帝釈天の衣
「―――全く、無茶をする」
ぶつん。
決定的な激痛に襲われるよりも早く、モニターの電源が落ちるような不愉快な音が頭蓋に響き渡った。
「だから言ったろう。『英霊である以上は過去も未来も変わりはしない。自らの悪性を認めてしまえば、一生涯後悔し続けることになる』と」
口を開け牙を剥いたアルジュナの姿は、一瞬で目の前から消え失せていた。というより、視界が真っ暗だ。光源がまるでない。黒一色の空間に、俺はただ一人ぽつんと立っている。……立ってはいるのだが、地面に足を付けているという感覚はまるで無かった。それでもどうにか身体がひっくり返ることなくバランスを保てているのは、これが霊体化した時の感覚に近いからだろうか。
「それでは魂のねじれを誤魔化せない。あのねじれは定められた原初の方針、太源の意思だ。『俺』の詩無しで、抗える筈もない。だからこそ問い直す必要があったのだが……こうなってしまっては、致し方あるまい」
光も雑音も無い痛い程の静寂の中、聞き覚えのある男の声だけが木霊する。
たった今まで聞いていた、愛しい誰かを騙るおぞましい声のようでいて、響きはまるで異なる。感情の乗らない、淡々とした声だった。
「なんだ、……おま、え」
暗闇が薄れる。目の前に、ぼう、と薄ら白い人影が浮かび上がった。輪郭は、徐々にはっきりとしていく。
「見て分からんのか? 聖典を伝え歩く不死者の|聖仙《リシ》ともあろうものが、|憤怒《エゴ》の欠片のみでは思考能力すらガタ落ちするらしいな。同じエゴでも今時流行のAIの方が百倍はマシだ」
「……ッ!」
見覚えがあるようで無い、白と青の外套。
闇より顕れた男は、たった今俺に喰らいつこうとしていた男と全く同じ貌をしていた。
けれど纏うその|神気《けはい》は、どうもアルジュナではないように思える。
同じものでありながら、……どこかがほんの少しだけズレている、ような。
「仮にも|苦行者《シヴァ》の半化身だろうに、俺としては|戦輪《チャクラム》も取り上げて修行のやり直しを要求したいところだが」
「……誰かと思ったら、テメェかよ」
―――|戦輪《チャクラム》。その言葉で確信した。
姿形こそアルジュナだが、その中身は俺の持つ宝具の|正《・》|式《・》|な《・》|所《・》|有《・》|者《・》に相違ない。
「……む? やけに反応が鈍いと思ったらお前、あの子に鍵を掛けられたな? 仕方がない―――そら、外してやろう」
訝し気に眉を顰めた男は、俺の額に手を伸ばす。
白の手袋に包まれた指先で、こん、と宝石を弾かれた。
「……ッ!」
途端、映像が網膜の裏に蘇ってくる。閉じられていた過去の記憶が、再生される。
それは白い毛の鳥だった。
金と赤の派手な着物を着ていた、鳥の頭をした男だった。
上手く誤魔化されていたがあの鳥は、鷲だ。
鷲の上から別の|鳥《テクスチャ》を貼り付けた、歪なパッチワークだった。
孔雀の羽根を押し付けたのは、紛れもなくあの店主だ。
そうして俺は崖から突き落とされるように、結界という異界の中の異界から追い出された。
……ああ、そういうことだったか。
どうやら記憶は奪われていたのではなく、最初から|脳髄《ここ》にあったらしい。単に|閲覧制限《ロック》が掛かっていて、思い出そうにも脳内で再生できないだけだったのだろう。
モノに形があろうとなかろうと、存在を抹消するというのは中々難しい。単純にハードディスクからデータを削除しても、「ナニカを削除した」という|痕跡《カス》が残る。ハードディスクごと破壊した所でデータが閲覧、復元できなくなるだけで、データそのものはそこに『在る』のだ。生物の骸であっても同じこと。燃やしても、骨や灰燼は残る。燃やさぬまま腐乱したとしても、やがては土になる。元々の形ではなくなっていくだけであり、そこに『有る』ということには変わりがない。死体を処理しても|人《だれか》や死した時に居合わせた土地そのものが|元《・》|の《・》|カ《・》|タ《・》|チ《・》を覚えている限り、幻像として残留する。過去に存在した人格を模倣した、指向性を持つ|情報《エネルギー》。そういった|想念《きろく》の残滓を現代では『幽霊』という現象として扱い、魔術世界においては『死霊』と呼称しているそうだ。
それでも元の形を認識、復元できなくなることで、変わらず在りはするがひとまず『なかったこと』にはなる。
逆に言えば存在を|抹消《なかったことに》したいなら、元の形を忘れてしまえばいい。
人間にとって忘却は生きていく上で必要不可欠な機能だ。脳は記録した情報を忘れることはないが、処理できる情報量は限られている。赤子の頃から老人になるまで延々と積み重ねられていく記憶の全てをいつまでもそのまま抱え続けていては、脳は処理出来ずにパンクしてしまう。時間の流れに沿って生きている人間は、常に記憶を整理し続けなければ時間の流れが把握できなくなり、過去と現在の区別が付かなくなってしまう。生きる程に積み重なっていく経験と得られた知識は価値観を変遷させていく。過去の思い出が朧気に色褪せてしまうのは、その所為だ。そして生命活動に支障を来すような体験をすれば、人間は自ら進んでその体験を忘れる。事故等で大きなショックを受けた時の記憶があやふやになってしまうのは、鮮明に思い出すとパニックを起こしてしまうからだ。罪や大きな過ち、失敗を犯した時も同様だ。深層意識に根付き自らの一部となってしまったそれらを常時思い出していては、生活に支障を来してしまう。人間はそうやって再生・再認する記憶の中から必要なものと不要なものを選別して不要なものを|消去《忘れ》、現在進行形で得られる新しい記憶から知識を取り込んで、整理しながら生きていく。
あの店主は、それを俺に施したに過ぎないのだろう。通常、|過去に起きた事象の再現《ゴーストライナー》であるサーヴァントに成長という概念はない。サーヴァントとは星に記録された死者の影だ。死者が成長することはない。それは人々の信仰を以て映し出される幻影。幽霊、死霊と大差ない。それでも過去生きた英雄の人格までを具に再現する以上、精神保護は必要不可欠だ。並行世界の|聖杯戦争《さつりく》を逐一全て克明に覚えていては、召喚される度に精神崩壊を起こしてしまう。暴虐を以て世界の敵として座に召し上げられた反英雄ならまだしも、大抵の正英雄なら猶更だろう。だから時間軸に左右されない英霊がサーヴァントとして召喚される場合、召喚される時間と場所に合わせて記憶はアジャストされる。たとえその数多の聖杯戦争の記録の中に自己の意識を改革しうる程の|運命《であい》が、あったとしても。
だが、他所の聖杯戦争で得た戦闘記録が積み重ねられている俺は、英霊の中でも特異な霊基構造をしている。何せ神霊適正は特例の規格外である|あ《・》|い《・》|つ《・》を除けば、事実上の最高ランクであるA+だ。それは本来、座にあるべきモノをまるごと持ち込んでしまっているような状態に近い。しかしいくら記録を保有できても脳が処理できる情報量は通常のサーヴァントと大差ない。収納スペースこそ多いが負荷が掛かり過ぎる為、その殆どには鍵が掛かっている訳だ。コンピューターでいうなら、データの保存量は多いが読み込んで表示する為のメモリが足らないような状態だ。量に差があるだけで処理しきれないものは思い出せない、という点はサーヴァントのみならず普通の人間と比べてもさして変わりない。数多の時間軸と並行世界で起きた個々の聖杯戦争の記録も、あるにはあるのだろうが俺には再生できない。当然ながら今ある己の体験そのものでもないため『自分が積み重ねた|歴史《できごと》である』という再認も出来ない。膨大な聖杯戦争の記録の中にある戦闘の経験だけが|抽出《ダウンロード》され、霊基に|反映《インストール》されている。これは俺の半身を構成するシヴァが、|時間《カーラ》という軛に捉われない神である為に成せることだ。時間が関係ないなら必要な情報はどこからでも引っ張ってこられるという、反則技。生前扱えなかった戦輪を、今はそうやって振るっているわけだ。……こちとらなりふり構ってなどいられない。戦輪以外で俺が使える戦闘用の宝具と言ったら、二度と使う訳にはいかない|も《・》|う《・》|一《・》|つ《・》しかないのだから。
記憶は再生と再認ができなければ、無いものと変わりない。ピンポイントで思い出させたくない記憶には、奪ったり改竄したりするよりも思い出せないようにした方が早いに決まっている。それが暗示というものだ。あの場で鳥の店主に可能だった細工が、記憶に鍵を掛けるということだったのだろう。
「……あークソ、やっと思い出したぜ。あの孔雀の羽根とヘンな鳥野郎、全部テメェの差し金だな?」
そう言えばアルジュナとこの男は、二人で名を共有していたか。名や音の響きを同じくすることは魔術において重要な意味を持つ、という話は何度か聞いたことがある。同じであるなら因果を辿り干渉できるという、類感魔術……というのだったか。現代においてもインドを中心に絶大な信仰を集めているヴィシュヌの第八化身だけあって、事実上の万能といえる男だ。いけ好かないが|幻力《マーヤー》にさえも長けていたこの男ならば、この程度は容易くやってのけるだろう。
……ということは俺が遭遇したあの鳥は、紛れもない幻想種だったということになる。それも最高クラスの神獣だ。傲慢なインドラ神を脅かす為、聖仙たちの苦行と祈祷によって生まれることが運命付けられた神鳥。邪竜を喰らい、ヴィシュヌを乗せて空を征く、鳥獣の王。……幻想種としての寿命など、二千年どころじゃない。更に遡った原初にも程近い起源を持つ神鳥。俺やアルジュナでは手も足も出ないはずだ。
「如何にも。手荒な真似をしたことについては詫びよう。手段を選んでいる暇など俺には無かったのでな。……それにしても妖精の真似事をするとは、全くあの子も悪戯好きになったものだ。この島国に根付いた幻想である天狗に沿って霊基を形成してしまった所為かもしれないな」
成程、このイカサマ師め。神鳥はそうやって持ってきていたのか。
確かに今は白紙化で人理があやふやになっているといっても、完全ではない。未だ物理法則で成り立つ世界であることに変わりはないのだ。文明レベルの向上に伴い広がった人間の集合無意識によって成り立つこの物理法則は、人間が理解出来る範疇の現象しか再現できない。かつては神秘だったものが、神秘ではなくなってゆく。神々の多くが力を失い吹雪や嵐といった単なる自然現象へ成り下がったのは、そういう理由だ。故に大気中の|魔力《マナ》が極めて薄まったこの世界に、神獣クラスの幻想種をそのまま持ち込むのは不可能と言っていい。例え術式が用意できても、召喚を継続して運用するには召喚者の|魔力《オド》が全く足らないのだ。出来てもセミラミスが喚ぶバシュムのような、頭部や足のみの召喚となってしまう。となればあの鳥も謂わば|制限時間《タイムリミット》を付けてリソースを節約しながら効力を強めた限定術式で、神獣の霊格を使い魔クラスにまで落として召喚されたものになる。
天狗という言葉で真っ先に思い出したのは、鬼一法眼という日本の英霊モドキだった。あれは精霊種でありながらサーヴァントとして召喚されるフリをして顕現するという、とんでもない力を持つ奴だ。その天狗という幻想種の起源がインドにあり、日本に大きく広まった仏教に取り込まれていた神鳥でもあったのか。|霊基《からだ》を作るにあたり、デザインを日本において神鳥に最も近い属性である天狗に寄せたとなれば、カルデアの鬼一法眼が使う陰陽道の呪術等も操れるようになるだろう。……それにしても使い魔で、あれほどの魔力。天狗の絶大な知名度も加味されているのだろうが、流石は|神槍《ヴァジュラ》すら無力化した神鳥だ。インドラに並ぶ者の名は、伊達ではない。
「お陰さんで散々な目に遭ったぜ。一応はテメーの|乗騎《ヴァーハナ》でもあんだろ、首輪くらい付けとけっての」
「……む。手綱もまともに握れぬまま、アルジュナに食われかけていた貴様に言われたくはない。数十万年分の戦輪修行、此処でリトライしていくか?」
「ッッッそれについてはマジで悪かった!! すまん!!!」
黒い男はむっと口を尖らせて文句を言う。
アルジュナの見目形でその拗ねたような表情をされると、どうにも調子が狂う。
……|ど《・》|っ《・》|ち《・》|が《・》|ど《・》|っ《・》|ち《・》だったのか、分からなくなってしまいそうでおそろしい。
しかし起こった事こそ九割不可抗力ではあるが、あの神鳥は記憶の大部分にロックを掛けていった中でも忠告だけはちゃんと頭に残してくれていた。手綱を握り損ねた結果があの有様……というのもまた事実だ。他人のことなど言えはしない。
「……ひとまず修行云々については後回しにさせてくれ。今それどころじゃ……ていうかその前にここ何処だよ」
しかして今戦輪修行を一からやり直すというのはつまり、宝具登録から現在に至るまでの聖杯戦争の経験オールリセット宣告である。時間軸から切り離されている英霊の座にこそ影響しないだろうが、考えただけでも冷や汗が止まらない。アルジュナが決定的に狂ってしまった今、そんなことを悠長に行っている場合ではない……と、思ったのだが。
「時など気にするだけ無駄だ。アルジュナに喰われる直前のお前の精神を、|俺《・》|の《・》|夢《・》に引きずり込んだのだからな。お前であれば、時間軸など関係が無くなる」
「あー……、だから孔雀の羽根を俺に持たせる必要があったのか」
「然り。なんせ厄介な事にサーヴァントは夢など見ない。魔力抵抗すら皆無なあの|凡人魔術師《マスター》ならまだしも、対魔力の高いサーヴァントに夢を見せる為には、相応の仕掛けが必要だ」
神鳥のみでは俺とこの男の縁は繋がらない。唯一ある縁の戦輪宝具も、縁として力を発揮するのは実体化で表に出している間だけだ。そも閻魔亭には戦いに来たのではないのだから、戦輪を常に実体化させている訳もない。名を共有するアルジュナが傍にいるだけでもまだ薄いだろう。この男が俺を確実に夢へと引き寄せる|因果線《ライン》を繋ぐ為に必要な道具が、|聖遺物《アーティファクト》でもあろう孔雀の羽根飾りだった訳だ。
「とはいえ如何に単独行動可能な|弓兵《アーチャー》とて、|魔術師《マスター》を伴っていない現状のお前では|時間遡行《マハーカーラ・シャクティ》の実行までは不可能だろうが……。彼方に戻った直後の時差を一瞬程度に抑えるくらいなら、十分可能だろうよ」
元より主人が此処に俺を落とすという腹積もりを、あの神鳥は承知していたから記憶に鍵を掛けたのだろう。そしてこの男の言う通り、シヴァは時間を司る神だ。時間という概念に囚われない|果《・》|て《・》となる此処は、カルデアにいる妙なガネーシャ神が熱心にプレイしているゲームに例えるなら……セーブポイントとやらに限りなく近い。
「……ッチ、面倒なことしやがって。そういうことは最初から言えよ」
「そこは許せ。お前の記憶に鍵を掛けたのはあの子の独断だが……今は任せて正解だったとも思っている。何せ|ア《・》|レ《・》は自己防衛本能だけなら一級品だ、感づかれる訳にはいかん」
「……? まあいいや、ありがとよ。テメェに助けられたのは事実だ、それだけでも釣りが来る。……んで? あいつはどうやったら正気に戻せるんだよ」
アレ、とは何のことなのか。あの鳥といい、手前にしか分からん話をするのは主従共々よく似ていてなんともいけ好かない。
ともかく今は、どういう訳だか気がふれてしまったアルジュナを何とかしてやらねばならない。助けてもらった手前ではあるが、こんなところで悠長に話をしている場合でもない。
……否、此処なら時間経過など無に等しいのだから、修行のやり直しに関してだけなら構いはしないか。あいつを止める為の力が俺には足らないというなら、修行などいくらだってやってやる。しかし自分の体感時間分だけずっと、あの状態のアルジュナを放っておくなんてこともしたくなかった。
可笑しなものだ。
ただの人間であったならトラウマにもなりそうな程の、狂気に満ちた恐ろしい光景だった筈なのに。離れた今はすぐにでも戻って、どうにかしてやりたいとばかり思ってしまう。意識の外とはいえ、ひとりにさせたくないという焦りが沸き上がってしょうがない。無策で戻れば二の舞だと、頭では嫌と言う程分かっているのに。
しかしアルジュナの姿を借りた目の前の男は、可笑しな言葉を口にした。
「何を言う。戻すも何も、アレは最初から正気だぞ」
「……はぁ? あれの何処が正気なんだよ」
すると男は俺の返答に呆れたのか、深々と溜息を吐いて言う。
「お前、俺の話を聞いていなかったのか? アレは『反転』していると言ったんだ」
男、曰く。今のアルジュナは大我と小我が入れ替わってしまったのだという。
大我とは『社会という広い世界の中に個人がある』ことを識っている自己の意識だ。小我とは『個人という狭い世界』の中でのみ満たされる自己の意識だ。小我は所謂我欲を抱く己自身、大我は周囲の為に欲を律する己自身……といったところか。判断規準である理性は大我の中に、行動様式である本能は小我の中にある。
これが反転するということはつまり、理性が欲望に呑まれたことを指す。|周囲《せかい》を優先し感情を抑制する自己よりも、己の感情を優先する自己を取ってしまった、ということだ。道徳や理性こそ失われるが、物事の知識や言語能力等に基づく知性がなくなるわけではない。自らが裡に抱く『そうしたい』という|意思《欲》そのものは、変わらない。だからアレは正気だと言っている訳か。狂戦士の|狂化《クラススキル》とも、微妙に異なる。
『万一此処デ|裏《・》|返《・》|ッ《・》|ち《・》|ま《・》|ッ《・》|タ《・》ら……、ロクでモねェ大喰らいニなッちまウ』
思い出した記憶の中の、鳥の店主の言葉がふと脳裏に蘇る。
百歩譲って反転している、というのは分かった。しかしそれが何故、『食欲』に繋がるのか。それがどうしても分からない。
『アレがあると、わたし―――おまえを、ころせない』
『ずっと、我慢していたんだ。おまえがいとしくて、すきでたまらなくて……おなかがすいて、しょうがなかった』
『おまえは私だけのモノじゃなきゃ、いけないのに!』
思い出したくもないアルジュナの言葉だのに、冷めきった脳は酷く冷静に反芻する。アルジュナの抱いた欲望が俺への『愛情』であると仮定した場合、反転すればそれは俺への『憎悪』になるだろう。実際はっきりとそれを口にした通り、あいつは仇敵である俺を『殺したかった』に違いない。反転しようがしまいが、一族郎党を皆殺しにした俺に対して、その感情が存在していない筈が無い。そちらの方が、納得はできる。
だが、愛しいものを。或いは憎いものを。『食べたい』と思うものなのだろうか?
「覚えがある筈だ、そのような行動様式を持つモノ達を。かつての|ヴィシュヌの化身《俺達》が何度となく殺し、かつての|シヴァ《お前たち》が幾度となく殺してきたモノの総称。お前たちが喚ばれたカルデアにも、そら、居るだろう? ―――『鬼』という連中が」
「まさか、|羅刹《ラークシャサ》か……? ッふざけんな!! あいつは人間だっただろうが……!!」
……そんなバカな。
愛しき哉、尊き哉と想い傾けたモノである程、壊し、殺し、喰わずにはおれないモノ。それがこの島国における鬼であるという話は確かに聞いたことがある。その鬼の原点が、俺たちの故郷である古代インドの|羅刹《ラークシャサ》にあるということも。
けれどあいつは間違いなく|英雄《にんげん》だ。そもあいつは、羅刹の血など持ってはいない。流れているのは|神《インドラ》の血だ。
人を超越した力を持ってはいても、列記とした|人間《えいゆう》だった。
「よりにもよっててめぇが―――貴様が、それを言うのか!!」
姿形こそアルジュナを借りているが、この男とアルジュナの友情は前世から連綿と続く永劫不滅のものではなかったか。|神《ヴィシュヌ》同然の立場であっても、|人《アルジュナ》を取った英雄だと思っていたが……男の言葉は、まるで厄介者として排除したがっているようにしか聞こえなかった。
「確かにアルジュナは人だっただろう。人の血を継ぎ、人として振舞い、|人《・》|と《・》|し《・》|て《・》|生《・》|を《・》|全《・》|う《・》|し《・》|た《・》|の《・》|で《・》|あ《・》|れ《・》|ば《・》ソレは確かに人間だ。人間に|同種《にんげん》を喰うなんて|真似《げいとう》は出来ん。ただの人間がそんな非道を犯さないのは、|誰《・》|だ《・》|っ《・》|て《・》|分《・》|か《・》|る《・》」
嫌だ、理解などしたくもない。しかしてこの男の言葉が分からない程、俺も愚鈍にはなれない。
『たダの雷神ナら兎モ角ヨ。雷神ト人ノ|混《・》|血《・》ッてんなラ、手加減出来ねェ|儂《オレ》ガ動く訳にモいかねェダロ』
あの神鳥の言葉の真意は、そこにあったのか。
それは神や羅刹の血かどうか、ではない。人の血に異形の血が|混《・》|じ《・》|っ《・》|て《・》|い《・》|る《・》かどうかだ。
人として生きたものでありながら、人ではないモノの血を持つが故に引き起こされる暴走。
……最悪だ、居るじゃないか。皮肉なことにその最たる例が、カルデアには既に存在している。
彼女はこの島国で栄えた都を護る、神秘殺しの戦士だった。
人の胎から生まれ落ちながら、雷神、天魔としての血を戴く鬼の子であったという。
神鳴る天網を統べし貌を持つその戦士の名は、―――源頼光。
神の血を魔と捉えていたその戦士は人にも魔にも成り切れず、苦しんだ末に魔の側面を切り離し、殺そうとした。
しかし分けたところでその魔も我が身である以上、それは自害に他ならない。
結局その戦士を慕う者達の手によって、天魔は戦士の裡に封じられることとなった。
だが、時は経ち。
人理焼却の混乱に乗じて天魔は英霊となった戦士の表層に浮き出てしまい、制御できなくなったことがあったそうだ。
人を喰う|天魔《鬼》など、何処へ行こうが受け入れられる筈がない。
聖杯を手にした天魔は自分たちだけの|魔国《らくえん》を求めて空想の島を生み、邪魔者を殺し尽くして閉じこもろうとしていた。
やがては空想の島のみならず、この島国も全て魔国にしようと企てつつ。
カルデアのマスターは鬼の縁で喚び寄せられたサーヴァント達と共に、天魔を打倒。
どうにか再び、戦士の裡に天魔を封じることに成功したのだという。
天魔御伽草子・鬼ヶ島。
かつてカルデアが南極に在った頃そんな大騒動があったのだと、俺に話をしてくれた金色の大男が居た。
そしてその戦士の裡に宿る雷神・天魔とは、|牛頭天王《ゴズテンノウ》。日本におけるインドラ―――|帝釈天《タイシャクテン》を指すというのだ。……ならばインドラの血を半分受け継いだアルジュナにも、同じことが起こらない筈がない。
「俺は確かにお前の思っている男に相違無い。……が、それ以前に俺は『|私《アルジュナ》』の中の『|黒《クリシュナ》』だ。神と人の混血でありながら、それでも自身は人で在り続けたい。人として|隣人《にんげん》を愛するものでありたい。そう願った|私《アルジュナ》が、他人に|悪心《ほんしょう》を悟られないよう身代わりとして生み出したものが|黒《クリシュナ》だ。謂わばアルジュナに残された、一欠けら程度の理性と言っていい。制御出来ない本能に呑まれかけた|私《アルジュナ》が、なけなしの理性に助けを求め俺を引き寄せた」
「……なら、今の今まで俺を喰おうとしてたあいつは」
「残念ながらアレは紛れもなくアルジュナの本心だ。アルジュナが形作った|心の壁《エゴ》は、どこぞの大馬鹿者が粉微塵にしてしまったのでな? お陰で俺からは声が届かなくなった上に、生前から抑え続けていた|ア《・》|レ《・》も表に出てきてしまった」
アルジュナが自分から俺に話した『至らぬ部分』とは、このことだったのか。
他者の接触を許さなかったのは、深く関わった者達を須らく殺して喰うという|小我《ほんしょう》を発露してしまわないように……ということだったのだろう。となればこの男の指す大馬鹿者とは、恐らく|藤丸立香《マスター》のことだ。それをきっかけとして、アルジュナは積極的に他者との交流を持つようになったのだから。
だが、……やはりそれのみでは可笑しい。アルジュナが他者を受け入れるようになったのは、俺がカルデアに喚ばれるよりもずっと前からの話だ。マスターの影響というのなら、とうに抑えなど効かなくなっている筈。それが何故、今になって突然。
「無論、混じった血やあの|魔術師《マスター》との邂逅のみでどうにかなるほど、『|私《アルジュナ》』も獣ではない。混血だろうが、アルジュナは英雄で在れる。そうでなくては英雄など務まるものか。……決定的に抑えられなくなったのは他でもない、お前の所為なのだから」
「……おれの、せい?」
―――どういうことだ。
「今のお前と|私《アルジュナ》はあり得ざる邂逅、あり得ざる縁を結んでいる。シヴァの数千ある貌の内の一つであるお前がアルジュナを選ぶ。それ自体が、|あ《・》|り《・》|得《・》|な《・》|い《・》ことだと言っている」
「……は、ッ?」
「三神一体にして梵我一如。太源の神たる|俺《ヴィシュヌ》はかつて|私《インドラ》だったモノであり、|私《インドラ》はいつか|俺《ヴィシュヌ》になるモノだ。そして|お前《シヴァ》もまた源流は|私《インドラ》にあり、ならばそれは分かたれた|俺《ヴィシュヌ》の半身。我等の根幹は|すべて同じ《ブラフマー》。一より生まれ出で、やがては一に還るもの。我等は世界を造り、維持し、壊して再び造る為に、幾重にも別たれていったものの|端《・》|末《・》だ」
脳髄が、理解を拒む。
理解したくない|情報《モノ》が、鼓膜を伝い脳髄へと無遠慮に流し込まれていく。
「役割を与えて別たれた分だけ抱く想念も分かれていく……否、これは逆だな。我等は一の|想念《かんじょう》が幾重にも切り離されていった結果として|役割を得た《うまれた》ものだ。それをお前たちは|ア《・》|ル《・》|タ《・》|ー《・》|エ《・》|ゴ《・》と呼ぶのではないのか?」
知らぬはずもない。そんなものもカルデアには存在する。
己には不要な感情と断じ切り離したモノが独自の想念を育て、一個の知性体として確立した存在。しかして始まりの一つが抱いた感情から生まれたそれらは、原典である|感情《おのれ》を焼べることでしか駆動できない。自滅前提、刹那の|激情《こい》に生きるのみの|人形《しょうじょ》達。
―――それは、一己の感情を起点として生まれたモノ達だ。
「還る先こそ同じとはいえ、これだけ貌が分かれれば想念も別箇に育つ。大陸における役目を|現在《ヴィシュヌ》に明け渡し|信仰《けんりょく》を失った|過去《インドラ》は、星の支配者たる|かつての栄華《神代》への回帰を望んだ。一方で再生と破壊を司る|お前《シヴァ》は|神理《ふるき》を捨て|人理《あたらしき》を迎える、|人の存続と繁栄を願うもの《アラヤ》へと変生していった。人あっての神たらんとする我等の想念はどれもが同一でありながら相反するもの。その本質は自己嫌悪だ。幾重にも連なる合わせ鏡に映り込んだ己、しかし己であるが故にその矛盾と欠陥を認められない。だから切り離し、成長する。|理想の始まりにして最後《原点》に近づく為に。過去の象徴が過去のままに回帰を望むからには、その端末たるアルジュナは力を取り戻す為にお前を求め続ける訳だが……お前は違う。お前という|端末《エゴ》は、|回帰《アルジュナ》を否定し、壊す為に存在している。忌み嫌ったが故に切り離した筈の心が、どうして共に在れるというのか」
クリシュナも、アルジュナも、俺も、根本は同じだ。
あの異聞帯の記録にあった|俺《・》|で《・》|は《・》|な《・》|い《・》|俺《・》が侵されていたクリシュナの呪いも。それをラーマが肩代わり出来たのも。俺とラーマの持つ神性が、カルナへ譲渡出来たのも。全ては『元が同じモノ』であるからだ。ただでさえ情報量の多い神性は、単なる外付け状態では噛み合わせが悪く、権能を扱う負荷は増してしまう。|異聞帯の神《アルジュナ》に招かれた|神将《ローカパーラ》たちは、その因果で自滅している。しかし元になったモノが同じで目標とする最終地点も同じであるならば、話は別だ。全てがかつて存在した、或いはいつか生まれる自分自身なのだから。端末それぞれが過去の、現在の、未来の|神《じぶん》を視ているような状態。
完璧を求め自己嫌悪を突き詰めた末に一旦切り離され、それぞれが魂を収める匣を得て、別人として振舞う鏡に映った己自身。改めて考えてもみればそれは、滑稽極まりない光景だろう。
けれどそんなことはこの男に謂われなくとも―――心のどこかでは、初めから分かっていたことだった。
「今のアレをこのまま放っておけばどうなるかなど、お前ならば嫌でも分かっている筈だ。お前は既に目の当たりにしているだろう、血に抗えず裏返った『|私《アルジュナ・オルタ》』の姿を」
「ッ、テメェ、何が言いたい……!」
「|過去の象徴《インドラ》が原初に還る事を方針としている以上、アレが如何にして統合神性と成り果てたのか。その仕組みが分からぬ筈はあるまい。ああなってしまってはカルデアのマスターにとっても、お前の仲間たちにとっても、ひいては人理にとっても。最早アレは災厄にしかならん」
「…………ッ!」
「それでもなお言葉にせねば分からんと言うなら、いいとも。言ってやろう」
動揺する俺など、お構いなしだった。
男は、俄かには信じがたい言葉まで口にする。
それは、頭蓋を叩き割るような衝撃を持って俺の脳髄に響き渡った。
「―――速やかに、『|私《アルジュナ》』を殺せ」
殺す、俺が。
……あいつ、を?
『万一此処デ|裏《・》|返《・》|ッ《・》|ち《・》|ま《・》|ッ《・》|タ《・》ら……、ロクでモねェ大喰らいニなッちまウ』
あの神鳥の言葉が何度も何度も脳髄を駆け巡る。
その言葉ばかりが、ぐるぐると脳内で再生し続ける。
どうして殺さなければならない。
否、どうしてなんて、もう分かっているだろう。
この期に及んで目を逸らすなど、許されはしない。
アルジュナ・オルタが人を棄て神に成り果てたのは、神々の血肉を喰らい、自らの血肉としたからだ。あの異聞帯に召喚されたカルナは、それを見抜いていた。しかし神の血肉を喰らうことなど、可能なのか。……そんなものは簡単だ。神の力を継いで生まれた者たちを、喰えばいい。
ヴィシュヌであれば、|クリシュナ《友》を。
ラクシュミーであれば、|ドラウパディー《妻》を。
ダルマであれば、|ユディシティラ《長兄》を。
ヴァーユであれば、|ビーマ《次兄》を。
アシュヴィン双神であれば、|ナクラとサハデーヴァ《弟たち》を。
シヴァとヤマであれば、|アシュヴァッターマン《俺》を喰えばいい。……それだけの話だ。
|愛したものと共に在りたい《元の姿に戻りたい》から、喰らう。
アルジュナが|半神半人《不安定》なのは、そういうことだ。
|人間の血《人間性》など、混じっていた所で後からどうとでもなる。
むしろそれを促進させるために、あえて神と人の混血という不完全な姿にしたのか。
お誂え向きにも生前のあいつの周りには、神の分身が集まり過ぎていた。まして五兄弟はその誰もがインドラが失った|信仰《ちから》の断片でもある。まるで虫を集める蜜を湛えた、食虫花だ。|原初《一》に還ることを目的に、生み出された|欠片《パーツ》。
汎人類史においてインドラの復権に必要な|神々《デーヴァ》の力を持った者たちの中で、あいつの傍に居なかったのは……俺だけだった。
ならばもう、アレは最初からそのように設計されたモノなのだろう。神々の|権能《たましい》をひとつに集める為の、器だ。アルジュナ・オルタ が人間性の殆どを失っていたのも当然のこと。器に納めた神々の権能を制御するには、|人格や元の人間《アルジュナ》としての機能を残しておく余裕などある訳がない。
あいつが俺を求める理由なんてものは、最初からそれ以外に無かったのだ。
「躊躇う必要はない。これは|俺《クリシュナ》ではなく、確固たる『|私《アルジュナ》』の意志だ」
「……なん、だと」
「言っただろう、俺はあくまでもアルジュナの中にいる『|黒《クリシュナ》』だ。主人格が自ら果たせぬ望みを代わりに実行することが、従者たる俺の役割なのだから」
ここでアルジュナを殺さなければ。
俺がアルジュナに喰われてしまえば。
|インド異聞帯《あの惨劇》は繰り返される。
否、もっと酷い有様になるだろう。あの異聞帯のアルジュナが、何をきっかけに反転し、『全ての邪悪を断つ』などという大それた願いで神の権能を求めたのか。それは分からない。しかしきっかけが願望であることは同じでも、|汎人類史《こちら》のアルジュナは今、ただ裏返った愛欲を以て俺を求めている。……それが正義になど、なる筈がない。邪悪を断つ、そんな確固たる信念で人間性を保護しながら踏み止まっていたから、あの程度の崩壊で済んでいた。指向性すら持てない今のあいつは、一直線に魔に堕ちていくモノだ。
全盛期の力を取り戻している今の閻魔亭に、一体どれだけの神霊と妖魔が集まっていることか。半ば受肉したような状態で、日本の属性にも引っ張られているなら、猶更だ。閻魔亭がインドの地獄をモデルにした異界である限り、|神々《デーヴァ》の代替えなどいくらでも利く。……それこそ此処の神霊と妖魔を平らげた後は閻魔亭を足掛かりに、大元の閻魔大王まで喰い尽くしかねない。
「これは『他者愛から自己愛へ裏返って天魔に成り下がるくらいなら、お前に殺された方がマシだ』という……アルジュナ自身の切望だ」
「……本当に、あいつがそう望んだのか」
「無論だ。アルジュナの願いを聞き届けて|黒《俺》は、お前に手を貸すべく|此処《ゆめ》へ招いたのだから」
アルジュナは、最初から分かっていたのか。自分の|霊核《しんぞう》は、時限爆弾のようなものであると。
アルジュナ・オルタはどうにか一欠けら程の|人間性《りせい》を保って、己を殺せる力を持った|宿敵《カルナ》の再来を待ち続けていたのだろう。カルデアの|記録《マテリアル》にはっきりと残されていた「私の天地創変を耐えた、もしやと思ったが」という確かな迷いは、その証左だ。始まりは確かに、邪悪を断つという自らの信念を以て家族や友を喰うという非道に走ったに違いない。その奇跡を得た代償に、人を必要としない|異端の神《邪神》に成り果てる寸前まで壊れてしまった訳だが。
しかし、此処にアルジュナの暴走を止められる者など居ない。
そも俺は生前、世界を滅ぼす神器を以てしてもあの男を殺すことが出来なかった|ろ《・》|く《・》|で《・》|な《・》|し《・》だ。俺一人ではどうにもならない。
俺の力だけで足らないならば、世界からの後押しとなる|抑止力《この男》が、動かぬ道理は無い。
「幸い閻魔亭なら、ヤマ神に直結しているお前の方が強い。ただ殺されるのみならば、お前の肉体は何度でも再生する。そしてカルデアで得たお前との縁は、あそこにいるアルジュナだけのものだ。金輪際同じ|霊基《モノ》が再召喚されることもない」
今ある霊基の、完全破壊。
それは、アルジュナには|アシュヴァッターマン《俺》と過ごした記憶など残らない、ということを意味する。カルデアに記録されている霊基パターンこそ同じであっても、あくまでそれは旧カルデア時点での基礎情報のコピーでしかない。|戦闘の履歴《記録》こそ座に持ち帰られるかもしれないが、それは同一人物の別人だ。ノウム・カルデアで俺と共に過ごし得た|恋《こころ》まで、引き継がれることは無い。否、そもそも|欠陥《バグ》など残しておく方がおかしいのだから、バックアップなどある筈もない。全てが、元通りになる。
「今ならその過ちは正せる。……お前たちの報われぬ想いも全て、『なかったこと』に出来るんだよ」
なかったことにできる、か。
アルジュナが最も信ずる友であり師でもある、最も正しい神と言われたこの男が、そこまで言うのだ。
……間違い、なのだろうとも。
アルジュナは俺に手を伸ばしてはならなかったし、俺もアルジュナの手を取ってはならなかった。
(それだって本当は、最初から分かっていたことだ)
アルジュナの手を取った時。こんな|関係《もの》、許される筈がないと思ったのだから。
今も尚、頭の中では見知った多くの顔が『アルジュナを殺せ』と囃し立てている。
アレを生かしておく理由など何処にもないと、がなる声が頭蓋に響く。
『アルジュナの為に死んでくれ』と懇願する声だって、はっきりと聞こえてくる。
愛したのならアレに全てを捧げろと、わめく声が脳髄に響く。
殺すべきだ。殺したくない。相反する意志が、頭の中に満ちている。
何よりもここで俺がアルジュナを殺さなければ、俺は俺が最も信ずる|神《シヴァ》に背くことになる。
それはこれまで積み重ねてきた|アシュヴァッターマン《俺》への、裏切りにもなるだろう。
―――嗚呼、けれど。
「悪いんだけどよ」
自己愛と他者愛。
結局の所俺たちは、幾重にも広がる合わせ鏡の中に映った自分でしかないのだとしても。
この|激情《こい》はあいつを否定する為だけに生まれた|俺《エゴ》が起こした、致命的な|欠陥《バグ》なのだとしても。
手を取り合った|末路《いま》が、|回帰《はめつ》の時なのだとしても。
「―――断る。俺に、アルジュナは殺せねぇや」
あいつが俺に向けてくれた|恋《こころ》の全てを。
俺があいつに向けた|愛《こころ》の全てを―――なかったことにだけは、したくない。
「……お前こそ正気か? 喰われるも承知で戻るつもりか」
「喰われる気なんか更々ねぇよ。あいつが俺を喰ったら拙いことになるのは、嫌でも解らぁな。……要はあいつ、理性飛んでるだけなんだろ。ならぶん殴って目ェ覚まさせてやる」
「殺す覚悟もないその加減した拳など、今のアレに届くかどうか。反転したアルジュナの肉体は既に変調を来している。爪や牙だけではない、その眼すらも、魔性を帯び始めている。お前の|憤怒の化身《スキル》すら容易くねじ伏せる程の魔力だぞ、視線を合わせればすぐにでも虜にされる」
「ッハ! 生憎俺はあいつより敏捷上なんでな! それさえ分かってりゃ、遅れを取るようなヘマはやらかさねぇっての!」
黒い男は俺の言葉を聞き、露骨に顔を歪めた。
考え無しの特攻など承知の上だ。例え救う手だてが無かったとしても、あいつを殺すなんて選択肢は端から存在しない。
まだ間に合う。まだ戻れる。
まだあいつは、完全に道を踏み外してなんかいない。
「死ぬべき定めにある命を救う。それが英雄たる所以、英雄の定義だ。だから|クリシュナ《おまえ》も|アルジュナ《あいつ》も、正しく英雄だったんだろう」
切り離した末に生まれたのがこの|欠陥《バグ》というなら、この欠陥を抱えた俺こそを|アシュヴァッターマン《私》であるという証明にすればいい。俺に手を伸ばしたことがアルジュナの間違いであったなら、その間違いこそを|インドラ《神》ではなく|アルジュナ《人》であるという証明にしてしまえばいい。
「そんな|お前達《英雄》に対峙した俺もまた|英《・》|雄《・》|な《・》|の《・》|は《・》、―――そういうことだろ?」
殺す気などない。さりとて俺を捧げる気も、毛頭ない。
俺は俺でなければならないし、アルジュナもアルジュナなければ、意味が無い。
自らの|心《こい》を掴み取り、|自我《おのれ》という証明を勝ち得て駆け始めたあの少女たちに出来て、俺たちに出来ぬ筈もないのだから。
俺の言葉に、面食らったように目を瞬かせた男は。
「っ、ふふ、……あっはっはっはっは!」
―――何を思ったのか目元を覆って閻天を仰ぎ、高らかに笑い出した。
「笑ってんじゃねぇよテェェメェェー…………クソムカつく野郎だな…………」
「あはは、いやまさか、一字一句違わず思った通りの返答をくれるとは!」
……呆れたものだ。
一体どこまで、この男の思惑通りに事が進んでいるのだろう。俺自身の本心を以って死ぬ覚悟での返答だったというのに、この男にとっては所詮想像通りでしかない反応だったらしい。
「ふふッ、はははッ! ああ可笑しい! どれほど枝が分かれようが根は己! いくら|罵《ころ》し合おうが結局は|自分が可愛くて《生きていたくて》しょうがないということか!」
むしろ予想通り過ぎて笑いが止まらないとまで宣う。
……しまいには腹まで抱えて笑い始める始末だ。俺はいつまでこいつの掌の上で踊らされていなければならないのか。
「……あ? つまりなんだテメェ、分かってて『アルジュナを殺せ』なんて宣ったのか?」
「当たり前だろう。俺が何のために存在していると思っている? 俺が何よりも優先するのは主人格の守護だ。ここでお前が俺の言った通り『アルジュナを殺す』と返答しようものなら、俺は問答無用でお前を殺していたぞ。此処での死は精神の死、最早彼方には戻れん。空になったおまえの|霊基《にくたい》は、アルジュナがたらふく貪っていただろう。反転しようが|神《だれ》を喰おうが、俺は一向に構わん。最終的に|ア《・》|ル《・》|ジ《・》|ュ《・》|ナ《・》|さ《・》|え《・》|残《・》|る《・》なら、俺はそれでよい」
……どうやら俺は、思わぬところで命拾いをしていたらしい。
凄まじく人の悪い歪みきった笑顔でさも当然とばかりに返され、夢の中だというのに背中に冷たい汗が流れ落ちるようなリアル過ぎる錯覚を覚えた。アルジュナの顔でその極悪人面をするのは勘弁してほしい、似合わない。……まさかこの|裏人格《おとこ》、異聞帯ではそうやってアルジュナ・オルタの|魂の灯《にんげんせい》も保存していたのだろうか。安全装置なのか時限爆弾なのか、まるで分からない男だ。
「そっちこそ、俺の肩持つようなことしてていいのかよ? 俺が|人《アラヤ》寄りなのは認めるがな、そういうテメェは|星《ガイア》寄りじゃねぇのか。テメェの方が碌に自由なんか効かねぇだろ」
とはいえ人の理と星の理は別箇だ。どちらも破滅を回避する抑止力でこそあるが、その行動理念は異なる。霊長全体が持つ存続への祈りがアラヤであり、惑星が持つ生命維持への祈りがガイアだからだ。必ずしも互いが互いの味方であるとは限らない。目的が一致する時もあれば、修復の方向性が異なる場合は敵対することも十分にあり得る。
英霊は人間を精霊に押し上げた存在である為、基本的には霊長の抑止力として機能する。しかしその英霊が星の触覚を原型とする神に近いものである程、星の理を以て動かされる。その為英霊でありながら霊長の抑止力では行使出来ないものも存在するのだ。ヴィシュヌが神霊である以上この男は十中八九、星側だろう。ましてや神々には権能行使の対価としての誓いがある。誓いに背けば権能剥奪、零落だ。万能と言えど全能ではないこの男が、アルジュナ一人の為に動ける筈がないのだが。
「……そうだな。『俺』が|大《・》|元《・》であったとしても、アルジュナの背を押してお前を喰わせていただろう。だが俺は言ったぞ? 俺はクリシュナである前に『|黒《アルジュナ》』だと。善きにしろ悪しきにしろ、主人格の望みを実行するのか俺だ。|アルジュナ《私》が望まぬことを、|黒《俺》が実行できるはずがない」
―――この男、やっていることがイカサマにも程がある。
要はアルジュナの中にある別人格の|黒《クリシュナ》と英霊クリシュナが共有している|名《・》|前《・》を利用し、|太源《ヴィシュヌ》から権能を引き込んで無理矢理行使している、ということだろう。しかして結局現時点では|ま《・》|だ《・》|ア《・》|ル《・》|ジ《・》|ュ《・》|ナ《・》|で《・》|あ《・》|る《・》為、意識は|黒《クリシュナ》の方が強い。擬似サーヴァント連中でいう所の孔明やカレンのように、英霊や神霊自身よりも依代にした人間の意識が表層に出ているような状態だ。そんなクリシュナだが|クリシュナではない《アルジュナ》というどっちつかずな精神状態では、太源の意思が届きにくいのだろう。恐らく生前もパーンダヴァの軍師をやるにあたって、この手法で散々主神の目を誤魔化してきたのではないか。……なんて奴だ。
「いいかよく聞け、アシュヴァッターマン。かつて|父《かみ》の愛を振り切って巣立った|私《アルジュナ》だが、その身に流るる|神《ちち》の血からは逃れられない。いくら足掻けど|私《アルジュナ》はそういう運命にある。遺憾ながら今の俺では|私《アルジュナ》を救い切れない。あいつは|運命《マスター》を得た歓喜に舞い上がり、勢い余って俺の手まで離してしまったからな……。命綱無しで断崖絶壁を歩いているようなものさ。突風が吹けば、奈落の底まで真っ逆さまだ」
とはいえ、それもあまり長くは持たないのだろう。
天界で授かった筈の|雷の権能《ヴァジュラ》を一切使わない。いつかのクリスマスの一件でのヴリトラとの戦闘も、頃合いを見て離脱している。何がきっかけになってしまうか分からない為に、平素のアルジュナはインドラの属性に寄ることを極力避けている。しかし今のアルジュナは自ら反転を受け入れてしまった影響で、太源の意思を拒めなくなってしまった。神霊としての自身は中立を保つという誓いに背きアルジュナに肩入れしている以上、クリシュナ本人もただでは済まないだろう。|インドラ《過去》と|ヴィシュヌ《現在》が権能を食い合う表裏一体の存在である限り、どちらからも干渉は出来てしまう。この島国で神霊としての知名度が高いのは、圧倒的に|帝釈天《インドラ》だ。絶対勝利値で表出する抑止力と言っても、力の差は五分に限りなく近い、ギリギリの僅差だろう。
「お前……、本当は|こ《・》|っ《・》|ち《・》|側《・》|だ《・》|っ《・》|た《・》んじゃねぇの?」
そんな危険を冒してまでアルジュナの別人格に接続し駆け付けたのは、きっと今の俺と同じだ。
この男も|原初《かつて》の己が切り離して棄てた筈の、|アルジュナ《いつかの自分》の手を掴んでしまった。大元が要らないものとして|なかったことにする《殺す》筈だったものを、生かしてしまった。その責任をこの男は、今なお抱え続けている。アルジュナが、過去の象徴ではなく|英霊《にんげん》として残り続けられる道を。……人にも星にも切り捨てられない為に、どちらにとっても有益な存在となる道を、示そうとしている。
「さて、どうだか。……彼方に戻ったら、速やかに纏わせてやってくれ」
男は俺の問いになど、答えなかった。
返答の代わりなのか、羽織っていた白と青の外套を解くと、俺に差し出す。
「白き匣たる普段の衣に比べれば、いささか心許ないが……お前の言葉をまともに受け取れる程度にはなるだろうよ」
……なんだ。この男、きっちり策も用意していたんじゃないか。最初からそれを寄越してくれれば、あんなに怖気づくこともなかったのだが。
否、言われなければ俺はきっと、気付かないままだったに違いない。知らずに止めるのと知って止めるのとでは、責務の重さは大きく異なるのだから。
「悪であることを受け入れてしまった『私』に、『俺』の声は届かん。けれどお前は違う。その為に『俺』は『私』を纏い、お前を選んで送り出したのだ」
……ほんとうは。
アルジュナが望むなら、血も肉も魂さえも、全部くれてやったって良かったのだ。
生涯に亘って太源の意思を抑え続けたお前が、カルデアに来て初めて心の底から自分の為だけの幸福を欲することが出来たというのなら。
全部差し出してやっても、構わなかった。
(……アルジュナ、ごめんな)
けれど他ならぬアルジュナが、それを望んでいないなら。
どれだけ苦しくとも、|隣人《だれか》と共にある為に衝動を堪え続けているのなら。
共に歩むことを決めた身としては、止めてやるのが筋だ。
「これは私が決めた神命。お前にとっての、天の定め。元よりお前は、背くつもりなどないだろう? ―――お前が『|英雄《にんげん》・アルジュナ』を護れ」
(お前にこそ、自由になって欲しいと願った癖に)
アルジュナは、英雄でなければならない。
誰に言われたことでもなく、アルジュナ自身がそう在りたいと強く想っているなら。
枷を失い、道を踏み外しかけているなら、手を引いて連れ戻さなくてはならない。
太源に根差すその全ての|責任《罪》と|代償《罰》は、俺が最期まで背負う。
「結局俺はお前を―――自由にさせてはやれないんだな」
男の穏やかな笑みと共に差し出された衣を、俺は確と握りしめた。
アルジュナと同じ貌をした男の体が、緩やかに闇へ溶けていく。
今、この瞬間。
俺は俺という存在を形成してきた|全て《過去》を裏切って、ただ一人を選ぶことに決めた。
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