君知るや南の国






人のさんざめきが聞こえる出発ゲート前には、別れの挨拶をする人間でごった返していた。
抱擁にキスに握手。
そしてその横を素知らぬ顔で通り過ぎる清掃中の職員。
トイレへ行ってきます、と言う譲介の荷物を預かっている間、土産を義理買いすべき当てもなく、短い暇を持て余して周囲を見渡したTETSUは、これまでの人生、ドラマや映画で数限りなく見て来た感動的な光景が、空港の中では日常のひとコマに過ぎないと気付く。

お待たせしました、と戻って来た譲介は、まだTETSUの預けたサングラスを掛けていた。

三日間使っていたレンタカーを返し、最後の買い物を終え、土産物を詰めて鍵を掛けた荷物は預けた。
パスポートとチケットは手元にあるな、と譲介に確認して、そういえば、とTETSUは思う。
「譲介、おめぇ伊達眼鏡ならちゃんと手元にあんだろうが。そろそろこれ返せ。」
TETSUはひょい、と手を伸ばして、譲介の顔を覆っているサングラスを取った。
「いやです!」と言うか言わないかのところで譲介の手が伸びてきて、サングラスをひったくられてしまった。
「やっぱりもう一泊しましょう!」
帰りたくないです、チケット振替えちゃいましょう、TETSUさん明日も明後日も暇ですよね。
同じ飛行機で隣の席のチケットを取った男に駄々をこねられ、ぎゅうぎゅうと抱きすくめられた。
TETSUは、子ども返りをしている譲介に呆れながら、腕を視線の先に掲げて時計の文字盤を見た。
まあ余裕はある。
あと数分くらいはこのままでいいが、空港はそれなりに空調が利いてると言っても、大の男に密着されればそれなりに暑苦しい。
(………十分楽しんでたように見えたがな。)
パイナップル入りアッサムラクサ、真昼の海でビーチチェアに寝そべりながら傘付きの飲み物に付き合い、クエタラムやらクエウビといった、芋で出来た羊羹めいた菓子を食った。
写真も撮った。
譲介は器用に自撮りもしたが、TETSUは事前に買ったインスタントカメラをポケットに忍ばせておいて、譲介と肩を組んだ浮かれた写真を、およそ見ず知らずの他人に撮ってもらいもした。
仕事以外で写真を撮ったのは、十五年か、あるいはおおよそ二十年ぶりくらいだろうか。
ホテルでパリッとメイクされたベッドで寝て、外にメシを食いに行き、日向のなかで景色を眺める。
TETSUにとっての休暇は、それでもう十分だった。
ワーカホリックと言われようが、三泊四日でもロングバケーションだ。
「おい譲介。そんなに楽しかったか、この休暇は。」
TETSUは、伸ばした腕で三十年下の男の背中をなだめるように叩くと、譲介は顔を上げ、「はい。」と返事をした。
旅の間に気に入ってしまったのか、ティアドロップ型の古びたサングラスをまだ顔に掛けている。
TETSUが若かった三十年前。
男という男が格好を付けるために選んでいたそのフレームは、まだ若い譲介の顔を、奇妙に幼く見せる。
それでも、言うだけ言ってしまって気が済んだのか、TETSUを見つめる顔は、泣き言を言う子どもから、人に見られることを意識した『和久井譲介』の顔になっていた。
「じゃあ帰るぞ。」と。高校生だった譲介に諭すように、TETSUは言った。
旅先の食事はもう十分だ、と言うと、譲介は目を瞬いた。
「おめぇが戻りたくなかろうが、戻った成田がどれだけ寒かろうが、オレはもう行く。……おめぇはさっさと戻ってオレといつものメシを食いてえとか思わねえのか?」
まあ、いつものメシと言っても、譲介とTETSUの間に、白米と味噌汁のような定番のメニューがあるわけでもなかった。パンかレンチンのパック飯に、その日の気分の卵料理が一品の時もあれば、朝からカレーの日もある。譲介が気に入ってる中華料理屋の海老炒飯に五目蕎麦のテイクアウト。
一緒に来い、と言うと、もう少し粘るだろうかと思った譲介は、意外なことに、はい、と素直に返事をした。
「TETSUさんと一緒に帰ります。」と生真面目な顔をしているが、回した腕はそのままだ。
「じゃあそろそろ離せ。」
「うーーーー。」
譲介は渋々の体で腕を外した。
早めに宿を出たから、まだ時間はある。残った小銭でジュースでも買いに行くか、と誘うと、行きます、と言った。
現金なヤツだ。
カフェスペースでアイスコーヒーを頼んだ譲介と一緒に、スツールに座って同じものを飲む。
冷たいコーヒーの喉越しをこんな風に楽しめるのも今日限りのことだろう。
「大体、旅の終わりだっつっても、まだ移動に九時間かそこらあんだろうが。」
「あ、TETSUさん。帰りはちゃんと寝てくださいね。」と譲介は言う。
「……誰かさんが言うように明後日も暇だからな。精々起きてるさ。」
行きの機内で見ていた例の映画の二本目は、譲介には言っていないが、最後の五分を見損ねてしまったのだ。
「映画を見てるだけなら、僕と話してくださいよ。」とこちらを伺う譲介の顔を見ていると、初日に向かいのベッドから眺めた寝顔を思い出して、ふと笑みが浮かんだ。
「おめぇはそれで良いだろうが、オレは話してる間に寝ちまうかもしれんぞ。」
「そうなったらそうなったで、本でも読んでますよ。」
黄色の表紙のヘミングウェイか。
「まあ、このコーヒーが利きゃ、それなりに起きていられるかもな。」と伸びをすると、そろそろ行きましょうか、と譲介も笑った。やっと気が済んだらしい。
九時間後には、またいつもと同じ空の下だ。
(一日くらいなら、滞在を伸ばしても良かったか。)
早く行きましょう、と振り返った年下の男の晴れやかな顔を見つめたTETSUは、古びたキャリーケースの持ち手を掴んで、ふたたび歩き始めた。

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