帝釈天の衣
「アシュヴァッターマン! ほら、早く!」
「だーックソ、待ちやがれアルジュナァ! これメチャクチャ走りにくいじゃねぇか! 油断してっとテメェも転ぶぞ!」
からん、ころん、と下駄の音を響かせ、昔馴染みの男は子供に戻ったように石畳の道を飛んで跳ねては駆けていく。こんな歩くにも苦労する履物でよくもまぁ軽やかに走れたものだ。これなら素足の方がよっぽど楽だと思いつつ、仕方なしに慣れない下駄で必死になってアルジュナを追いかける。
まるで知らない筈なのにどこか懐かしい空気の漂うその土地は、日本の何処かにあるという異界のひとつだった。気候の違いからか|故郷《インド》には見られない多くの木々が生い茂っているが、自然豊かな環境であることには変わりない。山林の只中であるそこには古代インドの冥界神ヤマを起源とする閻魔大王の獄卒、舌切り雀の紅閻魔が切り盛りする割烹旅館があった。神々を始めとした、人外の存在を迎える絢爛豪華な湯治の宿。―――即ち、閻魔亭である。
アルジュナと二人きりで此処を訪れたきっかけは、「折角だし、慰安旅行でも行ってきたらどう?」というマスターの一言だった。旧カルデアの霊基グラフに登録されていた全てのサーヴァントの再召喚が済み、異聞帯や微小特異点等で新規に登録されたサーヴァントの霊基グラフも確立した今、全員が戦闘待機状態である必要はない。汎人類史存続の危機の最中に慰安旅行とは如何なものか……とも思われそうだが、今だからこそ必要な休息だってある。生き残りの人類は残り僅か。圧倒的に足らない人手をサーヴァントでどうにか賄っている危機的状況。現状唯一サーヴァントを使役できる正式なマスターである藤丸立香が死亡すれば、即人類滅亡に直結するという崖っぷちだ。こんな状況で皆が悲観、発狂しないでいられるのはやはり、休息と娯楽があってこそというものだろう。|無色の力《英霊》ではなくサーヴァントとして召喚され第二の人生を歩んているからには人と精神は何ら変わりはなく、休息は必要不可欠だ。
御霊を分け隔てなく癒す異界である雀の迷い家ならば、過酷な戦闘で精神的に疲弊していくカルデアのサーヴァント達にも十分な静養になる。神秘の薄れていく時代の流れによって一時は衰退したものの、カルデアがきっかけて盛り返した閻魔亭に、こうして定期的に客が訪れるならば紅女将にとっても悪い話ではない。ならば、遠慮なく羽を休める場にさせてもらおう。おおよそはそんな話だった。早い話、一時の保養所として閻魔亭を利用させてもらっている訳だ。勿論、宿泊代金(QP換算)は正規の値段で利用する都度きちんと支払っている。個々それくらいの|貯蓄《へそくり》はあったりするのだ。
便利なのは異界と現実では時間の流れが異なる、ということだろう。どういう原理なのか、レイシフトではなくシミュレーターから異界への道が繋がっているのだが、時間軸そのものはカルデア側のシミュレーター設定で固定されている為、閻魔亭に数日間滞在しても現実ではほんの一日程度の短時間で静養を終えて帰還出来てしまう。兎角限られた準備期間と資源でコンディションを整えて被害を最小限に抑えながら勝利し続けなければならないという厳しい条件下にいるカルデアにとって、此処を使わない手はなかった。
閻魔亭の周辺には、数多くの屋台や露店が立ち並んでいた。アルジュナが最初に訪れた時は客足が途絶えた経営危機的な状況だった所為か、まだ何も無かったらしい。紅女将曰く、閻魔亭へ再び客が訪れるようになってから次第に増えていったのだという。多忙を極めて女将が土産物の扱いにまで手が回らなくなった際、偶々宿泊していた商いの神霊に仕える化生が「場所代と儲けの二割はきっちり奉納殿へ納めるので、是非土産屋を此方で出店したい」と申し出たのが始まりだったそうだ。謂わば業務提携である。神秘の残る異界なのに、やけに生々しい。
玩具の銃、リング等で的を狙う、射的や輪投げという遊戯場。カルデアの調理場担当のサーヴァントたちもおやつとして作っていた、飴や饅頭などを売る甘味の専門店もある。季節毎に店の商品も大きく変わるそうだ。店の天幕や木々など至る所に釣り下げられた、柔らかくも妖しげな光を灯す独特な形をしたあれは提灯……と呼ぶのだったか。その様相はマスターや日本の英霊たちから聞き及んでいた、各地の寺社で行われるという祭事のようにも見えた。中には藁で出来た不気味な人形や召喚の際に与えられる知識を以てしても全く読めない謎の字が書かれた護符、その他用途がまるで分からない品を売る変な店もある。日本特有の呪具……なのかもしれない。
「この私が躓くとでもー?」
「他の客にぶつかって呪われても知らねぇからな!」
「あはは! そんなへまなどするものか!」
ダ・ヴィンチが裁縫の得意なサーヴァント達と協力して作ったという旅行用の霊衣に袖を通したアルジュナは、すっかりご機嫌そうだった。襟元に金の刺繍が施された紫のゆったりとした長衣、首から提げたストール、細かな模様を散りばめた黒の羽織。不慮の戦闘に見舞われたとしても裂けることはなく、動作を妨げない頑丈で動きやすい構造になっている。普段の白衣のみならず洋装も数着は持っているという矢鱈と着替えの多い男だが、これもまた憎らしい程良く似合っていた。カルデアでダ・ヴィンチから霊衣を手渡された時こそ戸惑ってはいたものの、「折角の楽しい旅だし、おめかししようよ」とマスターに背中を押されると、アルジュナは喜んで私室へと駆けて行ったのだ。廊下を走るなんて、余程嬉しかったのだろう。普段ならば廊下は走るなと窘める側だというのに。
……ちなみに今アルジュナが嬉しそうに履いている下駄だが、こちらは宿の借り物である。履いて宿の周辺を歩いてみたいとアルジュナが言い出したので、こうして散策に付き合わされているという訳だ。俺は宿泊する部屋に着いて早々、浴衣なる日本の伝統装束に着替えてしまったので流れで一緒に下駄を履くことになったのだが、失敗した。まさかいきなり追いかけっこが始まるとも思わないだろう、こんなことなら動きやすい私服のまま出てくるんだった。落ち着いた風流な衣には、履いてきたスニーカーではちょっと格好がつかない。宿に戻る頃にはほとほと疲れ切っているのではないか。なんせこの異界では、肉体は生前に近しい状態に戻ってしまうというのだから困ったものだ。
アルジュナは俺の事などお構いなしだ。宿泊客で混み合う道を器用にすり抜け、踊るようにずんずんと先に行ってしまう。回避スキルなんざ持ってない癖に、腹立たしい程軽やかな身のこなし。珍しい程はしゃぐアルジュナの姿に、ガキの頃は俺も他の友人たちとこうしてあちらこちらへ走り回っていたことを思い出した。彷徨海のドックで牛若丸と幼子のサーヴァント達がやっていた、鬼ごっことかいう遊びにも近かったかもしれない。けらけら笑いながらジャックやナーサリーと遊んでいた牛若丸の姿を思い浮かべると、アルジュナのはしゃぎっぷりは縁もゆかりもない筈の彼女に少しばかり似ているような気がした。カルデアでは相当息を詰まらせていたらしい。……そういえば、いつでも真剣で真面目だがその実ブレーキではなくアクセルであるという意味では、戦闘時の二人もそれなりに似ているような。
ぜいぜいと息を乱しながら、混み合った道の隙間を縫うように進む。幾度も肺に酸素を取り込まねばならないのが、煩わしいったらない。普段なら魔力さえあれば現世の物質的な軛に囚われない疲れ知らずな筈の肉体だが、疲労を訴えるのは半ば受肉したような状態だからだろう。条件は同じ筈であるアルジュナはけろっとした顔で先を行っているというのに、何とも腹立たしい。
石畳の道の脇、丁度客の流れが途切れた場所で、アルジュナは焦れったそうにしつつも律儀に待っていてくれた。こんこんと爪先で下駄を鳴らしながら、周囲をぐるりと見渡している。その落ち着きのなさ、ますます腹が立つ。ようやっと合流したところで、アルジュナは容赦なく文句を垂れてきた。
「遅いぞアシュヴァッターマン。昔はこの程度、屁でもなかっただろうに。もしや体力、落ちたのか?」
「サーヴァントが体力落ちるワケあるかァ……! 身体はいつもより重てぇんだし、こんなクソ動きにくい恰好じゃなかったら余裕で捕まえられるっての……!」
「如何に此処では受肉に近い状態になるとはいえ、最高の戦士ともあろうものが負け惜しみとは見苦しい。どんな状況でも十全に力を発揮するのが私達サーヴァントでは?」
「うっせ、この完璧超人! 休みで旅行だからってはしゃぎすぎだろ……! いつもの優等生ノリはどこ行きやがった……!」
「……もう、いいじゃないか。私だってたまには羽を伸ばしたくもなる」
羽目を外していても、お得意のド正論は健在のようだ。気恥ずかしさを誤魔化すように、アルジュナのむき出しの額を柔く小突いてやった。むぅと口を尖らせ頬を膨らますアルジュナの不満そうな顔は、カルデアでは絶対に見られない表情だ。
「しょうがないなぁおまえは、だったら……はい」
「……あ?」
「これならずっと私を捕まえていられて、おまえは転ばず、疲れもしない。とても合理的では?」
なにを言うのかと思えば、今度は手をずい、と差し出された。
自分ルールで追いかけっこを始めた癖に、自分から捕まりに来る奴があるか。殆ど強制されているようなものだ。……別段、悪い気はしなかったが。
「……っち、そらよ」
ため息交じりに差し出された手を取り、指を絡めてやる。アルジュナは、へらりと気の抜けた笑みを見せた。
「ふふッ、……えへへ」
「あんだよ手ェ繋いだくらいでへらへら笑いやがって。いつもはそんな力抜ける様な笑い方しねぇ癖によ……ムカつく野郎だぜ」
「仕方がないだろう。今の私は……それはもう嬉しくてたまらないのだから」
アルジュナは満面の笑みで此方を見上げては、繋いだ手をぶらぶらと揺らす。その柔らかな表情は青年の貌でありながら少年のようにあどけなくて、俺がすっかり骨抜きにされてしまった愛らしい笑顔だ。出発前こそ二人きりの旅行では盛り上がりに欠けるかとも思ったが、アルジュナにとっては此方の方がよっぽど息抜きになるらしい。来て良かった、今日のアルジュナは、本当に表情がくるくると変わる。アルジュナに手を引かれ、今度はゆっくりと歩調を合わせて歩き始めた。
店が商売しやすいように舗装された石畳の道には、多くの宿泊客が行き交っていた。人間の営みのようであって、しかし当然ながらそこに人間の姿は無い。多くは神霊や、物の怪の類である。人のような形をしている奴もいるが、頭部が狐だったり兎だったりと、その様相は様々だった。犬や猫の見目のまま浴衣を着て、二足歩行で歩いている奴もいる。姿そのものは人間だが首だけが蛇のように伸びる奇妙な奴もいれば、目や口、鼻といった顔のパーツが一切無い者も見掛けた。一枚布に細長い手だけが生えている得も言われぬ姿をした者がひょろひょろ宙を漂っていたり、傘のようなナニカが一本足で飛び跳ねながら道を進んでいく様を見た時には、流石にアルジュナと顔を見合わせてしまった。先ほどすれ違った仲睦まじそうな男女は、頭から牛のように長い角を二本生やしていたか。分類的にはカルデアにも居る酒呑童子や茨木童子のような存在なのだろうが、俺にとっては何故かそちらより神に近づいた方のアルジュナ・オルタの姿が目に浮かぶ。……そういえば再臨で伸び縮みするあいつの角は、なんなのだろう。同郷の|魔族《アスラ》についてなら些かの知識がある俺でも、あいつの諸々に関しては委細が分からない。確かにアルジュナである筈なのに決定的にアルジュナではなくなってしまったあいつは、神に近づく過程で一体『何』になってしまったのやら。
これも文化や神話体系の違いなのだろう。生前には会ったことの無いタイプの魔物が多い。驚きはしたが、一口に人外といってもまつろわぬもののような悪鬼羅刹の存在ばかりでもないようだ。そも、閻魔亭へと架かる橋自体、善なる者しか通る事が許されないのだとか。あちこちの店から聞こえる景気の良い客寄せの声、歩きながら談笑する妖怪達。多くの客が訪れるようになったこの宿は、すっかり往時の活気を取り戻しているらしい。見目は奇怪でもその様子は、やはり人間の営みとさして変わりないようにも見える。
そんなこんなで勝手気ままに二人で店巡りをしていれば、通りに面した店の主に呼び止められた。
白い毛に包まれた、鳥の頭部。
上等な金の着物に、深紅の羽織。
天辺から爪先まで、派手な装いの男だった。
「―――そこノ兄サンおふタり、いらッしャイ。珍しイものガ揃ッてるヨ」
男は少し聞き取りにくい片言のような言葉遣いで、ひらひらと此方に向かって手招きしている。しばらくそれを見つめていたアルジュナがくい、と繋いだ手を引っ張ってきた。
「アシュ、折角だ。見ていかないか」
「ん、……おう」
漂ってくる|白檀《チャンダナ》の馨に誘われ、二人で店を覗き込む。鷹の剥製、鶴の扇、孔雀の羽根飾り、梟の木彫りと、机の上に所狭しと並べられた商品は用途こそ統一性は無いが鳥をモチーフにしたものが多い。店主が鳥だからなのだろうか。さっき見掛けた呪具のような品と同系統にも見える、ちょっと妖しい雑貨屋だった。アルジュナはするりと俺の手を解き、店のあちこちを興味深そうに見て回る。……自分で繋いでおけなどと言った癖にさっさと離れていくとは、気儘なものだ。
「わぁ……これ、かわいいですね」
その中でアルジュナが手に取ったのは、ラインナップからやたらと浮いていたアヒルのマスコットだった。……いっぱいある、天幕から吊るされた大きな籠に山盛りだ。
「そいつハ現世ノ都デ取リ寄せたモンさネ。他の店ニは入ッちャいナいヨ。水ニ浮くほど軽いかラ、風呂ノお供にぴッたりダァ」
「これ、いくつか包んでいただいても? お土産にしたいです」
「毎度ォ! 色男ニハおまけモつケとくかネェ。ちョいト『外』デ待ッてナァ」
「はは、ありがとうございます」
ひょいひょいと麻布の袋にアヒルを突っ込んでいく店主は、しかし何故かアルジュナに天幕の外へ出るよう促した。アルジュナは特に疑問を持たなかったようで、ふらふらと店を離れていく。……代金も払わずに。
「おい、アルジュナ? ……―――ッ!?」
流石に可笑しい。
そう思った途端、強い魔力の『圧』を感じた。店の天幕と石畳の道の間に、一瞬にして明確な仕切りが組み上がる。視認はできない、しかし決して跨ぐこともすり抜けることも許されない。高く分厚い、要塞のような仕切りが。
「テメェ、何のつもりで、ッ!?」
店主を振り返れば、いつの間に距離を詰められたのか。すぐ目の前に厳つい鳥の貌が迫っていた。商品の置かれた机を隔てて尚人一人分の距離はあった筈だ。それを、……何の気配もなく瞬時に。
「お前さんニハ聞きタいコとガあッてねェ。あの子ニ聞かレちャ、拙い話サ」
ぎょろりとしたまなこが、此方を見据えてくる。邪視をも彷彿とさせる不気味な目つきに、身体は一瞬で硬直した。……まるでメドゥーサの持つ|石化の魔眼《キュベレイ》だ。間合いを取ろうにも、これ以上の後退りができない。
(ックソ、分断された……! あいつの手、離すんじゃなかった!)
思うように身動きが取れないのは、この威圧的な眼差しの所為だけではないのだろう。背後に聳えるその得体の知れない魔力は、それこそ一歩でも下がろうものなら肉体を即座に切り刻んできそうな、刃物をひたりと背に押し当てられているかのような冷たさを感じさせた。これは……結界か。しかし結界の多くはあくまでも人避けや魔避けだ。対象を『近づかせない』程度の効力しか持たない。一歩足を踏み外せば切り刻むなんて、結界にそんな芸当が出来るはずがない。しかし頭では分かっていても、足はぴくりとも動かなかった。極度の緊張でからからに乾いた喉は、何度生唾を飲んでもひりついてしまう。額にはじわりと脂汗が浮かぶ。この結界には、そう思わせるだけの力がある。外に出て行ったアルジュナも、恐らく暗示を掛けられたのだろう。ひょっとすると、最初に客引きで声を掛けた時から始まっていたのかもしれない。|弓兵《アーチャー》の対魔力を通すほどの強力な暗示をこの僅かなやり取りで施し、並の|魔術師《キャスター》を優に凌ぐ技量の結界を瞬時に展開し、|暗殺者《アサシン》のような気配遮断もこなして見せる。その癖武器の類は一切持っていないというのだから、恐ろしいものだ。
他の店の店主や呑気に辺りをうろついている妖魔たちと比べても、鳥の店主は明らかに異質だった。神秘は古ければ古い程強い。サーヴァントは|霊基《クラス》で英霊を再現した存在とはいえ、神秘の塊であることに変わりはない。そんなサーヴァントの中でも相当古い英雄であるアルジュナをいともたやすく欺き、俺自身も全く抵抗できないとくれば、この鳥の店主は俺たちよりも更に起源を遡った存在ということになる。英霊など歯牙にもかけない、高次の知性体なのではないか。恐らくは相当高位の神霊。或いは中華の龍にも匹敵するような、神獣クラスの幻想種。
「我ガ君ニ遣いヲ頼まレてナァ。ちット探すニ手間取ッたガ、あの子ニ違いネェ。……あの子、雷神ノ子だナ?」
その問いに答えて良いものか、辛うじて機能する脳内で懸命に思案する。
結界と暗示のような魔術に加え気配遮断も可能となれば、|魔術師《キャスター》と|暗殺者《アサシン》の|二重召喚《ダブルサモン》のスキルを持つセミラミスを思い出す。が、この鳥の店主はどうも違う。半人半神であるあの女帝は、アルジュナ同様英霊の規格に収まる霊基だ。だがこいつは、今体感できる範囲でも俺とは比べ物にならない程の魔力を有していた。霊基の規模も大きければその|中身《たましい》も計り知れない重さを感じる。そんな単体で完結できる万能にも近い強大な力を持ちながら、自身は『誰か』の使いっぱしりを自称しているのだ。目的がまるで分からない。自分よりも遥かに強いことだけは確と分かる相手になんの策も無く抵抗すれば、虫のように四肢と頭をバラバラに千切られるか、その手で全身を擦り潰されるかのどちらかだ。
「……ッぐ、俺にそれを聞いて、どうする気だ……!」
「おヤァ?面白イ事モあるモンダ、質問ガ質問デ返ッテきチまッタ。|儂《オレ》ガ聞イたコと以外ヲ口ニ出来るたァ、お前サん肝ガ据わッてるねェ。……さてハお前さんモ、何処ぞノ天部ノ縁持ちだナ?」
「天部がなんだか知らねぇが……、一応これでも|主神《シヴァ》の半化身やってるバラモンなんでな……!」
「アッハッハァ、こりャ恐れ入ッタ! |僧侶《バラモン》、そレモ大自在天ノ申し子カァ! トんデモネェ野郎ニ喧嘩売ッちマッたじャねェカ! 我ガ君モ無茶言ッてくれたモンだヨォ……|儂《オレ》ガ唯一喰エねェ僧侶ナ上、色界ノ王直結トなりャア、下手ナ真似モできねェナァ!」
鳥の店主は鋭い眼光を宿したまま、からからと不気味に笑う。―――これだけの|重圧《プレッシャー》を放っておきながら、何が『恐れ入った』だ。
啖呵を切ったはいいが、|聖仙《リシ》どころか英霊クラスまでダウンサイジングされている俺では、こいつに効きそうなバラモンの呪などとても使えない。それでも俺一人の命で済むなら別にいい。此処で消滅しようが、霊基グラフが登録されている限りはカルデアでマスターが再召喚できる。むしろ消滅してしまえばカルデアが此方の異変を探知して特異点として認定し、修正に乗り出すだろう。しかし相手は全容が把握しきれない程の規模を持った怪異だ。下手すれば閻魔亭全域にも被害が及びかねない。万夫不当の英傑揃いのカルデアとはいえ、|悪竜現象《ファヴニール》どころではない龍にも迫るような幻想種や高位の神霊にまで打倒できる者は限られてくる。アルジュナの手に負える相手ではないのも明白であり、カルデアに救援を呼ぶにしても間に合うかさえ怪しい。悔しいことこの上ないが、やはり現状はこの店主の方が力も口も遥かに上手だ。……ならば、素直に答える他無い。探していたのが彼方なら、何故アルジュナではなく俺を引き止めたのか。少しでもその情報を聞き出す方が利口だ。
「……ッチ、仕方ねえ。そうだよ、あいつは確かにインドラ神の……こっちじゃ、タイシャクテン? ゴズテンノウ……っつうのか? その愛息子だ」
「応サ。|儂《オレ》ノ聞いてル|雷《・》|神《・》ッてのは、コッチならそノ認識デ違いネェ。
|儂《オレ》モそウだガ|大日如来《ヴァイローチャナ》モ然り、兎角連中ハ|貌《・》|ガ《・》|多《・》|イ《・》からナァ。……しッかシ可笑しイねェ、雷神ノ子なんテ言う割ニハ、あの子随分ト嵐ノ匂いガ薄いじャアないカ。帝釈天ノ子なラ親から授かッタ持チ物くらいアんだろウ?」
質問の意味こそ分かるが、意図はまるで分からない。あいつが誰の子だの持ち物はどうしただの、そんなことを俺に聞いて何になるというのか。シヴァだけでなくアスラ王の名も知っているとなれば、もしかしたら鳥の店主は同郷の神性なのかもしれない。……が、そもそもこの国の地獄の原典自体が俺たちの故郷にあるというのだ。土着の神と大陸から伝来した神が|習合《ないまぜ》にされた混沌の土地では、判別など付けようがない。認識が異なる同一の神、鳥の店主はそれを『貌』と例えた。土地や国によって強調される側面が異なるということだろう。アスラ王や俺の半身を構成するシヴァ、|アルジュナの父《インドラ》同様に、この店主もまた|大樹《おおもと》から幾重にも枝分かれした内の葉の一枚といった所か。
神霊や幻想種と言っても様々だ。相性によっては格上でも勝機が全く無い訳ではない。この国の歴史自体は、俺たちの故郷よりもずっと新しい。にも拘らず、相手は俺やアルジュナがてんで敵わない存在。ということはこの店主、同郷の神にも連なるものでありながら日本での信仰も厚く、知名度も極めて高い可能性がある。英霊もまた召喚される土地によって格段に能力が向上することがあるが、大幅に減退してしまう場合もある。フィールドパワー、というものは馬鹿に出来ない。
「いや、流石にそこまでは知らねぇよ……。そもそもあいつ、戦う時ですらインドラの力も武器も使わねぇのに」
「オイオイ兄チャン、冗談言ッちャいけネェ。雷神ノ子ガ雷神ノ権能モ武器モ使わねエなんて、そんな可笑しナことあるモンかイ。何カ不都合でモあんのカァ? 封じられテテ|使《・》|エ《・》|ね《・》|ェ《・》のカ、それとも敢えテ|使《・》|ワ《・》|ね《・》|ェ《・》のカ」
「それこそ知るか! あいつは確かにインドラと人間の血を継いだ半神半人だが、英霊としてのあいつが扱うのはアグニの弓とシヴァの神器だけだ! 俺に分かるのは、それだけなんだよ……!」
しかし渋々白状すると、何故か鳥の店主はぱちぱちと目を瞬かせた後、困った様に片手で目元を覆ってしまった。
「……アチャー。|ア《・》|イ《・》|ツ《・》モ随分嫌われたモンだト思ッたガ、成程そういウことカァ。道理デあの子ノ様子ガ可笑しイわけダァ」
「様子が可笑しい? ……テメー、それどういうことだよコラ」
「参ったネェ、どうしタもんカ。……よォシこれヲあげよウ。なァに、金なんカ要らネェ。これガ|儂《オレ》ノ仕事ダからナ」
店主はまるで見えない話をしながら傍らに置かれていた孔雀の羽根飾りを手に取ると、それを俺の浴衣の懐へと強引に突っ込んできた。孔雀の羽根というと、どうしたって苦い記憶ばかりが蘇る。ご機嫌に笛を吹き鳴らす飄々としたいけ好かない、あのとびきりの色男の顔が頭に過った。アルジュナが、最も信頼を寄せた友。俺に呪いを掛けた、神同然の男。……否、あれは俺に与えられた罰だ。目は逸らさないと決めたのだから、いつ何時であっても向き合い続けなくてはならない。それに英霊となった今はあの男から、武器も借り受けている。店主の有無を言わさぬ鋭い眼差しも相俟って、その羽根飾りを突き返すことは出来なかった。
「ッ勝手に話を進めてんじゃねぇ! 大体何なんだよこれ!」
「たダの雷神ナら兎モ角ヨ。雷神ト人ノ|混《・》|血《・》ッてんなラ、手加減出来ねェ|儂《オレ》ガ動く訳にモいかねェダロ。お前さん自身ガどうなろうト、|儂《オレ》モ我ガ君モ知ッたこッちャアねェガ……。何カあッて困るノハ、|あ《・》|の《・》|子《・》|ノ《・》|方《・》だからナァ」
「ハァ!? それどういう意味だッ」
「いいかイ、|ア《・》|イ《・》|ツ《・》ニ気付かレちャあ、ちっと拙イ。余計ナ事は忘レちまいナ。お前さんガ今覚えているべきハ、これだけダ。『あの子ノ手綱ハ、確ト握ッていテおやリ』。万一此処デ|裏《・》|返《・》|ッ《・》|ち《・》|ま《・》|ッ《・》|タ《・》ら……、ロクでモねェ大喰らいニなッちまウ」
鳥の店主は相変わらず、べらべらと意味不明な話を続ける。我が君、とは誰の事だ。裏返るとは、何が。どうやら俺とこいつでは、会話の基底がそもそもズレているらしい。会話とは同程度の知識量と感性を持っていなければ成立しない。神霊にも見られる高次の知性体特有の、俯瞰視点。|霊基《にくたい》が処理できる情報量、現在進行形で視えている|世界《けしき》の桁が違う。カルデアで留守番している|アルジュナ・オルタ《あいつ》なら、まだこの話の意味が通じるのかもしれないが……今それを考えても詮無きことだ。それにしてもここに来てからずっと、何故あいつの姿ばかりが脳裏にちらつくのだろう。
「自信もちなァ、|大自在天《シヴァ》ノ申し子ヨ。貌ガ多過ぎるノモ考えモンダなァ、滑稽ナことにコッチじゃあいつハ大黒サン……福ノ神モやッてんダ。ならお前サンモあの子ニとっちゃあ、福だろウ。……お前サンはちャアんト、|選《・》|ば《・》|レ《・》|た《・》ノサ」
―――そもそもの話だが。
この鳥の店主が神霊であれ幻想種であれ、ここまで規模の大きな神秘は、通常なら物理法則が適用されない世界の裏側に移っている。大陸ではとうに終焉を迎えた神代が十一世紀頃まで続いていたという恐るべき魔境の島国とはいえ、今いる閻魔亭の時間軸は以前カルデアが訪れた時と変わらず二十一世紀だ。仮に店主が幻想種だとしても、サーヴァントが太刀打ちできないという時点で持ちうるその寿命は二千年など優に超えているだろう。地球上に残った数少ない神秘の残留地点といっても、流石にここまで高位の神霊や神獣はこの島からも姿を消している筈だ。この領域のどこかに星の内海へと繋がる道があったとしても、それは|織物《テクスチャ》を通り抜けるなんて芸当に値する。文字通りの、次元跳躍だ。虚数空間へ追放されていたメソポタミア神話における原初の神ティアマトでさえ、|実数《こちら》の世界に戻るには人理定礎の崩壊と魔術王の聖杯という、二つの大きな外的要因が必要だった。地中を掘り進めても世界の裏側には到達できずそのまま死に絶えた竜が西欧にいたくらいだというのに、何故こんな高次の知性体が閻魔亭の近辺に突如顕れたのか。
店主は先ほど、『遣いを頼まれた』と言っていた。店主の言う『我が君』なる者がイカサマを働いて、裏側から表側に送り込んできたということになる。それは―――|星《ガイア》の抑止力、というものではないのか。そうだとするならその抑止力は一体、『何』に対して発動したものだ。こいつは俺に、何をさせようとしている。
「さっきから意味わかんねぇことばっかり言いやがって……せめて名乗りやがれ!」
「名乗ッたッテ無駄サァ、どウせ忘れちまうだロ。―――さァさお行キ、あの子ガ待ち惚けテいるヨ」
ろくな説明もない無責任な言葉と共に胸板をとん、と押され、足を後ろへ踏み外す。
「ぅ、わ、―――ッッ!」
先ほど想像した切り刻まれるイメージを思い出し、さぁと血の気が引いた。裂傷による激痛という、数多の戦闘や呪いで得た|記憶《けいけん》が、脳髄に再生される。本能が察知する危機への恐怖心で、全身の体温が急速に下がる。
思わず硬く目を瞑ったが、衝撃は一向に訪れなかった。……当たり前だ、結界にそんな力は無いと、先ほど自分で思考していただろうに。
代わりに襲ってきたのは崖から突き落とされたような、身体が落下していく酷い感覚だった。
違う、これこそ錯覚だ。
立っていたのは間違いなく石畳の上。
落ちるなどありえない。
それなのに落下は止まらない。風圧が酷い。
イメージが、拭えない。おそろしいほど強力な暗示。
下へ下へと落ちていく意識が―――混濁、する。
(………、………!………………!!)
落下していく意識の狭間で、誰かの声が聞こえた。
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