寂しき忠臣
翌日は休暇を貰っていた。何をするという気にもなれず縁側に座っていると、甥の定平が元気いっぱいに訪ねてきた。
「重郎兵衛叔父上! お帰りなさいませ、明けましておめでとう存じます!」
名字は違うが血が繋がっている定平は、どういうわけか重郎兵衛のことをいたく尊敬している。二十代も半ばになる青年だが、歩く時も座る時も重郎兵衛と横並びになりたがる癖は子どもの頃から変わっていない。
「うん、ただいま」
懐いてくれている定平の明るい顔を見ると、気持ちがいくばくかほぐれていく。
「正月早々の旅でお疲れでしょう、どうぞゆるりと休まれてくださいませ」
「お前が家長のような物言いをするんだな」
「叔父上をおもてなしする気持ちが一等大きいのは俺ですから」
胸を張るさまに、思わず笑みがこぼれた。
「休むより、気散じがしたいんだ。一緒に遠乗りでもしないか」
ぱっと定平の面が輝く。
「喜んで!」
「殿は相変わらず燻らせていらっしゃるようだな」
「さすが叔父上。昨日のご挨拶で察しました?」
並んで馬を駆りながら、定平は器用に肩をすくめてみせた。定平は藩主の近習を勤めていた時期があり、軽輩ながら主の意向をいち早く窺い知れる立場にあった。そして言うまでもなく、重郎兵衛たちと同じ友信派である。
「なんだか妙なことを聞かれたよ」
「妙なこと?」
「うん。自分のために――」
言いかけて、首を振って重郎兵衛は話を打ち切った。なんとなく、もう少し自分の中に転がしておきたい、と思ったのだ。
「しかし殿にも困ったものだ。美しい妾を大勢見繕えだの、奏者番になりたいから賂を用意しろだの、藩の現状を無視したわがままばかりおっしゃる」
「見栄っ張りな方なんですよ、良くも悪くも」
最近はめっきり悪い方にしか働いていない。就任当初のまだ幼さを残した青年だった頃は、学問や武芸に精勤し、善政を敷いていたのに、どうしてこうなってしまったのか。重臣たちも頭を抱えている。
しかし重臣たち自身が揉み手で迎えた藩主だから、彼らはおいそれと諫言できない。必然こういう見栄坊が出来する度に駆り出されるのは、家老の家に生まれながらかつて養子藩主反対派だった登である。嫌なお役目だが、重郎兵衛たちはそこに勝機を見出している。
藩主の側近くに常に控えることで、藩政の後ろ盾を得ることができる。登たちの悲願の藩政改革を推し進める助けになるのだ。事実、康直も登の諫言を完全には無視できず、さまざまな改革案を取り入れつつある。㐰太郎の藩主相続が許されたのも無関係ではあるまい。
重郎兵衛と定平は手綱を引いて、馬足をゆるやかに進めた。松林を抜けると、足元まで穏やかな波が打ち寄せてくる。二人は海辺に来ていた。渥美半島沿岸部の、三河湾を臨む方角だ。
「まあ、無事に巣鴨様に男の子もお生まれになったことだし、何もかもこれからですね」
「そうだとも。これからは㐰太郎様の将来をお守りせねばならない。俺たちはますますしっかりと連携していかなきゃいけないんだ」
だというのに。むかっ腹が蘇ってきて、重郎兵衛は馬の首を波打ち際と平行に向けた。
「叔父上? どこへ行かれるんですか」
追い縋る定平には答えず、馬の腹を蹴り、ひた走りに走らせた。嫌な感情が後ろに吹き飛ばされていくようで、このままどこまでも駆けていきたいと思う。
「叔父上、重郎兵衛叔父上ってば!」
激しく砂を蹴飛ばす音がして馬が隣に並ぶ。額に汗を浮かべた定平が必死の形相で叫んだ。
「これ以上進んだら今日中に帰れなくなりますよ!」
重郎兵衛は無言で手綱を引いた。ふいごのように鼻息を荒らげる愛馬の首筋を撫でてやる。申し訳ないことをした。
馬を降りて、手綱を手に取り踵を返す。馬上の定平と目が合った。
「江戸で何か、あったんですか」
慌てて馬を降りた定平の気遣わしげな問いに、重郎兵衛は小さく息をついた。
「お前さ、知ってるか? 登が正月の十五日に死にたがっていること」
近くの松の木に馬を繋ぐと、砂浜に腰を下ろして、自分が経験した出来事と友信の話を語って聞かせた。波の寄せては返す音が二人を包んでいた。
「全く存じませんでした。渡辺様がかつて親しくしていた方々の中に挙母藩の儒者がいた、という噂は耳にしたことがありますが……そんな最期を辿っていらしたなんて」
定平が愕然とした顔で呟く。
「竹村という名前すら俺は知らなかった。登が意図的に伏せていたんだよ。事情を知っている人間も、その態度を見て話すのを控えたんだろうな。でなきゃ、そんなに親しかった人を懐かしむ話が、一度も話題に出ないことなんてあるものか」
ぎり、と拳を握って砂浜を殴りつけた。
「俺は怒ってる。大切な話を巣鴨様には打ち明けて、何故俺には話してくれなかったのか。俺たち同志じゃなかったのか。こんなんでこの先やっていけるのかよ」
激する重郎兵衛を黙って見守っていた定平は、やがて静かに言った。
「本当でしょうか?」
「……どういう意味だ」
「お話を聞いていると、叔父上はむしろ、寂しがっているように思います」
答えられない重郎兵衛を、定平の真摯な瞳が見つめている。
「竹村様のように忠臣として死ぬのは、美しいことだと思います。この泰平の世にあって、武士の理想像のような方です」
定平は目を伏せた。
「でも俺は、竹村様のようには生きられません。死ぬこと自体は恐ろしくないけど、俺にはこれから成すべきことがたくさんある。道半ばで倒れるのはとても恐ろしいです」
「死することでこそ忠を示せる、とは思わないのか」
「叔父上や渡辺様のご期待を背負う俺が易々と死んだら、かえって田原の損失です。主君の右腕をもぐのは忠に反するでしょう」
けろりとして定平は言った。
何をするにも重臣たちへの配慮を挟む重郎兵衛や登らに対して、定平は悪びれない方だ。根回しできない潔癖な質というよりも、自分が正しいと信じているのだから周囲がついてこなくても充分だ、と考えている節がある。身内贔屓を抜きにして定平は確かに俊才ではあった。しかしいつかは直してやらねばならぬ、と重郎兵衛は陰で登と話している。
「渡辺様は、どうお思いなのでしょうね。忠義のために死んだ竹村様のことを」
「あいつのことだ、誇らしいと思っているんじゃないか」
友信に悲しくなかったかと聞かれて、光栄だと答えたというではないか。
「だから心の底で憧れて、後を追おうとするんだろう」
「後追いはただの私情です。本当に忠臣としての生き様に憧れるなら、主君のために命を投げ出すはずであって、竹村様の後を追うなんてありえない」
顎をさする定平の姿に、重郎兵衛はぽかんと口を開けた。大した物言いだが、確かにその通りだ。
「つまりですね、渡辺様が竹村様に向けている感情は忠臣としての生き様への憧れなんてものではなくて、もっと別のものだと思うんです。それが何かは、俺には何とも申せませんけど」
重郎兵衛にはわかるような気がした。極めて素朴な、慕わしい思い。どこかへ行ってしまいそうなこの人を手放したくないと、全てを振り捨てて叫びたくなるような思い。そんな感情なら、自分も知っている。
「だから、叔父上も寂しく感じるのではありませんか。渡辺様が叔父上を置き去りにして、私ごとの世界に閉じこもろうとしているから」
しばらく重郎兵衛は黙って考えていたが、ふっと息をついて、握り込んでいた拳を解いた。砂がぱらぱらと浜に還っていく。
「お前の言う通りかもしれない。俺は登を頼りにしているのに、登は俺を頼ってくれなかったのが寂しかったんだと思う」
付け加えれば、妬いていたのだ。登の心のうちを知っていた友信に、そして竹村という男が占める存在のとてつもない大きさに。
「今度江戸に行ったら、もう一度登と話してみるよ」
「ぜひそうなさってください」
にこりと微笑んで、定平は身軽に腰を上げた。
「さて、帰りましょうか。もう少し叔父上と話していたかったのですが、陽が暮れてしまいます」
「話なら帰ってから聞いてやるよ」
「二人差し向かいっていうのがいいんですよ」
「なんだそれ」
馬の綱を解いて鞍に跨り、ゆっくりと駆け出す。水平線の向こうに陽が沈み始め、田原の鄙びた景色は朱色に染め上げられている。
夕陽に照らされて馬を駆りながら、定平に言わなかったことを考えていた。
――俺は、どんな風にして死にたいだろうか。
その年の暮れ、重郎兵衛は再び江戸に逗留した。宿で旅装を解いてから、登の家を訪ねる。
「巣鴨様から聞いたぞ。お前が死にたがる理由」
出迎えた登は、ぎょっとした様子で重郎兵衛の袖を引き、小声で窘めた。
「その言い方はやめてほしいな。聞いた人が驚くだろう」
「本当のことじゃないか。それともなんだ、聞かれて困る客人でも来ているのか」
土間の隅に遠慮がちに寄せられた草履を見ながら、重郎兵衛は意地悪く尋ねた。
「そうじゃなくて、妻とか子どもとか……」
「先生、お客様ですか」
登の背後から影のように現れたのは、柳のようにひょろりと痩せた男だった。
「ああ忠太、ごめんね。田原から重郎兵衛が来てたんだ」
椿忠太。絵師でもある登の一番弟子にして親友だ。よく家に訪ねてくる同士、重郎兵衛も顔見知りだった。
「これはどうも、椿さん」
「真木様、先生がお世話になっております」
「いやいやこちらこそ」
慇懃に礼を交わす。登の親友だけあって、表情は少ないが温和な人柄の男だった。
「話したいことがあるんだ。登、ちょっとそこまで出かけないか?」
「もう日が暮れるよ。うちじゃ駄目なの?」
びっくりして聞き返す登に、重郎兵衛は背を向けた。草履をつっかけながら、客人に水を向ける。
「よかったら椿さんも来てくれませんか。あなたにはお話ししておきたいことなんです」
振り向くと、忠太が草履を履こうとしゃがんでいるところだった。
「え、もう、二人だけで話進めないでよぉ」
重郎兵衛は先に玄関を出た。登が家の奥に向かって、ちょっと出てくる、と大声を出すのが聞こえた。
家に帰る人々がまばらに行き交う道を、重郎兵衛と登は逆方向に歩いていた。忠太は遠慮して、一歩退がってついてくる。
「話って、例のことだったら忠太に話す必要は」
「ないんだろ、とっくに知ってるから。そうだと思ったよ」
言外に匂わせた嫉妬を感じ取ってか、登は恥ずかしそうに苦笑した。
「いつまでも昔のことを引きずっているなんて、未練がましくてみっともないじゃないか。こんな弱いところ、重郎兵衛には見せたくなかったんだ。私を不相応にも仰いでくれているから」
つまり、忠太になら弱いところを見せられるということだ。忠太に向けた信頼と、自分に向けた信頼と、種類が少し違うのだろう。そう言い聞かせて納得するしかない。
「ここまで押しかけてきたってことは、重郎兵衛、怒っているんだね」
「ちょっと違うな」
「じゃあ何さ」
「それを今から話しに行くんだよ」
小石を踏む足元から、ざくざくと音が鳴る。三人はずいぶん郊外まで歩いて、人影の見えない河原に辿り着いた。暮れなずむ夕陽を背にして重郎兵衛は立つ。
「登」
重郎兵衛は足を肩幅に開くと、刀の鯉口を切った。青ざめた登の口が、嘘だ、と動いた。
「冗談じゃない、どういうつもりだ」
「椿さん、あなたは審判です。これ以上はいよいよ危ないとなったら止めてください。それまでは、手出し無用」
抜刀し、正眼に構える。夕陽を受けた刃の輝きに、首筋の毛が逆立つ感覚を覚えた。真剣に手をかけるなど何年ぶりだろうか。
足場の悪い地を蹴って、立ち尽くす登めがけて一息に打ち込んだ。
きん、と甲高い音が弾けた。登の刀が重郎兵衛の刀を受け止めている。
「お前、神道無念流だっけな。しかし道場辞めて何年になる? 流石の早業だよ」
「軽口はよせ」
ぎりぎりとしのぎを削りながら、登が固い口調で言った。
押し切られる寸前で登は後ろに飛んだ。着地で滑りかけたが、体勢を立て直したところへ、重郎兵衛が再び斬りかかる。剣から離れて久しい者同士の戦いだ、きっと忠太から見れば互いに隙だらけなのだろう。
「らあっ」
重郎兵衛は愚直に打ち込んでは跳ね返され続けた。登は決して自分から打って出ようとはしない。まぐれだろうか、重郎兵衛の切先が登の頬をかすめた。ぱっと鈍色の血が飛んで、登が顔を顰めた。
「どうした! このままだと俺に押し切られるぞ!」
弾かれながら重郎兵衛は叫んだ。ぐっと姿勢を低くして足元を薙ぐ。登がよろけたところを最上段に振りかぶる。ぎりぎりのところで斜めに飛んで避けられた。息を切らしながら、もう一度振りかぶろうとした。
突如、風が起こった。斜め下の死角から薙ぎ払われる。かぁん、と抜けるような音と共に、重郎兵衛の手から刀が飛んだ。勢いあまって転げた重郎兵衛に登が躍りかかる。重郎兵衛の首のすぐ脇に、刀が突き立てられた。
「そこまでです!」
息せききって忠太が駆け寄ってくる。重郎兵衛に覆い被さった登を引き剥がそうとして、忠太はぴたりと動きを止めた。
重郎兵衛は脇差を逆手に持ち、登の喉元に突きつけていた。
「引き分け、だな」
汗まみれの顔でにやりと笑った重郎兵衛に、緊張しきった面持ちだった登は、へにょりと眉を下げた。
「なんでこんな真似したの。心臓もたないかと思った、馬鹿」
忠太に支えられて二人は身を起こした。重郎兵衛は脇差を鞘に納め、刀を拾って戻ってくる。登は立つのも億劫な様子で、忠太が手伝って納刀した。
「お前と一回、命のやりとりしてみたかったんだよ」
どっかりと河原にあぐらをかいて、重郎兵衛は爽やかに笑った。
「なんでまた」
「死んだ人間には、どうやったって勝てないからさ。せめてぎりぎりのところまで迫りたかった」
竹村のことを言っているのだとわかって、登は目を伏せた。
「これで俺のこと信頼してないだの、弱みを見せられないだのとは言わせないぞ」
「だからって何の予告もなしに斬りかかることないじゃない……」
ぶちぶちこぼす登に、重郎兵衛は笑みを消して言った。
「俺は、お前に死んでほしくない」
登がむせた。
「流石に身投げするような馬鹿な真似は二度としないだろうが、たとえ忠義のためであったとしても死んでほしくない。いくら竹村様を尊敬しているとしても、死に様までなぞる必要ないだろう。遺された者がどんなに悲しむことになるか、お前は知っているはずだ」
忠太に背中をさすられながら、登は俯いて河原の石ころを見つめている。
「それでも忘れられないのか」
「……忘れられないよ。忘れようと思ったこともないし」
登は泣きそうに顔を歪めた。
「あの人の死は悲しかった。忠義のために命を捧げた、誉れ高い死に様であることがわかっていても、いや、わかっているからこそ。理想の生を目の当たりにできた感激と己を埋め尽くす寂しさの狭間で、若い頃の私はどうにかなりそうだった。若くなくなった今では、他にも選ぶ道があったんじゃないかと言えるけど、それでもあの人を詰ることはできない」
猛禽類を思わせる登の瞳から潤みが消えて、ひたりと重郎兵衛を見据えた。
「重郎兵衛、君もそうだろう。巣鴨様のために真の忠義を尽くすと誓った時からの同志だもの」
登の瞳を見、忠太の不安げな表情を見て、重郎兵衛ははっきりと頷いた。
「ああ」
そうだ。登に死んでほしくないにもかかわらず、己は主君のために命を擲てる。重郎兵衛自身も、登や竹村と同じ種類の人間だ。
「私たちは変われない。遺された者にこんなに寂しい思いをさせることがわかっていて、なお」
「定平は違うそうだ」
「へっ」
「成すべきことを成せずに死ぬ方が怖いとよ」
ぽんと膝を叩いて、重郎兵衛は立ち上がった。
「世の中色んな人間がいて、たまたま竹村様とお前は共鳴しすぎちまったんだろう。それだけのことだ、あんまり重く囚われる必要もないんじゃないか」
半ば自分に言い聞かせるように重郎兵衛は言った。
「努力して変われるものかわからないけど、単なる後追いをしようとはもう思わないよ。そんなことあの人も望んでいないしね。ただ」
言葉を切り、登は薄く笑った。
「不忠を成すぐらいなら、すぐにでも死にたいとは思っている」
不思議と恐怖は湧かなかった。むしろ安堵感が身を覆った。
「俺も同じだよ」
ひっそりと重郎兵衛は言った。康直の問いに、今なら即答できる。俺はあなたのために死ねます、と。
「重郎兵衛、だからってあっさり死んだら嫌だよ。命ってのは、ここぞというところを見極めて使うんだからね。約束だよ」
登は教え諭すように人差し指を立てて、重郎兵衛の胸をぴっと指さした。
「さてと、もうすっかり夜だ。早く帰らなくちゃね」
「先生。竹村様のことでしたら、私も真木様と同じ気持ちです」
登が立ち上がるのを助けながら、不意に忠太が言い出した。
「いやあの……私は二人のこと信頼してないとか思ってないし、言ってないからね?」
「そうではなくて、竹村様と先生が培ってきたものを、私は眺めることしかできない。それが悔しい、と申し上げているのです」
竹村の占める場所には、忠太ですら入り込めないのだ。
「それは、まあ……私にはどうしようもないことかな」
頭を掻く登に、忠太と重郎兵衛は目を見合わせて苦笑いした。その通り。どうしようもないのだ、相手はもう死んでいるのだから。
「忠太、今日は泊まっていきなよ」
「いえ、お気持ちだけで結構です」
「いつもそう言うんだから」
帰る道々、夜空を仰ぐと、細い下弦の月が出ていた。今年も終わるのだ。
「次の正月は、穏やかに迎えられそうだよ」
登がぽつりと言った言葉が、重郎兵衛は何より嬉しかった。
――それが、登が死ぬ十年ほど前の話だ。
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」