長い夢を食べて待ってた




 時々見る夢の中では、いつも誰かが窓の外にいた、気がしている。
 持明族の中には卵の中で見ていた長い夢の事を、覚えている者も覚えていない者もいる。青年は、今も時々卵の中で見ていた夢の続きを見る。美しい星の海を横切って、いくつもの世界を歩いた記憶。真横を通り過ぎる星々を見ては、テーブルにつき、向かい合って誰かと話をしていた。話の内容は何も思い出せない。自分が何を話しても目の前の誰かは時々笑い、テーブルの上に置いた手を僅かに動かし、時々青年の手にじゃれるように指を絡ませて、握って、そして離して、どこかを見つめて肩を揺らして笑った。
 その誰かの顔を、何故か全く思い出せない。夢の中では何もかもが霞がかって、ぬるく暖かな水の中、もしくは静かな雨の中を歩いているような心地だった。その誰かもわからない彼と共に居ると、何故か心が自然と安らいだ。時々馳せて、でもその鼓動の早さすら心地よかった。ずっと何かを話しているのに、頭の中でその話題一つ描けやしなかった。それでも、共に居るだけで満たされていた。そうやって夢の中で『彼』と話している時に、時々窓の外からふと声がすることがあった。
『――丹恒、また来たよ』
 その声に青年は気付いて、窓を見上げる。確かに声はしたのに、そこには誰の姿もない。いつもそうだった。誰かがいるのはわかる。青年は誰かを呼ぶ声にそっと窓に手をつける。その冷たい窓の向こうに、同じように手を重ねる誰かがいる。目の前の誰かの声は頭の中に何も残らないのに、この向こうにいる姿も見えない誰かの声だけはぼんやりと聞こえるのだ。
『前はどこまで話したっけ。この前行ってきたところはさ、信じられないかもしれないけど、目に見えるもの大体全部が砂糖で出来てて――』
 砂糖菓子で出来た星、砂しかない惑星、すべてが機械で出来た星、海洋惑星の中でも海の色が蒼くはない場所、その場所に板奇妙な生き物、植物、それから人々。窓の向こうから聞こえてくるその声は、いつもそうやってここから見えない遠い世界の話をした。窓の向こうにはそういう世界があるらしい。自分もそこへ行ってみたい。言葉だけで語られるその情景は、ただの一つも見たことも感じたこともないはずなのに、何故かその声と共に鮮明に頭の中に色を残した。窓の外の声が数回鼻を啜って、『……じゃあ、そろそろいくな』と言って離れていく。そこからしばらくまた時間が空く。声はそうやって離れていく前に、言葉もなく窓の向こうに佇んでいた。そこに目はないが、青年にはそれが分かった。
 その夢の続きを見るようになってから、窓の外から声が聞こえることはなくなった。ただ、いつものように目の前に誰かがいる。そのことに安堵する。時々知らない世界の景色を見る。無機質なステーション、美しく青い海、常冬の雪原の中、煌びやかな宴の夜。羅浮にも似たような場所はあるが、それらの景色のどこにも重なるものはなかった。ただ、それとは別に、時々羅浮のまだ行ったことのない洞天に足を踏み入れた時、妙な既視感を抱くことが何回もあった。その既視感と目の前の景色を結び付けていくうち、地図で印をつけていない洞天のことすら特徴が言えるようになった。
 白露にはそういう夢を見ている、という話を一度したことがある。彼女はそれを聞いて、それを自分以外の誰にも話すな、と言った。それはまだ幼い頃に青年が彼女と約束をしたいくつかの「決まり事」を言い聞かせる時と同じ声音だった。青年はその言いつけを守り、夢の話を彼女以外の誰にも口にしたことがない。親身になって世話を焼いてくれる白露の侍女や、師匠である彦卿、そのさらに師匠である景元にさえ。
 ひゅっ、と風を切る音と共に、髪の一房がはらりと落ちていった。あ、やばっ、と声がする。続けて、つう、としばらくして頬を伝いだした液体の感覚に、どうやら頬を切ったらしい、と青年は気付いた。
「うわっ!? やばっ、ちょっ……将軍! 将軍!? 見てないで救急箱取ってきて!」
「救急箱――どこにあったかな」
「あーもー! 分かんないなら座ってて! 僕が行くからこの子見てて!」
 自身の師匠のゆったりとした答えに少しせっかちにそう返事をして、彦卿は風のように飛び出していく。それをどこかほほえましく見送り、景元はさて、と青年を振り返った。青年がじっと自分たちを見ていたことをもうすっかりわかっている顔だった。
「あれは成人と呼ばれるような体格になっても、まだまだ落ち着きがない子供のように見えることがないかい? 時折、君の方が随分大人びて見えるのだけれど」
「……師匠は、貴方の前ではああですが――普段はもっと落ち着いていますよ」
「知っているとも。それで、傷の痛みは?」
 尋ねながらも自ら動こうとはしない。傷つけられた刃の切っ先は鋭利だから、切れた肌も抉れていない。触れない方が傷がひろがらないだろう。
「掠ったくらいなので、さほど。手当も……」
「いらないと君は言うだろうけれど、それを、君が帰ってきて彼女が見たら、驚いて数時間文句を言いに来るだろうからね」
「……今に始まった事ではないのですが。白露様は心配しすぎです」
「そういうものだよ。それに皆、君を好いているからそれだけ心配をするんだ。君の師匠もね。――丁度いい頃合いだ。休憩にしよう」
 こっちにきなさい、と無言のまま指示されているような視線だった。青年は手にしていた槍を手にしたまま景元の傍に近づく。彼の横にある盆には誰かがいつの間にか用意していったようで、茶と茶菓子が何故か四人分置かれている。どれもまだ手を付けてはいない。何回か口にしたことがある。さほど甘さを引きずらないほのかな甘みが特徴的な茶菓子だ。茶菓子は君が二つ食べなさい、と景元は続けた。茶菓子だけが四つであれば元々誰かに二つ用意したとわかる。だが茶器もまた四つ用意されていた。青年は周囲を見回す。
「誰かここにいらっしゃったのですか」
「ん? ああ……、――来たようだが、どうやら先に帰ってしまったらしい」
「帰った?」
「……私だけで応対をしてもよかったが、それだと彦卿に後でぶつくさと文句を言われてしまうから、一度ここに呼んだんだ。君たちは片方は酷く集中していて、片方は心ここに在らずだったから気付いていなかったようだけれど。君と彦卿の手合わせを邪魔しないようにだろう、近くまで来ていたようだが、小間使いが茶を用意している間に帰ったそうだ」
「……? お急ぎだったのでしょうか」
「そうかもしれないね」
 ふ、っと景元が柔らかく笑う。まるで誰がここに顔を出そうとしていたのか知っているような顔だった。実際誰が来たか彼は承知しているのだろう。一体誰がここを訪れたのかを数秒思案する。ここにいる共通の知り合いはそう多くはない。白露が来たのでば彼女のために甘味は三倍ほど分けて用意されているだろうし、今は忙しく丹鼎司の外に出てこられるはずがない。太卜司からの客であればすぐに使いが走ってくる。十王司はもっと秘密裏に、そもそもこういったもてなしは受けない。一人思い浮かんだ者がいたが、確信はなかった。
 結局青年は景元にそれが誰なのかを深く尋ねることもせず、静かに彼の隣に一人分間を開けて腰掛け、伸びてきた手に握られた手巾を受け取った。軽く術でその表面を濡らし、渇き始めていた頬に伝う血を拭う。うん、綺麗になった、と景元が微笑んだ。
「不注意で君が怪我をするのは久しぶりだ。たとえ、気心が知れている仲で、君に手心を加えてくれる相手だったとしてもだ。目の前の相手に集中出来ない時にその手に、君は槍を握るべきではないね」
「……申し訳ありません」
「怒っているわけではないよ。ただ少し珍しいと思っただけだ。君は考え事はよくする性質だが、決してそれを人前で分かるようには表に出さないだろう。彦卿も君が手合わせに集中出来ていたのは分かっていた。だから敢えていつもより深く間合いに踏み込み、君の意識を自身に引き戻そうとした。いつもであれば、君がそれにちゃんと反応して回避行動をすると信じていたから」
「…………」
「だが、君の此度の思案はより深いものだったようだ。昨日までになかった悩みでも出来たのかな?」
 君は平素からあまり自身の悩みを人に打ち明けないからね、と景元は続ける。そんなことはありませんが、と青年が答えると、彼は青年が急須から茶杯に移した茶を受け取った。
「――ある、人を」
「うん?」
「ずっと待っていたような気がして」
 昨日からずっと心がそわそわとして落ち着かない。師匠との手合わせ中にもあれこれと考えてしまうほど。先ほど別れてきたのですが、と答えた青年の耳に、遠くからどどどどど、と足音が聞こえてきた。どうやらお戻りのようです、と青年は菓子を一つ摘んで口に放り込む。もう血もすっかり止まってしまったので、手当は不要――なのだが。
「お待たせ! はいはい将軍ちょっと避けて、手当の邪魔だから! あれ、血は!? もう拭ったの? どーしよ、絆創膏じゃ小さすぎるし、ガーゼだと大袈裟すぎるよ!」
「……傷薬だけで問題ありません」
 どうしても何かしなければいけない、と言った顔をしているので、青年は自らの師匠にどこか諦めに似た表情を浮かべながら答えた。傷薬ね! と彦卿は救急箱の中から平たいケースに入った塗り薬を手に、龍女様のものだからすぐに治るさ、と自ら薬を塗ろうとした青年の手をぺしりと払い、切れた頬に薬を塗布していく。彼は満足げな顔で青年に薬を塗り終わると、忘れないうちに戻してくる、とまた救急箱を抱えてどこかへ走り去っていった。なんなんだ、と少し呆れたような表情でその背中を見ていると、「せっかく弟子に取ったのに、その直後から時折腕を買われ方々に呼ばれ連れまわされて、君と時間が取れないことを気にしているんだ。嫌なら嫌とはっきりと言えばいい」と景元が言った。
「……嫌というより」
「戸惑う? ……まあ、君の気持もわかるさ。彼もそうだが、周囲も、君が同年代の友人を多く持っているようには見えないから、余計に気にかけてしまうのだろうね」
「友人? ……特に必要を感じない」
「君がそう感じているのならば無理に作る必要もないさ。友というのは思いがけなく出会い縁を結ぶものだから。――それで? 君の待ち人が昨日、ついに君の前に現れたのかい?」
 青年はちら、と景元に視線を向ける。そうだと言い切れるだけの確信があまりないので、と青年は逡巡するように視線を揺らした。
「……それに、どうやら以前からこの場所には来ていたようで」
「うん?」
「見かけたことがある気がするんです。その時は、顔までははっきりわからなかった。わからないようにしていた、というべきなのでしょうか? ……推測するに、俺に会わないようにしていたようです。もしくは、……」
 景元を見つめる青年の視線に込められた言葉に、彼もまた気付いたようだった。もしくは、『貴方たち』が自分を彼に会わせないようにしていたか。始めに生まれた懐疑心は、今ほぼ確信に近い所にあった。
「君が考えているのとは少し違うが、まあ、少なからずそう言った頼みをされたのは確かだ。やんわりとね。君が、」
「あまりに前世の俺と似ているからですか」
「……、――たとえ、君が違うと言っても、多くの仙舟人はそう思っていることだろうね。加えて、君が敢えて『その姿』を取っていることも、彼にとっては」
 その声は、恐らくここを訪れたものの、顔を出すことなく帰って行ってしまった「誰か」の事を頭に思い浮かべているかのようだった。その姿、と言われて、青年は無意識に自身の手を額に伸ばす。そこに本来あるはずの物が今はない。物心ついた頃に初めて白露から教わったことは、勉学や常識ではなく、本来そこにあるはずのものを隠す方法だった。この額に本来は透明な水を固めたような美しい角があることを知っているのは、丹鼎司でもごくわずかな者たちだけだ。白露がよく言っている「老人たち」にも、このことは知られていない。
「以前の君と彼とのことは、生憎私にも多くは語れない。以前の君と彼は長い間共にいて、その間起こった事の、ほんの些細な出来事しか私は知らないんだ。それはもちろん、彦卿や龍女、君と彼を知っている皆も同じだ。だから、君が本当に聞きたいことや知りたいことを知っているのは彼だけ、ということになる。もし彼に避けられていると君が確信しているなら、少しだけ手を貸そうか」
「手を?」
「少なくとも、以前の君ではなく、『君』はこの羅浮で目を覚まし、今までずっとこの場で生活をしていたからね。弟子の弟子でもある。彼も私の掛け替えのない友人のひとりであるが――君に便宜を図るくらいは容易いよ。君が望むようにしてあげよう」
「……出来ることは自分でします」
「はは。君はやはりそう言うだろうと思ったけれど。……誰かに頼ることは別に悪い事ではないよ。気が変わったらいつでも言いなさい」
 はい、とその言葉に頷き、彼の事をまた頭に思い浮かべ、青年は無自覚にふ、と息を吐いた。ため息を吐いてしまった、と数秒遅れて気付く。これは何も今の言葉を煩わしく思ったわけではなく、と咄嗟に景元に対して言い訳が出てきたが、彼はそれも、その理由がすべてわかっている、とばかりに、くつくつと何故か笑いを堪えるようにして少し肩を震わせた。



 これを飲んで一晩も寝れば全快じゃ、と白露に満面の笑みでどす黒い丸薬を口に突っ込まれた時、あまりに苦くて口だけがこの世のものではなくなった気がして、ただただその苦痛から解放されたいだけなのに舌先にずっと痺れたような苦味が張り付いて、水をいくら飲んでも消えない、と丹恒に泣きついたことがある。
 彼は、「では大人しくしておるんじゃぞ~」と予約の診療に戻っていった白露を見送ると、彼女が残していった従者に何かを尋ね、彼女が首を振るのを見て、少し外へ出てくる、と十数分部屋から消えて、少し息を切らせて戻ってきた。その頃には水を飲み過ぎて気持ち悪くなり、青い顔をしていた穹に、戻ってきた丹恒は、医者市場には甘いものはこれしかなかった、と丁度行商が仕入れてきたカンパニー製のキャンディのバラエティパックを両手に抱えるほど買って戻ってきた。
 こんなに買ってどうするんだよ、と泣き笑いで舌を出して待っている間、彼がもたもたと小さな飴玉の包みを開くのを穹は黙って見つめていた。その時舌先に転がされたのが不幸にも薄荷だったので、ばかやろ、と内心叫びながら、彼の好意を無下にしないように、口にした瞬間ガリッ、と音を立てて噛み砕いて呆然とされたのを、穹はまだ鮮明に覚えている。
 あれ、と聞こえてきた声に、穹は一度びくう! と大袈裟に肩を揺らし、さっと後ろを振り返り、そこにある人影が一つだけだということを何度も確かめてから、やっと足を止めた。先生! と以前よりずっと身長が伸び子犬から小さめの大型犬くらいに成長してしまった友人の一人があっけらかんとした笑顔のままこちらに駆けてくる。追いついてきた彼――彦卿は、どうしてここに、とばかりに息切れの一つさせずに穹に向けて首を傾げた。
「先生、どうしてここに? 昼前にしてた約束は無理になったって言ってたじゃないか」
 てっきりまたどこかで捕まって依頼でも受けてるものかと、と彦卿は尋ねながら近づいてくる。ここは神策府にほど近い洞天の一つだ。将軍である景元が邸宅として利用している場所、とでも言えばいいか。だから恐らく、彼も彦卿もここで修業をしていたのだろう。何かあればすぐに神策府から人がくる。
 先ほどは遠くから見ただけだったし、あの場にいた彼らに気付かれる前に踵を返したが、何故彼の弟子と手合わせをしていたはずの彦卿がここにいるのだろう、と穹は彼に尋ねた。
「お前……、さっきまであの子と手合わせしてただろ」
「え? 何でそれを知ってるの? もしかして見てた? いつ。どこから?」
「……、……多分、まだかかるだろうと思って日を改めることにしたんだ。せっかく手合わせしてたんだろ、なら……」
「別にいいのに。それに先生はたまにしか羅浮に顔を見せないんだからさあ。あ、でもごめん、ちょっと待ってくれる? うっかり怪我させちゃって」
「怪我? あの子にか?」
「そー。まあかすり傷くらいならいつも作るけどさ。珍しいんだけど、なんだか今日はぼけっとしてて。避けると思ってたんだけど、ちょっと見誤って頬っぺたさっくり行っちゃった。浅いといいんだけど。――あの子の事、見ていかないの。丹恒先生じゃないことはわかってるだろうけどさ、やっぱり脱鱗が不完全だったのもあって、あの子、」
「……話ならさっきちょっとはしたから、もういいよ。しばらくは羅浮にいるからまた来る。将軍も気付いてたと思うけど、また来るって言っておいてくれ」
「えー? それくらい自分で言いなよ。きっともう、先生の分の茶菓子だって用意してるだろうしさ」
「それは丹恒にあげ、……いや丹恒じゃなくて、あの子にでもあげてくれ」
 今でも甘いものが苦手なのかな、と脳裏によぎる。もしかすると今世は好きかもしれない。穹は敢えて今の彼の事を知ろうとしないようにしている。どうしたって、同じところを見つけてしまうし、違うところにもまた気付いてしまうだろうから。じゃあ、とこれ以上彦卿に何かを聞かれてしまう前に、と穹は再び踵を返した。
「あ、ちょっと。先生! 穹先生!?」
 本当にいくのー! と尋ねてくる声に、穹は軽く手を振り、もう彼を振り返ることもしなかった。端末壊れてるから将軍に連絡してー! と大声で要件を叫ばれる。それにもう一度だけ手を振って応えた。
 そのまま来た道を戻り、慌ただしく、それこそ逃げるようにして穹はいつの間にか長楽天に戻っていた。思いがけなく、用事の前に今の丹恒と鉢合わせてしまい、無意識に逃げ出してしまった後に、医者市場に戻ろうとした帰りで再び彼を見つけ、木から落ちるところを見てしまって勝手に体が動いた。今になって考えれば、彼はそのまま受け身を取るつもりだっただろうし、あそこで自分が助けに入ったことでむしろ余計な怪我を負ってしまった気がする。でも体が勝手に動いてしまったのだから仕方がないだろう。無意識を咎められる立場にないのだ。生憎と、自分には。
 穹はポケットに無意識に手を突っ込み、指先に触れた小さな包みをそのまま外へ引っ張り出した。先ほど彼からもらったものだ。どこにでも流通しているカンパニー製の人工調味料で作られたスタンダードな味の飴玉。穹はもうとっくに消えた苦味を誤魔化すために手渡されたそれを、一つもその場で口にすることが出来なかった。広げて、飴玉の色を見、口にするまで味が分からない、というカンパニーの遊び心に戦々恐々としながら口に放り込む。舌先に乗ったすっとした清涼感に、あーあ、と穹は思い出したばかりの記憶をまた頭の中に描いて、ふわふわとした気持ちで長楽天を歩いた。

 鱗淵境に行ったことがあるか、と尋ねられた時、咄嗟にある、と答えられなかった。

 何度もある。彼と共に。そして一人で。まだ卵のお前に逢いに行った、と穹は彼に本当の事を何一つ言えなかった。
 どちらが先に目の前からいなくなってしまうかなどお互いに分からなかった。でもてっきり、先に居なくなってしまうのは自分だろうと思っていたそれは、先に丹恒の前に訪れた。とはいえ、ここのところ自分が思うように動けなくなってしまった事も事実で、恐らく、漠然とではあるが、これが最期になるかもしれない、という予感があった。
 今度こそ次はもうないかもしれない、と昨日白露に何の気なしに茶の間の世間話のついでに言うと、彼女は十数秒間、驚いたように目を見開いた後、これまで何度か告げていた、ここに留まるように、と穹を引き留めていた言葉ではなく、「ぬしの好きにせい」とすべてを飲み込んだような顔をして頷いた。
 だから今回の滞在は長めのつもりだった。どうせ、今は気ままな一人旅だ。時間の融通は効く。これでもう会うことはないと思う、と告げずに去るつもりだった。白露に隠さなかったのは、彼女に受けた診察の結果を、彼女自身がもう疑いようもなく受け入れていると分かったからだ。
 かつて丹恒だった卵が思いがけなく殻を破った際、その場にいたのは穹一人だった。本来は乳幼児くらいまで若返るはずだった体躯は、殊俗の民で言う四、五歳程度の外見年齢で回帰を止めた。彼の額には見慣れた透き通った美しい角があり、恐らく――それが彼を取り巻く環境によってはあまり良い結果をもたらさないことが分かっていたから、穹は彼を慌ててて上着で包んで抱えると、人の目を掻い潜って、真っ先に神策府へ彼を連れて行った。鱗淵境から近い丹鼎司には持明族が多くいる。その中にはまだ派閥が残っていて、その渦中に再び彼が放り込まれることを危惧した白露の指示だった。
 鱗淵境はかつて丹恒だった卵が孵化したことを隠すため、白露によってそのための理由をそれらしくでっち上げられ、再び海の底に沈められた。そう長い間隠してはおけないが、少なくとも堂々と虚言で決定を押し通すくらいのことは出来るようになった、と白露が教えてくれた。
 かつて丹恒だった「彼」は、そうやって何も知らないまましばらくの間限られたごく一部の人間にしか知らされず、角を隠せる術を身に着けるまで、人の出入りが限られた場所に隔離されることになった。その後は白露が後見人となり、持明族で言う世話役として、彼が持明族であることを秘匿し、雲騎軍が向かった先の戦場から助けられた殊俗の民として育てられた。
 穹はまだ彼の面影が残るその幼い子供に近づくことを自ら避けた。近づかないし、近づけないでほしい、と彼の事を知る知人たちに頼み込んだ。どうしたって自分は丹恒と今の彼を結び付けてしまう。違うと分かっているのに、無意識に。
 これまでずっと避けられていたのに、この期に及んで向こうから飛び込んでくるとは思いもしなかった。彼は丹恒じゃない、彼は丹恒じゃない、と何度も言い聞かせて、もう納得していたはずなのに。
「触ってくるのは反則……」
 あの瞬間、御することが出来なかった馳せる鼓動に気付かれていたらどうしよう。無意識に誰かと重ねてしまったその視線に気付かれたらどうしよう。大したことは話していないし、名前と、ただ知り合いの知り合いである、と彼に知られただけで、それ以上でもそれ以下でもない。友人と言い切れる関係にはなっていない。ただ名前を知っているだけの赤の他人。
 このまま彼と逢わずに羅浮を離れれば、彼も自分の事などもう忘れて思い出すこともないはずだ。このまま知り合いにこそこそと逢って、最低限物資の補給をしたらすぐに羅浮を発とう、と当初の予定より早く出発することを思い立つ。考えながら会点いていても道は覚えていて、いつの間にか滞在の際に便宜を図って用意してもらっていた宿の前に着いていた。
 フロントは代わり映えのない仙舟人だ。以前穹が訪れた時の事を覚えていて、あら、と久しぶりの邂逅に彼女は嬉しそうに微笑みかけてきた。いつものお部屋をご用意していますよ、と鍵だけを渡される。案内をされずとも、部屋の位置はもう覚えてしまっていた。
「お食事は今回もご用意なしで、外で食べられますか?」
「あ、うん。そうするつもりだったけど――……、せっかくだし何回かはここで食べようかな」
「畏まりました。事前に言っていただければお部屋にお持ちしますのでお申し付けください。明日の朝食からでよろしいですか?」
「うん。じゃあ頼む」
「ああ、それと」
「ん?」
「丁度お客様をお尋ねに、先ほど『お客人』がいらっしゃいまして」
「客人?」
「ええ。まだチェックインされていないと答えましたら、時間があるのでここで待っていると」
「ふうん? 誰だろ。待ってるって……今どこにいるんだ?」
「中庭にご案内しました。お茶とお菓子をお出ししております。お客様のものも後ほどお持ちいたしますね」
「ありがと。行ってみるよ」
 まあ大方、来ている、と話を聞きつけた友人の誰かだろう。青雀あたりだろうか? どうせサボりの口実にするだろうしなあ、とぼんやりと考えながら穹はひとまず部屋に向かう前に、そのままロビーを突っ切って、美しく整えられた中庭に向かった。庭を一望出来る場所にテーブルと椅子があり、そこに誰かが腰掛けている。穹はそこに腰掛けているはずのない人物が座っていることに気付くと、そのまますっと踵を返そうとして――「穹?」と、その声に引き留められた。その声もまた、知っているあの声と全く同じものだから、聞くたびにぎゅっと胸のあたりが苦しくなるのを、目の前の青年は何一つ知らないままだった。だから何度も、無垢に声を投げかけてくる。
「……穹?」と、こちらの様子を窺うような声で。
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