長い夢を食べて待ってた




 疲れた、と目的地に着いてそう呟いた途端、どっと足が重くなった気がした。
 穹は迷うことなく医者市場を横切る。少し遠くからも、朝靄の中に凛と咲く花の如く、竜胆色の長い髪の少女が見えていたから。足音に気付いて、待ち構えていたように人気のない医者市場でぼんやりと、隅のテーブルに掛けていた彼女もこちらに気付く。軽く手を上げてきたので、穹もまたそれに答えるように手を振り返した。
 あの部屋に青年を置いてきてからもずっと、思い出した記憶がいくつもいくつも湧いては消えて、頭の中で響く声が煩いくらいに賑やかで、足元がどこかふわふわしていた。長い距離を歩く間疲れを忘れ休憩一つ取らずにいられるほど。どかっ、とわざと音を立てて座ると、なんじゃ、態度が悪いのう、と彼女は素知らぬ顔をして穹に答えた。恐らくあの青年から、彼が長楽天に居ることは知らされていて、そして彼が、穹を尋ねていたことも彼女はもうわかっている。だからこそ、あのなあ、と言いたいことが山ほど溢れてきたが、ひとまず一旦すべてを飲み込んで、ため息で手を打った。
「どーいう教育してんだ」
「ふむ? 教育というと?」
「あいつだよ。襲われたんだけど?」
「なんじゃ。流されてヤったのか? 昨日の今日で? ぬしも手が早いのう」
「するわけないだろ。今の、従者が聞いたら後ろに倒れるぞ。あんなに無垢だった龍女様が下世話なことをとかなんとか」
「はっ、何も知らん小娘のままだと思うておる者など、もうこの羅浮どころか仙舟にもおらぬわ。それで卒倒するくらいならばそのまま寝かせておいて問題はないぞ。……で、あの子は? 一緒に来なかったようじゃが」
「宿に置いてきた。今頃龍女印のクマも十五秒でコロリ速攻麻酔薬でぐっすり」
 あの薬は丹鼎司で治療を受け、外に出る際白露にもらったものだった。そんなもの持っていてどうする、と白露は不思議がっていたが、何かあるかもしれないだろ、と説き伏せて無理に一粒だけもらってきたのだ。最近、体もうまく動かないのに相変わらずのトラブル体質だし、と続けると、それもそうか、と白露はそれ以上追及せずにすぐに薬を渡してくれた。使ったのか、と白露は驚いたようにほう、と頷く。
「あの子には耐性が付いていたから少し効きにくかったじゃろう」
「三十秒くらい押さえてたけどその所為? なんで耐性あんの」
「万が一があってはいかんからのう。毒を少しずつ食事に混ぜて慣れされておった。暴漢にでも襲われ、眠らされて連れ攫われる危険性も考慮して、麻酔・睡眠薬方面もばっちり対策済みじゃ。手術の際には少し手間取るだろうがの。おかげで数回よからぬことを企んだ連中に拉致されても、無傷の上、自力で伸して帰ってきておる。他にも、ありとあらゆる宇宙の流行り病の予防接種を打ってあるんじゃが、おかげさまで風邪の一つ引かぬ超・健康優良児じゃ。わしの教育の賜物じゃの~」
「どーいう教育してんだ」
 まさか使うことになるとは思わなかったんだぞ、と穹は白露にそっと前に差し出された茶杯を手に取る。中に入っているのは透明な液体だった。ほのかに酒精が香る。飲む前にテーブルに戻した。
「酒じゃん」
「晩酌じゃからのう」
「もう朝だろ」
 夜通し洞天を渡り歩いて丹鼎司に辿り着く頃には、すっかり夜も明けようとしていた。まだ誰も起き出してこないほど速い時間だ。白露は寝間着のままだった。さっきまで寝てたのか、と尋ねると、いや、と緩く首を振る。眠れずに夜通しここにおったのじゃ、と。何やら騒動があったときいておるが、と続けて尋ねられる。
「まさか、ぬしが来た途端あの子が朝帰りとは……」
 品行方正に育てたのに非行とは、これが遅れてきた反抗期、子の親離れ、親の子離れかのう、とわざとらしく白露がため息を吐く。一度穹をちら、と見て、「さすがわしの悪い友達じゃ……」と御猪口をくいっと傾けた。
「は? 語弊しかない! 俺は何もしてない! むしろされた方なんだけど!?」
「ふむ。なんじゃ、穹、やはりぬし、あの子に手を出したのか? 尻が痛いのなら、いつぞやのように治してやってもよいが……わしの医療技術は今や仙舟随一。高つくぞ」
「だから何もしてないって!」
 声だけが空しく周囲に響く。穹はそれではあ、と一度我に返って息を吐き、そのままテーブルに突っ伏した。ごん、と額がテーブルにぶつかる。
「……危なかった。丹恒に似すぎ。耐えた。褒めてくれ」
 それを聞いて、「よーしよーし、えらいの~。丹恒と同じ顔同じ声で迫られたのに耐えたとは。見上げた根性じゃ。ぬしもそれほど一途じゃったとは」とすぐに頭に手が添えられる。くすくすと笑いだす。慣れたものだ。わしわしと軽く髪を乱すように白露は穹の頭を撫でると、ふと、頭に置いたままその手を止めた。あの時は、と口火を切る。
「……丹恒も、不完全な脱鱗じゃったからのう。原因は不明じゃが、あの子が丹恒に酷く似ておるのも、きっとその所為じゃろうな」
「……でも、別人だ」
「まあ、持明族の間では『そういうこと』になっておる。長命種の連中からすれば、記憶を失っただけの同じ人間、という見方をする者もおるがの。……ぬしが何度も何度も鱗淵境まで逢いにくるから、丹恒も早く出たくてたまらなかったんじゃろうな」
「え!? 俺の所為!?」
 突っ伏していた頭を上げて穹は問う。白露は一瞬驚いたように目をきょとんとさせて、ふ、っと小さく笑った。
「さあのう。――で? あの子に告白でもされたから、もう羅浮を離れるのか。もう来る気がないと言うのに?」
 薄情な奴じゃのう、と白露は揶揄うようにそう言う。尋ねられて、穹は思わず言葉を用意出来ないまま黙り込んだ。白露が傍らに置いていた長細い機械に触れる。宙に浮いた光る文字が、彼女の指の動きに合わせて上下に動いた。
「今回の検査結果が出たのでまとめておいた。ぬしにも一応、伝えておくべきじゃと思うてな。――内臓の活動量から察するに、持ってあと数か月じゃな。一年は持たん。本当に羅浮を出るのか? その後は。渡り歩いた星間をまた気ままに辿って客死する心づもりか」
「まあ、『家』なら今ごろどっかを走ってるからなー。でも、白露も好きにしろって言ったじゃん」
「それは――……、まあ。そうじゃがな。ぬしはそれを自分で決められる。ならば最後まで自分の望むようにした方がよかろう。――、……穹」
「ん?」
 少し改まった声だった。なんだよ、と続けて尋ねると、白露は少し迷うように視線を揺らす。テーブルの上で手を組む。指先を遊ばせながら、その、と口を開いた。
「ぬしはあの子と……もう関わるつもりがないじゃろうが。無理を承知で言う。――あの子を外へ連れてやってはくれぬか」
「何で?」
「あの子は……あの形(なり)の所為でのう。既に、脱鱗時に隠しておったもろもろも、とっくに一族には知られておる。今はわしが族長故、将軍からの圧力も利用してうるさい老人どもの話を止めておるが、老人どもの意思を継ぐ若い者も後を断たん。わしの脱鱗後はあの子を次の龍尊にと動く者もおるじゃろう」
「……? それも止められるなら黙らせとけばいいだろ」
「そうもいかん。わしも、今となってはいつ脱鱗するかわからんのじゃ。……将軍も、あの子を特別扱いは出来ぬ。あの子の師である彦卿もそこまでの権力はない。ただの剣バカじゃ。外へ出るために申請を出しても、どうせあちこちに潜んでおる者たちにあれよこれよと理由をつけて棄却され、いつまで経っても許可が下りぬのが関の山じゃ。そうなるくらいなら……」
「俺が連れてけって?」
「……ぬしはこの船では特別じゃからのう」
「抜け道扱いか。過保護~。……ってかなんで?」
 羅浮で過ごしているのだ。時期龍尊にさせるつもりがないというのなら、今のうちにそういう取り決めでも作って置けばいいだろ、と穹は尋ねる。それはそうするつもりじゃが、と白露が返した。
「ぬしには言ったことがなかったな。……他ならぬあの子が、いずれは羅浮を出、星間を旅するつもりでおるのじゃ。じゃから護身のための武術を身に着けようと、彦卿を師としておる。雲騎軍に入らぬのも、わしが衣食共に世話をしてやっておるがそれでも勝手にどこかで日銭を稼いでおるのも、いずれここを出るためじゃ。どうせ出ていくのであれば、わしがまだ龍尊である間、尚且つ将軍が魔陰に落ちる前の今がよかろう。まだその兆候はないが、あやつももう平均的には、そう長い時間が残されているわけではないからな」
「――なるほどな。……でも、そうやって連れ出しても、俺もあいつのこと一年経たずに放りだすんだぞ。そっちの方が酷だろ。お断り」
「ふむ……。まあ、そうじゃろうと思った。仕方がない、自力で何とかさせるか」
「そうそう。可愛い子には旅をさせよって言うじゃん。過保護すぎるのもよくないと思う」
「旅なら次のわしにもさせてほしいものじゃがの~……――ん? なんじゃ。この手は」
 ん、と差し出していた手に白露が問いかける。染髪剤かウィッグと、服頂戴、と穹は手を動かしながら彼女に言った。
「すぐに行くっていっても、最後にみんなと話すくらいは、やっぱりしたいだろ。すぐには気付かれないだろうからとりあえず変装する」
「……安い餞別じゃのう。――待っておれ。あの子の非礼の詫びに用意させる。新しい宿もな」
「どーもありがとう。白露お姉ちゃん」
「お安いご用じゃ。……それと、あの子にはしばらく丹鼎司でわしの仕事をさせる。その間に方々に別れを済ませるとよい。ぬしも知り合いが多いからのう。数日かかるじゃろうて」
「よくわかってんじゃん」
「ぬしとの付き合いも長くなってしまったからの。……もうぬしから外の話を聞けぬのが少し心細いが、まあそれも仕方があるまい。むしろ長続きした方じゃ。ぬしはてっきり短命種じゃと思っておったから、これは……嬉しい誤算じゃった。さっきの診療結果はあとでぬしに送っておく。お守り替わりにするんじゃぞ。――友よ、末永く元気での」
「うん、まあ、もうちょっとだけ謳歌するよ。……てかさ、どうせ外に出るなら外の話くらい、あいつに聞けばいいじゃん?」
「……、それもそうじゃの」
 ふ、っと白露は笑って席を立つと、従者の名を呼びながら、一旦医者市場からほど近い診療所兼自宅の奥へ歩いていった。朝もやが白く立ち込める医者市場に、不意にぽつ、ぽつ、と不意に小さく雨音が響く。鼻先にも冷たい感触があった。
 小雨のようで本降りではない。端末から確認してみたが、羅浮の天候管理スケジュールに雨の予報はない。テーブルの上の茶杯の中にも波紋を作り始めたそれを、穹は静かにただ見つめる。どうせ着替えるから、と雨宿りもせずにそのまま白露を待つことにする。そうやって静かに雨が降る間、白露はしばらく戻ってこなかった。
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