寂しき忠臣


 渡辺家の幽居はしんと静まり返っていた。玄関をくぐると、登の家族と使用人以外に人の姿は見えない。
「昼ごろ奥方様が俺の家に来られて、急報を届けられました。今はごく親しい間柄だった者のみに知らせて回っているところです」
 定平が素早く耳打ちした。
「藩には既に届け出ました。検死のお役人の到着はかなり後になるそうです」
「なら今のうちだな」
「はい」
 役人に見つかっては困るものが残されているかもしれない。元より登が幽居の身に陥ったのは家宅捜索を受けたのが原因のようなものだ。一刻も早く回収する必要がある。
 身を寄せ合っていた家族のうちから登の娘が進み出て、一通の封書を定平に差し出した。
「父は遺書を遺していたようでございます。村上様宛のものが、こちらに……」
 そっと開くと、後事を託す文章が綴られている他に、別の封書が挟み込まれている。どうやら長男に宛てたものらしい。相応の年齢になるまでは、と登が配慮したのだろう。押し戴く定平の目尻に涙が光った。
「確かにお預かり致します」
「失礼ながら、真木宛のものはござらぬか」
 娘は戸惑った様子で首を振った。重郎兵衛の喉がつっかえた。
「この遺書が文机の上にございましたので、母は真っ先に村上様にお知らせに参ったのです」
「なるほど」
 娘の言葉に頷き、定平は重郎兵衛に言った。
「最初に叔父上に知らせたら、どんな行動に出るかわかったもんじゃないと思われていたのではありませんか」
 定平のあけすけな言葉にうなだれるしかなかった。もし知らせを受けたのが自分だったら、間違いなく定平ほど冷静な立ち回りはできなかっただろう。
「登は、今どこに」
 細君を制して立ち上がったのは登の老母だった。
「身体を清め、着替えさせて私室に寝かせております。自刃した現場は納屋でございます。血の海でございましたゆえ、拭き清めてはおりますがお気をつけくださりませ」
 気丈な口ぶりだが、声は掠れていた。泣き果てた後なのだろう。
「順番に見て回ろう。まずは私室から」
 頷いた定平の背後から、親類縁者の駆けつける足音が聞こえてきた。


 登の自刃から一月ほどが過ぎた。ようやく検死が済んで藩からの処置がなされた後、重郎兵衛と定平は登の墓参りに来ていた。
 といっても公儀の罪人として死んだ以上、墓を建てることは許されない。寺の墓地の片隅に遺体を収めた甕が埋められ、その上に墓標代わりの石が置かれているだけだった。
「叔父上、渡辺様が墓標代わりに書かれたという書をご覧になりましたか」
「見たよ。馬鹿なやつだ」
 重郎兵衛は言葉少なに答えた。
 不忠不孝渡辺登。自罰的な大書と、親類や弟子、部下に宛てた五通の遺書を遺して、登は腹を切り、喉を突いた。
 早すぎる死だった。惜しむべき死に様だった。しかし心のどこかで、こうなることが天命であったようにも思う。
 いや、墓すら建てられないほど死を愚弄されて然るべきはずがない。あまりの悲しみに、重郎兵衛が天命だと信じたいだけなのだろう。
「あ……」
 定平が重郎兵衛の袖を引いた。重郎兵衛は墓の前から身を引く。現れたのは旅装束姿の忠太だった。
 墓石とも呼べない石の前に脇目もふらず歩み寄り、彼は崩れるように膝をつく。絞り出すような掠れ声が聞こえた。
「せんせい」
 細い指がぐしゃぐしゃに土くれを掴む。肩を落として震わせる忠太を、重郎兵衛たちは黙って見守った。
 小半刻ほどして、忠太がふらふらと立ち上がった。
「お見苦しいところをお見せしました。私はこれで……」
「椿さん、待ってください」
 立ち去りかけた忠太を呼び止めて、寺の本堂を指さす。
「俺はこれから定平に話したいことがあるんです。椿さんも、少しお時間を頂けませんか」


 畳敷の部屋を借りて、三人は車座になった。
「お話ししたいのは、例の墓標代わりの書のことです。椿さんもご覧になっていますよね」
 忠太は無言で頷いた。その目が果てしなく暗い。
「登が不孝と書いたのは、ご母堂や奥方、お子さんを遺して先に死ぬことになったから。では不忠と書いたのは? 要因は我が殿にあります」
 定平が身を乗り出した。
「叔父上、あの噂は本当だったんでしょうか。俺にはどうも信じられません」
「まあ待て定平、椿さんのために順を追って話す。……登が蟄居中、売画で生活を助けていたのはご存じですね」
「ええ、もちろん」
 藩から支給される扶持米だけでは、とても家族を養っていけなかったのである。登が幼かった頃に逆戻りしたかのような貧窮に、弟子たちが手を差し伸べた。
「俺はそれを聞いて安堵したものですが、快く思わない連中がいた。以前から政策方針の違いで登と反目しあっていた、田原藩の重臣どもです。もともと気に食わなかった上に、重罪を犯して蟄居刑を食らった登の存在は邪魔でしかなかった」
 仮にも隠居格の友信はともかく、登と親しかった重郎兵衛や定平まで肩身が狭くなるような空気を、毎日の務めでひしひしと感じていた。登の孤独はいかばかりだったであろうか。
「俺は全く気になりませんでしたけど、もう渡辺様が不憫で仕方なくて」
 憤懣やるかたないといった調子で定平が口を挟んだ。
「そんな時、ご公儀が田原に密偵を飛ばしたという噂が立ちました」
「友人から聞きました。当時のご老中、水野越前守様のご用人が遠州に派遣されたとか」
「本人に会って確認しましたが、そのご用人は登のこととは無関係の御用で訪れていたんです。だが重臣どもはその事実を利用し、歪曲した。渡辺登は蟄居の身ながら弁えずに絵を描いては売りさばく生活をしており、ご老中に目を付けられている。田原藩に対するご公儀の更なる処罰は免れ得まい。ひいては、我が殿が殿中にて出世できないのは登のせいに違いない。あれは生きているだけで殿の顔に泥を塗っているのだ……。そんな噂を領内に流させた」
 重郎兵衛はぐっと奥歯を噛んだ。
「つまり、登が書いた不忠という語は、自分の存在が殿を脅かしていることへの謝罪だったんです。そんな事実関係はどこにもなかったのに」
「やっぱり奴らの口からでまかせだったんですね。こんなくだらない企みを気に病んで、渡辺様は……くそっ」
 定平が涙声で太ももを殴りつけた。
「しかし椿さん、ここでよく考えてみてほしいんです。登は本気で、自分のことを不忠者だと思っていたんでしょうか?」
 忠太と定平は当惑した表情で重郎兵衛の顔を見上げた。
「俺はそうは思わない。登は生前、高い官位を欲しがる殿のことを度々諫めていたぐらいです。建前の上では殿に申し訳ないという立場をとっていても、本心ではそんなものどうなろうと知ったことか、と思っていたんじゃないでしょうか。だがその諦念にも似た思いは、臣下として許されるものではなかった」
「では、藩主への体面を保つために、先生は死んだと?」
 忠太の白い唇が震えた。
「なんでっ、なんでそんな理由で渡辺様は死んだんですか! 死ぬほどの忠義が存在しないことはわかってたんでしょう? どんな噂を流されたって、事実無根なら知らん顔で過ごしていればいいのに!」
「定平、俺はお前のようには考えられない。俺は、俺たちはな、忠義のために命を捧げる覚悟があるというよりも、不忠を成しながら生きてしまうのが怖いんだよ」
 食ってかかった定平は、重郎兵衛の襟を掴んだままへたり込んだ。
「万に一つでも主君がご公儀に処罰される可能性があるなら、もうそれだけで耐え難いんだ。生き恥を晒してのうのうと息を吸う自分が許せない。俺たちは綺麗なまま死にたいと願い続けている卑怯者なんだよ」
「重郎兵衛叔父上は卑怯者なんかじゃありません」
 拳を震わせながら定平が言った。
「その愚直なまでに潔癖なところが俺は好きなんです。忠義という不確かなものに命を懸けてしまえる、俺にできないことを成す叔父上の生き方に俺は惚れたんです」
「お前の生き様も美しいよ、定平。周囲に左右されず、自分の信ずる道を行く姿に何度感銘を受けたか知れない」
 子どもの時のように泣きじゃくる定平の頭を、重郎兵衛は抱きかかえて撫でてやった。
「登を死に走らせた要因はもう一つあります。竹村様の存在です」
 登の胸中からは、ずっと竹村の面影が消えていなかった。政に携われなくなり、絵筆を取れなくなり、いよいよ追い詰められてからは、竹村に手招きされているような心境だったのではないか。
「もう後を追うつもりはないが、不忠を成すぐらいならすぐにでも死にたいと言っていましたよね。今がその時だと思ったのではないでしょうか」
 胸の中で定平が嗚咽を堪えている。引き攣るように跳ねる背中をとんとんと叩いてやった。押し黙っていた忠太は、その様子を見ながらぽつりぽつりと語り始めた。
「先生はかつて、私にある歌を教えてくださいました。竹村様が亡くなられた時に詠んだという、別れを惜しむ歌でした。遺した人にそれだけ哀しい思いをさせることを知っていながら、それでも自刃なさらずにはいられなかったのですね」
 忠太の瞳に、はっとするほど強い光が揺れた。
「私はまだ死ねない。自分に託された、成すべきことを成すまでは、血を吐いてでも死ぬわけにはいかない。それが全て終わったら、きっとどうなっても許してくれるだろうと思っています」
 忠太は登から遺書を送られた一人だ。渡辺家の今後についても、忠太を中心に援助に当たると聞いている。
「許す……か」
 ほうと息をつき、不意に重郎兵衛は首を傾げた。
「登は何をすれば俺を許してくれるでしょうかね」
 定平がしきりに袖で目元をぬぐっていた。
「登が自刃してから、自分の身の振り方をずっと考えています。登は俺に遺書を書きませんでした。今になって託したいものがなかったということでしょう。だったら、俺の好きにさせてもらっても構わないはずだ」
「叔父上、まさか」
「今更後を追うほど馬鹿な真似はしないが……命の使いどころは見極めるつもりだ。登と同じようにな」
 重郎兵衛はにやりと笑ってみせた。ずっとこのことを言わねばならないと思っていた。定平のみならず、登が最も信を置いていた忠太にも聞いてもらうことができて、望外の幸運だ。
 ぐずりと鼻をすすり、定平は真っ赤な目で重郎兵衛を睨みつけた。
「ならば、俺は死にません。この先何が起きても、絶対に自ら死を選ぶようなことはしません。生き抜いて、やるべきことを成して、命ある限り主君に忠を尽くします」
「なら安心だな。後のことは全部お前に任せたよ」
 何故登が定平に遺書を書いたのか、わかった気がした。
 忠太とは寺の前で別れた。これから渡辺家の親族の家に赴いて、今後のことを話し合う予定だという。
「椿さんには、もう会えない気が致します」
 遠ざかる後ろ姿を見送りながら、定平が言った。
「これからも登の墓参りに来られるよ。おおっぴらにはできないことだが、あの人ならきっと」
「それは存じておりますが……」
「まだ死ねないともおっしゃっていただろう。確かに椿さんは武家の生まれだが、後追いで自刃される心配もいらないさ」
 定平は首を振って、だからこそです、と言い募った。
「己の身体に刀を突き立てない分、同じだけの熱量を別のものにぶつけて、諸共に燃え尽きてしまう。そんな予感がするんです」
 忠太は登の弟子だ。ぶつける先は一つしか考えられない。そんな未来もあるのかもしれないな、と重郎兵衛は思いを馳せた。
 彼らは知る由もなかったが、登の十三回忌に、忠太は師の肖像画を完成させる。畢生の大作を描き上げてから一年と経たないうちに、肺を患って病死する運命だった。
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