短文置き場



20 一年の計は元旦にあり(夫婦話)

「やっと終わった……」
もうすっかり暗くなった夜道を手を繋ぎ進む。かろうじて月はまだ天辺までは登り切っていない頃合いだ。
はあ、と深く息を吐き出すと、隣のカグヤからはくすくすと笑い声。
「お疲れ様です。里長」
揶揄うような、茶化すような。そんな声色をしているが、含まれるいたわりは本物だ。
なので大人しく受け取って頷く。
「カグヤも、手伝いありがとう」
「いえ。これくらいはさせていただかないと」
そうは言っても、ずいぶんと働いてもらったのだ。
休んでいいと言ったのに竜神社だけでなく各社の煤払いには精力的に参加しているし、年末に向けて多忙となった里長業についても手伝ってもらっている。
極めつけは先ほど抜けてきた新年の宴席だろう。
新年を迎えた今日は誰もが神々にご挨拶がしたいだろうと、日中こそそれぞれの社で大人しくしていただいているが、元来祭り好きな方々がほとんどだ。
もういっそ神様一か所に集めて新春のご挨拶を一気に終わらせられるようにしようとか言い出すのを宥めるのも、毎年の恒例行事となりつつある。
妥協として日が沈んでから集まっての宴席を設けているのだが、まだ数回だというのにすでに定着してしまっている気がする。
というわけで、そちらの準備に関してもカグヤにはとても助けられたのは事実である。
ずいぶんと頼りすぎてしまったので、もっと休ませねばならない。
けれどもカグヤはそんなスバルの考えなど知るはずもないのだ。
「……でも、抜けてきてよかったのですか?」
ほんのりと赤く頬を染めて小首を傾げるその様子は、笑顔だ。
スバルのように酒を飲んでいるわけでもないので、ただ宴席での盛り上がりが楽しかっただけだろう。あと、春の里であろうと冬の最中は少し寒い影響もあるかもしれない。
それでも並んで握る手はぬくぬくと暖かだ。
「いいんだよ。長居しないといけないわけでもないし。それに今年はさっさと帰りたい」
確かに以前までは夜を明かすまで捕まっていたのだが、別にそこまで付き合う必要はないのだ。
もちろん楽しい席だとは思っている。けれどもスバルの中にも優先順位というものは存在するのである。
なので本音を零せば嬉しさと申し訳なさの入り乱れた顔がカグヤに浮かび、そっと道の先へと視線がずれていく。
一緒にいられる喜びと、途中で離席させた申し訳なさ、といったところだろうか。
……そんな顔をさせたいわけじゃないのにな。
意識を向けてくれるようにと握る手に力を入れればするりと向けられる目線にただ笑いかけた。
「せっかく新しい年なんだから、今年からは家にいる時間を増やしたいなっていう目標を立てたんだけど、邪魔?」
少々意地が悪い言い方をした。もちろんわざとだ。
けれどもカグヤは少し間をおいて、ふわりと綻ぶように笑う。
「いいえ。嬉しいです」
「ならよかった。こうして二人でのんびり出来る時間も減るだろうから今のうち堪能しとかないと」
「そうですね。来年の今頃は、三人、です」
ふふ、と軽やかな笑い声を上げながら、空いた手がそっと腹を撫でているのを静かに見下ろす。
まだ目立つものではないのだが、それでも何かしら思うところはあるのだろう。
すっかりと浮かれるカグヤは知らない穏やかさと柔らかさを伴う笑顔をしていて、きっとこれが母親の顔なのだろうなあなんて思いながら心を占める幸福感を噛みしめた。

(年越しの際の飲みについては自己責任。里長は関与しないと通達済み。)


19 そして未然に防がれる(夫婦話)

「黒竜の巫女、ですか」
「そうそう。なんだか怪しい一団に知らないかと聞かれたって報告が何件か上がってきた」
夕食の席でふいにそんなことを言われ、うーんとカグヤは一人考える。
もちろん、それが自分に向けられているのはよく理解している。が、何故今更。
黒竜と契約をしていたのは過去のこと。諸々あったが、今は黒竜との関係性は皆無である。
なんなら今はもう白竜の乗り手の妻なのだが。
「何があるかわからないから念のため気を付けておいて」
「わかりました。ですがご心配には及びません。
これは、私がまいた種です。何か起こった場合は私がけじめをつけます」
そう言ってしまえば、スバルとモコロンより窘めるような目を向けられてしまい、つい苦笑する。
まったく過保護なのだから。
けれどもこればかりは譲れない。こればかりはカグヤが負うべきものであり、スバルたちと分け合う気はない。
「無理だと思ったらちゃんと相談します」
自分の今の限界だって把握しているつもりだ。
日々の鍛錬を怠ってはいないが、それでも目の前にいるスバルにはいつの間にやら引き離され、この地には実力のある猛き方々が多くおられてカグヤにはその片鱗にも届かぬこともよく理解している。
身の丈に見合う程度であればお相手はするけれど、身の危険を感じるようであれば優先的に逃げるつもりだ。
最低限それくらいは出来る、はず。きっと。
それに何より、これはカグヤの咎。罪には罰を。自覚しているからこそ、他の誰でもなくカグヤが解決すべき事柄だ。
その決意が見えてしまい、はあ、とスバルはため息をつくしかない。
そしてモコロンだって同じ気持ちである。
「無理はしないでよ」
「そうだぞ、もし何かあったらオイラに祈れ」
カグヤの祈りは神に届けるための巫女の声。それは神の眷属であるモコロンにもよく届く。
正直、契約してない状態のスバルよりもよく届く。それは他の神を見ればよくわかることだ。
「モコロンに祈り、ですか」
「なんたってオイラは神の眷属だからな!
祈りの声ならちゃーんと届くぞ」
理由は教えない。変な自覚をしてもらっても困る。
けれどそれでもカグヤには十分だったらしく、軽やかな笑い声がした。
「わかりました。何かあったらお願いします」
「……オレは?」
響く憮然の声に目を向ければ、その声色と同じ顔をしたスバルがいる。
それに思わずモコロンと顔を見合わせたカグヤが楽し気に顔をほころばせた。
「もちろん頼りにしています。旦那様」
そう告げる声は甘やかで柔らかく、にじみ出るのは全幅の信頼だ。
これ以上ないと思えるほどの誉め言葉にあっという間に機嫌が直るのだからまったく単純な相棒だとひっそり独り言ちるばかりである。
けれどきっともうその腹の中では万難を排するために算段を立てているところだろう。なんせ今回の危機の渦中にいるのはカグヤなのだから。
……まあ、警戒はしておいて損はない。アイツが復活することはないだろうが、可能性は確実につぶしてもらいたいのでモコロンとしても助かるところだ。
普段はあんなにも楽観的だというのに、カグヤのこととなると相変わらず容赦と余裕がない。なんと立派な大地の舞手だろうか。
おかげで今日もアズマは平和ではあるのでありがたく甘受しておくけれど。
目の前に繰り広げられる幸せそうな夫婦の姿に、とりあえず神の眷属として雑に寿いでおくこととする。
このままアズマとカグヤが平穏でありますよーに。


18 幕引きを望む(うめふふむころには5と6の間の話)
そっと手を返して空を掬う。そのままひらりはらりと弄ばれる花弁のように揺らめかせ、やがては蝶のように飛び立っていく。
摺り足の足先は若草を撫で踏みしめ、さわさわと風が駆け抜けるような音をもたらした。
春の里のむせかえるような花の香ではなく、里の外に広がる芽生えたばかりの新緑の空気が肺を満たすと自分が自然の一部として存在しているような気がしてくるのは、何故だろう。
そんな不思議な心持で一差し終えるとぱちぱちと拍手が聞こえて思わずため息をつく。
「……簡単な手踊りだというのに、大げさです」
思わず口にしてしまった。
だって仕方ないではないか。久方ぶりに舞うようになったこの体は、あまりにも動きがぎこちない。
こうして拍手をするスバルだって、それくらいはわかっているはずだ。
だというのに、賞賛を隠そうともしないのだから。
「大げさじゃないよ。すごく見事だった」
当然のようにそこに嘘などない。まったく困ったことである。
けれど何より困るのは、その眼差しに含まれている熱量だ。
どうしてこれを理解してしまったのだろう。知らないままならきっと幸せだった。
そんなものを向けられてしまうと、カグヤの中で隠そうとしている同種の熱が容易く揺らめいてしまうばかりだ。
もちろん何度も消そうと、忘れてしまおうと、繰り返し否定をして拒んで自分に言い聞かせてきたのだ。
スバルにこれ以上を求めてはならない。カグヤでは見合うものを与えられない。今以上を望むのはあまりにも烏滸がましく浅ましいことだ。そう、何度も。
けれどもこうして、会って、話して、笑顔を向けられてしまえば一瞬で覚悟は崩され、熱は湧き上がり側にいることを喜ぶ自分がいる。まったくもってままならない。
……よくもまあスバルはこんなものをずっと隠し続けてきたものだ。いっそ感心すらしてしまう。
すっかりと呆れてしまいながらつい浮かべてしまったしかめ面をどうにか戻そうと苦戦する。
どうにも情けない自分と、余計な感情を見せるものかという意地で顔に力が入っているのは自覚済みだ。
本当ならいろはの手伝いで培われた笑顔を取り繕えたら一番いいのだろうけれど、何故だか今は上手くできそうにない。
仕方がないので静かに表情を消し軽く頭を下げる。
「お見苦しいものをお見せしました」
わざとらしく言ってやれば浮かぶのは苦笑だ。
……こうやって、笑えたらいいのに。そう思ったが、飲み込んだ。
「見苦しいとは全然思ってない。それにオレが舞ってほしいと無理を言ったんだから」
「ですが、期待に添えるような出来では……」
「舞うカグヤを見られた時点で期待以上だ」
そんな嬉しそうに言われても、困る。
きっとまた舞うようになったカグヤを一番喜んでいるのは、スバルだ。
カグヤ自身、安堵こそあれ、スバルほどには喜んでいない。そんな自覚はある。
それほどまでに心配をかけたということだろう。あまりにも申し訳ない。
同時に、こうして喜んでもらえたことはじんわりと心にぬくもりをもたらすばかり。スバルが喜ぶことを出来ている。少しでももらったものを返せている。それだけで十分すぎるほどに嬉しい。
もう満足なのだ。これ以上はいらない。必要ない。求めてしまえば今のこのゆるやかな幸福は壊れてしまうだろうから。暗示をかけるようにまた、頭の中で繰り返す。
もちろん、好きだと口走ってしまえばカグヤは楽になるだろう。それはわかっている。
けれどそんな過ぎた幸せはスバルへの申し訳なさでいつかは苦しさに変わる。そちらのほうが、耐えられない。
もういっそ、逃げてしまおうか。全部捨てて。
そう思ったのも一度ではない。
けれど今のカグヤにはずいぶんと大切なものが増えすぎてしまった。与えてもらった役目も役割も好意も受け入れて生きていく覚悟をもう済ませてしまった。
スバルだけならきっと無理矢理振り払えただろうに、それだけではなくなってしまったのだ。
だから全部飲み込んだ。大切にしてくれる人たちに報いるためにと。そのおかげなのか、今度はちゃんと笑うことができた。
「ほら、そろそろ休憩は終わりですよ。スバル」
「……そうだった」
カグヤの見回りに勝手についてきたのはスバルだ。
まったく余計なことを、なんて思ってしまったカグヤは悪くないはずだと自分に言い訳をしながら移動を促す。
「ねえカグヤ」
「なんですか?」
「また見回りに付き合ってもいい?」
相変わらずの柔らかな笑顔を浮かべる様子にまたしても顔をしかめてしまった。
思いを向けられている今だから、わかっている。
スバルはただ、カグヤと一緒にいたいだけなのだ。だってそれは、カグヤも同じだ。
けれども当然そんなもの見せられるわけもなく、ふいとそっぽを向く。
「……いやです」
「なんで!?」
「人の休憩時間を潰しておいてそれを言いますか?」
「あ」
本来なら舞う予定などなかったのだ。それをスバルが言うから。
そんなつもりで言ってやれば居心地悪そうに目線が泳ぐ。
もちろん、一人での見回りの時であれば休憩時間に修練として舞うことはある。勘を取り戻すために。
けれどそれをスバルが知るはずもないだろうから、せいぜい後悔をすればいいのだ。
「ならもう少し、今度こそ休む?」
「スバル?」
「……ごめん」
あっけなく引き下がるのを見ながら、スバルを置いて勝手に歩き出す。
困った人だ。内心で息をつく。
正しく真っすぐで誠実。そんな兄のような人がただ優しくカグヤの手を引いてくれた。
どんなに泣いて迷惑をかけようと困らせようと立ち直るために手を尽くしてくれた人を諦められるのなら、きっとこんなに苦しくはないのだろう。
悲しいことにカグヤ自身が一番よくわかっているのだ。すでにその手を取ってしまった以上は引き返せないと。今さら振りほどくことなど出来ないのだと。
だから、早くスバルのほうから手を離して諦めてはくれないだろうか。
それまでカグヤはどうにか手のかかる妹のままでいてあげるから。
隣に並んできたその人をちらりと見やり、どうにもならないことを心の内でただ祈った。


17 惑いの森に分け入る日にて
木の根本に腰を下ろし、背を預ける。
漏れた息は自分で思っているよりもずっと重く、自覚してしまうと疲労感が一気にずしりとのしかかってきた。
カグヤ自身特に健脚ではないという自覚はある。
けれどもここまで体力が続かないとは思っていなかった。慣れぬ森歩きは想定以上に苦しい。
見上げればうっそうと茂る木々の葉が天井となっていて、月も星も何も見えない。
昼日中であればきっと木漏れ日が星の代わりになるのだろうけれど、こんな暗い中では薄く葉の影が見える程度。
まったく知らぬ深い森へ分け入り進むというのは、やはり無謀でしかない。
いや、森に入るつもりはまったくなかったのだ。ひとまず人のいる場所へ進もうと思ったはずなのに、何故だか森の中に入ってしまっただけで。
ままならぬ現状に再び重い息を吐き出し、ふと思う。
……ああ、そうだ。舞の修練を。
今日はずっと歩き続けていて何もしていない。少しでも休めば動きなどすぐに忘れてしまうだろう。
だというのに、すっかり疲れ切ったカグヤの身体は身を預ける木と同化してしまったかのように動かせそうにない。
今日だけは休んでも。
一瞬そんな考えが浮かび、振り切る。一日だけでも、はよくない。そのままずるずると忘れてしまうばかりだ。
けれどすっかり動かない身体と襲い来る睡魔。
うとうとと意識が途切れかけ、眠りに落ちそうになった瞬間、グォウ!と響く獣の咆哮にびくりと身体を震わせ目を覚ました。
ばくばくと驚きと緊張に心臓が跳ねる。頭いっぱいに警告のように響き渡ってうるさい。
何をしているのだ。こんな森の中で。疲れたからといって、これではあまりにも不注意すぎる。
幸い声は遠く、危機はまだ薄い。
けれどここは今朝まで過ごしていた村の中とはまったく違う。
人が少なかったのは確かだが無人ではなく、何か起こっても誰かが駆けつけてくるようなそんな恵まれた環境は、もうカグヤの元にはないのだ。
これは死出の旅だと思え。
頭で考えていたことを改めて自分に言い聞かせ、刻み込む。
その生を以て為せることを為さねばならない。
はー、と深く息を吐く。肺の空気を全部出しきるように。
ここからは、一人なのだ。
うつむいていた顔を上げ、改めて周囲を見る。
色濃く漂う生き物の気配。
けれど生き物だからといって全てと心を通わせられるわけではなく、最低限身を守る術は身に着けていようと獣はどうしたって恐ろしい。
夜の森を知らぬわけではないが、現状はカグヤの中にある記憶とはどれも一致しない。
どの記憶にも里の人間は存在するからだ。とりわけスバルは必ずに。
そのせいでどうにも緊張感の薄い記憶となっているばかりに、気を抜いてしまったのかもしれない。
とはいえ、夜の森を先に知る機会があったのはよかった。知識があるだけで心持は大きく違う。
改めての感謝をしつつ、疲れで鈍っていた自分を叱咤する。
もちろん休息は大切だ。優先すべきものだ。
けれどもそのためには安全を損ねてはならない。
そう考え探る周囲に危険は多分ない。少なくとも、カグヤの観測できる範囲には。
そこでようやく気を抜いて、膝を抱えて小さくなる。
広い森の中でただ座り込むカグヤはあまりにもちっぽけでしかなく。
独りぼっちを、知らない。それを突きつけられている気分だ。
一人寝をするようになって初めての嵐で怯えたことをふと思い出す。
荒れる風雨が屋根を叩きつけ家を揺らし、すっかり怯え切って泣いたあの夜宥めてくれたのは誰だったか。
撫でてくれた手は思い出せるのに、誰だったのかは思い出せない。
それでも、そうして撫でてくれる誰かは確かにいたのだ。幼い頃は。
けれども一人また一人と、いなくなった。
父のように慕った人も、姉のように懐いた人も。
そしてカグヤも、同じように旅に出た。たった一人で。
何故だかずっとスバルが一緒だと思っていたのに、そんなことはなかった。
それが寂しく、同時にスバルの存在に助けられ頼っていたのだと思い知らされる。
そっと、髪に触れると頭にかかる慣れぬ重さ。
外して頬に寄せれば、まだ若い梅の香りに心を慰められる。
ふいに泣きそうになって目を閉じた。
泣くものか。スバルに会うその日まで。
別れて間もないだけあって、瞼の裏に浮かんだ笑顔はあまりにも鮮明で、名を呼ぶ声はあっさりと頭の中で響きわたる。
それがもう得られないという実感はまだ薄くはあるけれど、どうしようもない事実だ。
それでも支えにするくらいはいいではないかと意地を張る。
使命を果たして、またあの厳しくも暖かい環境に、あの村に戻って。
スバルが戻れば当初の予定通り祝言を上げるのもいいだろう。戻らなければ待つなり探しに出るなりすればいいだろう。なんなら一人穏やかに過ごしても。
それを願うくらいは、いいではないか。
だって、カグヤは、使命を為すのだから。
為してしまえば誰も何も言わない。救われたアズマで好きにさせてもらうのだ。
だから。だから。
「……大丈夫。ちゃんと、できます」
一人でも。
だって、頭を撫でてくれる人も今落ちた涙をぬぐってくれる人も、もうここにはいないのだから。


16 神を知らない子供たち(子供時代)

今日は散々な日だ。
朝も早くから狩りだと連れ出され、弓を引けば弦が切れて頬に傷をつけてしまい、挙句の果てには管理が甘いと散々怒られた。もちろん成果など期待してはならない。
べそをかきながらようやく帰った村はすっかり夕暮れ。赤い光が泣いた目に染みる。
今日はもうさっさと休めと言われたのは多分優しさなのだろうけど今度は悔しくて泣きたくなりながら歩いていたら、知った姿を見た。
ぼんやりとどこか遠くを見ながらちょこんと座る木の上。ぶらぶらと足を揺らしているカグヤがいる。
……何してるんだ。
そう思いながら目線の先へと向けるが、特に何かあるわけでもなさそうな。
そもそも、いつもなら修練の時間じゃないのか。まだ明るいし。
疑問に思いながらスバルが近づけば、気配に気づいたのか、カグヤの目が向けられた。
「あにさま!」
ぱっと輝く笑顔を浮かべ、身軽な動きで駆け寄ってきたカグヤはスバルの様子に、おや、と首を傾げる。
「ここ、どうしましたか?」
伸ばされた小さな手が頬に触れ、じくりとまだ響く痛みに顔をしかめた。
咄嗟の判断で大怪我には至らなかったし、肉を削がれるのではないかという痛みではなかった。
それでもやっぱり、怪我は痛い。
ごめんなさい、と慌てた声と、離れる指先を見送りながら口を開けばくすぶる悔しさを隠しきれない声が出た。
「弦が切れてあたった……」
「……え、えっと、いたいのいたいのとんでけー」
スバル以上に痛そうな顔をしてそんなことを言い出したカグヤに、つい笑いが漏れる。
ぱーっと両手を上げて飛ばそうとしてくれるあたり、かわいらしい妹分である。
傷は痛いけど、心の痛みは飛んで行った気がする。
「うん、ありがとう。それで、カグヤは何をしていたの?」
「御山を見てました」
あっち、と指さすのは佇む山々の中でもひときわ大きな山。フシミ山だ。
今は夕焼けに染められ赤いけれど、いつだって真っ白で、特別な山だと嫌というほどに教えられている場所。
別にいつ見ても同じだろうに、どうしてわざわざ見ていたのか。
そんな気持ちが通じたのか、少しばかりカグヤが眉間に皺を寄せ難しい顔をする。
「オババに言われました。奉納するときはしっかりとその神への尊敬と敬意を込めなさいって。
……いつかカグヤはあの御山に奉納をします。でも、あの御山の神様をカグヤは知りません。
だから、見えないかなって、見てました」
「見えた?」
聞くと、ううん、と首が横に振られる。当たり前だ、スバルだって見たことがない。
本当にあの御山にいるのかだって、わからないのに。
「ねえあにさま、かみさまって、どんなですか?」
「……ええと」
そんなの言われても、困る。
大人たちはみんな、神様が、なんて言う。でも、細かいことは教えてくれないのだ。
……あ、いや、一度だけ、本物の神様のことを聞いたことがある。
「神様がどんなのかは知らない。オレも見たことないし。
でも、オババが子供だったときには神様が住んでる場所もあったって、聞いたことがある」
どんな話だったかは、覚えてないけど。
とはいえ、ちゃんと神様がいるということにカグヤは驚きつつも目をきらきらと輝かせる。
言葉はなくても考えていることなど手に取るように簡単にわかってしまってつい笑った。
「会いたいの?」
「はい!」
「なら、大きくなったら会いに行こう」
「あにさまも一緒に?」
「もちろん」
なんたってカグヤを守るのがお役目だ。行かないわけにはいかないだろう。
そんなつもりで頷けば、心底嬉しそうにカグヤの顔が緩んでいく。
「なら、そのときちゃんと奉納できるように、励みます!」
「オレも、カグヤを守れるように強くなるよ」
えへへと二人で笑い合い、うん、と小さくスバルは頷く。
優秀なカグヤだって悩んだりするのだ。スバルが悩むのは当たり前。
今日は散々な一日だったけど、いつかカグヤが神様に会えるように、また明日からがんばろう。
楽しみですとただ笑う妹分のため、立派な兄貴分はしっかりと気合を入れなおした。


powered by 小説執筆ツール「arei」

941 回読まれています