながらニキが駆け出していく。標的をこちらに切り替えたらしいトラックは蛇行しながら向かってくる。俺は両手でチャカを構えるとタイヤを狙って数発撃ち込んだ。後輪がひとつ潰れてホイールがぎゃりぎゃりと耳障りな音を立てた。スピードが落ちた僅かな隙を見計らって、ニキが懐から抜き去ったナイフを数本投げ付ける。残らずフロントガラスに命中したそれは見る見るうちにそこに亀裂を入れていく。地面を蹴って跳躍した彼は、やや減速したとは言え未だ走行する車の頭に飛びついた。
「お邪魔しますよ~っと!」
 ひびの入ったガラスを突き破り、ニキの握った刃が運転手の額を貫いた。ハンドル操作を誤った車体がスリップして大袈裟に傾く。
「うわわ……っと⁉」
「ッ、やべ」
 そこいらのコンテナやら資材やらを派手に巻き込みながらスローモーションのように俺の方へ倒れてくるごみ収集車。マジかと思いつつやけに冷静な脳味噌は、素早く飛び退いた相方が車から距離を取る様子を視界の端に捉えていた。良かった、流石ニキだ。――自分はもう駄目かもしれないが。
 鼓膜を破らんばかりの騒々しい音と爆風を浴びて吹っ飛ばされた俺は、乱雑に積み上げられた鋼材の山に思いっ切り突っ込んだ。受け身を取り損ねたことに加え、がらがらと雪崩れてきた鉄骨が不運にも重しのように脚の上に圧し掛かってしまい、激痛のあまり身動きが取れない。不幸中の幸いで潰れてはいないようだが骨は折れているだろうし、出血もしている。無闇に動かせば腱が切れそうだ。それでも得物があればどうにか戦えたはずだが、俺の愛銃は二丁とも数メートル先へすっ飛んでしまっていた。
「……うっそ、ツイてねェ~……」
「燐音くん……!」
「止まれ、ニキ!」
 声を張り上げて制すとニキは怯んだようにたたらを踏んでその場に留まった。案じてくれているのを表情から察する。立ち竦んだ彼の背中越しに敵が近付くのを認めて、逃げろと目で訴えた。ニキは口の動きだけで嫌だと言って強く睨み返してくる。おまえひとりなら余裕で逃げおおせるだろうに、こんな時に意固地になってどうする。そうこうしている間に相方は奴らに捕らえられてしまった。
「アンタら巴んちの子? 裏切者を追ってきたならひと足遅かったなあ、もう欲しいもんは手に入ったし、アイツらは用済みだから死んでもらった」
「ご丁寧にどうも。見てたから知ってるっす」
「フン、アンタらも今にアイツらと同じ場所に送ってやるよ。どうやって死にたい?」
「……」
 殺されてしまう。この際俺自身は構わないが、俺の命を救ってくれた恩人が、――仲間が。それだけは阻止せねばならない。阻止せねばならないのに……俺はどうしてか過去を思い返していた。走馬灯というやつなのかもしれない。
 過去――俺に仲間などいなかった。傭兵時代はひたすら孤独に戦っていたのだ、可愛がっていた弟の小さな手を振り切って故郷を飛び出し、自分の力だけで生きていくことを傲慢にも自らに課して。呼ばれればどこへでも行く俺は、言うなればどこにも属さない根無し草だった。そう、俺だってひとりを望むメルメルと同じでずっとひとりだった。俺達は皆そうだったんだろう。そんなはぐれ者同士の寄せ集めなんだ、『Crazy:B』は。
「……。聞こえるかァ、メルメル」
 俺はとある賭けに出ることにした。全員の命が助かる方法はもう、これしかない。日頃よりも声のトーンを落とし、ここ数分音沙汰のない彼へ向けて静かに語り掛ける。
「!? 燐音くん……?」
「あァ、聞こえてンのはわかってンだ。……なァ、俺っち達良い仲間になれたかもしんねェよなァ、今更言っても遅えけどさァ……。なかなか楽しかったンだぜ? おめェと喧嘩したり一緒ンなって頭捻ったりすんの。そっちはどうだか知らねェが、少なくとも俺っちはおめェのこと、結構頼りにしてンだぜ」
 こちらをじっと見つめるニキははじめ怪訝な顔をしていたが、途中から意図を察したのか神妙な顔つきで押し黙った。彼もまた俺の策に賭けてくれたようで、心強い。何も言わないこはくちゃんも恐らくは信じて待ってくれているはずだ。通信機の奥は相も変わらず別世界のように、ただただ重苦しいしじまが支配していた。俺は祈りを込めてもう一度、はっきりと、ひとつひとつの言葉を区切って発声した。
「――HiMERU。|俺はおまえを信用してる《・・・・・・・・・・・》」
「いつまでボソボソ喋ってんだアンタ。おい、さっさと殺れ」
 くそ、時間切れか。命じられてこちらへ歩いてくる男の手には、先刻間抜けな内通者から渡ったばかりの拳銃が握られていた。ああ畜生、初手でドジを踏むとは笑えねえ。この俺が地面に這いつくばったまま死を受け入れることしか出来ないなんて。目と鼻の先まで近付いて止まった靴のつま先、ジャコンとスライドを引く音が頭の真上で響く。もう本当に、おしまいだ。
 最期の瞬間に脳裏を過ったのは、思い出と少しも変わりない幼い弟の姿だった。

「ふっ……ざけるなよ、この野郎……!!」
 唐突に、すぐ傍にあったはずの殺気が遠のいた。待ちかねたその声に弾かれたように顔を上げる。可笑しくて今にも笑い出してしまいそうだ。どこからか飛び込んできて芸術点ぶっちぎりのジャンピングニーバットを決めた『HiMERU』は、百点満点の着地を見せたかと思えばぐるんと勢い良くこちらを振り向いた。激情を剥き出しにしてぎらぎらと燃えるふたつの黄金色が俺を射抜く。その刹那、ぞくりと愉悦にも似た何かが脊髄を通って駆け昇った。
 ――そうだ、俺はおまえのその顔に会いたかったんだ。
「あっはは! 待ってたぜ!」
「おま……、何笑ってんですか! さてはひと芝居打ちやがったなクソ野郎!」
「くくっ、さーてねェ? 今回の博打は俺っちの勝ちっしょ」
「ああもう! くそ! 助けなきゃ良かった!」
「おいコラ、何だテメエは!」
 突然の闖入者に仲間をぶっ倒されたならず者達が声を荒げる。呼ばれたメルメルはいかにも不愉快そうに舌打ちをした。
「ちっ……五月蠅いな。おまえらを殺しに来たんだよ」
 いつもの慇懃さは見る影もなく、粗雑に言い捨てたのち彼は手近な鉄パイプをむんずと掴んだ。そいつをショーダンサーが持つステッキかのごとく華麗に振り回すと、びたっと止まってならず者達に向き直った。その身体からゆらりと闘志が立ち昇る。
「――あなた方、少々おいたが過ぎたようですね。この俺が手ずから折檻して差し上げましょう……さあ、そこへ直りなさい!」
 それからのメルメルは凄まじく強かった。十人いた連中は彼が如意棒よろしくぶん回す鉄パイプに翻弄され見る間に薙ぎ倒されていった。それはもう、俺とニキの出る幕など無いくらいの大立ち回りだった。
「あと……三人」
「……クソッタレ……」
 狙いを定められ苦々しく呟いた主犯らしき男は、残りふたりの味方に目配せをしたようだった。メルメルが得物を振りかぶって宙を舞うが早いか、そいつが走り出すのが早かったか。横転したごみ収集車に近寄ると奴は、あろうことか車体から地面に漏れ出したガソリンにライターで火を付けたのだ。
「! 貴様……ッ」
 すぐさま後を追おうとしたメルメルの眼前を大きな塊がぶうんと横切る。端で待機していた別のトラックだった。主犯の男を拾うと車はぐんとスピードを上げ、施設の正面を塞いでいるシャッターへと最高速度でぶつかろうとする。ぶち破って逃げるつもりだ。させてたまるか。すかさず息を殺して機を窺っている仲間の名を叫ぶ。
「逃がすかよ! こはくちゃん!!」
『やっとかいな、こない待たせたらあかんよ燐音はん……わしは気が短いんじゃ』
 血も凍るような冷たい声音でそれだけを言い放った歳下の彼に俺は思わず唇を吊り上げた。こはくちゃんに準備を依頼したのは『死の女神サマ』の名を冠する対戦車用大型ライフル、PGMヘカートⅡ。命中すれば大型車両であろうとひとたまりもない。そして俺の仲間なら、それが出来るということを信じている。
「いくぜェ|鷹の目《ホークアイ》、スリーカウントだ……Three, two, one……」
『Fire.』
 こはくちゃんの声と俺の声が寸分の狂いもなく重なった。屋外で物凄い爆発音、次いでシャッターが吹き飛ぶほどの爆風が轟々と巻き起こる。よし、仕留めた。小さく拳を握ってみてもまともに動けないこの状態じゃ格好つかないが。
「よしじゃないんですよあんたは~!」
「この馬鹿、馬鹿天城っ、こっちも爆発しますよすぐに!」
 涙目のニキと焦りを隠せない様子のメルメルがばたばたと駆け寄ってくる。鉄骨の下敷きになっている俺をようやっと引っ張り出して、血相を変えたのはメルメルだった。
「――、左脚の出血が、酷い」
「んあ……どーりで、頭ぼーっとすると思ったわ」
「何故もっと早く言わないんです……!」
 吹っ飛ばされた時の全身打撲と下敷きになった時の怪我で、俺の身体はなかなかに酷い有様だった。メルメルが咄嗟に自分のネクタイを引き抜いて俺の左太腿に巻き付け、強く縛った。血流が堰き止められたところがどくどくと脈打ってひどく熱く感じる。
「ひ、ひめるくん、りんねくん大丈夫かな」
「応急処置ですが……止血しないよりましでしょう。行きますよ椎名」
 左にニキ、右にメルメルが立って肩を貸してくれて、半分引き摺られるようにして出口を目指す。見れば炎は辺りに散らばった木材にまで燃え移っていた。このまま燃え広がったなら、敷地内にまだ十数台はある車両に次々引火して甚大な爆発事故を引き起こすだろう。人気のない深夜の倉庫街で助かった、なんて失血で霞む頭で考える。それから「おまえらさ」と思いつくままに言葉を並べた。
「置いてけよ、俺のこと」
 誰のものかわからない、息を飲む音が聞こえた。そんな反応をされるとは思っていなかった俺は「え、」と呟いて困惑した。
「いや……置いてけばいいじゃんフツーに……そうすりゃおまえら、助かるよ」
「馬鹿言うな。死なせませんから、絶対に」
 そう強い口調で突っぱねたのは、メルメル。ニキはもう半べそをかいていた。
「……わは、おまえがそんなこと、ゆーの?」
「――。……、勝ち逃げは許しません、だから」
 彼はその先を口にしなかった。俺も朦朧とする頭で、メルメルの言葉を正しく拾えているのかいないのか、もうよくわからなかった。
「何が〝信用してる〟だ……俺には、あんたがわからないよ」
 意識を失くす直前にぽろりと零れ落ちた彼の本音の欠片らしきもの。
 ――俺はおまえの傍にいるよ、約束する、今度は奪うんじゃなくて守るんだって、決めたんだ、俺は。
 痛みを耐えるみたいな泣き出しそうな顔をした彼に、どうしてかそう伝えなければと思った。けれどそれらの言葉は音にならないままで、視界がぶつんとブラックアウトするのと一緒に、泡のように消えてしまった。



   Ⅲ



 意識が戻ったのは翌日の宵の口だった。自室の見慣れた天井が窓から差し込む西日を跳ね返して茜色にぼやけて見え、そこからはっきりと覚醒するまでに少々時間を要した。
「……、生きてる」
 流石に死ぬかと思った。しかも一日に三度も、だ。傭兵時代ですらこんなことはなかった。丈夫に産んでくれて本当にありがとうございました、母上。天井を眺めたまま心の中で感謝を捧げる。経験上、今回の怪我も俺じゃなかったら死んでたのだろうし。
「すう……」
 不意に間近から寝息が聞こえて俺はびくりと後ずさった。恐る恐るそちらに目をやって二度びっくりした――腰のあたりでベッドに突っ伏して寝ていたのはメルメルだったのだ。その手にタオルが握られているところを見るに、俺が眠っている間様子を看てくれていたのだろうか。そんな甲斐甲斐しい奴には見えなかったけれど。
 さらさらと頬に影をつくる髪と顔の下に敷かれた腕の間から覗く気の抜けた寝顔。皺の寄った眉間を軽く揉んでやれば彼は「うう」と小さく呻いて顔を反対側に向けてしまった。ガキを相手にしているみたいで笑える。毛虫のように嫌っていた俺の前でこんな風に油断しきった姿を晒すなんて、ちょっとは気を許してくれたと思っても良いのだろうか。
「んん……、あまぎ……?」
「おー。天城ですよォ」
 気配に気付いてかのっそりと起き上がった彼は目をこすりこすり口を聞いた。ううん、と腕を頭上へ突っ張って伸びをする仕草は昼寝の後の猫みたいだ。
「メルメル、ありがとな」
「――御礼なら、桜河に」
 聞けばあの後現場に車を回して俺達を連れ帰ってくれたのはこはくちゃんだったそうで。
 メルメルがボストンバッグに詰め込んで回収した武器類も、どうやら無事巴家の元に戻ったらしい(ついでに俺のワルサーも拾っておいてくれたようだ、「大事なもんなんやろ? もう失くしたらあかんよ」とか言って手渡された時は柄にもなく感激した)。お陰さんで|任務完遂《ミッションコンプリート》だ。何でも出来ちゃうのねあの子、と頼もしく思うと同時に末恐ろしいとも感じる。燐音くん、まだまだ若い子には負けたくねェンだけど。
「んや、けどメルメルにも。あんがと」
「俺は――、ちょ、手」
「ん、今日は〝歳上ぶるな〟って怒ンねェの?」
「……今日だけです」
「……そ」
 可愛げのない言い草にふっと息だけで笑い、彼の不器用な優しさに甘えることにする。触り心地の良い髪をするりと梳いてはまた頭の上から撫で下ろす動きを繰り返す。光を透かしてその時々に色を変える色素の薄い髪は、今は夕陽のオレンジを受けて金の刺繍糸のように輝いて見えた。彼の澄んだ瞳と同じ色だ。触れられても大人しくじっとしているメルメルが物珍しくてじっと観察していると、ふいと目を逸らして「見すぎ」と言われた。何その、ぐっとくる反応。
「――あのとき」
 メルメルは布団の上に目を落としてぽつぽつと話し始めた。
「うん」
「まだ会って十日あまりの俺や桜河のことを、あっさり信用なんかして……馬鹿な奴だと思いました」
「……うん」
「桜河はともかく俺は、あんたを認めてない。後ろから刺される可能性だってあったでしょう。そういうことを、考えなかったのですか」
「考えてなんになるワケ?」
「はい?」
「味方疑ったって何にもなんねェっしょ、実際。仲間の力量を正しく把握して運用してこそのチームプレイだろォ? 俺っちにはそれが出来る。おめェにはまだ出来ない。ただそれだけの話っしょ」
「……はあ」
 苛々したようにため息をついたメルメルはがたんと椅子を引いて立ち上がった。
「――今の質問の答えを、聞きたかっただけなのです。用事は済みましたので俺はこれで失礼します。お大事に」
 会釈をして立ち去ろうとする彼をなんとなくそのまま見送りたくなくて、俺は半ば無意識にその手首を捕らえていた。
「なァ」
「――なんです」
「抱き締めてもいい?」
 返事を待たずに掴んだ手に力を込めて男の痩身を引き寄せる。寝起きのメルメルは反応がやや鈍いようだし、抵抗される前に胸に抱き込んでしまえば逃げられないはずだ。捕まってしまった彼は暫くの間握った拳をふらふら彷徨わせていた。
「おい、天城っ……! 離せっこのゴリラ!」
「きゃはは、聞こえねェなァ~?」
「くそっ……。……椎名にも、するんですか、こういうこと」
「は? しねェよ」
「は?」
「ん、いい匂い」
 旋毛に鼻先を埋めればメルメルが心底不快そうな唸り声を出したから、渋々腕の力を緩めてやった。こいつならまだ塞がってもいない傷口を狙いかねないし、俺も痛いのは嫌なので。お望み通り身体を離して覗き込んだ先の彼は、存外に落ち着いていた。
「――なら、どうして」
「ん?」
「信用しているなら、どうして〝置いていけ〟だなんて言った」
 絞り出すような掠れた声。こちらを向かない黄金色は心なしか濡れて見えた。
「……。メルメルさァ、もしかして怒ってる?」
「ええ――ええ、怒ってます。あんたのことは気に入らないし、理解出来ないし、正直邪魔だし……、それでもあの時、あんたがひとりで死ぬなんて許せないと思ったんだ。何が仲間だ、チームだ……〝助けて〟のひと言も言えない癖に……!」
 俺と大して背丈の変わらないその男は、途方に暮れた迷子のような顔をしていた。
 ――ああ、そうか。こいつはかつて、誰かの〝助けて〟を拾えずに取り零してしまったのかもしれない。喪うことの怖さを知っているのかもしれない。だとしたら彼が頑なにひとりで居たがる理由もわかるというものだし、俺の言葉は確かに彼を傷付けただろう。
「ごめん、悪かった。今度はヘマしねェし、ちゃんと頼るから」
「~~ッ、馬鹿天城っ、二度とあんなこと言うなっ……!」
「ふはっ、泣くなって……俺っち意外と愛されちゃってるみてェで嬉しい♡」
「泣いてないし茶化すな、死ね!」
「メルメルが寂しがるから死にません~なんつって。おめェも可愛いとこあんのな」
 んな顔してっとキスしちまうぞ。
 そう頭に浮かんだままに伝えればメルメルは、日が落ちかけた薄暗い室内でもわかるくらいに頬を赤くした。もう夕陽のせいなどという言い訳は通用しない。見かけによらず初心なんだよなァこいつ。穏やかそうに見えてその実激情を秘めていて、物腰は柔らかいのに大人げない程負けず嫌いで、理知的かと思えば意外と直情型で。どこか危なっかしくて放っておけない、もっと知りたい、教えてほしいと、思わされる。
「あま、ぎ」
 瞠目する彼にゆっくり顔を近付けて、唇同士が触れ合うぎりぎり手前で、顎を支えていた指をその間に滑り込ませた。ふに、と親指越しのキス。突然の暴挙に揺らいで潤む瞳を捕まえる。
「なァ。おまえのさみしさに、寄り添わせてくんねェかな」
「っ、それは、どういう」
「おまえが背中を預けても良いと思える男になるよってこと」
「……、もし、出来ると言うのなら」
「やってやるっつってンだろォ~? だからさ、俺に賭けてくれる?」
 逃さないよう真正面から視線を絡め取って、なるだけ真剣な声色と表情をつくる。そうして数秒見つめ合った末、ついに彼が折れた。
「も、う、……仕方ないな……」
 期待、させてくださいよ、なんて。消え入りそうに小さな声で可愛らしいことを言うものだから、嬉しくなってその手を取って、軽く口付けを落とした。少しでも期待したいと思ってくれている時点で、俺的にはそこそこの信頼を勝ち取れていると思うのだけれど。もし指摘なんぞしたら一週間は避けられそうだからそれについては何も言わずに、あたたかいものが満たす胸の内にそっと仕舞っておくことにした。

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