帝釈天の衣




 不可思議なことは続いた。
 「折角だから一緒に風呂に入りたい」とアルジュナにせがまれた為、仲居の雀に大浴場まで案内してもらった時だ。男湯と書かれた暖簾を共にくぐって脱衣所に入った途端、アルジュナとまたはぐれてしまった。大勢の客が訪れる旅館だ、脱衣所も大浴場も広い。夕食前で混雑する時間帯だったために、利用していた客も多かった。が、入った途端にはぐれるというのはいくらなんでも可笑しい。他の雀数羽にも協力してもらい、一緒に脱衣所や大浴場周辺を探し回ったが、アルジュナは一向に見つからなかった。しかし、夕食の時間は刻一刻と近づいている。他にも客は大勢いるのだ、あまり遅くなっては他の客に提供される夕食のスケジュールにも影響してくる。雀も館内でアルジュナを見つけ次第此方に案内するとも言ってくれたので、仕方なしにあいつを待たず俺だけで軽く湯を浴びることにしたのだ。
 しかし、脱衣所で浴衣を脱いだ時だった。入れた覚えがまるで無い、鮮やかな孔雀の羽根飾りが床に舞い落ちたのだ。いつ、どこで手に入れたのかも全く分からない。しかしその一方で心当たりらしきものはあった。散策していた時の記憶が、なぜか曖昧なのだ。雑貨店を覗いて、アルジュナがアヒルのマスコットを買っていた所までは覚えている。そこから先が、どうしても思い出せない。はぐれたことも確かに覚えているのに『何故はぐれたのか、どういう経緯だったのか』を思い出せない。この羽根も恐らくはその雑貨店で手に入れたのだろう……その程度の見当は付いたが、羽根そのものには覚えがないということに変わりはない。そんなものが懐に入れてあったのだ、気味は悪い。しかし何となく手放してはならないような気もする。一頻り悩んだ後で気味の悪さが勝ってゴミ箱に捨ててしまったのだが、烏の行水程度に慌ただしく入浴を済ませた後脱衣所に戻ってくれば、羽根は畳んだ浴衣の上にあった。誰か拾ったのかと周囲に居た客や清掃担当の雀にも聞いたが、誰もそんな羽根は知らないし俺の荷物にも触っていないと言う。

 どうやらこれはそもそも、|捨《・》|て《・》|ら《・》|れ《・》|な《・》|い《・》|も《・》|の《・》らし観念して、そのまま持ち歩くことにしたのだ。

 ところが身支度を終え、暖簾を潜って大浴場を出た途端。それまでまるで戻ってくる気配などなかったアルジュナといきなり鉢合わせた。聞けばアルジュナも中に入ると同時に仲居の雀と俺を見失い、慌てて大浴場を飛び出し館内を走り回って俺を探していたのだという。先ほどの屋台巡りではぐれたのが余程堪えたのか、周囲の目も憚らず勢いよく抱き着かれ、宥めるのにほとほと苦労した。閻魔亭に大浴場など一つしかない。こいつは一体、どこに迷い込んでしまったのか。探してくれていた雀達にも戻ってきてもらい、連れと無事に再会したこととはぐれた経緯を説明したのだが、雀達の方も揃って顔を見合わせ首を傾げていた。

『ッ明日は絶対! お風呂! 一緒に入るからな……!』

 ―――助かった。
 直感でそう思ってしまったのは何故だろう。俺は一体、何に危機感を抱いたというのか。
 近場の休憩所で待っているからお前もさっさと入ってこいとどうにか宥めて風呂に行かせたが、一度荷物を置きに部屋に戻る道中、アルジュナは俺の手を固く握りしめて離さなかった。

 アルジュナも何かが可笑しいと感じて周囲を常に警戒しているようだが、それ以上に俺は、アルジュナの言動に強い違和感を覚えた。
 普段は絶対に俺と入浴をしたがらないのに、何故今日に限って一緒に入るなどと言い出したのだろう。勿論、嫌な訳ではない。アルジュナの気分転換を目的に旅行をしているのだから、むしろ望んでいたくらいの良い兆候だ。けれどそれでも、先立つ違和感は拭えなかった。閻魔亭は名湯と謳われる湯治の宿だ。烏の行水程度にほんの数分程浸かっただけでも、身体が芯まで温められる心地よい湯だった。けれどしっかりと温まったばかりなのに、アルジュナと再会してからはどこかぞくぞくとした薄ら寒いものを背に感じてならない。今は自由にさせるべきではないと本能に打ち鳴らされている警鐘と、普段抑えている分くらいは自由にさせてやりたいという感情が、ずっと俺の中でせめぎ合っている。

 言い知れぬ不安を抱えながら、アルジュナと共に宴会場へと足を運んだ。用意されていた夕食は、絢爛豪華な会席料理だった。カルデアの食堂で普段食べている定食よりもずっと豪勢だ。勿論味も、文句など付けられない程美味かった。どうやら俺達が異教徒の英霊ということで、女将が色々と気を遣ってくれたらしい。こう例えてしまうと意味合いは少しばかり異なってくるかもしれないが、胤舜がバレンタインのお返しとしてマスターに振舞っていた精進料理というものに近いのだろう。俺たちが生きた時代は現代に比べれば食の戒律は緩く、カルデアでの食事も別段気にしたことはなかったのだが、それでも女将は慎重に食材を選び、丁寧にもてなしてくれた。使える食材が限られてくればその分味の調整だって難しくなるだろうに、極めたプロの仕事だ。|舌《・》|が《・》|無《・》|い《・》とはとても思えない出来栄えだった。

 ……けれどここでもやはり、妙に思うことは幾つかあったのだ。

『……アルジュナ、食欲ねぇのか?』

 振舞われた会席料理は食材が持つ本来の味を最大限に引き出して愉しむ為の、優しい味付けだった。出された料理の中で最もそれを感じたのは、けんちん汁という料理だったか。根菜や茸、胡麻油を一緒に煮た、香ばしくも上品な匂いが食欲をそそる一品だ。具の味を妨げないよう控えめに、しかして存在をきちんと主張する絶妙に加減された塩気。食材の深い旨味が混じり溶け込んだ、温かい汁。甘味、苦みなどといった基本的な味わいとは違う、どこか奥行きを感じる味覚だ。うま味を伝えてくる香りの高い調味料を、この国ではだし、というらしい。そういった料理に深みを与える味については、|赤い弓兵《エミヤ》やタマモキャットも日頃から重要視して調理しているようだが、閻魔亭で扱っている食材はそれに加え、相当に優れた品質を維持しているのだろう。カルデアで普段職員やサーヴァント達が食べている野菜、穀物類は全て地下プラントでの培養だが、どちらかといえば兵糧としての意味合いが強い。心身の健康に食の豊かさというものは必要不可欠ではあるものの、品質を最大限にまで高める程のリソースというと、中々割きにくいだろう。ある程度であれば魔術で誤魔化すことも出来るようだが、カルデアではそこを料理の得意なサーヴァントたちが各々磨いてきた調理技術でカバーしている。が、御霊を癒す閻魔亭という温泉宿は、料理においても専門店だ。単純な調理技術や味加減だけではない旬の時期を重視した食材選びや品質管理等で、カルデアの料理人達の更に上を往く極上の料理を提供するのは女将の生業。至極当然と言っていい。俺は出された料理の美味さに驚き、あっという間に平らげてしまったのだが。

『……いや、そんなことはないんだが』

 一方でアルジュナは、箸の進みがやけに遅かった。口にこそ出さないが、何か物言いたげな、微妙な表情をしていたのだ。
 閻魔亭は御霊全てが半ば受肉したような状態になる異界だ。|霊基《にくたい》は自然と食物を欲するようになる。そんな環境で食欲が湧かない、なんてことはないだろう。とはいえ、味の好みだって誰しもある。食堂のメニューの中でもアルジュナが好んでよく食べているカレーは、強めのスパイスが利いた激辛仕様だ。普段から食べている刺激の強い味に、慣れ過ぎているのかもしれない。どれほど極上の料理であっても、千人が食べて千人全員の口に合うとは限らないだろう。食べる客が万単位であれば、もっと細かく意見は分かれる。それ自体は何も、料理に限ったことではない。音楽や舞踊、物語等、あらゆる娯楽においても同じだ。
 それでも自分の為に施された食事は、全て自分で平らげるのが俺達のマナーだ。複雑な顔をしつつも、アルジュナは振舞われた会席料理を残すことなく綺麗に食べきった。……妙だと思ったのは、複雑な顔をしながら食べ終えたアルジュナの様子を見て、女将が心配そうに掛けた言葉だった。

『アルジュナ様。もちも晩、お休みになるとき。『おなががすいた』と思ったら、いつでもあちきや雀達に仰ってくだちゃいまちね。アルジュナ様の|お《・》|口《・》|に《・》|合《・》|う《・》お夜食を、ご用意致ちまチュ』

 女将ほどの腕前を持つ料理人が、味の加減を間違えたなどということはまずないだろう。料理の品数や膳に盛られた量も、他の客に出されていたものとさして変わらなかったはずだ。見た目でも楽しめる彩華やかに盛り付けられた料理はため息が出る様に美しく、味もとびきり美味く、腹も十分に満たされた。満足したと、断言できる。料理に関しては、どこも可笑しな所はなかったのだ。……少なくとも俺が思うには、だが。

『……アルジュナ様、大丈夫でちよ。此度はカルナ様も、カルデアのマスターもおられまちぇんが、あちき達がおりまチュ。アシュヴァッターマン様も、一緒におられまチュ。でちからどうぞごゆっくり、どうか安心ちてお過ごちくだちゃいまちぇ』

 念を押すような女将のあの|忠告《ことば》は、一体なんだったのか。アルジュナも料理に関してだけは愛想良く女将へ言葉を掛けていたが、一方で女将の掛けた言葉には訝しそうな顔をしていた。
 そして俺の懐にはその後アルジュナに気付かれないようこっそりと女将から手渡された、閻魔大王の|真言《マントラ》が書かれた奇妙な護符がある。先の大浴場の件で雀達の報告を聞き、女将もまた訝しんだのだろう。閻魔大王の獄卒に此処までされて、もはや不審に思わぬはずも無い。

 懐にある孔雀の羽根飾りに、閻魔大王の護符。羽根はどうだか分からないが、少なくとも護符に関しては、俺にはあってアルジュナにはないモノだ。気味の悪さばかりが強まっていく。せめて羽根の事くらいはアルジュナに言うべきかとも悩んだが、ただでさえ感情が揺れ動きやすくなっている今話せば、散策していた時のような面倒事まで起こりかねない。そう思い、ぐっと我慢した。余計な心配まで掛けるべきではない。

(ああでも俺、散策してた時……何してたんだっけか……!?)

 面倒事とは何だった。思い出そうとすると、ずきりと蟀谷が痛む。余計なことは思い出すなと、知らない誰かの声がする。気が晴れることが無い。それがどうにも、腹立たしくてならない。一体何なのだこの異界は。
 提灯の明かりで艶やかに彩られた、木々と川のせせらぎを堪能できる回り廊下をアルジュナと共に歩いていく。カルデアの尽力によって全盛期の姿を取り戻した閻魔亭は、施設内のどこを見ても華やかで美しかった。しかしてその美しい廊下を歩む足は、どうにも重い。アルジュナは時折立ち止まって夜ならではの絶景を愉しんでいたが、俺はとてもそんな気分にはなれなかった。繋いだ手は、アルジュナに固く握りしめられている。離さないように、はぐれないように。或いは―――――ように、なのだろうか。
 大浴場にも、宴会場にも、客の物の怪や神霊達は大勢居た。しかし部屋に戻れば完全に二人だけ、二人きりの空間だ。どうにも精神不安定になっているアルジュナを一人にさせるわけにはいかないが、アルジュナと二人きりになるのも今は避けるべきだと何かが訴えかけてくる。

 鉛のように、重い気分。
 からりと引き戸を開け、広々とした客室に足を踏み入れる。
 ふわりと香ってきた草の匂いは、畳という床材を編むために使われる植物の匂いらしい。室内であるというのに、まるで森の中を歩いているような爽やかな心地になる。お陰でほんの少しではあるが、廊下を歩いていた時よりは幾ばくか気が紛れていた。奥の部屋にはいつでも眠れるように、寝具が二つ揃えられている。夕食を食べていた間に雀の仲居達がてきぱきと寝床の準備しておいてくれたらしい。

 とりあえず茶でも淹れるか……そう言おうとして開いた俺の唇は、此方を振り返ったアルジュナのそれにあっさりと塞がれた。
 足らない分の身長を背伸びでカバーし横柄にも俺の胸に寄りかかったアルジュナは、遠慮なく舌を差し込んでくる。

「ッ……ん」

 咄嗟に両腕でアルジュナの身体を支えたから良かったものの、勢いを付けて唇を重ねてくるものだから危うく歯をぶつける所だった。キスはいいが、せめてやる前に言ってほしい。とはいえ文句を言いたくとも、口ごと塞がれてしまってはどうしようもない。呆れつつ、仕方なしにその腰に腕を回して引き寄せ、入ってきた舌に応じるように己のそれを絡める。一度自らの裡に受け入れるとつい絆されてしまうのは、俺の悪い癖だ。
 しかし、ちゅぅ、と舌を軽く吸われただけで、唇はすぐに離れていった。その癖離れる直前は誘うように俺の下唇をそっと舌先で撫ぜ、唇で甘く食んでいく。触れた感触の残る唇は、互いの唾液でじんわりと濡れている。生涯独身を貫いた俺とは違い、幾人もの妻を抱えていた色男なだけはある。肉欲を煽るのが、巧い。

「こういう時に、こういうことをするのは……あまり良くないかもしれないな」
「まぁ……、良くはねぇわな。何があるか分かんねぇんだし」

 何をしたいのかなんて、此処までされれば流石に言われなくても分かる。元よりアルジュナは、部屋に戻るなり事に及ぶつもりでいたのだろう。アルジュナに手を引かれ、奥の部屋へと誘われる。何度も唇を重ねながら、縺れるように二人で布団の上になだれ込んだ。

 奥の部屋は薄暗い。外で見た球体の提灯とは少し違う、小さな火の揺らめきのような柔らかい光を宿す長方形の照明器具が枕元に置かれているだけだ。これも最初に客室に通された時女将から説明を受けたが、行燈というそうだ。読書灯に近いのだろうが、カルデアの電力照明のような目に刺さる強い光は感じない。ぼんやりとした緩やかな光は、睦事の場として見れば情欲をそそるような妖美で艶やかな雰囲気を感じる。ただ眠るだけの部屋として使っても、気を落ち着けてゆったりと寛げる空間になるのだろう。

「でも大丈夫だ。何があっても、私がおまえを守るよ」
「馬鹿にすんな、守られる程軟じゃねぇっての」
「化生に攫われたおまえが言えることか?」
「ッチ、そう言われちまったら返す言葉も……ねぇ……な……?」

 熱に掠れ掛けた言葉を返しながら、ふと疑問を浮かべた。
 化生に、攫われた? あの散策で俺は、攫われたのか。
 しかし俺が覚えていないことを、何故アルジュナは覚えているのだろう。訝しく思う一方で、頭は納得していた。
 確かにそうだ。俺達は何かの罠に掛かって、一度引き離されて……否、違う。違うが、違わない。

(罠だったのか? あれ)

 違わないのだが、何かがおかしい。
 あれは罠ではなく、警告、だったような。しかしその内容は相変わらず、何も思い出せない。
 何故、と問おうと開いた口は、アルジュナの唇に再び塞がれた。濡れた舌が絡む。けれど上顎を擽るその甘い刺激を塗りつぶすように、ぎちぎちと蟀谷を締め付けられるような感覚が強まっていく。鈍く不快な心地に、思わずぎゅっと目を瞑っていた。警鐘が鳴っている。けれど一体俺は、何を危惧すればいい。分からない。……嗚呼、頭が、痛い。

 そして布擦れの音に目を開き―――ぎょっとした。

「アル、ジュナ」
「ん、どうした……?」
「ッお前、脱ぎたくないんじゃ、なかったのか……?」

 敷かれた布団の脇。畳の上に、乱雑に脱いだ浴衣と帯が放り投げられ散っている。
 眼前に晒されていたのは、一糸纏わぬアルジュナの肢体だった。細見だがしっかりと鍛えられた無駄のないうつくしい肉体が、俺の腹に跨っている。熱に浮かされうっすらと汗を滲ませる、艶やかな褐色の肌。

 けれど欲情を掻き立てられる筈の光景は―――違和感だらけだった。
 当たり前だ。
 アルジュナがこんなあられもない姿を俺の前で晒した所など、今まで一度たりとも無かったのだから。

「そんなこと言ったか?」
「いや、だってお前、いつもは脱ぎたがらねぇだろ。あの白い服の時は―――」

 愛欲に支配されていた頭が、一気に覚醒する。
 頭から冷水を浴びせられたように、強烈な悪寒が襲ってくる。

「ッ……だめ、だめだ、いや、いじわるばっかり言わないでくれ、おれ」

 ゆるく頭を振って、アルジュナが囁く。
 その声は悦楽に身悶え喘いでいるかのように酷く甘ったるい、けれど。

「―――我慢、できない」

 俺の身体の上を這い擦るように伸し掛かってきたアルジュナは、それまで浮かべていた欲情などすっかり冷めきったかのような、人形の如き虚無の顔をしていた。思い出したのは召喚されたばかりの頃の、感情の一切が抜け落ちてしまったアルジュナ・オルタの顔だ。丸く開いた黒い眼は瞬きもせず、真っ直ぐ俺を見ているようで、その実|ど《・》|こ《・》|も《・》|見《・》|て《・》|は《・》|い《・》|な《・》|い《・》。

「……おま、え」
「ほんとはいやなんだ。あんなもの、着ていたくなんかない。だってあれがあると、わたし」

 浴衣の襟を掴まれ、上体を無理矢理起こされる。
 次いで浴びせられた言葉に、頭を殴られたような心地になった。

「―――おまえを、|愛《ころ》せない」
 
 脳裏にはけたたましい警鐘が鳴り響いている。けれどもう、全てが遅い。この男の体重ならば簡単に退かすことが出来る筈なのだ。そう思ってアルジュナのしなやかな腰を抱いた筈の腕は、そのまま動かせなくなった。そればかりか引き寄せるように勝手に、強くその身を抱き込もうとしている。……身体が、言うことを聞かない。

「ずぅっと、我慢していたんだ。おまえがいとしくて、すきでたまらなくて……おなかがすいて、しょうがなかった」

 行燈の明かりにぼんやりと照らされたアルジュナの顔は、猫の瞳のようにくるくると表情を変える。
 たった今まで見せていた人形の如き無の面は一瞬で消え、まるで愛撫の続きを愉しむかのように熱に蕩けた瞳と微笑で愛を囁く。

「なのにおまえときたら、カルデアに喚ばれてからずっと! カルナや他のサーヴァントとばかり仲良くする! ……カルナばっかり、ずるい! 余所者なんて以ての外だ! 私だって、おまえの幼馴染なんだ……! 私にだって、おまえを独り占めにする権利がある!」

 そうかと思えば眉を吊り上げ目を剥いて怒鳴り散らし、嗚咽が混じる程に涙を溢して泣きじゃくる。底冷えするような怒りと、悲愴な慟哭。感情が、まるで制御出来ていない。

「どんなに願っても私を選んでくれなかったおまえが、やっと私を選んでくれたのに……! お前は私だけのモノじゃなきゃ、いけないのに!」

 『気のせい』だと必死で思い込もうとしていた自意識はもう、誤魔化せなくなっていた。
 表情や態度だけではない。耳に届くその言葉すらも支離滅裂で、節々に理解できないモノが混ざっている。

(お前、……誰だ?)

 気付いてはいけない/気付かなくてはならない
 何故カルデアではあの白い衣を脱ぎたがらなかったのか/何故感情の制御が全く出来なくなってしまったのか
 何故、俺には肌を見せなかった筈のアルジュナが、今は躊躇なく肌を晒しているのか。
 何故、手のひらを返すように普段と真逆の事を言い始めたのか。

 あの白き衣が抑えていたものは、何だ。
 抑えるものが無くなったら、どうなる。

『これがないと私は、だめになってしまうから』

 数え切れぬ程に繰り返した問答。いつも決まっていたあの返答。
 目の前に居る男はアルジュナではあるが、最早アルジュナではなくなっていた。
 ……あの白い衣は一体、アルジュナの『何』を縛っていたのだ。

「でも此処だったら、おまえを我慢しなくていい! カルナに|邪魔される《とられる》ことだってない! たくさん、いっぱい|愛《ころ》して、おなかいっぱい食べ尽くせる! 脳も眼玉も喉も腕も胸も心臓もはらわたも脚も全部全部、綺麗に捌いて食べてやろう!」

 アルジュナは先の怒りと嘆きもすっかり忘れたかのように一転して心底楽しそうに、無邪気に笑う。
 目まぐるしく変わる表情と感情はそのどれもに嘘偽りなど感じられず、酷く不気味だった。

「そうしてわたしの|霊基《ちにく》になったら―――ね? さっきみたいに、はなれることもないんだよ?」

 首の裏へと、褐色の腕が伸びる。滑らかな肌触りの腕が、するすると首に纏わりつく。濃い影を作るそれはさながら、黒い蛇だ。
 さっき俺が抱いてしまった危機感は、虫の知らせだったのか。

「だいじょうぶ。残さず|潰《ころ》して、食べる。いとしいおまえを、肉のひとかけらたりとも残すものか」

 指の腹で撫でられた首筋の皮膚が、じりじりとひりついて熱い。いつの間に、傷が出来ている。

「ああでも初めてだから、うまくできるかな……? 他のモノでれんしゅうしても良かったんだが、一番初めに食べるのは、やっぱりアシュが良かったから――ー」

 頬を、喉を、胸板をなぞるアルジュナの爪が、刃物のように鋭く尖っている。滑るように、皮膚を裂いていく。

「いっぱい、我慢したんだ。きっと今のおまえは……とっても美味しいのだろうな?」

 赤い舌が、唇を舐めあげる。口の端に、つぅと涎が伝っていた。美しく嗤うその口元から覗くのは普段はない筈の、牙。
 俺たちの関係とは、何だった。旧友か、仇敵か、同胞か、恋仲か。……否、どれも違う。
 そんなはずがなかった。はじめから、そんなものは存在しなかった。
 
 俺は|被食者《ひつじ》。アルジュナは|捕食者《おおかみ》。

(喰わ、れる)

 つまりあれは―――餌にされるという予感に、他ならなかったのだ。


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