寂しき忠臣
「どうかお考え直しくださいませ!」
握りしめた拳の関節が白く浮いている。藩主康直を前にして、重郎兵衛は額に汗を浮かべ、唾を飛ばさんばかりに声を荒らげていた。
「㐰太郎様をご世子になさると、殿は確かに一度ご誓約なさいました。今になってご自身のお子を嫡子に据えたいとは、如何なるご了見ですか!」
表情の読めない康直の細い目を見つめて、重郎兵衛は必死に道理を説いた。
「まあまあ真木どの、殿のお気持ちも考えられよ。あの誓約が交わされたのは殿も若く、まだ男児がおられなかった頃のもの。今になって親心つくのも自然な成り行きでござろう」
「事はそれがしのみに関わるのではござらぬ」
康直の近くに侍る重臣をひと睨みして、重郎兵衛はなおも説得を試みる。
「誓約は、亡き渡辺どのの悲願でもございます。死者との約束を反故にされるとはあまりにも」
「くどいぞ、真木|定前《さだちか》」
諱を呼ばれて、重郎兵衛の身体が強張った。退屈そうに扇をもてあそびながら、康直は重郎兵衛を見下ろしていた。
「そなたの仕える主君はただ一人である。誰の言葉が最も重いかを忘れるな」
沈むような無力感が押し寄せてきた。この期に及んで友信との格の違いを持ち出すのか。
「……失礼致しました」
せせら笑う重臣の声を聞きながら、重郎兵衛は畳に頭を擦り付けた。
帰宅した重郎兵衛は、部屋にこもって一人考えた。
――登の死からおよそ四年が経っている。田原は何事もなかったかのように日常に戻り、しかし少しずつ変化の芽が胎動し始めていた。
定平は近ごろ高島流砲術の鍛錬で忙しい。登の薫陶を受けて目覚めた最先端の兵法に打ち込んでいるところなのだ。我が道を行く癖はあまり変わっていないが、これからの田原藩を担うに相応しい逸材に育っていた。
そんな中で時代の流れに逆行するかのように、康直の態度によくない兆しが見え始めた。生前の登が取り付けた、友信の嫡子㐰太郎を次の藩主に据える、という誓約に不満をこぼすようになったのだ。康直に男児が誕生したことも大きいだろうが、登がいなくなって重臣たちがここぞとばかりにつけあがっているのも要因の一つだろう。
このままでは友信に、そして泉下の登に申し訳が立たない。しかし、何度諫めても重郎兵衛の言葉は聞き入れられないどころか、疎んじられるようになってきた。もはやどれほど言葉を尽くしても康直には届くまい。自分はどうすべきなのか。
視界の隅にぼうっと黄色い灯りが灯ったので、重郎兵衛は驚いて顔を上げた。妻が行灯に火を灯しに来てくれていた。
「お食事、取り置いてございますよ」
「ああ……すまない」
気が付けばとうに陽は暮れていた。
行灯が照らし出した先に地袋がある。ふと重郎兵衛はその戸を開けて、中から文箱を取り出した。蓋を開き、友人に貰った文を選り分けて、登から貰ったものを開く。右肩上がりの文字に、とめどない懐かしさが溢れ出す。
一通ずつじっくりと読み進めていくうちに、ある文の一文に重郎兵衛は目を開かされた。ちょうど㐰太郎が生まれた頃のものだった。
もし主君が心得違いをしたならば、すぐにでも事を遂げるべし――。
具体的に何をしろとは書かれていない。だが天啓だと思った。きっとこの文があるから、登は重郎兵衛宛に遺書を書かなかったのだ。
命の使いどころ、という自分で放った言葉が脳裏をちらついた。約束だよ、と胸を指さした登の姿も、鮮やかに蘇った。
天保十五年、九月十日。遠州、金谷宿にて。
上書を書き終えた重郎兵衛は、筆を擱いてしばし感慨にふけった。これまでの人生を振り返ると、平凡なようで案外色々なことがあったものだと、我ながら呆れる思いである。
いま重郎兵衛がいるのは、参勤交代の帰路で泊まった宿である。友信には参勤の折に最後の挨拶をしてきた。敏い友信のこと、何か感じるものがあったのだろう、しきりに登の話をしたがった。もうこれ以上臣下を失いたくない、とさえこぼした。別れを惜しみながら、心の中で重郎兵衛は頭を下げた。
さわりと風が吹いて、重郎兵衛は窓を仰いだ。ふっくらとした月が出て、明るい月光が差し込んでいる。
覚悟を決めてから、気付いたことがある。かつて康直からかけられた『余のために死ねるか』『そなたの仕える主君はただ一人』という言葉。あれらは友信と重郎兵衛に対するあてつけだと思っていたが、真意は違ったのではなかろうか。
自分のために死ねるかと重臣たちに聞いた後、『正直に答えたのは、そなただけだな』とも彼は言った。友信には、登や重郎兵衛のような腹心とも呼べる存在がいた。しかし康直には誰がいただろうか。
康直も、寂しかったのかもしれない。あれこれと放埒なわがままを重ねて、それでも自分のために真の忠誠を尽くす臣下が欲しかったのかもしれない。
「あなたのために命を差し出せる奴はちゃんといる。登と俺が何に人生を捧げて、何のために死んだか、思い出させてやるよ」
独りごちた重郎兵衛は、左前に着た白装束の袷を割り開いた。
その夜、見回りの番だった下級藩士は、参勤交代のしんがりを務める上役の部屋から不審な物音を聞いた。明かりをかざしながら襖を引いてみると、血だまりの中に人が倒れている。赤に染まった腹の陰に刀の柄を認めて、藩士の足が震えた。
「あ……! 真木様! 誰かっ……誰か!」
重郎兵衛の身体は駆けつけた藩医に抱き起こされたが、もはや彼にはその感覚がわからなかった。欠けてゆく視界の中心に、鮮血の飛び散った封書がぼんやりと浮かんで見えた。
「しまった……上書を、よごした」
それが、田原藩士真木重郎兵衛定前の、最期の言葉だった。
「叔父上」
小さな位牌を前に、定平は語りかけた。
「効きましたよ、あなたの手は。血の飛んだ上書を目にして、殿はすっかり考えを改められました。以前の約束通り、㐰太郎様を藩主世子となさることを決め、改めて家中に告知されました。叔父上の墓碑を御自ら揮毫されるそうですよ」
定平は片頬を歪めて、皮肉な笑みを作った。
「それから、さる重臣が汚職の廉で謹慎させられました。けじめをつけたおつもりなんでしょうね。遅すぎる。殿が血迷いさえしなければ、叔父上が死ぬこともなかったのに」
ふんと鼻先で笑って、定平は小首を傾げた。
「それとも、天命だったのでしょうか。あなたは忠臣でなくなることが怖いとおっしゃっていた。その望みを叶えられるように、天が導いたのでしょうか。俺にはわかりかねます。ただ――これからは、忠臣として死ぬことすら難しくなる世が来る。俺はそんな気が致します」
首を振って、定平は少し寂しげに、しかし晴れ晴れと笑った。
「全く、生きようとしても死のうとしても、忠臣というのはやりづらいものですね」
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