君知るや南の国





ホテルの部屋に戻ると、日暮れた部屋のベランダからは、海辺の明かりが見えた。
観光客のための遊覧船が夜も運航しているのか、小さな船の浮かぶ舳先に吊るされた灯りは、随分と叙情的で、譲介には、窓から見える光景が精緻な絵画のように見えた。
TETSUは、遠くにあるその灯りを見つめながら、暗い部屋の中を、夜目の利く猫のように真っ直ぐ窓辺の方へと進んでいく。危なげなく歩むその背中を見ながら、部屋の明かりをつけるべきだろうかと一瞬迷った後、譲介はカードキーを所定の位置に差し込むのを止めて、ポケットに戻した。
ベランダから夜風が吹いてくる。
微風に導かれるようにして、譲介も、そのままTETSUに続いてベランダへと移動した。
譲介が隣に立つと、風に目を細めていたTETSUは「昼よりも夜の方が近く見えるもんだな。」と言った。
「ここからなら、歩いて海に行けますよ。」
ホテルの裏手から続く一本道をまっすぐ進んでいくだけなので、車で行くよりもずっと近い。朝、ここに到着したタイミングで、地図を渡して来たホテルの従業員に聞いた話だった。
「明日、日が昇ったら散歩に行きましょうか。」と譲介が言うと、TETSUは何かを考える顔つきになった。
「部屋ン中から遠くに眺めるのもいいが、夜は夜で別の顔を見せるもんだ。」
まるで独り言のようなその言葉に、譲介は耳を傾けた。
譲介は、昼の海も夜の海も、これまでの人生で見た記憶はほとんどない。
海辺に遊びに行った帰りに、車や電車の中からガラス窓越しに眺めたことは何度かあるけれど、今夜のように、波音が聞こえるほど近い場所から接したわけでもなかった。
「夜の海ってのも、いいもんだぞ。」とTETSUは言う。
TETSUの記憶は、譲介の記憶とは全く違うものだろうという気がした。
「……酒持って行ってみるか?」
TETSUは、譲介を見てそう尋ねる。
「あ、はい!」
昼寝で溶かしてしまった時間を取り戻したい気持ちは譲介にもあって、TETSUがそうしたいと言うなら、否やはない。
食事でかいた汗を流し、それからまた出掛けようという話になった。
シャワーブースを使うのなら、と譲介はカードキーを必要な場所に戻すと、魔法が溶けたように部屋が明るくなる。
シャワーを使うのはTETSUが先で、譲介が後。
いつもの順番にしましょう、と、譲介は言った。


聞き取れない言葉がとめどなく流れて来るテレビの音声を聞きながら、鏡の中に映る自分の立ち姿を、譲介は眺めた。
背が高いわけでもない、頼り甲斐に溢れているわけでもない、ただ少し恋に浮かれた年若い男がそこに立っている。
優秀な弟子で、親しい後輩で、はた迷惑な女たらし。
TETSUが譲介を表すいつもの言い方で、ぱっと思いつくのはこのくらいだ。
秀でたと言われる眉も、美しいと褒められる鼻筋も、引き込まれてしまいそうと口説かれる双眸も、好きな人には何の役に立たない。他人から美しいと言われ羨まれる自分のこの顔立ちを、好ましいと思うことはなかった。最近はその形容詞に「男」と付けられることが多くなったけれど、それも、悪くはない変化というくらいの程度だった。
あの人も成長した僕の姿をちゃんと見てくれたらいいのに、とは思うけれど、どう考えても道のりは遠かった。譲介がTETSUのことを意識する機会は、今でも数限りなくあるというのに――そして直近の機会はついさっきの話だ――いくら考えても不平等だ。
「おい、譲介。先に行っちまうぞ。」
「待ってください!」と譲介は棚に置いてあったタオルを引っ張って首裏の部分を乾かす。
「十分だけ待ってやる、髪は乾かしてから上がって来い。」
「TETSUさん、それ無茶ですよ。」
「無茶でもやれ、あと九分だ!」
自分はゆっくり髪を乾かしてたくせに、とぼやく暇もない。
部屋の中から声を掛けられて、譲介は、浴槽も付いた明るく広いシャワーブースの中で雨に打たれた犬のように濡れそぼった髪と、汗を流した身体をさっとタオルで拭う。
フィットネスジムのマシンで鍛えられた身体には薄っすらと筋肉が付いているが、手術の跡があるでもなく、ただ綺麗だと言われることが多い。彼の役どころと、本人とは違うと分かっていても、傷も何もない自分の肌を見るたびに、あの人には面白みのない身体だろうと思う。
譲介は、胸の上部分から下腹部に掛けてを指先で触れた。
肌の滑らかなこの部分が、K2の現場での撮影前に特殊メイクで覆うことになる場所だ。
TETSUが行ったとされるかつての手術跡は、譲介の役柄上欠かせないものだ。
服で隠れるとしても、肌を出さない場合もメイクをすることがある。
TETSU自身も、闇医者を演じる場合は身体にポートを付けることがあったが、本格的なメイクは、手術のあった初回の一度だけで、後は身体の上に器具を貼り付けるだけのことになっていたせいもあるのかもしれなかった。
一度撮影が始まったらカメラを止められないアクションシーンの現場で、撮影の最中にポートを模したその器具が途中で床に落ちたまま撮影が続いていたことがあった、という話を、後で本人から聞いたことがあった。カメラに映らない場所で落ちた上に、監督や助監督、役柄に入り込んでいたTETSU本人ですら、そのことにほとんど気付かないまま撮影が終わってしまったので、後日落ちたままの器具をCGで消してその撮りが採用になったという話を後で聞いて、撮影を見に行かなかったことを譲介は後になって後悔した。
あの人がいつもそうしてくれているように、譲介も、TETSUの仕事をちゃんと見届けたかった。
彼に恋をする和久井譲介が、好きな人の仕事ぶりを目に映しておきたいと願うとき、俳優の和久井譲介は、それを許容される立場にあるのだから。
(それも、もうそろそろ終わりが近づいている。)
譲介は、洗面台の上にTETSUが置いていったドライヤーのスイッチを入れた。
あと五分。
髪を乾かしたら、笑顔であの人の前に立とう、と譲介は思う。


ドライヤーで軽く髪を乾かしてシャワーブースを出ると、TETSUは行くか、と言ってリモコンでテレビの電源を消し、ビール缶を詰め込んだエコバッグを持って、ソファから立ち上がった。
今は普段のタンクトップに、どこで見つけて来たのか明るいレモンイエローの長袖シャツを合わせている。
昼に着ていたアロハはさっと洗濯した後で、ハンガーで吊るしてあった。
譲介は、TETSUの赤いアロハの横に、自分の緑色のアロハを引っ掛けた。着て来るものを示し合わせたわけではないけれど、ふたりで浮かれたクリスマスカラーになっている。
この暑さなら、緩く水を絞っただけでも、明日の朝には乾くだろう。
「僕が持ちましょうか?」と譲介はTETSUの手元に手を伸ばす。
「全部は飲むなよ、」などと言いながらTETSUは譲介に荷物を渡した。化繊の素材で出来た軽いエコバッグは、今はずっしりと重みがある。
ギネス、ロイヤルスタウト、クローネンブルグ、シンハービールにタイガービール。
大漁の缶ビールは、ジョージタウンでの街歩きでTETSUが渉猟したものだ。


暑い中でのそぞろ歩きは寝起きの身体にゃ辛いと言って、二階建てのショップハウスやコロニアル建築の中からTETSUがふらりと入った店は、流行りのカフェやレストランではなく、酒を扱う個人商店だった。
ほんの数分前までは、屋台が立ち並ぶ屋台村のような一角までぶらぶら歩いていくか、という話をしていたというのに、涼しい店内でビールを眺めている間に、TETSUはすっかりホテルへ戻ることを決めてしまっていた。譲介が、その先にあった写真のスポットでTETSUと写真を撮るのを楽しみにしていたというのに。
ホテルに戻る道なりにある店で何かあれば、と譲介が慌ててレストランを探すと、目当ての食事ではないけれど、世に知られたローカルフードである、ホッケンミーが食べられるという店があった。予定していたカレー麺は次の日に回すことにして、店の前にレンタカーを停めて、ふたりで海老出汁の辛い汁そばを食べた。
中華料理のうちの所謂四川料理に近いのだろうか、注文した麺料理は目から火花が出そうな辛さで、譲介はTETSUと一緒になって水を飲んで、辛い辛いと言いながら完食した。
汗という汗が額や胸、身体の至るところから流れ出てしまって、それなのに、買ったばかりのビールは飲めない。
「天国に着いたと思ったら地獄だったか。」
そう言って、幽霊が生前の仇を見るような恨めしい目付きでビール缶の入ったビニール袋を睨んでいる。どこかで聞いたセリフのような言葉を発するTETSUに、譲介は、吹き出す寸前だった。腰から下げたバックから小さなタオルを取り出してTETSUに手渡し、少しここで休んだらホテルに戻りましょう、と言うしかなかった。
弱った師匠の前でビールを飲むのも一興かもしれないと思いながらも、従順な弟子らしく、譲介は店のおススメらしい、メニューに大文字で書かれたソフトドリンクを指さして店員に二人前を頼んだ。
五分後に出て来たのは、ショッキングピンクの色をした西瓜風の果物が半月切にされてグラスに突き刺された、パフェにも似たボリュームのジュースだった。
海辺のリゾート地で供される飲み物としては百点満点。
所謂インスタ映えする飲み物には違いないが、TETSUとの取り合わせは最高とは言い難い。
五十代後半の年上の男性が飲みたいと思うチョイスじゃないだろうな、と考えた通り、目の前に現れた次の難敵に眉を顰めた師匠の様子に、譲介は今度こそ吹き出した。
「おい譲介、スイカの種が浮かんでるぞ。」と言うTETSUの声がとどめとなって、譲介は狭い店内の注目を浴びるのも厭わずに、アハハ、と笑い転げた。
箍の外れた譲介の笑い方に、TETSUは虚を突かれたような顔つきになったけれど、それでも、こうなってしまっては途中で止めることは難しい。肚の底から湧き上がる笑いが収まるのを待って、「TETSUさん、これ、きっとバジルシードですよ。」と目尻に浮かんだ涙を拭いながら譲介は答える。
所謂スーパーフードと呼ばれる健康食品で、種と言っても食べられる種だ。
TETSUは、その頃にはすっかり拗ねた顔つきで謎の果物を齧っていて、譲介が見つめる視線に気づくと、子どものように顔を背けた。
その瞬間のTETSUが妙に可愛らしく見えて「食べてる写真、撮っていいですか?」と譲介はTETSUに言った。スマートフォンを持ち上げカメラを向けると、TETSUの頬にくっついていたホッケンミーの名残の青、葱か韮かが目に入った。いつもの居酒屋じゃなくて良かった、と思いながら、譲介はシャッターボタンを押さずに、スマートフォンを胸ポケットに戻す。手を伸ばしてTETSUの頬に触れ、爪先でその肌を引っ掻いた。葱か韮か分からないその小さな塊がTETSUの頬からテーブルに落ちる。
「おい。」
「旅先だからって油断しちゃ駄目ですよ。」と譲介が笑うと、TETSUは不機嫌そうな顔に戻って、またピンク色の液体をずるずると啜った。
「亀ゼリーのがまだマシだ。」という呟きは、きっと、いつかKEIさんに食べさせられたデザートのことを思い出しているのだろう。
そうじゃなければ、よっぽどビールが飲みたいらしい。
年上の心情を汲んだ譲介が、一口そのソフトドリンクを飲んでみると、ジュースの中身は、薔薇の匂いがするココナッツウォーターだった。いずれにしても、TETSUのテンションはこれ以上下がりようのない所まで行ってしまったようにも見えた。
流した汗の分だけ補給する水分と思えば、それほど悪くもないんじゃないですか、と譲介が言うと、頼んだおめぇが言うな、とTETSUはテーブルの下で譲介の脛を蹴った。
TETSUがホテルへの帰り道で、買い込んだビールを飲まなかったのは、レンタカーの運転があったからとはいえ、ほとんど奇跡に近い。


プライベートビーチではないが、かつて著名な作家が長く逗留したという宿から海へと続く道は、完全な一本道だ。
今夜のような細い三日月は、夜の帳が下りた世界を照らすのは難しい。代わりに、観光客のための灯りが、皓々と足元を照らしている。
譲介は、ペンキで白く塗られた細い道を、TETSUと二人並んで歩く。
夜風は微風で、完全に涼しくなったとは言えないが、日中よりは過ごしやすかった。
他には人通りもない静けさの中、波の音、それから、譲介が持つエコバッグの中で、ビール缶同士がぶつかり合う音が聞こえて来る。
「浜辺に着いても、暫くは飲めないんじゃないですか、これ。」と譲介はエコバッグを持ち上げる。
「シャンペンシャワーみたいで面白いかもしれねぇぞ。」
TETSUは、笑いながら強引に袋の中に手を突っ込んで、ロング缶を一本取り出した。
プルトップを開け、まるで手元で虹を作ろうとしている賢者のような顔つきをしていたが、その生真面目な顔も長くは続かなかった。
思った以上に勢いよく空中に飛び出したビールに、譲介が「うっ、わ。」と身体をのけぞらせておののくと、TETSUは、まるで昼の仕返しのようにして盛大に笑い転げた。演技で良く見る、相手の感情を煽らんばかりの笑いではなく、リミッターを外したゲラ笑いだ。
ひとしきり笑いが収まると、今度は、「泡がもったいねえな。」と言いながら、立ち止まって残ったビールを飲み干している。子どものようになっている。海はもう目の前だって言うのに、どうしてその短い間の我慢が出来ないのか。
「せめて乾杯まで待ってくれてもいいのに……勿体ないなあ。」と譲介が顔を上げると、さっき部屋から見えた船は、まだ海の上に浮かんでいた。そのオレンジ色の明かりに近づくほどに、ホテルからは遠ざかり、夜空に星が多くなる。
「お、流れ星。」とTETSUが呟く。
「……どこですか?」
「あの辺だよ。」とTETSUが指さした方を見ても、生来の視力がそれほど良いわけでもない譲介には分からない。
「願い事があれば今のうちに言っとけよ。」と呑気な声でTETSUが言って、空になった缶を手に歩き続けている。
「流れ星、もう消えちゃったんじゃないですか?」
譲介は、苦笑しながら海の向こうにも広がる空を見る。
「さっきのやつで、おめぇの願い事を何でもひとつ叶えてくれっつっといたから、見えなくてもいいんだよ。」
「TETSUさんは願い事ないんですか?」
「……今はそれなりに、好きな仕事で食えてっからなあ。これ以上願うのは高望みってもんだろ。」
「それを言うなら、僕だってそうですよ。」と譲介が言うと、TETSUからはいつものように「大人の言うことは聞いておけ、」と冷やかし半分の答えが返って来た。
「地球は丸くて宇宙は広い。今見た流れ星が世界の果てに流れちまっているとしても、そうそう隕石にはならねえさ。オレとお前に見えてねえだけで、まだどっかにはいるだろ。」
現実的なこの人にしてみれば、妙にロマンチックな考え方だ。
そんな風に思っていると、TETSUは譲介を振り返って、「まあ、今のは知り合いの受け売りだけどな。」と何気ない様子で言った。
彼がこんな風に僕とふたりでいるときに思い出す人は誰なんだろう。
もの問いたげなこちらの視線から目を逸らすようにして、TETSUはまた、さっきのように星の輝く空を仰ぎ見た。
満月じゃねえから、月があっても星が見えるな、という呟きが、風に乗って消えていく。
「何かねえのか。賞取りたいとかそういう俗っぽいやつでもいいぞ。」
「そういうのは、実力だけじゃなくて、事務所の力もあるので。僕はまあ難しいんじゃないですか。」と譲介が言うと、夢がないやつだ、とTETSUは苦笑した。
「神様に頼りたい願いのひとつくらいあるだろ?」と言う年上の人に、「それなら、家族とTETSUさんの健康ですよ。」と譲介が笑うと、「欲のないやつだ。」と言って、TETSUも笑った。
そうじゃない、と譲介は思う。本来の和久井譲介は、無欲とは程遠い人間だ。
今日の思い出を、この人が、譲介とは別の誰かと一緒にいるときに振り返る日が来るのだと思うと、胸が苦しい。


こんな風に、酒を介した付き合いでなくとも。
演じることをこの人について学ぶ、という理由がいつか消えたとしても。
その時々の自分で、ずっとこの先も、大好きな人の傍にいたかった。


「船、まだいますね。」と譲介が言うと、「イカ釣り漁船みてぇだな。」とTETSUが言った。
ロマンチックなシチュエーションとは程遠いTETSUの発言に、譲介はまた吹き出してしまった。
「TETSUさん、本物を見たことあるんですか。」
「いや、一回だけ、テレビの料理番組で見たっきりだ。」
オレンジ色の明かりってのはいいもんだ、とTETSUは笑っている。
「僕も見たことないです。本当は、何の船だと思います?」
「さあなあ。おめぇは分かるのか?」とTETSUは譲介に聞いた。
「もっと近づいたら、分かるかもしれません。」
他愛の無い会話を交わしながら、譲介も袋の中からひとつ取り出した缶のプルタブを起こして、ビールをひとくちだけ飲んだ。
外の気温で温んだだろうと思っていたビールは、存外に冷えている。
外で飲む酒は旨ぇだろ、とTETSUが笑う。
譲介が叶えたい願いは、心の底の方にある。
その願いが、ぷかりと心の上の方に浮いてくるような、静かな月のような笑顔だった。
まるで夢の中でTETSUと一緒にいるみたいだ、と譲介は思った。



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