長い夢を食べて待ってた
*
石造りの冷たい床や壁は、想像よりもずっとよく声を反響させる。そこにもう小一時間、聞きなれた声があーだこーだと独りでずっと喋り続けている。「――あの時、ぬしは翌朝どころか、三日目を覚まさず、わしの作った薬でこんこんと眠り姫になっておった」と揶揄うように声は――白露は言った。青年はそれを、苦い顔をして耳を傾けながら、もう忘れてくれ、と彼女に言う。だが白露はその言葉を聞かず、その時の話なら他にもあるぞ、と指折り数え始めてしまった。
どうしてこうなったのか、と青年は彼女の声を話半分に右から左へ聞き流しつつ考える。油断をしていた、と言えばそうなる。身に覚えのない罪だったので投獄された際もどうせすぐに釈放されるだろうとただ侍して待っていたのだが、何故か一週間経っても、二週間経っても釈放される気配はなかった。恐らく何かがあった、と気付いた頃には既に遅く、外の情報もないまま時間の感覚を失っていくその感覚に大分参り始めていた。久しぶりに足音が近づいてきた、と思えば、白露が十王司のひとりを連れて牢の前にやってきたのである。
やっと外で話がついて釈放されることになったようだ、と青年はすぐに理解した。何があったのかはわからないが、大方いくつかの事件が絡まり合っていただとか、その解明に時間を要しただとか、むしろここに自分を閉じ込めておいた方が都合がいい状況にでもなっていたのだろう。これでやっと帰れる、と白露を見た時は安堵していたのだが、なぜかすぐに牢は開かず、彼女の長い長い話がはじまった。それも、自分との話が。出逢ったばかりの幼い時からつい最近の話まで。
「――ぬしが穹にフラれて意気消沈しておる間に、あやつはぬしのことを獣じゃなんじゃと共通の知り合いに赤裸々に語りおって、ぬしはしばらく揶揄われたの~。覚えておるか? 様子を見にわしが旅館の部屋に向かってぬしがぼけーっと目を覚ました時、『白露の言う通りにしてみたが駄目だった……』と不貞腐れて……」
「不貞腐れてはいない」
「じゃが、その後数日、丹鼎司から仕事を任され出られぬ間に穹がさっさと羅浮を発ったと聞いて、一カ月はわしと口をきかんかったのはどこの誰じゃ」
「白露」
「おかげで、あの一カ月わしは夜な夜な従者や太卜や素裳やぬしの師匠やらを連れまわして、いくつかの店で酔って暴れて数か月出禁になった。不公平ではないか? 片やぬしは丹鼎司に帰らぬ間、わしの名でツケて羅浮の方々を転々としておったというのにの~?」
「白露……。その件はもう何度も謝った」
「謝ったのとわしが赦したのとその話を再び蒸し返すのはどれもまーったく別物じゃ。それとこれも、ぬしをよく知るものは此度の騒動はその『別物』じゃとわかっておる。じゃが、それが却って事を有利に運ぶこともあるものなんじゃ。嘘も方便とよく言うがの。まあ適当に理由をつけて撤回はする。里帰りはまあ、少なくとも数年は待つことになるかもしれぬが」
「……? 何の話だ?」
白露が何を言っているのかよくわからない。青年は疑問符を浮かべたまま一度黙り込む。彼女の肩を、そろそろ、とついてきていた十王司の人形が軽く叩く。わかっておる、と彼女は彼女に答えると、青年にずい、と風呂敷包みを差し出してきた。折の柵の隙間にねじ込むようにして青年に渡してくる。
「……? これは?」
「着替えと餞別じゃ。あと、これは服のどこかにつけておけ」
続けて金色のバッジのようなものが差し出された。受け取ってまじまじと見る。何か特別な玉兆が埋め込まれているようには見えなかった。
「前の代にはなるが、ナナシビトの証だそうじゃ。旅のどこかで列車を見つけた際も、それがあれば楽に乗り込めるじゃろう。ぬしの前世はもともとその列車でアーカイブの管理をしておった。過去の記録にあれば、今乗車している者たちもぬしを受け入れやすいじゃろう。わしや景元将軍、それに太卜の名も来客名簿に記録があるはずじゃ。知り合いと名乗ってもよい」
「……ナナシビト? 待ってくれ。どういうことだ。この件の罪状はともかく、これは……」
「うむ、そうじゃ。冤罪というのはもうわしらもとっくにわかっておる。じゃが羅浮では、ぬしは表向きはまだ罪人じゃ。二週間の間にあれこれ茶番をしてのう、漸く昨日片が付いた。――ぬしはこれよりナナシビトとなるのじゃ」
「……? どういう意味だ」
「どういう意味だも何も。そのままの意味じゃぞー。ぬしが収監されておる間に、方々に話はつけた。これがわしがぬしにしてやれる最後の『世話』じゃ。かねてより、外へ行くことをぬしはずっと望んでおったじゃろう。ぬしの稼いだ日銭は、全部ぬしの口座に色を付けて信用ポイントに換金しておいた。ほれ、ぬしの端末じゃ。それで確認も出来る。足は天舶司が詐欺罪で捕まえた個人商人の船を、港に一隻整備して保管しておる。それで、宇宙でもどこでも勝手にいくがよい。……ああ、言っておくがもう丹鼎司にぬしの居場所はない。別れの挨拶もいらんぞ。わしの方から皆に伝えておいたからの。あ、わしの庇護下にあるという戸籍上の情報も抜いておいた。つまりはのう、勘当じゃ」
「……は?」
聞こえんかったか、と白露は尋ね返した青年にもう一度言う。勘当じゃ、と。嘘を言っているわけでもなければ、冗談にも思えない。呆然とする青年に、彼女は困ったように眉を下げ、「……そういうことにしておく」と答える。そうでもしなければぬしが再び羅浮の外に出るのは難しくてのう、と彼女は続けて言った。
「わかったらさっさとここを出て、一旦湯浴みをしてから戻るぞ。今のぬしからはドブの匂いがする……」
「それは……、しばらく風呂には入っていないからな」
「水で洗った犬でももう少しましじゃ。わしは応接室で待っておる。支度を済ませたらすぐに港へ向かう」
先に踵を返して牢の前からいなくなった白露を視線だけで見送り、控えていた人形が錠前を開けていく。釈放です、と淡々と青年に告げ、後についてくるように促してきた。
白露の言う通りに、青年はまず湯浴みをし、白露が持ってきた着替えに袖を通した。風呂敷包みの中には、服の他に古い木箱が入っていた。中身はなんだ、と着替えながら片手で箱の蓋を外す。なかなか外れずに、少し力を籠めると、勢い余ってしまったのか、パカン、と蓋が外れた拍子に下半分が落ちてしまった。ばらばらと中から零れてきたのは数枚の写真や手紙、小さな小物で、写真には薄い桃色の髪の少女や恐らく穹、そして自分の――前の自分である「丹恒」が写っている。どれも紙の端が折れていたり皺がついていたりとそう状態はいい方ではない。だが、大事にしまわれていた事だけはわかる。
その中に、一つだけ真新しい封筒があった。封筒は手紙くらいの大きさで、封も宛名も書かれていない。餞別、と言われたからにはこれはもう自分の所有物ということでいいのだろうか? 青年はそっと封筒を開き、中に入っていた小さな紙片を取り出した。何の変哲もないペンで書かれたたった一言だけの文字だった。
「……『約束、守ったぞ』、……?」
何のことを言っているのかはわからなかった。わからなかったが、青年はしばらく、呆然とその紙片を見つめたままでいた。濡れたままの髪から雫が落ちてくる。その雫にペンの字が滲んではっとして、青年は一旦手紙や散らばってしまった写真を箱の中に戻した。
十王司の人形に案内され応接室へ向かうと、何故かそこに白露の他に景元が来ていた。やあ、来たね、と頷いてすぐ、「じゃあいこうか」とすぐに青年を促してくる。その言葉と同時に、取り上げられていた撃雲が投げ渡された。白露が古い鞄を持って近づいてくる。そのままそれを押し付けられた。
「……? これは?」
「数日分の食糧と着替えが入っておる。後の事は自分でなんとかするんじゃな。わしはここでしばらく時間稼ぎをしておる。まあ引き続き茶番じゃがの。ぬしの師匠は、朱明行きが昨夜決まってまた慌ただしくしておる。見送りには行けぬがどうせまた会うのじゃからと気にした素振りも見せんかった」
「見送り?」
「なんじゃ。まだ呑み込めておらんのか?」
「……? ……さっきの話は」
「全部本当のことじゃ。可愛い子には旅をさせよとあやつも言っておった。困ったものじゃのう。……こんなところまで丹恒と同じでなくともよいというに。そういうものなのかのう。――達者でな。時折顔を見せるんじゃぞ」
白露はそっとこちらへ手を伸ばしてくる。服の襟元に着いていたフードを引っ張り上げ頭に被せると、顔は羅浮を出るまで隠しておくんじゃぞ、と困ったように笑った。
「……白露」
「どうせいずれ戻ってくるんじゃ。別れはいらんぞ~」
ふい、と白露はそれきり視線を逸らし、青年に背を向けてしまった。もう喋る気もないようで、軽く手を振ってこちらを見ることもしない。「行ってくる」と青年は彼女に言って、鞄ともらった箱を手に、こっちだよ、と促してくる景元の後をついていった。
用意されていた星槎に景元と共に乗り込むと、星槎は迷うことなく港へと乗りつけた。その間に、ぽこぽこと通知音と共にメッセージが端末に入り続ける音がずっと聞こえていた。先ほど済ませた軽い別れが本意ではなかったかのように、健康上の注意点や無茶をし過ぎない事、宇宙に潜む危険などについて事細かに追伸が送られてくる。途中で開くのを止めた青年に景元は笑い、落ち着いたら返事をしなさい、と促しながら船のオペレーションシステムを立ち上げた。
「基本的に、停泊して船を長時間離れる時以外はOSはつけたままにすること。重力制御はここ。燃料のゲージはここを見て、あとはここのインジケータが速度だ。目的地を定めた後はオートで運行してくれる。どこかの星に停泊する時はここの識別番号から伝えて――」
「将軍」
「うん? 何か質問かな」
「いや、……その。……白露に聞けないままだったことを思い出して」
「聞けなかったことかい?」
「……餞別だともらった箱に、恐らく、……丹恒のものだと思う、写真や小さな私物が入っていた。その中に真新しい封筒に入った手紙が……あったんだが」
「ああ。あの箱かい? あれは丹恒ではなく、『彼』のものだよ」
「彼? ……、穹のことか」
尋ねると、景元は一度だけ頷く。以前の君がここに戻ってきた時も色々あってね、と彼は言った。
「まあ、機会があればいずれ話すこともあるだろう。……あれは、君の前世が脱鱗する前に彼がおいて行って、彼女がずっと保管していたものだろうね。前に彼女が話していたのをまだ覚えている。中に入っていた手紙であれば――一つ心当たりがあるかな。恐らく、太卜が彼から受け取ったものだろう。仕事の都合で彼が羅浮を発つ前に最後に逢ったのは太卜だった。彼女は彼のこの先の旅を占い、そして彼は彼女に、『白露に渡して』と、紙切れを預けたと聞いている。何が書いてあったかは太卜と彼女しか知らないから、私は君にこれ以上の答えは与えられないな」
「……ありがとう。十分だ」
「そうかい? ……――じゃあ、準備が済んだらハッチを閉めて、手順通りに発進シークエンスに進みなさい。君が発つまでここで待っているから」
彼はそう言うと、僅かに目を細めて笑い、そのまま船を出ていった。青年はしばらく中の椅子に腰かけていたが、メインモニタの隅に映った景元が本当に自分が発つまでそこにいるつもりだと気付き、こうしているわけにもいかないか、と作業を進める。青年は鳴り響いた通知音に、はい、と答えて通話に応じた。早く出んか、と聞きなれた声が怒り出す。
「……いま船を出す前で忙しいんだ。急ぎじゃないなら後にしてくれ」
別れはいらないんだろう、と青年は声に尋ねる。白露はそうは言ったがのう、とどこか不機嫌そうな声のまま、『色々と言い忘れておったことが次から次へと』
「……さっきまで届いていたメッセージでも足りないのか」
『うむ。足りぬな。あ、最低でも三日に一度は連絡をするんじゃぞ。そうじゃ、珍しいお菓子はいつ送ってくれてもよいからの。たーっぷり送ってくれ』
「善処する。……俺も一つ聞きたかった。中に入っていた穹の手紙なんだが、……あれは」
『あれは――しまう場所もないから一緒にしておっただけじゃ。あやつからの最後の連絡はメッセージで、取ってあるものは全てぬしに渡しておいてくれという託だけじゃった。そこから、何を送っても返事がないから、まあ、そういうことなんじゃろう』
「……彼が最後にどこにいたか知っているか?」
『うん? そうじゃなあ……最後はどうかはわからぬが――』
聞きながら、青年は目的地の座標を定める。今から向かったところで、最後に彼と会ったのはもう数年前の事だ。形跡はとっくになくなっているだろう。目的地を定め終わり、オペレーションが次の段階へ進む。まだ続く白露の声を右から左へ聞き流しながら、青年は手を伸ばし、持ってきた箱をもう一度開く。中にあった三人が映った写真を一枚取り出して、そのままコンソールの隅にそれを置いた。なんだか酷く懐かしいものを見ている心地だった。
船が静かに浮き始め、メインモニターに映る景色も変わり始める。出発の汽笛の代わりに流れ続ける小うるさい聞きなれた小言の数々をまだラジオのように流しながら、青年はこちらを見上げたままそこに立っている男に、見えていないと分かって軽く手を振った。
船が傾き目の前が蒼穹に染まる。星槎よりも高く船が浮き上がる。この地の空が存外に広大である事を、今の今まで青年は知らずに過ごしていた。
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