寂しき忠臣


 話は十年ほど前に遡る。
 一月も終わる頃、江戸巣鴨の田原藩邸下屋敷に、旅支度を整えて重郎兵衛は座していた。
「帰国のご挨拶に参りました、巣鴨様」
「もう帰るのか、重郎兵衛。寂しくなるのう」
 下屋敷の主人である『巣鴨様』こと三宅友信が名残惜しそうに眉を下げた。先代藩主の実弟にあたる彼は、当代藩主から巣鴨に屋敷を与えられて、若い身空で隠居暮らしを送っている。
「俺も|登《のぼり》のように、巣鴨様のお側近くにお仕えできればよいのですが」
「いやいや、そなたには国元で頑張ってもらわねば。|㐰太郎《しんたろう》の件もある」
 今年で一歳になった㐰太郎が、友信の膝元で大人しく遊んでいる。友信は愛おしげに幼子の頭を撫でた。
 ――友信は、本来なら田原藩主となるべきはずの人であった。彼の兄が病に倒れて跡継ぎを立てなければならなくなった時、重臣たちは友信の存在をあえて無視し、富裕な他藩から養子を取るという道を選んだ。目当ては養子に付随する多額の持参金である。
 この時に三宅氏の血筋を絶やすことになるとして、少数ながら養子入りに反対したのが、重郎兵衛を含む一部の若い藩士たちだった。その運動の中心にいたのが渡辺登である。以来、重郎兵衛と登は肝胆相照らす仲となり、陰日向に友信を支え続けてきた。
「左様ですね。殿のご了承を得たとはいえ、藩の空気は未だ予断を許さぬところがあります。少しでも巣鴨様と㐰太郎様の理解者を増やせるよう、鋭意努力して参ります」
 友信が隠居に押し込められた後、登や重郎兵衛は新藩主に働きかけ、友信に生まれた男子を次の藩主に据える約束を取り付けさせた。この計画がうまくいけば三宅氏の血筋は田原藩主の座に返り咲き、友信の名誉も回復する。
 重臣たちの冷たい視線を受けながら、友信派の藩士たちは協力して事にあたってきた。国元の重郎兵衛と江戸の登で密に連絡を取り合い、今は藩政改革にも邁進している。吹き荒れる逆風もなんのその、だと信じていたのだが――。
 ふっと重郎兵衛は顔を曇らせた。
「どうした? 在所で何か出来したのか」
 友信は人の感情の機微に敏い。兄弟の中で唯一の妾腹に生まれ、幼い頃から何かと苦労してきた故だ。
「そうではございません。実は、登のことでお話ししたき儀がございます」
 主君の目ざとさに甘えて、重郎兵衛は口を開いた。私的すぎて闇雲に打ち明けるには憚られる不安の種も、友信なら安心して話せる。
「小正月に上屋敷で宴会がございましたでしょう」
「うむ、そうらしいな」
「その帰り道に起きた出来事が、どうしても忘れられないのです」



「いいなあ、重郎兵衛は強くて」
 剣の腕前の話ではない。千鳥足の友人に肩を貸して歩きながら、重郎兵衛はやれやれとため息をついた。
「呑んでも呑まれるなって言うじゃないか。いい年して何やってんだ」
「あはは。正月はついつい、勧められるままに」
「正月に限らないだろ、お前の呑兵衛は」
「そうかも」
 酒の臭いを振り撒きながら、登は赤い顔でふわふわと笑った。
 夜も更けた帰り道だった。年が明けて半月、遅まきながら田原の家中でささやかな宴が開かれたのである。盛んに盃を交わしてすっかり出来上がった登に、足元の確かな重郎兵衛が付き添って帰路を辿っていた。
 登の方が重郎兵衛より四つ年上で、家格も役職も上だが、長年の付き合いで気心知れた仲になっている。人として尊敬はしているが、酒に関してはいい加減自重を覚えてもらいたい。
 しかし登は酩酊感が好きというよりも、人と呑み交わしながら話を聞くのが好きな質で、他人の話を面白がる心は彼を形作る本質的な一角だった。それがわかっているからこそ重郎兵衛も強く言えない。難儀なものだ。
 牛のように歩を進める二人は小さな橋にさしかかった。登がやにわに足を止め、重郎兵衛はたたらを踏んだ。
「おや、風情があるね」
 凪いだ川面に満月が揺れている。登は重郎兵衛の肩に回していた手を外した。欄干を掴み、鼻歌まじりに眼下を覗き込む。酔っ払いの突飛な行動にも根気よく付き合ってやろうと思い、重郎兵衛はすぐ近くで見守っていた。
「いい月だなあ」
「まあな」
 さらさらと水の流れる音が聞こえていた。登の切れ長のまぶたが、はたりと瞬きした。頭を垂れる角度が吸い寄せられるように深くなる。登の片足が浮いて、身体がぐらりと傾いだ。
「おい!」
 咄嗟に後ろ首を鷲掴みにして、思い切り引き戻した。勢い余って二人して橋の上に倒れこむ。砂埃が盛大に舞った。
「何してんだ馬鹿!」
 呆然と座り込む登の頬を張った。肩で息をしながら、今更のように歯の根が合わなくなってきた。登は重郎兵衛よりもずっと上背がある。手を伸ばすのがあと少し遅かったら、引き上げられなかったかもしれない。
 恐怖の陰にもう一つ、小さいが確かな疑念があった。いくら登が酔っていたとはいえ、ただ足元がふらついただけという動きには見えなかった。まるで望んで欄干を乗り越えて、身を投げようとしたかのような。
「危なかった……ありがとう」
 打たれた頬を押さえもせず、登は項垂れて呟いた。
「正月の十五日は危ないんだ。月を見ると、呼ばれる気がして」
 重郎兵衛には話がよくわからなかったが、ともかく一刻も早く登を家に送り届けねばならないと思った。
「立てるか」
「うん」
 衣服の砂を払い、重郎兵衛が差し伸べた手を借りて登は立ち上がる。家に辿り着くまでの間、登は水面にも天上にも決して目を遣らなかった。



「そんなことがあったのか」
 㐰太郎を膝の上に乗せてあやしながら、友信は長いため息をついた。
「それは心配して当然だのう」
 心のつかえが取れて、重郎兵衛はどっと肩の力が抜ける思いだった。
「月に呼ばれるだなんて、尋常な発言じゃない。でも何度問い詰めても、どうしてあんな真似をしたのか話してくれないんです。酒のせいだとはぐらかすばかりで……」
 重郎兵衛が首を振りながらこぼした言葉に、友信は少し目を見張った。
「おや、重郎兵衛は知らぬのか」
「えっ」
「登の気持ちはわからぬでもないが、まさかそこまで……という意味で心配しておったのかと思っていたが」
 束の間重郎兵衛は激しく混乱したが、はっとして膝を寄せた。
「もしや㐰太郎様の件で何か?」
 経緯が経緯だから、登たちの重臣の心証は良くない。重郎兵衛の知らないところで登が追い込まれるような事態になっているとしたら見過ごせない。
「いや違う、全く違う。そうか、本当に知らぬのだな。登がそなたに話していないのは意外だったが……」
 友信は下女を呼んで、㐰太郎を別室に預けた。愛息子に手を振ってから、重郎兵衛に向き直る。
「今度はわしが話す番だ。わしが隠居格とされる前、そなたと登が親しくなるよりも昔の話になる」



 文政三年の正月十五日のことだったと記憶している。
 二階の居室の襖を開け放ち、陽の昇るか昇らないかのうちに縁側に出る。冬の朝の空気に身を晒し、鋼蔵と呼ばれていた頃の友信はうんとのびをした。正月の生活に浸りきった身体が目覚めていく感覚が心地よい。
 病弱な兄たちが同じことをしたら、女中か家臣が飛んでくることだろう。だが忙しげに廊下を行き交う下働きの者どもは、鋼蔵に挨拶しただけで気遣うそぶりもなく通り過ぎていく。
 こういう扱いには慣れていた。自分は兄弟の中でただ一人の庶子だ。いくら内心で不平不満を抱えていたからといって、表に出してもろくなことがない。最初から多くの人間に望まれるように振る舞っておく方が、感じる風当たりの強さはまだましだった。誰にでも何が起きても愛想良く、というのが、生まれてこの方の屋敷暮らしで鋼蔵の胸に刻まれた信条だった。
 それに実際、放っておかれても風邪を引く心配はないのだ。鋼蔵はほとんど病気知らずに育った。父親が山出しの頑丈な娘に手をつけて生まれた子どもだからかもしれない。鋼蔵が生まれて間もなく里へ帰された母も、今頃どこかで同じ空を見ているだろうか。
 手すりに肘をついて階下を眺める。この縁側からだと、庭の向こうに屋敷の裏門が臨めた。白い満月が山の向こうに沈みかけている。鋼蔵は武家屋敷の朝の静けさを一人気ままに楽しんだ。
 月が消えた山の端から目を下ろした鋼蔵は、視界におかしなものを認めた。
 裏門の傍らに、ぼんやりと男の人影が浮かび上がっている。袴姿で、二本差しを帯びていた。白い息を吐きながらじっと立ち尽くす姿は、誰かを待っているような風情だった。
 ――あれは、渡辺の倅の方か。
 薄暗い空の下でそう見てとれたのは、その人影の身の丈が並よりもかなり高いためだった。挨拶などに来た藩士たちが居並ぶと一人だけにょっきりと突き出ているので、否応なしに目に留まっていたのだ。
 印象に残っているのは外見だけではない。田原藩士の若者の間では、こんな貧乏藩で真面目に仕事などしていられないというので、金に繋がる内職や芸事が流行っている。彼も例に漏れず俳句を嗜んだり常磐津など覚えたりしているらしいが、そのことを何かの折に尋ねてみた際、彼はいたく恥じ入った。
 主君の手前恐れ入ってみせたというのではない。本来なら藩政を学び文武に励むべき己が身が、周囲に流されてちゃらけた芸事にかまけているのが許せない。また内職を良しとするような弛んだ藩の空気も腹立たしくて仕方がない。家老の家に生まれた者として、自分には田原を変える責任がある。そういったことを耳まで赤くして申し立てたのだ。
 未熟ななりに崇高な理想を掲げる、田原藩にあっては極めて真面目な青年だった。確か通称は、登とかいったはず。
 ざくり、ざくりと砂利を踏む足音がして、もう一つ朧げな人影が立つ。
「行かれるのですね」
 登の声がした。いつか聞いた熱気の籠った声とは真逆の、朝靄の中に沈んで消えるような声だった。
「うむ。この竹村悔斎、二度と帰らぬ覚悟を決めて参った」
 後になって知ることだが、登とこの竹村という武士は昵懇の間柄だった。竹村の方が年上で、登は儒学に知悉した彼のことを大層慕っていたらしい。
「手は尽くした。殿の目を覚まさせるには、最早これしか手立てはあるまい」
 竹村は田原藩の隣に位置する挙母藩の藩士だった。主君への諫言が聞き入れられず遠ざけられた彼は、この日の夕刻、佞臣を斬り捨てて自らも切腹する運命を辿ることになる。
「今生の別れでござる。最後に渡辺どのにお目にかかれてよかった」
 二人はひと気のない早朝を選んで約束を交わしていた。永訣の挨拶に、竹村は現れたのだ。
「お願いがございます」
 登の声が再び聞こえた。
「ここを離れたら、決して振り向かないでください。どうかその美しい覚悟を汚さないで」
「渡辺どの」
「もしお心を揺らして、振り向かれるようなことがあったら」
 登は刀の柄に手をかけた。
 竹村は深く頷いた様子だった。御免、と一言告げると、踵を返して、まっすぐに歩き出す。
 ちき、と登の手の中から音が鳴った。刀の鯉口を切った音が、明け方の空に響いて消えた。
 鋼蔵は後退りして部屋に戻ると、静かに襖を閉めた。きっと今、登は泣いているのだ、という確信があった。



 重い足取りで、重郎兵衛は下屋敷を後にしていた。
 友信の話を聞き終えた後、重郎兵衛は絶句することしかできなかった。
 登にそんな過去があったことなど、露も知らなかったのだ。友信は知っていた。親しくなってから後、かつて目にした光景について本人に尋ねてみたところ、あらましを話してくれたという。
 つまるところ、正月十五日の月に呼ばれるというのは、かつての友人の死に惹かれるということだった。
「悲しかったかと聞いたら、類い稀なる忠臣を友に持ったことを光栄に思っております、と申しおった。それに年月が押し流して何もかも遠くなりましたよ、と登は笑っていたが……もう少し話を聞いてやるべきだったやもしれぬ」
 肩を落として、友信はゆるく首を振った。
 茫然自失が収まると、湧いてきたのは猛烈な怒りだった。
 どうして話してくれなかったのだ。重郎兵衛にも打ち明けてくれていれば、危険な目に遭わせることもなかったのに。自分は信頼されていなかったのか。家格を超えた付き合いをさえ許してくれているというのに、たかが過去の思い出話すら話せなかったのか。重郎兵衛と、竹村という男と、登の中ではどちらが重いのか。
 むかむかする腹を抱えたまま旅路を辿り、数日の後に重郎兵衛は田原に帰着した。
 実家で旅装束を解くとすぐに登城した。帰国している藩主と国家老たちに挨拶をしなければならない。
「明けましておめでとう存じまする。お陰様をもちまして、無事帰着と相成りました」
 重臣たちの鋭い視線に射すくめられながら、重郎兵衛は広間の畳に伏せた。
「うむ、苦しゅうない」
 田原藩主、三宅康直は端麗な顔立ちの持ち主だった。通った鼻筋、色白の細面、切れ長の瞳、いずれも姫路藩主の子という高貴な出自を思い起こさせるのに何ら不足なかった。吊り目がちで小さな黒目が狐を思わせるのが、欠点といえば欠点だったが。
「巣鴨様のご機嫌は如何かな」
 挨拶して終わりかと思いきや、康直は重郎兵衛に話しかけてきた。
「出立前にご挨拶して参りましたが、お元気そのものでございます」
「そうだろうな。昨年生まれたご長男も順調にお育ちだと聞く。これで機嫌が悪いわけがない」
 にわかに場の空気が緊張した。友信の長男を次の藩主に据える計画は、康直自身の了承を取り付けている。それでも康直の口から、このような文脈で話題に出すのは、どう考えても不穏だった。
 ぱちりと鋭く扇が鳴った。康直が酷薄な笑いを浮かべていた。
「そなた、余のために死ねるか」
 あまりに突然の問いだった。重郎兵衛が友信派であることは、無論康直も承知している。かまを掛けられているのかと思い、重郎兵衛は即答できなかった。
「お前はどうだ」
「はっ」
 康直は近くの適当な重臣を扇で指した。指された男はさっと床に伏せ、紋切り型の文句を並べ立てた。
「それがしは、いつ何時でも殿のために命を投げ出す所存にございます」
「お前は」
「無論、常に殿のため身を捧ぐ覚悟でおりまする」
「お前は」
 康直は広間の重臣たちを次々と指していく。這いつくばったままの彼らの、ちらりと重郎兵衛に投げられた目が嗤っていた。
 しかし康直は不満げに顔を歪めていた。不意に康直は腰を上げて、重郎兵衛の元まで歩いてきた。場がどよめく。さしもの重郎兵衛も、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
 動けない重郎兵衛の肩を扇で叩き、康直は耳元で囁いた。
「正直に答えたのは、そなただけだな」
 それきり、ふいと背を向けると、康直は近習を連れて退室してしまった。
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