君知るや南の国





譲介がTETSUと泊まるために選んだ部屋には、ふたつのベッドと、海を遠く見晴らすバルコニー、そして、並んで座れるソファがあった。


カードキーで中に入ると、まず目に入ったのは、バルコニーへと続くキッチン付きの空間だった。
窓が明け放しになっていて、部屋に海風が入って来ている。
部屋のエアコンが利いているのか、屋外やレンタカーの中ほどに暑いという感じはしなかった。
テーブルの上の花瓶には、ベージュとピンクを合わせたような淡い色のカーネーションと鮮やかな青い薊のような花。
狭くはないけれど広くもない部屋で、それでも、目の前に広がる空間がそれを感じさせなかった。
「おー、いい風。」と譲介の横から部屋を覗き込んだTETSUは言う。
「部屋は、気に入りました?」と譲介が尋ねると、部屋の中へと一歩足を進めたTETSUは「今のところはな。」とティアドロップ型のサングラスを外して譲介の顔に掛け、破顔した。
うわ、と譲介は心の中で叫ぶ。
好きな人とふたりきりというシチュエーションは初めてではないにしても、外に出ることがこんな風に作用するとは思ってもみなかった。
これほどまでに開けっ広げなTETSUの笑い方は久しぶりだった。
いつでも、譲介に会うたびにTETSUは笑顔を見せてくれるけれど、それは皮肉を讃えた笑みであったり、年下の子どもの甘えを許すような笑みだったりすることの方が多い。

――今日はパートナーとの休暇ですか?
――まあそんなようなもんだ。

彼がフロントの男にあんな風に質問されても否定しなかったのは、ただ否定するのが面倒だったとか、そうしたいつもの理由からだと分かっている。
分かっていても、勘違いしてしまいたくなってしまう。この旅行中に彼に告白をしたとしたら、この気持ちを、いつものように演技だと誤解されることはないのではないかと。
旅行の返事がそのまま、譲介の恋心へのゴーサインではないことは、理性では分かってはいるのだ。けれど、さっきみたいな笑顔を頻繁に見せられたら、その最後の理性だって、この先の三日間で溶けてぐずぐずになってしまうに違いない。そうでなくとも、海へ行くとなったら人の視線も気にせずに脱いでいくだろうこの人の前でどんな顔をすればいいのかと多少は気に病んでいるというのに。
「ここまで来ても、潮の匂いはしねえなあ。」
そんなことを考えている譲介を尻目に、TETSUは、さっそく冷蔵庫からウェルカムドリンクとして準備された水のボトルを取り出し、譲介の方にも、ほらよ、と放り投げた。
「ちょ、TETSUさん!」
放物線を描いたボトルを、譲介は伸ばした手でキャッチした。パシ、とキャッチボールのような音がする。
TETSUは、取れたじゃねえか、と言わんばかりににやりと笑って、一足先にバルコニーに出て、眼前に広がる海の水色を見ていた。
波音は遠い。
譲介は、渡されたボトルを書き物机風のスペースの上に置き、ふたり分のキャリーケースは部屋の中央にあるテーブルの横に寄せた。
顔に合ってないサングラスをしているのも愉しいけれど、屋内では視界が暗くなるだけだ。
譲介は、TETSUに掛けられたサングラスをそっと外し、そのテーブルの上に置いた。
気になって、自分でも冷蔵庫を開けてみると、二本の水以外にも、ウェルカムドリンクのサービスか、二組のビールとジュースが揃っている。キッチンスペースには、なぜかエスプレッソマシンもあった。
それ以上は、ルームサービスを頼むか、外から買って来いということだろう。
譲介は、汗をかき始めている水のボトルを手にして、バルコニーに立つTETSUの隣に立った。
「運転お疲れ様でした。」と譲介が言って、乾杯を模してボトル同士を接触させると、TETSUは、あれしきのことで疲れていられるか、と言わんばかりに笑って「おめぇは、あれが何に見える。」と眼前の空を指さした。
「あれ?」
「雲の形だよ。………っと風か。」
海に浮かぶ綿雲は風に棚引き、譲介には、空に重なる三匹の白い亀のようなフォルムに見えた。「TETSUさんには何に見えたんですか?」
「犬か馬か……、どっちにしろ、さっきまでは四つ足の生き物だったな。」
空を見て、雲の形を判じ合うなんて、譲介は本の中でしか見たことがない。かつての彼は、こんな風に誰かと空を見上げて話したことがあるのだろうか。
TETSUは、儚いもんだ、と笑ってから、譲介の方を見て「兄貴が、ああいうの言い当てるのが上手かった。」と言った。兄弟がいるらしいことは知ってはいたけれど、どんな人かということも、この人にとって、今はどんな存在かということも、譲介はこれまで聞いたことがなかった。
ただなんとなく、KEIさんや村井さんといるときに年下の顔をしているこの人が肩の力を抜いている様子が、その頃の名残なのだろうかと思うくらいで。
「お兄さん、どんな人なんですか。」
「さあな、……実はオレも知りたいくらいだ。」と言って、ふわあ、と欠伸をした。
目の下には、クマが見える。
「TETSUさん、まだ寝ないんですか?」と譲介が問いかけると「そうさなァ、」とTETSUは言葉を濁した。
「僕、ベッドルームの方、ちょっと見て来ますね。」と確認のために覗き込むと、予約の際に写真で見た通り、さして広くはない寝室にふたつ、隙間を開けて並んでいる。窓際と手前では、窓際の方が細い。
長さからしても、TETSUに相応しいのは大きい方だ。
「すぐ寝ます?」と譲介が言おうとしたとき、バルコニーで水を飲んでいたTETSUが、ふらりと近づいて来た。
「譲介ェ、……奥の窓、カーテン閉めといてくれ。」と言って手前のベッドに突っ伏した。
「昼寝するなら外もありかと思ったが、暑くて無理だな。」
そう言って、無防備に目を瞑る人に、譲介は小さく息を吐いた。
言われるがまま、窓際のベッドに膝を突いて、奥の窓のロールカーテンを下ろすと、ほとんど同時に寝息が聞こえて来た。
うつ伏せになったままの彼を仰向けになるように転がそうとして、譲介は、出した手を反射で引っ込めた。
若い頃、土方のバイトをしていた頃に、休憩室での居眠り中に財布を掏られたことがあったらしく、寝ている間のTETSUに近づくと、手首を強く掴まれたり、足で蹴られたりすることがある。
そうした不幸な事故は、TETSUへの助平心がほとんど無かった中学から、高校入学の春先の頃に起こったハプニングで、大抵は、魘されているのを起こしてあげようと思ったとか、こうした寝相をどうにかしようと思っての親切心が理由だった。
二度ほど痛い目に逢って学習した譲介は、それ以来、寝ている間の彼に触れようとしたことがない。最近は土方のアルバイトに行くようなことはなくなったみたいだけれど、だからといって例の条件反射がなくなったと決めつけることも出来ない。
悔しいから一也にはこのことは言ってはいないのだけれど、TETSUに意識のない間にどうこうしようと試みたところで――そして、これからも一度だってそうした不埒な行為を試すつもりもないけれど――それは無傷では成功しないということだ。
第一、こんな風に寝息を聞いていたら、普通は、寝てるところを邪魔したくはないと思うものじゃないだろうか。聞いている方も眠くなってくる。
譲介は、自分が寝る方のベッドに腰かけて、それから、寝心地を確かめようと寝そべってみた。
寝心地自体は、家のベッドほどではないけれどマットレスが固く、そう悪くはないと思う。
問題は別にある。譲介は、十五センチほど先にあるTETSUの閉じた瞼を見、形のいい鼻先を見、それから唇を眺めた。
(触ってみたいなあ。)
好きな人と触れ合うのはどういう気持ちがするものなのだろう。
ふう、と譲介はため息を吐いて、ベッドから起き上がり、自分のベッドの上掛けを剥いで、いつものように、鼻からの下半分だけ彼の顔を隠すようにして、彼の身体を覆った。
ダイニングに戻り、荷物の中から、飛行機の中で読むことが出来なかった文庫本を取り出した。無人島に行くならどんな本を持って行く、という話をしたときに、彼の口から出た本のうちの一冊だった。
ヘミングウェイの短編集で、三巻本の二冊目だ。TETSUが勧めた小説は収録されていないけれど、黄色い表紙が妙に目を惹いた。
旅先の、海の見える暑いバルコニーで、海辺のバカンスらしく活字を追って過ごすのも悪くないはずだ。
譲介は伸びをして、見晴らしのいい椅子に腰を下ろした。


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