帝釈天の衣




 落ちる。
 堕ちる。
 只管下へと、意識が墜ちていく。
 誰かの声はずっと、響いていた。

(……ュ……ッタ…………!)

 声に導かれるように、引き寄せられるように。
 落下の速度は少しずつ緩み、次第に静まっていく。

(……ア……ヴァ……タ……!!)

 何かを叫ぶ声は途切れ途切れで、何と言っているのか分からない。
 けれど不思議と分かるのは、あの声のする場所に、俺は戻らなければならないということだった。
 やがてはっきりと聞こえてきた声に、心の底から安堵する。

「…………―――アシュヴァッターマン!!」

 ―――必死で俺を呼ぶ、あの声の主は。

「ッ、ぅ、…………アル、ジュナ……?」

 ゆっくりと瞼を開けば、視界に見慣れた男が映る。
 その表情はいつもの澄ました顔にはほど遠くて、まるで見慣れない。
 ……今にも泣き出しそうなくらい、くしゃくしゃに歪んだ情けない顔だった。

「ッ良かった、気がついた……!」

 アルジュナの背後に、木々の隙間から覗く夕焼けの空が見える。どうやら俺は、その場に倒れ込んでアルジュナに抱きかかえられていたらしい。起き上がって辺りを見回したが、目の前にあった筈の雑貨店は影も形もなかった。それどころか俺とアルジュナが居るのは、屋台の通りから随分離れた、夕暮れ時の薄暗い林の中だ。提灯の明かりさえも遠い。
 アルジュナに事情を聞けば、手を繋いで歩いていたまでは覚えているものの、その後の記憶は曖昧だと言っていた。ただふと気付いたらこの林の中に居て、俺とはぐれたことに気付き、屋台の通りまで戻って探し回っていたのだという。しかし何処を探しても見つからず、周辺の物の怪に聞き込みをしてみれば「神隠しに遭ったのではないか」とまで言われ、おそろしくなって此処まで戻ってきたのだとか。そこで意識を失った俺が、突然目の前に『落ちてきた』そうだ。

「そか、……心配かけちまったな。すまん」
「ッ私の方こそ、すまない! ちゃんと繋いでいた筈なのに、おまえの手を、離してしまった……!」

 アルジュナはどうやら店の事も忘れているようだった。
 ……それはそれとして知りたくはなかったことだが、落ちてきたということは突き落とされたのは錯覚でもなんでもない事実だったらしい。俺は一体さっきまで、どこに居たのだろう。

「……? アシュヴァッターマン、手に持っているそれは……?」
「あ?」
「おかしいな、受け止めた時のおまえは何も持っていなかったのに」

 指摘され、漸く気付く。俺の手にはいつの間にか、アヒルのマスコットがいっぱい入った麻の袋が握らされていた。一応はアルジュナが欲しがっていたものだからか、店主がおまけで持たせてくれたのだろうか。呪具ではないかと二人で袋の中身も確認はしたが、魔力などは宿っておらず、何の変哲もないただの玩具のようだった。

「俺……さっきまでお前がこれを買ってた店に居たんだよ。本当に覚えてねぇのか?」
「っ、あ、そうだ私……ッ、先ほどの店は!?」

 漸く一連の出来事を思い出したのか。アルジュナがハッと顔を上げ、睨むように周囲を見渡す。
 ……空間に異変が生じたのは、ちょうど同じ時だ。

「私としたことが、島国程度の魔性に化かされるとは。……いや、お前を隠す程だ。余程の手馴れなのでしょう」

 風がびゅう、と突然強まり、葉が幾つも飛ばされて舞い散る。
 草木の匂いに混じり、雨の臭いが周囲にむわりと立ち込める。
 それは、嵐が来る予兆に他ならなかった。

「……?」

 せわしなく揺れ動き始めた木々の音の中、鼓膜は聞きなれない調子をしたアルジュナの声を拾う。
 ……遠雷の音と共に、嫌にはっきりと。

「―――絶対に、探し出してやろう。見つけ次第、我が|雷電《ゆみ》で撃ち落としてくれる」

 剥く程に目を見開き怒りを露にしたアルジュナに、ぞわりと全身が粟立った。
 一瞬で周囲にまき散らされた、膨大な量の|魔力《マナ》。これは……神の気だ。
 息が、止まる。店主の意図があって呼び止められたのは確かだが……むしろ捉まったのが俺の方で良かったのではないか。

 周囲を警戒するアルジュナの黒い目は、背筋が凍り付くような鋭い殺気を宿していた。
 見ている此方は意識して呼吸を整え続けなければいられない程だ。
 その黒き眼には、微かではあるが金色が滲んでいる。
 視線のみで人を殺してしまえそうな、強い憎悪と殺意。戦闘時でも激情をここまで剥き出しにした所は見たことが無い。

「……ッおい、アルジュナ、落ち着け! 俺たちが|見ねぇ客《サーヴァント》だったから、面白半分にちょっかい掛けてみただけだろ……!」
「ちょっかい、か。これはそんな悪戯で許される範囲の所行ではない……!」

 どうにか吐き出した言葉のみでは、その怒りを止めるには至らない。
 アルジュナの怒りに呼応するかのように、雷鳴が近づいてくる。
 夕焼けの空を覆い尽くす勢いで、どす黒い雲が急速に広がり始めている。
 ばらばらと雨粒が散り、迅雷は唸り、分厚い雲はばちばちと稲光を孕む。
 
 気のせいだと、思いたかった。どうということはない、異界である閻魔亭でも天気が急変することくらいままあると、思いたかった。それほどまでに、異様な光景だったのだ。何せ店主にも話した通り、サーヴァントとしてカルデアに召喚されて以降、アルジュナがそんな|権能《モノ》を使った所など一度たりとも見たことが無かった。カルデアの戦闘記録にもない。そも、霊基グラフのデータにさえ登録されていない|力《スキル》だ。

 それでも権能が発露したのは事実。人の子でありながらアルジュナの身体に流れる血の半分は、雷霆神のそれだ。暗雲と迸る稲妻は、神々の王たる雷神の権能に他ならない。この吹き荒れる雨風と雷雲こそ、アルジュナはインドラの子であるという確たる証だ。……これが気のせいである筈などない。

 俺の記憶にあるとするなら、|雷神の威光《青天の霹靂》を目にしたのは審判役として生前立ち会った御前試合において、アルジュナとカルナが対峙した時くらいだろう。しかしその時でさえ、アルジュナはこれほど強い感情を|顔《おもて》に出してはいなかった。それにあの時インドラは直接天界から息子の試合を見守っていた。あの嵐はアルジュナが自ら起こしたものではなく、インドラが|太陽神の息子《カルナ》を威嚇、牽制する為に起こしたものだ。
 普段は一切頼らない筈の権能を、父神不在の中で表出してしまう。明らかな異常だろう。それほどまでに感情を昂らせているのか。
 この様子では何があったかなんて、正直に話せるわけがなかった。余計に怒りを焚き付けてしまうだけだ。

「やめろって言ってんだろうが、旅行に来てんのを忘れんな。ここでお前が暴れでもしたら、他所から来てる|妖魔《やつら》も便乗して暴れ出すぞ。そうなりゃ閻魔亭も半壊じゃ済まねぇ」
「…………ッ」
「何ともねぇ。何ともねぇんだ―――『私』は大丈夫だから、お前が怒る必要はないんだ」

 自分以上に怒る他人の姿を見ると、相対的に自身は冷静になってしまうものらしい。店主が覚えておけと言っていた、「手綱を握れ」という言葉は、こういう意味だったのだろうか。腕を引き寄せて抱きしめ、背を撫でて宥めすかすと、アルジュナの目からは徐々に殺気が抜け落ちていく。

「……そう、だな。今はおまえの無事を、喜ばなくては……」

 アルジュナは漸く安堵したように深く溜息を吐いた。それと同時に、吹きすさぶ雨風はぴたりと止み、轟く雷鳴も嘘のように治まっていく。黒い雲は遠ざかり、日に焼けた空が再び顔をのぞかせた。
 慣れない怒り方をして脱力してしまったのか。アルジュナは俺の胸板に額を押し付けて、ぐったりと寄りかかってしまった。

「んな大袈裟な……、てめぇの方こそ大丈夫かよ」
「私は本当に、心配したんだ。心配、したんだぞ……?」

 それは嗚咽に近い、力を失くした小さな声だった。
 何もそこまで心配せずともと、アルジュナの両肩を支えて顔を覗き込む。ややあって顔を上げ視線を合わせてきたアルジュナは、一転して酷く怯えたような表情をしていた。アルジュナは俺の頬を両手で包み込み、背伸びして祈るようにこつんと額を合わせてくる。

「決して、おまえの力を信じていない訳ではない。おまえは強い、それは分かっています」
「お、おう」
「けれど姿はおろか、おまえの気配すらも感じられなくなって、わたしは」
「……そりゃ、悪かった」
「おまえに、何かあったら……嗚呼、おまえが無事で、本当に良かった……!」

 アルジュナの心配も、尤もではある。霊基が一瞬で摺り潰されかねない危機に晒されていたのは事実だ。正直、アレを前にして五体満足で戻ってこられただけでも奇跡と言っていいだろう。不謹慎ではあるが、アルジュナの心配がほんの少しこそばゆくも嬉しくなってしまった。まさかあの冷静沈着なアルジュナが、ここまで心を乱すことがあったとは。俺の為にこれほど感情を露にしてくれるとは、欠片も思ってはいなかったのだ。

「心配かけちまったな、すまねぇ」
「どうか、……どうか傍にいてくれ。今度は絶対離しませんから、私を置いていなくならないで」

 しかし、それと同時に一抹の不安も過ぎる。この言い表せない違和感は、何なのだろう。
 普段も決して表情に乏しい訳ではない筈だが、今日のアルジュナはころころと感情が入れ替わる。それは普段のアルジュナの痛々しいまでに気を張る姿を思えば、良いことである筈だった。

 ……良いことである筈なのに、何故。
 喜びや安堵よりも、違和感が勝ってしまうのか。
 どうして今のアルジュナは、普段に増して妙に思えるのか。

(何だったんだ、あれ……)

 そういえばさっきの店主、鳥ではあったが、一体どんな貌をしていただろう。
 脳裏に思い浮かべようにも、靄のようにぼやけていて細かな姿がまるで分からない。確かに至近距離で話をしていた筈なのに、俺は店主が『何の』鳥だったのか、もう思い出せなくなっていた。

 白い、鷲だったような。……それとも烏、だったような。
 

次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」