長い夢を食べて待ってた




 庭の池の中に映り込んだ星が流れ、あ、と穹は思わず顔を上げた。長楽天の夜は更け、宿から少し離れた場所からは仕事を終え各々帰路に着き、或いは家路につく前に今日の働きを労い合う明るい声が響いてくる。先ほどから池の傍で空になってしまった茶杯を放さず手慰みにしている穹に、青年は何も聞かずに傍にただ佇んでいる。
 何でいるんだ、と顔を合わせた瞬間にそう表情に出ていたかもしれない。青年はやってきた穹にどこかそわそわとした様子で、じっと穹が目の前の席に腰掛けるまで待っていた。そのうち、フロントで言っていた茶を手にやってきた従業員がどうぞごゆっくり、と軽く会釈をして去ってしまったから、すぐに追い返すのもなあ、と結局それから大した会話もなく隣に佇んでいる。何をしに来たんだ、と尋ねると、彼はお届け物を、と答えて、半紙に包んだ茶菓子を一つ手渡してきた。
 たったこれだけのために、というのは彼の建前で、本当はただ自分に会いに来ただけなのだろうな、という確信はあった。ただ、何故彼が自分に会いたいと思っているのかまではわからない。聞かない方がいい気さえしている。
 だから話題をこちらから降ることはしなかったのだが、まさか向こうもだんまりだとは思わなかった。そうだ、丹恒は決めたら迷うことはしない、思い切りがあるけれど、何も全く迷わないわけではないのだった。昨日今日あったばかりの人間、それも自分の周囲の人間との知り合い。もうずっと前から羅浮には時々訪れていたのに、今まで碌に顔を合わさずにいた「誰か」。
 喧嘩をした時とはまた違う。思い出しているのは、いつだったか、丹恒が初めて本当の姿で目の前に現れた時の事だった。あの時も丹恒は何か聞きたいことはないか、と尋ねてきたけれど、聞いたところで彼は絶対にそれがどんな内容であったとしても答えてくれるだろうから、結果、話を聞き出すことになると気付いてただ首を振った。言いたくないことは言わなくてもいい。話したくなったらいつでも聞くから、話したいと思った時に伝えてくれたらそれでいい。
 蓋を開けてみれば、頻繁ではなかったとは思うけれど、自分と彼は色々なことを話した。他愛もない事、思っていること、心の奥にしまってあったこと、そうやって話している間にもふつふつと湧いてきたこと。
 隣にいるのに今目の前のお前じゃないお前の事を考えている、と言ったら、彼はどんな顔をするんだろう。穹は彼が今どんな顔をしているのか見ることも出来ないままただ水面を覗き込んだ。そうやって覗き込んだ水面の上に、すっと一つ影が増える。いつの間にか近づいてきていた青年が穹のすぐ隣にしゃがみ込んでいた。
「……。蓮と睡蓮の違いって知ってるか」
「知っています。まず花の高さが違います。葉の形も。蓮は花の後に花托が出来、実をつけます。対して睡蓮は水に浮かんで、花が終われば萎んで水に沈みます。他に、地下茎に空洞がありますが睡蓮はありません」
「これは?」
「睡蓮です。池もさほど深くはなさそうなので」
 続ける質問もなく、一度穹は言葉を切る。青年もまた同じように黙り込んだ。耳がむずむずとする。胸がそわそわとする。同じ声、同じ顔なのに自分に対して向けてくる言葉が他人に向けてくるそれと同じだったから。当たり前だ、他人なのだから。今の自分と彼は。
「……――そろそろ戻れよ。白露の所にいつもいるんだろ。稽古も終わったのに帰ってこないとなると余計な心配するぞ」
「問題はありません。白露様にはここに寄ってから帰ると連絡はしてあります」
「教育が行き届いている……。え? つまりお前が帰ってこないのは俺の所為になるってこと?」
「そういうわけではないと思いますが」
「白露が乗り込んでくる前に帰れよお~もう~。俺はここの宿泊客、お前はノット客! オーケー?」
「客ではありませんが、時折ここの宿に泊まる要人のために宿内の警護や用心棒の仕事を請けているので従業員扱いです」
「屁理屈捏ねだすな」
 なんなんだよもお~、と穹は漸く池から顔を上げた。その瞬間、じっとこちらを見つめていた視線に重なる。射止められる。彼はやっと顔を上げてくれた、とばかりに少しだけ目を細めると、何も言わずにじっとこちらを見つめてくる。
「なに……、そんなじろじろ見るほど俺ってイケメン?」
「恐らくは。俺も好ましいと思います」
「ストレートに好きって言えよそこは」
「嫌がるかと思ったので」
「俺が今一番嫌なのはお前のその喋り方だよ……」
 やべ、言っちゃった、と口にしてから口元を手で覆う。様子を窺うように青年を見ると、彼はまだこちらを見つめたまま、「もっと遜った方が?」と尋ねてきた。違うと分かっているような顔をして。
「……――、もっと適当でいい。友達相手の話し方と同じ感じでさ」
「それは――、……すまない。生憎友人がいないからこれと言った手本がない。他者がいない時の白露に対する態度と同じでも構わないか」
「いいよ、それで。……そうだった、お前の周りほぼ全員羅浮の中ではそれなりに地位のあるのばっかりか……」
 後見人は今代の龍尊である龍女様、師匠は雲騎軍のエース、その師匠の師匠は将軍、太卜も周囲に集まってくる。彼らに従うもの達は青年にそれなりの扱いをしていただろう。
「――で。何で帰らないんだ? お前」
「ただ聞きたいことがあるだけだ」
「聞きたいこと」
 何、と穹はきょとん、として青年に尋ね返す。青年は指先で摘まむように拾った小石を池に投げ入れる穹を見ながら、「卵の前で、離れている間の旅の話をして、時々泣いていたのはあなたか」と尋ねてきた。は、と一瞬呆気にとられ、穹は固まったままぎこちなく顔を上げる。
「泣いてないけど!?」
「旅の話はやっぱりしていたんだな」
「え!? さ、さあ~……? 何のことだか」
「嘘はもっともらしく本当の事のように貫き通せば、吐いた誰かの中では少なくとも嘘にならない。迷うのはあなたが正直者である証左ではあるが、逆効果だ。それも知らないと言えばよかった。……以前の俺と知り合いだったんだろう」
「…………」
「それもただの知り合いではなく、少し深い仲だった?」
「……、ノーコメント」
「あなたが今の俺と話したくないというのであれば、それでいい。あなたからすれば、俺の立ち位置も酷く複雑だろう。あなたが俺を避けていて、周囲にも近づけさせないようにしていたのはもうわかった。でも、その一方でどうしてなのかずっと考えてしまう。……あなたがかつての俺に言った言葉をぼんやりと覚えているから」
「言葉?」
「好きだと。何度も」
 何度も言っていただろう、と尋ねられて穹は答えるべき言葉を何一つ思いつけないまま黙り込んだ。まさか、とそのまま深く息を吐いて項垂れる。
「まさか記憶あんの……?」
「いや。あると言うほど完全なものではない。ただぼんやり、夢のように繰り返し見たものがあるというだけだ。それが自分の記憶であると確信は出来ない、とでも言えばいいか……。時々、夢で見ていた窓の外から声が聴こえていた。恐らくは、あなたの」
 窓、と尋ねると、彼は今でも時々見る夢の事を話してくれる。誰かと向かい合って話をしたり、どこかを旅したり、そういう夢をずっと見ていたし、今も時々見る、と。その夢の中で、時折窓の向こうから声が聞こえることがあった。夢の中にない世界の話。夢の中にいない人々の話。その時彼に起きた事。お前が居なくて困ったこと。お前がいてくれたらよかったのに。別れ際になると少しずつ声が聞こえなくなっていく。でもそこに居たのは分かっていた。窓の向こうに向かって手を合わせるように、冷たいその窓に触れていたから。
「……ま、胎教に読み聞かせっていいって聞くしな。でも、何で俺ってわかったんだ?」
 他の誰かだったかもしれないだろ、と穹は問う。だが青年はいや、とすぐに首を振った。それだけは間違えようもない、と真っすぐにこちらを見つめてくる。
「あなたにまたな、おやすみと言われるのが多分好きだった。ずっと聞こえていた声とあなたのものが同じ気がした。本当は、今になって思えば、初めてあなたに逢った時に、もうあれが誰だか俺はぼんやりとわかっていた気がする」
「……『以前、どこかでお会いしましたか』?」
 揶揄うように彼の言葉を繰り返した。少し照れたように、青年は目を伏せる。
「だから、……多分、俺はずっとあなたに逢いたかった。逢って、何でもいいから話をしてみたかった、……のだと、思う」
 迷惑だったならすまない、と彼は続ける。長楽天に宿を取ってある、という話は彼にもした。だが宿の場所までは教えていない。大方彼を取り巻く者たちの誰かだろう。菓子を渡しに来た、と妙なことを言っていた。それがつい先ほどあの場所で食べ損ねたものであるのなら、彼にここを教えた心当たりが二人。そのうち、恐らくこの方法まで伝えたのは一人だけ。一方は回りくどい事が苦手だろうから、きっとこんな妙な口実は用意しない。
「てことは将軍か~……」
「便宜を図ってくれるというので頼ってみたんだ。……あなたが長楽天に泊っていると言う話を思い出して、例えばどうやって会いに行けばいいかを尋ねたら、残っていた菓子を指さして、本来出すはずだった客人に持っていくのはどうかと言われた」
 宿泊場所がどこかは師匠が知っていたから、と彼は続ける。はあ、と零したため息に、青年はほんの少しだけ膝頭の上の指先を落ち着きなく動かした。別に怒ってるわけじゃない、と
「人を頼れて偉いな。おにーさん嬉しくて泣いちゃいそうだよ」
「何故泣く必要が?」
「前のお前は人を頼れるようになるまで時間がかかったから。やっぱこういうのって環境もあるのかな。……で、もう結構話したろ。そろそろ帰らないと」
 促すが何故か青年は黙り込む。まだここに居たい、とその顔に書いたまま。穹はそれを見て眉を下げて笑って、自分でもどうするのが正解なのかわからないまま一度黙りこんだ。話したいことはある。でもそれが、丹恒になのか、それとも「彼」になのかは自分でもよくわからない。
 だが、「……他に聞きたいことは」と、気付けば続けてそう尋ねていた。彼は帰れと言われて池の方へ向けていた視線を再び穹へ向ける。だが――彼が開きかけた口は、何かを尋ねる前に遠くから聞こえてきた轟音に突如としてかき消された。びく、っと互いに肩を揺らし、音がした方へ視線を向ける。
 先に動いたのは青年の方だった。彼は音に反応して既に反射的に槍を握っており、「あなたはここに」と言い残してすぐに立ち上がる。庭を突っ切って外へ向かう方が早い、と判断したのか、真っすぐに塀へ向かうと、助走を付け走りながら数回、壁を昇るように蹴り、地面から浮き上がると――そのまま屋根の端を掴み、槍の柄を使ってばね代わりにし、宙にくるんと体をよじり跳ねると、ひょい、とそのまま屋根瓦の上に飛び乗った。十点、と叫びそうになる。は、と思わず穹は呆気にとられた。
「ど、どうやったんだ今の……!?」
 あっという間に夜の影に紛れてしまい、青年の姿は見えなくなってしまう。呆然としてしまったが、はっとして穹も踵を返し、宿のロビーへ戻った。丁度カウンターに詰めていた従業員が、何があったのだ、と先ほどの轟音に、心配そうに外へ視線を向けている。やってきた穹に気付き、お客様、とこちらを振り返った。
「外で何かあったようです。すぐに巡回している雲騎軍が駆け付けるはずなのでご心配なく」
「まあそうだと思うけど……ごめん。知り合いが飛び出していっちゃってさ。気になるからちょっと外出てくる」
「ですが……」
「平気平気。もっとヤバイことに首突っ込んだこともあるし。あ、でもお姉さんは念のため外にはしばらく出ないでくれ」
 従業員にそう言い聞かせ、穹は既に夜の中に消えて行ってしまった青年を追いかけるように、騒ぎの中心を探して再び長楽天の街へ向かった。騒ぎは丁度中央の広場の方からだ。甲高い叫び声を上げながら人々が逃げてくるから、場所はすぐにわかった。
「……誰か魔陰にでも落ちたかな」
 仙舟で時折ある、長命種が精神を病み発症する病の一つだ。通常、その兆候が見られたものは治療を受け、或いは狂気に呑まれてしまうその前には拘束され捕縛されるものだが、時折何の兆候もなく発症する者や、時には若者ですら思いがけなく落ちることがある。初めてこの羅浮に足を踏み入れた際はまた状況が少し違ったが、その時と変わらず魔陰の病はこの地から根絶される気配がない。逃げ惑う人々の流れに逆らい走っていくと、その中央に既に姿を化け物に変えてしまった魔陰の身の患者と
それに対峙するあの青年の姿が見えた。
 近くには落下した星槎が数隻転がっている。星槎に乗っていた人間が数人、血を流し気を失っていた。雲騎軍の兵士の何人かが、その星槎に近づいてしっかり、と怪我をし気を失っている民間人に呼びかけている。落下した星槎は見えるところで四隻。なんでこんなに、と状況が飲み込めないまま穹は手に馴染んだバットを取り出した。
 騒動の原因は魔陰の身に落ちたばかりで、まだ自我を半分保ちながらも、今にも狂気に飲み込まれそうになっているようだ。影が呻く。半分化け物になった体からはらはらと葉が落ちては、頭を抱え身悶え、ウ”、ウア、と地面に頭をこすりつける。青年は槍を手にしたままその様子をじっと見、出方を窺うように佇んでいた。
 周囲の雲騎軍は星槎に乗っていた民間人の救助や、周囲の民間人を逃がすために走り出し、まだ事が起きたばかりだからか増援は間に合っていない。少なくとも、今戦うために槍を持っているのはあの青年一人きりだった。
「あれは……彦卿様のお弟子さんか」
「腕が立つんだろう。応援はもう呼んだ。来るまでは持ちこたえてくれる。先にこっちの救護が急務だ」
 落ちた星槎は貨物用の輸送機ではなく人を運んでいたものらしい。玉突き事故でも起こしたのだろうか? すべての落ちた星槎に雲騎軍がそれぞれ一人から二人駆け付けたのを見て、穹は迷わず青年の方へと走り出した。ああなってしまっては既に意思疎通を図るのは難しい。さっさと気絶でもさせて拘束すればいいものを、何故ああやって対峙したままなのか。わからないまま青年の背に追い付く。駆け寄ってきた足音に気付いて、彼がこちらを振り返った。――瞬間。
「ッ……! おい!」
 化け物となったかつての民間人が、咆哮と共に完全に変化した。穹は咄嗟に青年の首根っこを引っ掴み彼の体躯を後ろへ引き倒す。その上を掠るように、変化した影が風圧と共に蹴りを繰り出してくる。穹はもう片方の手に握ったバットでそれをはじき返すと、一旦バットから手を離し、勢いのまま飛び上がったそのバットを、離したもう片方の手で弾き、勢いを殺して掴みなおした。青年がその場にごろごろと転がりながら倒れ、バットに弾かれた魔陰の身を見、すぐに体勢を立て直し槍を構える。先ほどまでの迷いのようなものは既に彼の目になく、青年は続けて槍の切っ先を敵影目掛けて踏み込んだ。
 硬質化した表皮が槍を弾く。続けて穹がバットを振りかぶって殴りかかると、怯んで後ろへ体勢を崩した。すかさず青年が槍の柄を打ち込み、そのまま魔陰の身を地面に引き倒す。起き上がろうとするその化け物の上に躊躇なく飛び、青年は槍をその身の中央に突き立てるように上から飛び込んだ。
 グウウッ、と低いうめき声と共に、自身の体躯に突き刺さった槍を魔陰の身は必死に引き抜こうとする。青年は構わず、ぐり、と槍の切っ先を捻り、ぐあああ、とさらに魔陰の身から悲鳴を上げさせた。ばたばたと数人の雲騎軍が駆けつけてくる足音が聞こえてくる。来たか、と青年は駆けつけてきた影を見、ぱたりと事切れたように気を失った魔陰の身が腕を投げ出したのを見て、漸く一度突き刺していた槍を引き抜いた。はらはらとその体躯から金色の葉が落ちていく。
「何なに!? 何でこんな大事になってるわけ!?」
 駆け付けた声に聞き覚えがある。お、と穹が手にしたバットを軽く肩にかけていると、それに気付いた少女が一人、こちらに気付いて目をまん丸にした。え!? と指を刺したまま固まる。それから、魔陰の身を伸しているのが誰かということにも気付いて、ええ!? とさらに声を上げた。
「に、二代目無口くん!?」
「素裳? その呼び方、世襲制なのか?」
「穹! あんたいつ羅浮に来て……何なに!? これ一体どういうこと!?」
 アタシ魔陰の身が出たって聞いてたんだけど、とこんがらがったような表情で、周囲に落ちた数隻の星槎を見、少女は――素裳は尋ねてくる。状況が飲み込めない彼女に、青年は静かに「来てくれたところ悪いが、そっちはもう終わった」と、さらさらと砂のように消えていく魔陰の身を見降ろしながら答えた。



 事情聴取をするから待ってて、と言われ、穹は青年共に小一時間その場に待機することになってしまった。
 まず星槎に乗り込んでいた雲騎軍の兵士が一人、魔陰の身の兆候なく、急に発作のように狂化し、貨物と共に乗っていた民間人に襲い掛かろうとした。民間人は死に物狂いでその襲撃を除けたが、その際星槎が破損してしまい、飛行機能を保てなくなった星槎は、通りかかった星槎を数隻巻き込みながら墜落した。落ちようとする星槎から魔陰の身が無意識に別の星槎に飛び移り、同じようにその星槎に乗っていた民間人を――という塩梅で、合計五隻の星槎が相次いで墜落した。
 その後は青年や穹が駆け付けた通りだ。完全に自我を保てなくなり、魔陰の身に落ちた者を相手を青年が仕留め、雲騎軍は魔陰の身を彼一人にまかせ先に落ちた星槎に乗っていた民間人の救助を行った。怪我をした民間人たちの生死や安否はまだ耳に入ってこないが、恐らく数人は亡くなっていてもおかしくはないだろう。
 いつもと違う種類の騒がしさが夜にこだまする。騒動があっても店じまいをしなかった茶屋の傍で、穹は青年と共に素裳がやってくるのを待っていた。
 乗っていたたまたま目を覚ました星槎に乗り込んでいた民間人から聞いた話を整理するとこんな感じ、と彼女は疲れた様子で話し終わり、それからすっと青年へ視線を向ける。「君も、あんまり無茶しないでよね。雲騎軍の兵士じゃないんだから、本来は保護の対象なんだけど?」と青年の処遇をどうするべきか、と困ったように眉を顰めた。あれ、軍には入ってなかったのか、と穹も彼に尋ねる。
「師匠も白露も無理に軍に所属する必要はないと言うから、師匠には稽古だけつけてもらっていたんだ」
「そうなの。だから腕が立つのも知ってるんだけど……。ともかく、今日の事は一応君のお師匠様には伝えておくから。アタシは君に小言を言える立場じゃないから後の処遇は彼に任せるね。――それで、穹はいつこっちに来たの? いつまで居るの」
「あー……えっと。来たのは昨日だよ。いつまでいるかは決めてない。素裳は? 他の仙舟同盟に行ったり来たりしてるだろ」
「そう! 丁度明日戻ってきた部隊と入れ替えに羅浮を発つ予定だったんだよ。その準備をしてたところで応援の要請があって……こんな時にと思ったけど君と会えてよかった。まあこの騒動で延期になるかもしれないけど、それならそれで一緒に食事くらいは出来るよね。あ、ごめん。それで、今日はもう遅いし、現場検証も一旦星槎の片付けとか、運んでた物資の確認があるからなかなか終わらないってことで、アンタたちは一旦帰ってもらうことになったの。明日雲騎軍とか、天舶司の方から連絡があると思うけど」
「泊ってる場所は彦卿も将軍も知ってる。そっちは……まあ連絡もつくだろ」
「じゃあ大丈夫かな。ごめん、ずっと待っててもらったのに――ふあ」
 出てきた欠伸を飲み込んで、ごめん、と謝りながら素裳が言う。とにかく今日はもう大丈夫、と彼女は言うだけ言って、また現場の方へと走っていった。
 既に茶屋も店じまいをした後で、椅子は上に上げて帰るから、と頼んでここに滞在していたのだ。穹は素裳から遅れて移った欠伸を噛み殺しながら、腰掛けていた椅子をテーブルの上に上げ、というわけで帰るか、と青年を促した。宿がこの洞天と同じ場所にあって助かった、と思いながら歩き出す。青年も青年で、そのまま丹鼎司に向かうのかと思ったが――何故か彼は、星槎乗り場に向かわず、そのまま穹の後をついてきた。なんでだよ、と星槎乗り場を通り過ぎた彼に気付き、穹は思わず足を止めてしまう。
「丹鼎司行きはそっちだぞ」
「それは知ってる」
「じゃあなんで付いてくるんだ?」
 きょとん、として穹は首を傾げる。ん、と彼はその星槎乗り場を差し、いつもはいるはずの船守の姿も、止まる星槎もないことを指し示した。
「事故の所為で星槎の運航は止まっている」
「…………」
「隣り合う洞天に逃げた民間人はそのあたりで宿を取っているだろう。星槎が動く見込みが今夜はないなら、俺もそうして夜を超えることになるんじゃないか」
「…………。まあ、戻るとこは確かに宿だけど」
「どこに泊るにしても、まず空き探すところから始めないといけない。行先が被っているだけだ」
 イヤな予感がするなあ、と穹はその話を聞いてふと頭によぎった予感に静かに息を吐いた。各洞天を繋ぐ星槎の運航が止まった、ということは、帰宅難民もそれだけいる、ということで。羅浮はそもそも観光地ではない。外から殊俗の民が遊学にきたりとある程度開かれてはいるものの、来客のための宿はそう多くはない。つまり、先に今夜は帰れないと気付いた民間人が、我先にと空いている宿を取りに向かったはずだ。
「申し訳ありません……。今日はもう、満室で」
 と、フロントで空き部屋について尋ねた青年が受けた答えに、穹はだよなあ、と静かにまた息を吐いた。わかり切っていた。他の安宿はロビーで寝泊まりを決め込んだ客が溢れているようですが、とちら、と出入り口を見ながら従業員は言う。ここは相場的にはそう安くはない宿なので、さすがにそれは品位を損ないかねず、苦渋の決断ではあっただろうが帰宅難民のためにロビーの開放はやめたらしい。青年とはどうやら数回顔を合わせている。用心棒だかなんだかで仕事を請け負っていたと言っていたのだったか。従業員用の部屋はあるだろうが、渋る所を見ると空きはないらしい。視線がこちらを向く。次に続く言葉は自分から口火を切られるべきだ、と穹はもうすっかりわかっていた。
「……じゃ、俺の部屋に泊める分にはいい?」
「! え、ええ……。このような状況ですし、お客様に関しては特別便宜を図るようにと地衡司や神策府からも言いつかっておりますので、それは構いません」
「だが……」
「客の俺が言って言ってるんだからいいだろ。あ、そうだ。いつもの部屋だと思うけどまだ鍵もらってなかったな」
 先に客人を待たせてある、と案内された庭に向かったから、借りている部屋に行く余裕もなかった。従業員はいつものように認証キーを発行し、穹の端末に転送してくる。どうもー、と軽く返して、じゃあいくぞ、とまだ戸惑った様子の青年の首根っこを掴んで引っ張った。
 通されたのはいわゆるVIPルームというやつである。
 ここを訪れる度にこうなのだ。部屋が広すぎると言っても変えてくれる気配もないからとうに諦めた。部屋が狭くて困ることはあるが、広い分には困らない。荷物もそう多くはないし、広いベッドはいくら寝返りを打っても落ちない。孤独ではあるが。
 穹はくあ、と自然に出てきた欠伸をそのままに、近場にあった肌触りのいいふかふかのソファに飛び込むように横になった。連れられてきた青年は「上着が皺になる」とその様子を見て尋ねてくる。ん、と片方の腕だけを斜め上に伸ばしてから、やっちった、と穹はすぐにはっとして起き上がった。彼がその腕に手を伸ばしてきたのと同時に。
「ごめん、自分でやるよ」
「気を使う必要はない。本来は行く当てがなかったんだ。野宿を逃れたんだからこれくらいはする」
「そうじゃなくて。……お前、なんとなくわかってるんだろ?」
 掴まれた腕を軽く払い、穹は自分で上着を脱いだ。ソファの背にそれをかけて、端末のアラームの設定をいくつか返る。こうなった以上、明日の朝彼が起き出す前には部屋を出て、長楽天の他の場所に宿を移して、知り合いには後から連絡をして、すぐにでも必要物資を買いこんだら羅浮を出なければ。
 設定を終えて胸の上に端末を置いたところで、自分を見下ろしてくる視線に気付く。穹は青年が自分を見詰めるその視線に、どうしてもいつかの彼を重ねてしまい、すぐにふい、と彼から視線を背けるように寝返りを打った。
「ベッドは使いな、坊ちゃん」
「坊ちゃんではない。それに、部屋を借りているのはあなたの方だが」
 そのあなたを差し置いてベッドに寝るわけにはいかないってか、と穹は先に青年の言葉を奪って口にする。どうやら図星だったようで、青年はそのまま黙り込んだ。
「その部屋借りてるやつがいいって言ってんの。さっさと寝なさい」
「……では、ベッドとソファを変わってくれないか。あまり寝床が柔らかいと寝辛い。ソファの方がまだ硬い」
「ああ、そういやそうだっ――あああ~」
 またやっちゃった、と穹は一人で口を押さえて声を上げる。急に悶えだした穹に、青年はきょとん、と不可解な表情で首を傾げた。こっちの話だから気にしないでくれ、と誤魔化すようにそう言って、「……わかったわかった」と一向に折れそうにない青年の要求を呑んで穹はソファを明け渡した。そのまま靴をそのあたりに脱ぎながらベッドの方へと向かっていく。倒れ込むように横になった体を、心地よいばねが数回跳ねて受け止める。シーツは洗われたばかりの真っ新な匂いと、薄く焚きこめた香の匂いが混ざる。すう、と深く息を吸い込みながら転がるようにベッドの上に横たわった。
 もうこれ以上墓穴を掘る前にさっさと寝てしまおう。穹は仰向けになり、そのまま静かに目を閉じた。部屋に落ちた沈黙に、少しの衣擦れの音が響く。気にしないように、と言い聞かせても、近づいてくる足音と気配にはさすがに閉じた瞼を再び開くしかなかった。彼に背を向けるように寝返りを打つ。まさかそのまま乗り上げてはこないよな、と出方を窺っていたが、後ろで僅かに寝台が沈む感覚がして、おいおい、と思わず穹は後ろを振り返った。
「ッ……!」
 思ったより近い場所に整った顔がある。ぎょっとして距離を取ろうとしたが、それよりも前に腕を掴まれた。
「ど、……ど~した? 添い寝がないと寝れないとかいう歳でもないだろ」
「……そうだと言ったら」
「そういう駆け引きみたいなのは俺じゃなくてさ、もっときれいなお姉さんとかにしな」
 ほら離して、と軽く掴まれていた手を払う。青年はもう一度腕を掴むことはしなかったけれど、寝台からすぐに出ていく気もないようだった。はあ、とわざとらしくため息を吐いて、まあベッドが広くて助かった、と青年と距離を置こうとして端へ詰める。これでよし、と背を向けたままもう一度寝ようとすると、今度は後ろから手が伸びてきた。おいおいおいおい、と体に回されるその腕を途中で掴んで止める。
「どういう教育してんだ白露!?」
「……欲しいものはすぐに諦めてはいけないと」
 地団駄を踏んで地面に転がって手足をばたつかせ暴れ回ってでも手に入れろと、と青年は言う。あの龍女は兄を教えてるんだ、と穹は自分よりずっと力の強い腕を引きはがそうとぐっと手に力を込めた。びくともしない。
「ばか、そういうことじゃない。あってたかだか数時間の合意のない相手に手を出しちゃいけませんって教わんなかったか!?」
「色事は全く」
「君のお師匠たちも一体何してるんですかねぇ~!?」
「丹恒」
 ぴく、とその名前を聞いて体を硬くする。その拍子に、止めていた腕がすっかり体に回された。ただ後ろから抱きしめられる。ぎゅっと、もうどうあがいても逃げられない、とばかりに。
「……彼の話を聞きたい」
「……それってさ、こうしながらじゃないと話せない事じゃない気がするなぁ」
「どうせ明日、俺が起き出す前に部屋を出てそのまま俺にはもう会わないつもりでいるんだろう。あれこれ理由をつけて話しを逸らすなら、あなたがそうせざるを得ないような状況に追い込んだ方がいい」
「勘のいい餓鬼だなあ。話したら放してくれるってことか? ヤダね」
「何故? ……確かに俺はあなたが知る丹恒ではないが、姿も声も性格も瓜二つだと皆が言う。あなたは彼を」
「ストップ。そこまでだ」
 それまでの茶化すような声ではなくトーンを落としてそういうと、ぴく、と回された腕が少し緩んだ。その隙に起き上がって青年の腕から離れる。彼は寝転がったままこちらを見上げ、続けて口元をむんずと手のひらで掴んできた穹に、驚いたように眉を顰めた。
「んぐ」
「あはは、間抜け面。――俺ね、約束してんの。丹恒と。たとえ同じ魂でも、――次の自分は、今の丹恒とは別人だから、手を出したら浮気になるからって」
「浮気」
「そ。だからお前とは何もしない。まさか手を出されるとは思いもしなかったけどさあ。……で、坊ちゃんは丹恒の何が知りたいんだ。ナナシビトの丹恒か? それとも、何もしてないのに先代の龍尊の罪を背負うことになって幽閉されてた持明族の青年の事か? あいつらは特に教えてくれなかっただろ」
「……、少しは調べた。だが、……実際に当時の悪意に触れたことは今日までなかった」
「そりゃ、丹恒がそんなのほっときゃいいのにどうにかしようとして――、今日まで?」
「先ほど魔陰の身に落ちたものがいただろう。彼が自我を失う前に、『やっとお前のせいで死んだ仲間の元へ行ける』と言ったんだ。何のことか思い当たるまで少し時間を要した。同時に、自分が今までそういった多くの悪意から護られて生きていたことも理解した」
 だから素直に気になった、と青年は続ける。穹が掴んだままの彼の口元からはもうとっくに力も抜けていた。彼はその手を軽く持ち上げて、そのまま指と指の間を埋めるように手を絡めてくる。
「夢では何度も、あなた以外の人も見た。けれど多分、最期まで彼と一緒にいたのはあなたなんだろう。あなたのことを彼がどんなに好いていたか、大切に思っていたか、先に失わないことに安堵していたのかきっとあなたは知らない。あなたが窓の外に来るたびにまた来るから待ってて、と去っていくのを、俺がどんなに誇らしく、そして心細く思っていたかあなたは知らない。外に出て漸くまたあなたに逢えると思っていたのに、あなたがそれから俺の前に来ることはなくなってしまった。ずっと誰かの事を待っているのにそれが誰の事なのかもわからないまま、このまま忘れてしまうのではないかと不安に思っていたことも知らない。一目見たらすぐにわかると思っていたのに、遠くからではすぐに気付けなくて、もう何年も知らないまま過ごしていた事への後悔をあなたは知らない。俺はずっと、貴方に言われた通りに、ここで長い夢を食べてあなたを待っていたのに」
 どうしてずっと避けていたんだ、と青年は続ける。そんなものもうとっくにわかっているだろうに。穹は青年を見下ろしながら呆然としてしまう。あ、やば、泣きそう、と穹は瞬きを止めてぐっと目を開いた。
「ひ、……酷い口説き文句だ……。どこで教わったんだそれ」
「……? 教わってはいない。そんなに酷かったか?」
「酷い。百点」
「それはロマンス小説としてはなのか……?」
「うひゃひゃ、いや、もう……あー……、……――あーあ……、あー……」
 結局、繋がれていない方の手で顔を覆う事しか出来なくなってしまった。こうなるから会わずにいたのに。もう何を言おうとしても言葉に詰まる。喉の奥がぎゅうっと苦しくて、このままばらばらになりそうだ。衣擦れの音と人の熱が自分の前にある。それでも、自分が守りたいのはこの心ではなく最期の約束の方だってことを、目の前の青年は多分知らない。
「穹、?」
「…………、っ、は、……はは」
「泣いているのか」
「……泣いてない」
 顔を隠した手を除けようとするのもわかっている。穹は彼が手を伸ばそうとしてきた瞬間、思いっきり――前に向かって頭を振り下ろした。
「……フンッ!」
「――ッ!?」
 いわゆる頭突きである。ごっ、と額に重い感覚と痛みが瞬時に頭を支配していく。青年は驚いたまま呆気にとられたように目を見開いた。
「ッ、だああああ! いっッ……てえ……ッ!」
「……? ……?」
 何が起きたのか目を白黒とさせている青年は酷く無防備だ。穹は先ほどと同じように彼の顎を片手で掴み、そして――ぐ、っとその口の中に隠し持っていた丸薬を一つ押し込んだ。ぎょっとして青年が目を見開く。
 青年は穹の手を振り解こうとしたが、手で口元を押さえてられておりその下でんーんーと呻くだけだ。眉を思いっきり顰めている。それもそうだろう。恐らく薬は酷く苦い。早く飲み込まないといつ経ってもその苦しみから解放されることはない。
 青年の喉がこくん、と動いた。暴れる様子もない。どうやらちゃんと飲み込んだようだ。聞いていた時間まであと数十秒。俺の勝ち、と穹は青年に笑いかけた。
「流されると思ったか!? やーだね! お前は丹恒じゃない、『そういう』ことになってる。俺が知ってる丹恒の記憶を食って反芻して自分のものみたいに錯覚してるだけでそれはお前じゃない。俺の言ってることが分かるか?」
 青年は頷きも首を振ることもしなかった。ただじっとこちらを見上げてくる。穹は最期の約束だったんだ、と青年に零した。
「だから俺は、お前に俺をやれない。ただの一ミリも心を砕いてなんかやらない。お前は俺が『好きかもしれない』って錯覚してるだけだ。そうだろ? 丹恒が俺の事だーい好きなのは知ってたけどさ、お前もそれを知って、自分もそうだったのかもって思ってるだけだ。――だから」
 青年の瞬きが遅くなる。青年は漸く、自身の体の違和感に気付いたようだ。気付いたところでもう遅い。龍女印の即効薬だ。吐き出すことももう出来ないし、あとは朝まですやすやと眠るだけ。穹は自分の勘を胸の内で褒めながら、そっと青年の口元から手を離した。きゅう、と静かにくちびるが動く。
「だから、お前はどうなのかもっかい考えろ。そんで、それでもやっぱり気になって仕方がないなら探しに来て。俺は多分もうしばらくもしないうちに止まるからお前とはもう逢えないけど、まあ、宇宙のどっかにはいるかもしれないしな」
 閉じていく瞼に抗うように青年が身体を起こそうとする。だが眠気が強いようで、起こした瞬間にぐら、と体が傾いた。おっと、とそれを抱き留めて、穹は一度だけそのまま彼を引き寄せる。肩を叩く。頭を少しだけ預ける。もう殆ど意識はとびかかっていたが、じゃあな、おやすみ、と穹は青年に続けた。……俺は、お前には何一つあげられるものはないけど。
「――また、どこかで逢おうな。……俺もきっと、いい子で待ってる」
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