長い夢を食べて待ってた
「あの。……以前、どこかでお会いしましたか」
ふは、と思わずその言葉に吹き出してしまった、とばかりに、その灰色の髪の青年は、無邪気に、胸の奥がくすぐったくなるような顔で笑う。笑うでない、とテーブルの下で龍女様が軽く彼の膝を蹴り上げる。彼は数秒その言葉をまるで慈しむかのように僅かに目を細め、「ロマンス小説なら百点」と、そう答えた。
*
古海を臨む展望台に、見知らぬ人影が立っている。
彼はよくその展望台が見える場所を通っていたから、その昨日と違う違和感にはすぐに気付いた。誰だろう。見た所仙舟の者ではないようだ。服装が浮いている。殊俗の民も時折丹鼎司を訪れるが、数十年の騒動から絶えず忌み物が徘徊し、廃墟となってしまった住宅街に訪れることは少ない。既にここに住んでいた者は新しく作られた居住地にその棲家を移し、この場所へは古い資料を探しに来た丹士や、忌み物相手に武芸の鍛錬をする自分くらいしかやってこないのに。
もし迷ってここに辿り着いたのであれば、行って星槎乗り場まで送った方がいいだろうか? つい数日前、書庫の整理中に運搬事故が起き、禁書のいくつかが逃げ出したところだ。どうせこの辺りにいくなら、と捜索を頼まれていたがなかなか見つからない。サボったわけではないが人助けの方が優先されるべきだろう。青年はそっと柵を飛び越え下段へ降りると、風を受けながらぼんやりと海を見ている青年に近づいた。
灰色の髪。黒を基調とした服。目が覚めるような黄色の飾り紐。あの、と後ろから声をかけようとしたところで、青年の足音に気付いた彼は、ふとこちらを振り返ろうとする。だが、それより先に「穹!」と聴き馴染んだ声がした。青年は声の方へ視線を向ける。
「白露様?」
何故ここに、と疑問符を浮かべたところで、あっ、と彼女が何故か叫んだ。その瞬間、たっ、と音がして、すぐ真横を風が通り抜けていく。目の前にいたはずのあの影が消えている。目を点にしたまま青年は自分の横を通り過ぎ、走り去っていった灰色の髪の青年の背中を見ていた。はあ、とそれを見て白露が小さく息を吐く。
「……? 急いでいたのか?」
「……――、……まあよい。これ、ぬし、ここで何をしておったんじゃ。言っていた禁書は? 見つかったのか?」
「いや。見つからないので一度帰ろうとしていた。先ほどの彼――殊俗の民が、ここに迷い込んだものだと思って……星槎乗り場まで案内しようとしていたところだ」
「――、奴は儂の客人じゃ。案内はいらん。羅浮にも何度か来ておる。しばらくは滞在するようじゃが……――おお。そういえば彦卿が曜青から戻ったそうじゃ。不在にしていた間の鍛錬の成果を見るから、夕方神策府に来るようにと使いが来た。あやつが不在の間は景元将軍がぬしの稽古をしておったと知ったようでな、機嫌が悪いから覚悟して向かった方がよいぞ」
「……そこはメッセージで問題ないと思うが。何故?」
師匠は遊び心はあるが感性はまだ年若い仙舟人たちと同じで古き良きを好む性格というわけでもない。最近は部隊を率いて羅浮の他の仙舟同盟の船に向かうことも多々あるが、その間も連絡はずっとメッセージ機能を用いていた。それがのう、と白露が続ける。
「どうやら遠征中に端末を壊したらしい」
「なるほど。わかった。……それにしても――夕方? 今すぐじゃないのか?」
「恐らく今は『客人』の相手に忙しくするつもりなのじゃろう。ほれ、ぬしはもう少し禁書を探さんか」
無くなったのは一体誰のせいだと、と口から出かかったが、青年はぐっとその言葉を飲み込んで、わかった、と彼女に頷いた。たまに木の枝にひっかかっておる、と白露は助言一つを残し医者市場の方角へと戻っていく。護衛のひとりつけていない所を見ると、どうやら勝手に散歩に抜け出してきたらしい。脱走は彼女がまだ幼い頃からの癖だそうだ。
知った声もいなくなってしまい、青年は一人、誰の姿もなくがらんとした展望台を進み、柵の近くまで歩いていった。古海の海は今日も変わらずどんよりとした深緑で、風が吹くたびにその波を白く粟立たせている。望む海の向こうに鱗淵境と呼ばれる場所がある。青年は生まれた直後までそこにいたらしいのだが、再び目覚めてからその地を知らない。今は海の中にある、と白露は言う。脱鱗した持明族の卵が、その静かな海の下で、今もいつ目覚めるとも知らず長い夢を食べている。
持明族というのは殊俗の民と同じように雌雄間で生殖を行うことなく、子を成さず、寿命を迎えると真珠のような卵に戻る。そしてその中で再び生まれる日を待ちながら、長い長い夢を食み次の自分になるまで静かに過ごすのだ。卵というのはどういった状態のことなのかを青年は知らなかったし、行ってみたい、と言ったこともあるが、唯一その場所までの道を開くことが出来る白露は、やんわり、のらりくらりとそれを今の今まで躱し続けている。青年はひとまず禁書探しを再開しよう、とふっと踵を返した。
青年――彼は、前世の名を「丹恒」という。
普通、その当人が残した記録や、自ら知ろうとしなければ、次の自分に前の名や功績はなかなか伝えられないものだ。だが、彼の場合は――うっかりとある重鎮が、彼の名を間違えて前世の名で呼んでしまったため、思いがけずその名や功績を知る所となった。
その時の彼らの傍にいた側近の顔と言ったら、十数年経った今でも思い出してしまうほどで、「景元、あなたね」と羅浮の太卜を務める彼女は信じられないと言った表情で彼を睨んでいたし、我らが龍女様は呆れたような顔で彼を見上げていたし、彼を師とする――また、現青年の師である彦卿は、なんとも言えない表情をして、にこにこと微笑んだまま場を切り抜けようとしている重鎮を睨み、この気まずい雰囲気を、さて、と手を叩いて断ち切っていったものだ。
前世である「丹恒」は、羅浮で生まれた持明族で、そしてナナシビトとしてその生涯の大半をこの船の外で過ごした。らしい。彼についての記録はナナシビト達、そして彼らが乗っていた星穹列車と呼ばれる列車のアーカイブにあり、青年はそれを自身の力で手繰ることが出来なかった。また、羅浮にも彼の記録は残っていない。だからこの話は、青年が周囲の者たちに聞いた話から得た情報で、彼らの話の中には幾らかの虚飾があるのを青年はうっすらと理解していた。その彼が紆余曲折あり、最後には故郷である羅浮に戻ってきたようで、巡り巡って自分がここにいるということだけが唯一信じられる本当の事だ。
青年は脱鱗時に通常よりもずっと早く卵から出てきた。本来ならもうあと数十年は出てこないはずだったのだ、と龍女である白露からはそう聞かされている。そのため、幼少期はことあるごとに彼女に呼び出され健康診断という名の世話話を聞き、茶の相手をし、時折薬学を教わり、医術を教わり、昔話に耳を傾けた。健康体だ、といくら言ってもそのやりとりが続くものだから、青年はそのうち、健康診断というのは建前で、彼女はただ自分と共に過ごしたいだけなのだと悟った。彼女が殊俗の民でいう育ての親であることは疑う余地もないのだが、龍女というのはこの丹鼎司では極めて多忙な役職で、青年はその幼少期のほとんどを、彼女に――というよりは、彼女の世話役である別の人間に世話を焼いてもらっていた。
体が丈夫であるとわかると、「僕のところで武芸を習ってみない?」と師である彦卿が青年の元を尋ねて来た。彼は羅浮の重鎮である景元将軍の弟子で、剣術を得意とする雲騎軍のエリートだ。白露は最初、その話を聞いた時にソーダ豆汁を飲んだ時のような、酷くしっぶい顔をした。曰く、
「こやつは丹鼎司でわしの弟子にするのじゃ。雲騎軍には絶対にやらん!」
とのことである。それをたまたま居合わせて聞いていた太卜が、あら、そういうことなら、と口を挟んだ。
「太卜司に入れるのも候補の一つよ。彼は粗雑なところがあるけれど、直感が鋭くまた根は真面目だわ。未だに仕事をどうやってサボろうか要らぬ方面で努力を続けている部下より、よっぽど卜算を教える甲斐がある」
「ならん! やらんぞ、絶対に太卜司にはやらん。ぬしの所から年に何人仕事中毒で運ばれてくる輩がいると思っとるんじゃ」
「あら。数えるほどでしょう」
「どいつもこいつも新人はぬしの真似をして~……。働き過ぎじゃと何度言っても聴かん。こやつも真に受けて仕事中毒になって倒れたらどうしてくれるんじゃ」
「白露。俺はそこまで脆弱ではない」
「ぬしは黙っておれ」
「あーあー。いけないんだ~。龍女様ってば、自分が初めての世話役だからって、猫可愛がりしちゃってさ。そもそも、こういうので大事なのは本人の意志でしょ?」
で、君はどうしたい、と彦卿は青年に尋ねた。青年は暫し考えた。彼には今でもよく見る夢がある。
「……俺は」
いずれ羅浮を出て、星海を旅したい、と話した時、彼らはそろいもそろって、ああ、と一様に誰かの事を思い出すような表情をした。それに対して、夢があるのはよいことじゃ、と白露は言い、そして続けて彼が彦卿に言った、「そういうわけで、いずれ外に出るのであれば武芸の一つ身に着けて置いて損はないだろう。雲騎軍に入るつもりはないが、武芸を習いたい気持ちはある。師になってもらえるなら、彦卿さま、あなたの元で武芸を極めたい」という言葉で、ぶー! と勢いよく、口にしかけていたお茶をすべて青年の顔に吐いた。
そんなことがあってから、青年は彦卿の元で武芸を習っている。彼は元々剣の達人だが、何故か青年には槍術を教えてくれている。これは君の、と渡された槍はかつて仙舟にいた名のある短命種の名匠が打ったという槍で、元々は「丹恒」の持ち物だったらしい。彼が槍術が得意だったかどうかはわからないが、その槍を持った時に、自分の元へそれが「返ってきた」という妙な感覚を覚えた。そのことを青年はずっと誰にも言えないままでいた。
槍はそんなに得意じゃない、と言いながらも彦卿は何一つ手加減せず、今のところ一度も勝てたためしがない。何でも、武器を手にしているところを見たことはないが、あの景元将軍が手にしていたのは長柄武器だったようで、たまに稽古をつけてもらっていたらしい。負けてくれないのは、あの子は負けず嫌いなところがあるからね、と彼の師が他人事のように言っていた。
白露に言われた通り、青年は目についたところにある木の上を見上げ、そこに何の本も引っかかっていないのを確かめた。念のため登ってみるか、と近くの塀へ飛び移り、足場にして木の枝を掴む。しなった枝が体重で撓み折れてしまうまえに幹の方へ進み、青年はそのまま太い枝先へと飛び移った。
葉の中にも本は見当たらない。第一、勝手に鳥のように翼を広げて飛ぶわけでもないのに、こんな風に木の上に引っかかる事なんてあるのか、と疑問符を浮かべながら青年は一度息を吐く。あの様子ではまだ一冊も見つかっていない可能性もある。せめて一冊くらいは見つけて帰らないと、結局戻ってもまた探しに行けと言われてしまうだろう。丹鼎司の中で恐らく今一番時間があるのは自分であることを、青年はよくわかっている。
「……奥までいくしかない、か」
こんな場所まで本が一人歩きをするわけもないのだが、人ではなく忌み物が勝手に運んでいくこともあるらしい。偶然は時に思いがけない方向へ転がり、想像しえない結果をもたらす。青年は昇ったばかりの木から飛び降り、そして――ドッ、と受け身を取る前に邪魔をされて、誰かと共にごろごろと転がった。ってぇ~……、と痛みに呻きながらまるで青年を庇うように抱き留めていたのは、先ほど逃げるように目の前からいなくなった、あの灰色の髪の青年だった。
*
怪我をした彼を丹鼎司に戻っていた白露に渡し、青年は再び禁書探しに向かおうとして――それを引き留められた。なんでも、白露に来客が来てしまい、彼のために薬の処方をする丹士の飽きがないらしい。処方箋通りに作れば問題ない、と彼女はそういって、処方箋をさらさらと書きつけると、たのんだぞ~、と何故か妙な表情をしたままのあの彼と青年を置いて、その場からふっと去って行ってしまった。
先ほどは後ろ姿しか見ておらず、顔は碌に見ていなかった。顔を見ると彼の事をどこで見たのか漸く思い出した。昨日、白露と共に医者市場で茶を飲んでいた青年だ。そして、何故か感じた寂寥感と懐かしさと安堵が入り混じったような、妙な感情を発起させられて、「あの。……以前、どこかでお会いしましたか」と尋ねてしまった、あの。
彼は青年の問いかけに、笑いながらロマンス小説なら百点、と答えた。その答えの意味を、青年は何一つ理解出来ていない。
確か白露は彼の事を、キュウ、と呼んでいた。どのような字を書くのかはわからなかったが、白露が残していった処方箋と彼のカルテを見て理解した。大空という意味の字を書く。穹。何故かずっと前からその名を知っていたような気がしたし、とても大切なもののように思えて仕方がなかった。
何故この男に対してそのような気持ちを抱くのだろう? 青年は何もわからないまま、ひとまず白露に言われた通り客人をもてなそうと――いや治療しようと、彼女が書き置いていった処方箋通りの薬草などをかき集め、手順通りに薬を作り出した。
その間、穹はずっと部屋の隅で静かに座っていた。時折こちらをじっと見るが、青年がその視線に気付き顔を上げると、ふい、とすぐに視線を逸らしてしまう。何か言いたいことがあるのだろうか? 昨日のあの問が気に障ったのであれば改めて謝った方がいいだろうが、向こうの真意を図りかねて結局黙ってしまう。しばらくは、青年がすり鉢で乾いた薬草を砕く音だけが部屋の中に響いた。
しばらくして、言われていた薬が出来上がった。怪我は擦り傷のはずなのに、何故服薬の必要があるのかはわからないが、白露が必要というのだから何かしら他に患っている箇所があるのだろう。出来上がった丸薬を彼の前に持っていき、一緒に水を差しだすと、彼はその丸薬を苦々しい顔で見つめた後、青年の顔を見て、それからまた丸薬へ目を落とした。
「……薬、作れるのか」
「? はい。白露様に叩きこまれたので、処方箋通りに作ることくらいであれば。今見ていたのでは?」
「それはそうだけど……。……苦い?」
「おそらくはとても」
「ええ……」
やだなあ、と顔にはっきりと書いてある。子供のような表情だった。胸が少しくすぐったくなる。彼は渋々、差し出した丸薬を一つ手に取ると、しばらく口に含むのを躊躇うように待った後、思い切り口をあけそこに丸薬を放り込み、舌に苦味が伝わる前にぐっと水でそれを飲み干した。舌先に残った微かな苦味にも、うえええ、と彼は喉元を押さえソファに突っ伏していく。渡したグラスの中の水は空だ。青年は水差しから新しくその中に水をつぎ足し、「どうぞ」と再度彼にグラスを差し出した。涙目で顔を上げた彼は、差し出されたグラスと、また青年を交互にじっと見て、ありがと、と短い礼と共にそれを受け取り、舌を口の中で洗うように、もごもごと動かしてから水を飲み込んでいった。
水で舌先の痺れるような苦味を薄くしたところで、青年はこれを、と彼の手にそっといくつかの飴玉を握らせた。彼は掌に置かれたそれをきょとんとして見つめた後、また青年と飴玉を交互に見――、そして、「……ありがとう」と何故か先ほどよりずっとぼんやりとした様子で頷いた。
「穹様」
「……穹でいい」
「では、……穹? 少しこちらを向いてくれ」
「?」
本当に先ほどの薬が苦かったのか、彼の目尻にうっすらと涙が滲んでいる。青年は手を伸ばしてそれを拭った後、触れた指先をそっとそのまま頬をなぞるように動かした。穹は目を見開き、ぽかんとしてこちらを見上げている。何をされているのかよくわからない、というような顔だ。青年もまた、自分が何をしているのかよくわかっていなかった。ただ、何となく――触れてみたかった。触れるべきだと無意識が手を勝手に動かした。はっとして手を引っ込めて、青年は言い訳を探すように時間を確かめた。
「……そろそろ師匠に呼ばれているので、神策府に行かなければいけなくて。白露様もそろそろ戻るでしょう」
「え、あ、……あ。うん……」
「……しばらくはここに?」
「えっと、……まあ、うん。長楽天に宿を用意してもらってる」
「そうですか。白露様もあまり友人のいない方なので、滞在中時間があればまた茶でも飲みに来てください。……――あの」
「うん?」
「穹は、何回かここへ来て、……いますよね」
ただ、今まではこんな風に会話を交わすことがなかっただけだ。もしかすると、自分は今まで彼から遠ざけられていたのだろうか? それとも、彼の方が自分を避けていたのか? 考えすぎかもしれないが、何となくそんな気がした。
「……そうだけど」
「鱗淵境に行ったことは?」
「――……、」
尋ねた青年に、彼は何故か答えを失くしたように黙り込んでしまう。ふと部屋の扉から、神策府から使いの方が、と白露の従者が呼びに来た。どうやら時間らしい。青年は今行く、とそれに答え、「では、……もしまた話す機会があれば」、とここを離れるのが名残惜しい、と感じてはいたが、結局はその気持ち毎ふりきって踵を返した。
どうしてこんなにも後ろ髪を引かれるのだろう? 今まで何に対しても、こんな風に感じたことは殆どなかったのに。
彼を知っている。何故か、そう思う。何も知らないのに、知っている。待っていた。彼が来るのを、ずっと待っていた。そんな気がしてならなかった。どうしようもなく、理由もなく湧き上がってくるその衝動を、青年はまるで自分のものとは思えないまま、振り切るように廊下を軽く駆けた。
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