君知るや南の国





海辺にほど近い場所にあるそのホテルは、威風堂々とした白壁の外観で来客を圧倒していた。
「本当にここか?」とハンドルを握ったまま尋ねると、「グーグルマップはそう言ってます。」と譲介はスマートフォン片手に澄まし顔でホテルの名を告げた。
壁面にでかでかと描かれたホテル名と、完全に一致している。
椰子の木の茂るそのロータリーに入って正面入口の前に車を停め、ドアマンにレンタカーの鍵を預ける。エントランスホールに入って辺りを見渡すと、大理石の床と高い天井、いつの時代からあったのかというシャンデリアに出迎えられて、TETSUは面食らった。
ロビーの調度品は今時のホテルにありそうな居心地の良さそうなソファだが、元の内装はイギリスの植民地支配の時代の空気が感じられる。
いくらだ、と隣の譲介に目で問うと、こちらを見上げた男は素知らぬ顔で、写真で見るよりずっとシックな雰囲気ですね、と呟いた。
シックねえ。
「クラシックの間違いじゃねえか?」
「新館よりも、こっちの方がバルコニーからの景色が良さそうだったので。オーシャンビュー、って単語、ちょっと気を惹かれますよね。」
これも女と遊んできた経験値ってやつか?
KEIを間に挟んだ、腐れ縁に近い男と別れてからのこの十数年、長い間腰が重くなっていた海外旅行は、譲介のひとことで、まるで八丈島のホテルへバカンスに行くくらいの気軽さで形になった。
映画に出てくるような流線形の受付カウンターにはお仕着せの制服を着た男女が立っていて、新しいゲストか、あるいはゲストの来客かとこちらを伺っている。
「コーヒーでも飲んで待っててください。うたた寝をする前にカフェインを飲むと、寝た後ですっきり起きられるそうですよ。」と譲介は笑って片手を上げた。
寝起きの頭が冴えて来たのか、暑さに音を上げていたさっきまでの様子とは違って、多少は『見られる』顔になっている。
初演の舞台の前日よりは、余程落ち着いている。
飛行機に乗る前の様子や荷物の小ささから、どことなく旅慣れしている様子は感じていたが、恐らく、その印象は誤ってはいないようだった。カウンターの男女に近づいて、今からチェックインをしたいが可能か、と伝える横顔は、必要以上に下手に出るでもなく、尊大でもない。
任せて大丈夫だな、と思うと気が抜けた。
年のせいか、めっきり徹夜に弱くなった。部屋に行くまでは持つだろう、とは思うが、ここで椅子に座ったが最後、起き上がれる気がしない。
キャリーを押し過ぎて床を滑らせないようにと気を付けながら譲介の隣に並ぶと、さっきまでの落ち着きはどこへやら妙に慌てたような顔で「大丈夫だから、もう少しラウンジにいてください。」と言ってこちらの背中を押した。
何だァ、と思って手元を見ると、譲介はサインと同行者名の記入をしているところだった。
同行者名の欄にはインクが滲む点がひとつあるきりで、まだ空欄だ。
まあ、こいつには改めて名乗ったことはないが、付き合いは長い。留守を預かる間に目にした郵便受けの中身や、状差しに入っていた公共料金の通知ででも、一度は目にしたことはあるだろうと思って気にも留めていなかったが、こういう時には、とっさに思い出せないもんか。
考えてみりゃ、十数年前には本人の許可も取らず、雑誌などの媒体で好き勝手に掲載されていた本名だが、最近は個人情報がどうのこうのという話で、事務所のホームページにすら掲載されなくなった。
「おめぇの好きにしろ。誰にも分かりゃしねえ。」と譲介の耳元に囁く。
旅館の宿帳と同じで、適当に埋めといてもなんとかなるだろ、という気分だった。
手持ち無沙汰の顔つきで受付にいた従業員に、エレベーターの場所を聞いてみると、館内を案内する小さなパンフレットを差し出して説明を始めてしまった。
『今日はパートナーと休暇ですか?』と笑顔で問われ、『まあそんなようなもんだ。』と答える。
ホリデイといえばホリデイで、仕事のパートナーとも言えなくはないが、少なくともこいつとの付き合いが、もうとっくに仕事の範疇を越えてることは確かだ。
「TETSUさん、行きましょう。」と言われて振り向くと、部屋のカードキーを手にした譲介が怒ったような顔をして立っていた。表面的には笑っているように見えるが、目が笑っていない。
日焼けでもしちまったのか、妙に耳も赤い。
氷水でも貰っていくか、と聞いてキャップの下の耳に手を伸ばすと「そういうのはいいです。」と一言、カードキーをシャツのポケットに入れた譲介に、腕を取られて引っ張られる。
笑みを浮かべた男女の従業員がこちらを見て、「ごゆっくり。」と流暢な日本語で見送っている。
コーヒーはどうなった、と思ったが、まあ、ルームサービスがあるだろう。それより今はベッドだ。
エレベーター前で並んで待っていると譲介のつむじが見えた。ガキだガキだと思っちゃいたが、年を食ったのはオレばかりってこともない。
まずまず頼れるくらいにはなったってことか。
「譲介。」
「何ですか?」
「オレが寝てる間に、夕飯何食うか考えとけよ。」と言うと、年下の男は「夕陽が見える時間までにちゃんと起きてくださいね。」と言ってため息を吐いた。





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