君知るや南の国





腹が減って起きると、目の前には見知らぬ天井があった。
なんてえベタなシチュエーションだ、とTETSUは思う。
落ち着いて考えれば、当然ながら、ここ数年はTETSUの寝床を暖めてくれるような女も男も今はいないわけだが、ただ掛け布団にくるまっているだけにしても、最初に頭に浮かぶのはまた飲み過ぎたのかといういつもの話で、やはり多少は焦った。
天井を良く見れば、暑い空気をかき回すためのアンティーク調のファンがあって、辛うじて日本のラブホやビジホではないことが伺い知れる。
まあ、ホテルはホテルか。
肌触りから、自分の分のキルトは下に敷いたままになっているのが分かった。
つまりは、オレをぐるぐるのミイラ巻きにしてるこの布団は、隣のベッドからひっぺがした分に違いない。
そこまで考えてからやっと、寝る直前に交わした譲介とのやりとりが、薄っすらと頭の中に思い浮かんでくる。すぐ寝ますか、と尋ねて来た譲介が、窓辺のロールカーテンを下げていたところまでは覚えている。

……またやっちまったか。

面倒を見ていたつもりだったガキに面倒を見られる側になるというのは、あまり据わりのいい話しではない。
酒を過ごした夜にベッドに倒れ込むとき、大概は譲介が隣にいる。
飲み過ぎを怒っているわけじゃないですよ、と断りを入れ、朝から濃いコーヒーを淹れて、飲めとばかりにコップを差し出す。ああした時に機嫌を損ねた顔をされるよりも、平気なふりをしている様子をしている時の方が後々の面倒になることは、これまでの経験則から分かっている。
気にしていませんから、と言いながらパンを焦がしたり、去り際になって、また来ますねダーリン、と笑いながらキスの真似事をして去っていくのもしょっちゅうで。そうしたときのリップ音が殊更に決まっているのは、譲介が今も星の数ほど恋愛ドラマに出ているせいだ。
こっちには「二十代になってまだ学生服を着てるなんて自分が馬鹿みたいに思えて来ますけど、仕事があるのはありがたいので。」と肩を竦めたポーズを取って、いつもの飄々とした顔しか見せねえが、現場じゃ、監督や助監に何を言われようが、事務所の方針でと言い切って必ずキスを寸止めにしているらしい。KEIから聞いた話だが、あながち間違っちゃいねえようだ。
そういうときのあいつは、大概逃げ足が早い。
今何時だ、と布団から腕を出して時計を見たものの、部屋の中が薄暗くて針が指している時間が見えづらい。この腹の減り具合なら、昼飯時はとっくに回っているだろう。
ま、こんなとこまで来て、考え過ぎるのもな。
あいつのことだ。どうせ好奇心に任せて、ホテルの中やこの辺りの街を、野良猫みたいにあちこちほっつき歩いてる可能性もある。
引っ越し前の部屋で寝起きをしていた頃も、朝にはいなくなってると思ったら、近所の総菜屋だのパン屋だのに寄ってきましたと言ってはふらっと戻って来た。
そろそろ探しに行くか、と思った時、どこからか、すうすうと寝息が聞こえて来た。
音の聞こえる方へ顔を向けると、見慣れた寝顔があった。
顔の横には、寝落ちの直前まで読んでいたらしい文庫本が見える。
「…………………おめぇもかよ。」
狭い通路を挟んでの向かいのベッドを占領する譲介の姿に、つい声が出てしまった。
八時間とそれなりの金を掛けてここまで来たってのに、やってることと言えばただの昼寝とは、呆れたヤツだ。
見たことのない海を見たい、と言って譲介が選んだ場所は、エーゲ海でも黒海でもない。デカい劇場や美術館があるでもない、東南アジア。
TETSUの世代で言うところの所謂「スター俳優」のひとりになってしまった譲介のような男が人目を避けるには、確かに適した観光地ではある。それでも、寺や街並みや、海を見るだけの旅行の、何が楽しいのかとも思っていた。
この街を選んだ理由を聞いてみても、なんとなくです、という答えになるようなならないような返事が返って来ただけだった。最初から、こういうつもりだったのだろう。
まあ呆れた勝負じゃ、オレも似たり寄ったりか。


ドラマへの出演が始まった頃にマネージャーらしいマネージャーが付くようになったが、最近になって代替わりがあったから、付き合いの長さから言やあ、こいつは村井さんやKEIの次くらいに長い。このまま行きゃあ、十代の半ばで家を出ちまって、ほとんど縁が切れたままになってる兄貴よりも長い付き合いにはなるだろう。
相手がこいつでなきゃ、オレのような人徳のねえ中年に誰が人生相談など持ち込むものかとも思うが、譲介がフッた数多の美女のうちのひとりやふたり――あるいはもう少し多かったか――から、TETSUさんから譲介に言ってやってください、と迫られたこともあれば、マネージャーから、詰め込み過ぎの仕事に文句ひとつ言わないから倒れないかと心配で、と深刻そうな顔で訴えられたこともある。そういうことをオレに言ったところで、あのガキが聞く耳を持つかよ、とは言ったが、ちょうどそういう話を聞いたタイミングで、どこから時間を捻出してるのか、用事を作っては、これまで通りオレの家へも顔を出しに来るので、渋々説教のひとつもした夜もないではない。
そうまでして会いに来るのだから、他人の耳目を憚るような話のひとつやふたつはあるのだろうと思うのに、仕事が途切れない代わり、何一つ自分では選べない仕事の上での苦労だの、女との付き合いを続けてりゃ、どこかであるはずの行きがかり上の衝突だとかを、こいつの口から聞いたことがほとんどない。
高校までは、学校の授業が面白くないといった日頃の不満も、いくらかはオレの隣で吐き出していたような記憶があるが、それも、大学に入ってからはとんとご無沙汰だ。
メシや酒の好き嫌いだとか、そうした事柄はまあ話をせずとも互いにそうと知ってはいるし、映画や本の話ともなれば、今では六、四で譲介のヤツの方が多い。酒を飲み、演劇を語り、買ってやったソファベッドで大人しく丸まって眠り、次の日にはまた仕事に戻る。
譲介が大人になったにせよ、こっちに遠慮をしているにせよ、一度こうなってしまえば、本音を聞き出すのは難しい。
大学進学を機にすっぱり田舎を出ていった兄貴も、惚れた女と生きるために日本での生活を捨てた男も、周りからはTETSUと深い付き合いをしていると思われてはいたが、結局は本音を明かさずに目の前から消えてしまった。
譲介にも、そうしたオレに見せない心があるというならそれでも良かった。
この旅行が終わるまでは、こいつの酔狂にとことん付き合ってやるつもりで着いて来たのだ。


寝床に寝そべったまま、うつ伏せになって、ベッドから落ちそうになっていた譲介の文庫本を、手を伸ばして取り上げてみる。栞紐が本のページに挟まることなくだらりと垂れ下がっているところを見ると、どうやら同じように、ベッドに倒れ込むなり寝てしまったようだと知れた。
外はまだ真昼だ。カーテンの下りた薄暗い中でも、表紙に大きなフォントで描かれた表題作のタイトルは読むことが出来た。
へそ曲がりは師匠譲りか。
雪山に向かう豹の話は、この常夏の国で読むのに適しているとは言い難いような気がした。
勝手に取り上げた本を枕元へと戻してから、「おい、譲介。」と名を呼んでみる。
「はい、TETSUさん。」
大して間を置かずに返事をした譲介は、ふわあ、と欠伸をした。なんともいいタイミングだ。
「起きてたのか?」と聞いてみると、返事の代わりに腹が鳴った。
「……起きました。」という譲介は、ぼんやりとこちらを見ている。
早朝の仕事があるので、と夜半に突然転がり込んで来て、コーヒー飲んでから出て行け、と四時半に叩き起こす日の朝の寝起きが、いつもこんな顔だ。
「昼飯、食いに行くか?」と言って、掛け布団にしていた譲介の分の上掛けを正しい場所へと戻した。
旅先の時間は、砂時計の中で落ち続ける金の砂粒だ。
まだ寝てていいぞ、とは言い難いが、寝たいと言えばそれでも良い、というつもりだった。
譲介は、こちらから被せた布団が落ち切る前に身体を起こして、起きます、と慌てて目を擦って、それから窓のカーテンを上げて、腕の時計を見た。うわ、と慌てた声が聞こえてくる。
「今何時だ。」
「今から出たら、街に着く頃には夕方です。」と譲介は声に焦りを滲ませている。
「軽食を付き合ってもらえるなら、一緒にカリーミーの店に行きませんか。」譲介が枕元に置いておいた小さなパンフレットを差し出して来たので、手に取って、向かい合わせになるようにベッドに腰かけた。
「ガイドブックにあった例のやつか。」
漢字で咖喱麺と書くいわゆるカレーラーメンのようなものが旨い店がいくつかあるようで、譲介はその中でも写真映えしそうな白い出汁のものを食わせる店に行きたいらしい。ココナツミルク味のカレーってのは、さして美味いもんでもないが、旅先で食うメシは現地で食われてるものを食べるのが一番だ。どこに行くにしても、東京風にアレンジされてる料理の方が馴染みがいいんだから、中国料理の店で食べた方がまだ外れがないわよ、とKEIには馬鹿にされるが、まあ、譲介が行きたい店があるならそこがいいだろう。
「夕飯どうしましょうか。食べに行くのに良さそうなレストラン、ここから近いところで目星を付けてあったんですけど。」
今の時間からの移動じゃ、難しいかもしれない、と譲介は独り言のように言った。
「飲みながら考えりゃいいだろ……と、今日は車か。」
すっかりいつものつもりでいたが、ここで飲んではレンタカーを借りた甲斐がない。
「今夜は僕がTETSUさんの分まで飲もうかな。タイガービールっていう地ビールが美味しいらしいですよ。」などと余計なことを言うので、つい笑ってしまった。
「家じゃねぇんだ、飲みすぎねぇようにはするさ。」と軽口を言うと、飲酒運転はダメですよ、と譲介は慌てて目を剥いた。
「冗談だ。おめぇが助手席にいるなら、安全運転するしかねぇだろ。ここが世界の果てってわけじゃねえんだ。それなら、家に帰るまでが遠足ってもんだ。」
手を伸ばして譲介の頭を掻きまわすと、瞬きをした譲介は「やっぱりいつもみたいに一緒に飲みたいから、お酒はここに戻ってきてからにしましょう。」と言って、小さく笑った。
笑った拍子に、ぐう、と腹の音が鳴って、時間だな、とベッドから立ち上がる。
思ったよりベッドルームが狭かったです、とこちらを見上げる譲介の目は、上機嫌に見える。
きっと、今夜飲む酒のことでも考えているのだろう。



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