帝釈天の衣
全身真っ黒な影の如き小男に促され、渋々とカップを片付けて休憩所を後にする。時刻はもう夜の11時。そろそろ消灯だ。……閻魔亭から帰ってきて早々、色んなことが起こり過ぎて気分は地の底まで落ち込んでいた。
俺たちが閻魔亭に向かってからしばらくして管制室が俺とアルジュナ双方の霊基グラフの異常を察知したものの、通信は途絶したまま。異界への出入口になっているシミュレーターの強制終了も出来ない。そうこうしているうちに俺の霊基証明は断続的にロストし始め、アルジュナの霊基グラフも金の枠がどす黒く変色していく始末。しばらくして何故かどちらも異常は収まったらしいが、結局俺たちが戻ってくるまで通信は一切繋がらなかったのだという。……そりゃ皆心配して声を掛けてくるわけだ。
実はあの後も血の衝動へ抵抗する為に常時|対魔力《クラススキル》に無理矢理魔力を回し続けていた影響でアルジュナが魔力切れを起こして倒れ、そういうことは隠すな、言えと説教しながら世話をしていたのだ。……おかげでカルデアに連絡するということすらすっかり忘れていた。どうにか持ち直してから帰還したのだが、そんなことになっていたならアルジュナの静養を待たずに戻るべきだったのかもしれない。
当然、そんな異常が観測されていたからには報告の義務がある。アルジュナはメディカルルームで即バイタルチェック、俺はマスター立ち合いの元、ノウムカルデアの責任者に報告した訳だが……まぁその判断自体は妥当と言わざるを得ないものだった。|人類悪《ビースト》変生の可能性有と|経営顧問《ホームズ》、|技術顧問《ダ・ヴィンチ》が揃って霊基凍結処分を奨励、俺とマスターは断固として反対した訳だ。幸いなことにカルデアの最高責任者であるゴルドルフ所長が「持ち直したのであれば経過観察でも問題ないのではないか」とアルジュナの処分に慎重な意見をくれたおかげで、結局霊基凍結は見送りとなった。てっきりあの臆病そうな所長ならアルジュナの処分に是を唱えると思っていたのだが……案外、情には厚いらしい。俺が言うのもなんだが、マスターといいあの所長といい……魔術師にはあまり向いていないのだろう。
考えたくないことが多過ぎる。しかし俺たちを心配してくれた仲間達からの忠告はどれも、遅かれ早かれぶつかる問題だ。改めて思い知らされた、選んだ責任とその重さ。結局俺は、どんなに正しく生きようとしたって、どこかで決壊してしまう運命なのだろう。どこかで手前を折り曲げて、自分以外の何かの為に怒り、壊れたまま突き進んでしまう。この|平行世界《カルデア》で選んだ否定という俺の起源が、アルジュナではなく自分自身に向いてしまっただけだ。
それでも確かなのは、俺が俺として選んだ道は決して間違いではなく、後悔もないということだった。えらく時間のかかっていたアルジュナの精密検査もいい加減終わっている頃だろうと気を持ち直し、顔を上げる。
ふと、廊下の先に人影を見た。
人、と呼ぶには些か形が変わり過ぎてしまったその姿。
淡い燐光を放つそれは、出会った時よりずっと短くなった角。
くすんだ灰色も今や鮮やかな青色となった、長い尾。
白く長かったぼさぼさの髪も艶やかな黒となり、相変わらずぼさぼさではあるが角同様に短くなってさっぱりしている。あの短い旅で何度も脳裏に過った、|宙ぶらりん《どっちつかず》の姿。……ああ、あいつは確かに、鬼の神だったのだろう。血に従って人を離れ、異形となってしまったその男は、腕に猿を抱いていた。
「……アシュヴァッターマン、此方でしたか」
|魂の灯火《ひかり》の宿る瞳が、此方を向く。猿がその腕を離れ、俺の元へと駆け寄ってくる。
「|その子《アルジュナ》が、貴方を探していたようです」
「……ああ。あいつ、バイタルチェックもう終わってたのか」
「はい。マイルームに戻っている頃かと」
あのさみしがりめ、黒い小男の言う通りだった。懐いた魔猿を閻魔亭から連れ帰るなり、早速使い魔のように扱っているらしい。誰か教えてくれたなら良かったろうに、俺の疲労っぷりを見たのか気を遣われてしまったようだ。
猿は俺の足元までくると一目散に頭の上まで駆け上がり、文句でも言うかのようにぐいぐいと耳を引っ張ってくる。
「いてて、……悪かった、今行くって」
ずいぶん心配性な世話焼きの猿だ。勝手にアルジュナの後をついてきたこの猿、多分|あ《・》|い《・》|つ《・》の使い魔か、本人が化けてでもいるのではないか。案外、心配する程でもないのかもしれない。猿に耳を引っ張られている間抜けな俺を見た妖怪神モドキは、くすくすと笑っていた。コイツもずいぶん、人間らしくなったものだ。それでももう、人の姿に戻ることはないのだろうが。
「なぁ」
あの散々な旅行から戻って、ずっと考えていたことがある。
俺を視る無垢な黒い眼は、この問いに何を思うのだろうと。
「|そ《・》|っ《・》|ち《・》|の《・》|俺《・》は、美味かったかよ?」
所詮は俺じゃない俺の話だ。実感など皆無なのだから、怒りや恨みつらみなど湧く筈もない。ただ、あちらのアルジュナの腹は満たされたのか。満足、できたのか。それをずっと、考えていた。
吐き出した言葉に、神モドキはきょとんとした顔のまま目を瞬かせていた。記憶を探るように、視線を頭上に巡らせる。
「どうでしょう。味の記憶はもう、残っていないのですが……」
「ですが、何だよ」
「―――貴方は、美味しそうだと思います」
がっくりと肩を落とした。
ああ、そこはやっぱり、変わらないらしい。結局俺は、こいつらの飯なわけだ。
「……悪いが、テメェにもあいつにも俺は喰わせてやれねぇからな」
「その必要はありません。それが発端の『悪』であったと、今の私は正常に認識出来ています。……やはり、真なる|私《アルジュナ》は強い。彼のような人間を、真の英雄と呼ぶのでしょう」
「テメェは……その姿になったこと、後悔してんのか?」
「まさか。この姿こそは、私の選んだ道。後悔をしていたのなら、私はとうの昔に完全な神となっています。この人理だって、跡形もなく消え去っていた筈。……それに」
記憶こそ朧気でも、一応こいつの中にはそっちの俺や身内をまるまる喰い尽くしたことがしっかり記録されているようだった。それなら猶更後悔なんかされてしまっては、溜まったものじゃない。自らが選び取った道でそうなったなら、コイツの自ら負った責任だ。
「……それに?」
俺を喰ったことが、覚悟の上だったことが分かっただけで……良かったのだが。
「私の中にはもう、|私《・》|だ《・》|け《・》|貴《・》|方《・》がいる。貴方はあちらのアルジュナの為に誂えられた|供物《モノ》。私の為に用意された|供物《モノ》ではありません。欲張りはいけませんからね、これ以上は不要でしょう。……どうか真なる|私《アルジュナ》を、よろしく」
宙ぶらりんの男は、雷花のようにうつくしい笑みをこぼす。
少年のような無邪気さで、おそろしいことを宣ったのだった。
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