帝釈天の衣
その振舞いは健気でいじらしくも見えたが、些か不可思議に思う事でもあった。
「なあ、アルジュナ。それ脱がねぇのか? 暑いし、窮屈だろ」
生前の知己であり、鏃を向けあった仇敵であり。今は何の奇跡かはたまた呪いか、夜毎身を重ねる程の恋仲となったヤツがいる。
そんな因縁の男、アルジュナに対して拭いきれない違和感を覚えるようになったのは、昔以上に親密な関係となってからだろうか。北海を彷徨う神代の島で再会を果たしたそいつは、相変わらず優等生気取りな態度を貫いていた。有能であるのは勿論だが、集団規律を重んじ他者の気の緩みも見逃さない所は、昔からだ。しかし新たな関係を築き仲を深める程に、その昔と変わらない姿を不自然に思うようになっていった。戦闘時は言わずもがな、趣味同然の食事を共にしている時も、模擬戦や遊戯等の勝負事に勇んで身を投じている時も。誰と居ても、何をしている時でも、背筋は常にぴんと張り詰めている。所作、足の運び方一つにしても、呼吸や発する声の調子、指先にまでも気を張り巡らせているような有様だ。肩の力を抜いている所など、見たことが無い。
アルジュナはいつ何時であろうと、一切気を緩めなかった。こうして情交に及ぶ時だって、下肢に纏ったものこそ脱ぎ晒しても、蓮の意匠が施されたうつくしい純白の衣だけは決して肌身から離さない。嬌声も熱い吐息さえも噛み殺し、ぐっと喉奥へと飲み込んで、身を強張らせてでも愛欲を潜めようとする。それでいて不思議なのは、情交に誘うのはいつだってこの男の方から、ということだった。自ら求める程に飢えているなら声も息も潜める必要はないだろうに、流石に妙に思う。
「ッ……だい、じょうぶ。これがないと私、だめになってしまうから」
飽きもせず、繰り返した問答。今まで何度問うたかも、覚えてはいない。
仮初とはいえ肉体を重ねるのだから、気も昂ぶれば熱も感じよう。肌を覆っていては、息苦しくもなろう。しかしアルジュナは前髪が額や頬に張り付く程に汗をかいていても、互いの精で衣を汚してしまっても、「霊体化すれば元に戻る」と言って頑なに衣を解かなかった。情事の時くらいリラックスしても罰など当たらないだろうに、この男一体いつ気を休めているのか。見ているこっちの方が息苦しくてたまらず、いっそ脱がせてしまおうかと思い衣に触れた事もあったのだが……。震える身体を自ら抱きしめる程に嫌がられては、脱がせられる筈もなかった。故に再会してから恋仲になった今でも、一度も沐浴を共にしたことはない。その癖マスターや宿敵のカルナとならば連れ立って大浴場に行くというのだから、ますます謎だ。
当人曰く、これでも相当気を緩めた方だという。俺の知らない、かつては南極に在ったというカルデアへ召喚されたばかりの頃は、信じられないことに誰とも一切の交流を持たなかったそうだ。今でこそ共に戦う多くのサーヴァントと親交を深めているが、召喚当時は自らの至らぬ部分とやらを看破されることを恐れ、他者には必要以上の接触を許さなかったという。戦闘時やマスターの命で付き従っている時以外は常に霊体化して、口も利かずに一人で過ごしていたのだとか。
……確かにサーヴァントとは、等しく兵器のようなものではある。
俺には考えられないことだが、食事も睡眠も娯楽も自分には必要ないと宣う奴も、いるにはいる。
それでもこの男の旧カルデアでの振舞いは、あまりにも武器に徹し過ぎているように思えた。
親父の下で共に修行していた頃のコイツは、とにかく優秀な男児だったように思う。兄弟弟子の中でも特に負けん気が強く、聡い努力家。己の才覚と習得した武術、知識、授かった武器の扱いには絶対の自信を持ち、忌憚なく堂々と振舞う。熟せぬ事柄の方が少ない。そんな優等生然とした姿はいっそ、少年らしからぬ振舞いだったかもしれない。認めたくはないが、納得せざるを得ない程に公私共よくできた男。俺から見たアルジュナという男は、そんな奴だ。優等生を絵に描いたようなこの男に、恥じ入る程至らぬ部分なんてものがあるなんて、俄かには信じ難かった。だがアルジュナは、謙遜するような男でもない。至らぬ面がある、という自覚を持っているのならば、それは確かに『在る』のだろう。俺としては潔癖が過ぎるのではないか、としか思えなかったのだが。
そんなアルジュナの頑なに閉ざしたこころを開け放ったのは、俺たちを彷徨海に召喚したマスターだったそうだ。他人と再び親交を持てるようになったのは、カルデアが南極に在った頃から付かず離れず根気強く接し続けてくれた、マスターのおかげなのだとアルジュナは言う。それは良いことだろう。アルジュナは自身の至らぬ部分と向き合う勇気を得たことで、他人も受け入れられるようになった。かくいう俺自身もそうだ。罪の意識で潰れそうな心を、自己への憤怒を以てでしか奮い立たすことが出来ない。故に制御も出来なかった霊基に癒着する怒りとの付き合い方を、このカルデアで出会ったマスターや仲間達に教えられたのだ。|西の賢者《ケイローン》が道を指し示してくれたあの経験が無ければ、この男と互いの身を寄せ合うことは無かっただろう。
「……まぁ、所詮は仇同士だ。気なんか抜けねぇよな」
―――だが、それでもだ。
過去に互いが犯した罪や受けた罰、この男との関係の一切が清算される訳はない。
そんな虫の良い話になど、なるものか。
例えあれが|大地《ガイア》の重みを取り除く為に起こったあらゆる生類を間引く為の大戦争で、運命に定められたものだったとしても。殺戮を行使したのは俺であり、この男であり、その他大勢の誰かだ。それが互いの|霊基《からだ》に詰め込まれた魂、人類史に刻まれた世界の記録。人が思い描いた|空想《すがた》だ。故にこそ、この男と再会した当初の俺は、過度の干渉はしないと決めていた筈だった。
サーヴァントとは、魔術師に使役される使い魔だ。そも模倣元の英霊自体が、人の願いによって輪廻から外れ、座に記録された人理の防衛機構である。サーヴァントという|人格《カタチ》を得たことで発露した過去の因縁も個としての英雄の矜持も、しかして全てはサーヴァントの都合でしかない。契約者の願いの為に戦う、それが|使い魔《サーヴァント》の存在意義。仕える主が|自己《えいゆう》の信念を貫き通き通すことを許してくれるような、善き主人であったなら御の字だろう。ましてや現在のマスターの祈りが白紙となった人理の奪還、人類の存続であるなら猶更だ。両者の間にどんな因縁が横たわろうとも、|使役する者《マスター》にはなんら関係のない話である。私情が絡んで連携もできないなど、本末転倒も甚だしい。しかしだからといって失ったかつての親交の通りにこの男へ接しては、俺と共に戦い命を散らせていったカウラヴァの盟友達に申し訳が立たない。故に、この男と密接に関わるつもりはなかったのだ。俺にとってのアルジュナとは、背を預けるに足る実力を有した男。そんな認識で、十分な筈だった。
……ところが、この男ときたら。
俺が召喚されて暫くの間こそ、接触を極力控えて此方の様子を伺っていた。しかし俺がカルナや此処で出来た新たな友人たちとつるむようになってからは、いつの間にやら友人たちに紛れて傍にやってくるようになったのだ。やれ素行が悪いだの遊ぶなだのサーヴァントの自覚を持てだのと、あれこれ口煩く注意してくるお前は俺の何なのだ、と少しばかり煩わしくはあった。けれど一方で共に修行した頃を思い出せば、「そういえば昔からそういう奴だった」と懐かしくも感じたのだ。
今は同陣営、命を預ける仲間同士。互いの因縁を拭い去ることこそ出来なくても、戦闘における信頼関係はきちんと築いておくべきだろう。そう考え当たり障りのない程度に言葉を交わすようになって、数か月程経ったある時だった。アルジュナが、生前話すことなく終わらせたという恋情を俺に告げてきたのだ。恋仲に、なりたいのだと。今しかないなら、過去の因縁を超えたい。生前は叶わなかった、共に歩む存在となりたい。どうかこの手を取って欲しい。そう吐露したアルジュナの貌は、血を吐くように苦し気な、切なる表情だった。
冗談だろう。その時はそう思ったとも。
確かに親交はあった。けれどそれは少年時代修行を共にした、幼馴染程度の間柄に過ぎない。
アルジュナがそんな想いを抱えていたことさえ、俺は知りもしなかった。
仇敵として対峙した時間の方がずっと長く、互いに|大切な人々を殺し合った仲《被害者であり加害者》だ。如何なる天の配剤か此度は同胞として戦うことを定められてはいるものの、それ以上の関係など許容できるはずもない。
……それなのに俺は今、アルジュナを腕に抱いている。
肌を重ね睦言まで交わすような関係にまで、発展してしまっている。
有り体に言ってしまえばあろうことか俺は、仇敵に絆されてしまったのだ。
自分でも正気の沙汰とは思えない。かつての盟友や同軍だった戦士たちから糾弾されても、文句は言えまい。……否、それだけで治まるものか。敵対したパーンダヴァ陣営の者たちから見ても、この不義なる関係は度し難いものだろう。
『父と友の誅殺に加担したような男を、受け入れるというのか』
『一族郎党殺し尽くした貴様に、その手を取る資格などあるものか』
アルジュナと甘やかな時を過ごす度に、頭の中には数千もの声が反響する。『お前が殺せ』という弾劾と、『お前が死ね』という怨嗟。顔も思い出せない敵対者から、見知った盟友まで。敵味方問わず俺を責める声はずっと、頭蓋に響き渡っている。こんな声が聞こえるだけ、俺はまだマシでいられる。糾弾と怨嗟の声すら聞こえなくなった時こそが、俺が再び堕落の道を辿る時だろう。……どちらにしても、認められることのない関係であることは百も承知だ。しかしアルジュナの泣きそうな顔を前にした俺は、伸ばされた手を振り払うことがどうしても出来なかった。
気真面目な男だ。その想いに一切の嘘偽りが無いことくらいは分かった。アルジュナもまた、今までもこれから先も永劫許されない恋慕であることは、分かっているのだろう。そんな今にも泣き崩れてしまいそうな奴を冷たく突き放すことが出来る程、俺は|冷徹な《よく出来た》男でもなかった。この戦いが終われば、金輪際会うこともない。座の記録にだって、一切残せない。俺たちが生きていたのは、理不尽だらけで何をするにも自由のない、|閉じた世界《神代》だった。けれどカルデアには、少なくとも身分による制約はない。誰とでも、対等に接することが許される。そのお陰もあって俺は、生前は実現し得なかったカルナとの健全な友人関係も構築できている。俺個人がアルジュナに対して抱いた感情はせいぜいが羨望程度の薄いものだったが、ずっと堪えてきたというアルジュナの懸想が誠ならば、今生くらいは応えても良いのではないか。……そう思い、手を取って指を絡めた時。
アルジュナは心底幸せそうに、愛らしい笑みを溢したのだ。
あどけない、少年のような笑みだった。
けれどそんな笑みを、少年時代は一度も目にしたことが無かった。
俺の知るアルジュナという男は、誰よりも優秀ではあったが、兎角笑わない子供でもあったのだ。
真正面から向けられる一途な好意とは、かくも甘やかなものか。
修行一筋、武術を競うことを至上とした生粋の戦闘狂い。色恋になどとんと無縁だった俺は。
―――そんな笑み一つで。
それこそ坂を転げ落ちるかの如く、一瞬で。
仇敵だった男に、恋をしてしまったのだ。
惚れてしまったからには、憂いは出来るだけ取り除いてやりたい。望みがあるなら、可能な限りは叶えてやりたい。しかし俺には、アルジュナの考えていることなど何も分からない。如何に生前からの懸想だとしても、今も変わらず愛される理由なんてどこを探してもないのだ。俺が戦士の誓いに背いたのは事実。この男にとっての俺とは、夜襲を仕掛けて一族郎党皆殺しにした挙句、胎の中の孫にまで手を掛けた怨敵だ。大罪人であることに変わりはない。……そんな極悪人を、何故アルジュナは今尚好いてくれるのか。俺にはそれが、どうしても分からない。おそろしくてならなかった。俺に恨みつらみが無い筈がない。だから俺は何か大きな勘違いをしていて、ともすれば騙されているのかもしれない。そう思うことは何度かあった。けれど俺へ向ける言葉も、花のような微笑みも、このひと時の全てがこの男の完璧な演技だなんて、思いたくもない。
「……いいや。みっともない所、はしたない所、おまえにはみせたくないだけなんだ」
手袋に包まれたままの指先が、前髪を梳いて頬に触れてくる。俺が何度も聞くものだから、拗ねていると思われているのかもしれない。こうして時折向けられる哀しい微笑みには、いつだって胸を締め付けられる。
この男にも、俺に対して後ろめたいと思う心はあるらしい。けれど、それが言葉にされることは無かった。惚れた弱みという奴だろうか、憂いの理由が何なのか教えてもらえないことに、酷く寂しいとも、悔しいとも思うようになってしまった。マスターがアルジュナに施したような決定打も、アルジュナに自身の至らぬ部分を気付かせたというカルナのような眼力も、俺は決して持ちえない。今も昔も、俺は嫉妬してばかりだ。昔はアルジュナの類稀なる才覚を、今はアルジュナの運命に選ばれなかった事実を。
「みっともない所、ねぇ。お前がそう言うなら無理強いはしねぇが、気は抜ける時に抜いとけ。その程度じゃお前は絶対、駄目になんかならねぇの知ってるんだからな」
「…………ありがとう、アシュは優しいな」
抱き寄せ、そっと唇を落としたその瞼は、微かに震えていた。それでもアルジュナは泪を、流さない。どんなに泣きそうな顔をしていても、寸でで堪えてしまう。いっそ泣かせてその苦しみの全てを吐き出させてやりたいとさえ思うが、俺にその資格はないだろう。その哀しい笑みの意味を、深淵へと丁寧に仕舞い込んだというこの男の闇を、知る権利は無い。肌も晒せぬ程俺に対して気を張るアルジュナの姿を目の当たりにする度、言葉では言い表せないような苦いものがこみ上げてくるのは、俺とアルジュナの根底にある心の断絶を垣間見ているからだ。相互理解など、永劫叶わない。『この男に相応しい相手は俺ではない』のだと、思い知らされ続ける。その苦しさこそが俺には必要なものである筈なのだが、理解していながら尚、俺に寄りかかって欲しいだなんて烏滸がましいことを考えている。相も変わらず俺は、私欲ばかりの狡い男らしい。
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