妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)




一、あやかしゆめうつつ -胡蝶-


 恋仲ではあるが、国広は未だに大包平と肉体的な関係を結んでいない。抱擁や口づけこそ交わすが、そこまでだ。口づけも、唇を軽く触れ合わせる程度にとどめている。端的に言ってしまえばそれ以上の関係へ踏み込むことに、国広はひどく恐れていた。

 これは、そもそもの話だ。本来は付喪神という存在自体、どうあっても生体的機能は持ちえない。今日この世界における【付喪神】とは、【万物に魂は宿る】という日本の神話観念に基づいて生まれた、長い年月を経て人の想いを受けた器物に魂を宿す精霊、ないし神霊の一種……とされている。人の想いとは即ち、語り継がれる物語という名の信仰であり、紡がれてきた歴史という情報でもある。何にせよ器物を元としている為に、生物のように生殖によって個体数を増やす種ではない。物語を以てかたちを成す付喪神の成立は、誕生というより発生と表現するのが正しいだろう。その形なき霊を政府の技術によって人の姿に励起したものが、刀剣男士だ。戦士として構成された肉体には人体を模倣した臓器こそあるものの、根底から人間ではないため生殖能力までは有していない。肉体に備わっているもの全て、人間をモデルとして擬似的に再現、付与された仮初の器官だ。与えられた肉体がどういう仕組みになっているのかなど国広は知る由もないが、ずば抜けた身体能力を始め、刀の手入れさえすれば傷が癒えてしまうというこの身体は、どう考えても人間のそれではない。人の形をしてこそいるが、実際は人ではない全く別の「何か」だろう。刀とはそもそも人間が振るう為に生み出した武器である。戦わせる為に人の形にするのは、ごく自然な発想なのかもしれない。

 しかしモデルにしたものが良くなかったという側面も、当然ある筈だ。本来人ではないモノが外枠のカタチだけでも人に近づいてしまったが故の、価値観の変遷とズレ。そのズレによって発露した、複雑な思考と感情。……有体に言えば、要らない機能があまりにも多過ぎる。そんな不完全で無駄な機能を使わざるを得ない状況が存在するというのであれば、それは付喪神というただそこに在るだけの客観性しか持ち得なかった存在が、自ら考え動くという主体性を持ってしまったが故に起こる|エラー《バグ》でしかない。けれどこれが善いことなのか悪いことなのか、もう今となっては誰にも判断など付けられないのだろう。時の政府はただそこに在るのみだった物言わぬ筈の器物達に、自ら語る声を与えてしまったのだから。

 人に限らず一定以上の知能を有する全ての生物は、繁殖行為としてのそれとはまた別に、恋慕や親愛、敬愛などの愛情を示す多くの手段の一つとして、性交を行うこともあるのだという。習性といえどそれは『あくまでも』の話だ。他に感情を伝達する手段などいくらでもあり、必ず行わなければならないものでもない。それでも国広の裡に『大包平と交わりたい』という気持ちが無いと言えば、嘘になる。ただ戦う為だけの存在ならば要らない筈の機能の数々が、こうして中途半端に付与されてしまっているのだ。恋仲、などという関係を成立させてしまった時点で不具合など既に起こっているだろう。この魂も肉体も根っから人間のそれではないが、|器《ガワ》|だ《・》|け《・》|は《・》|ヒ《・》|ト《・》だ。ふとした時にその行いや営みをなぞろうとしてしまうのは、ヒトの形を得たが故の抗えない宿命なのかもしれない。

 しかし情を交えることが、必ずしも良い意味を持つとは限らない。場合によっては片方、ないし双方の心身に苦痛と癒えぬ傷を齎すこともあるだろう。双方が単なる肉体的な快楽を得る為に情を交えるならまだしも、相手の矜持や尊厳を傷つけ、支配欲を満たすために交わろうとする輩も中には存在する。国広は顕現したばかりの頃、本丸にある膨大な数の電子蔵書で人や生物の営みを調べていたことがあったが……、当時はその生物の持つ獣性を知ってあまりの悍ましさに顔を顰めていたことを思い出す。あらゆる感情と行為そのものは切り離して考えるべきなのだ、と。故に大包平に対して抱いた己の感情にさえ、当初は強烈な嫌悪と拒否感を覚えたものだった。

 人を始めとした多くの知性体ですら、情交に込めた意味の区別は付けにくいという。肉体的な交わりなどなくとも感情は成立する筈が、情交無しでは成立しない感情である、等と誤認してしまいやすいのだと。

 付喪神は肉体を持たず、性交など根底から必要としない。
 生き物ですらない付喪神に、これを判別することなど可能なのだろうか。
 ……少なくとも、国広は真っ当に大包平と身体を重ねられる自信などまるでなかった。

 抱くにせよ抱かれるにせよ、大包平を好いているという感情とは別の、『どうしてもこの男が欲しい』という如何ともし難い欲望はきっと、あの美しさを損ねるような行いに紐づいてしまう。そんな危惧が、常に付きまとっている。大包平は国広を「己の裡にある嗜虐性と狂気を自覚しながら、最後の一線を引くことができる男」と評してくれた。しかし国広には大包平が寄せてくれているその信頼を、護り通せる自信がない。仮に関係がそこまでに至ったとして、その時己の裡に潜む激情が暴走しないという保証が、出来ないのだ。大包平への身勝手な独占欲や嗜虐心は、確かに今も存在している。この美しい男を傷つけて損ないたい、滅茶苦茶に壊したいという昏く悍ましい欲望は、確かにある。目を背けたくなる程の醜い愛欲は、いつか本当に大包平を殺してしまうだろう。そんな危うい精神を抱えたまま、情など交わすべきではない。知性体の獣性に抱いた悍ましさを、刀の神として顕現した自分自身でさえも愛しい相手に抱いてしまっているという、罪悪感と自己嫌悪。たかが肉体を持っただけで、この体たらく。精神まで欲に浸食されてしまうとは、全く度し難いものである。

 それ故に、国広は大包平との触れ合いを口づけまでにとどめていた。幸いなことに、大包平は国広の複雑な精神状態に理解を示してくれている。元々その気がないのか、あっても国広に合わせてくれているのか。どちらなのかは分からないが、大包平から口づけ以上の深い触れ合いを求めてくることはなかった。……こんなもので、満ち足りる筈がない。心ではそう思いつつ、指を絡め、頬に触れ、唇を重ねては言葉を交わし、想いを告げる。それでいい。好いている、愛しているという意志は、十分伝えられる。傷つけるより、慈しみたい。この美しく気高い男に、醜い欲などぶつけたくはない。陽だまりのように穏やかで、暖かな時を過ごせるのが一番いい。
 
 ―――だからこの、わるいゆめは。
 言い聞かせるように己を律し続ける、その反動なのかもしれない。

【斬れ】
「|螻ア蟋・蛻■嵜蠎《山姥切国広》」
【斬れ】
「|縺翫>縲∬オキ縺阪m《おい、起きろ》」
「……ぅ」

 誰かの声と己の声が、重なって聞こえる。誰かの声は何度も聞いている筈の音だが、違和感の塊で不気味だった。なにかしらの言葉を発しているのは分かる。しかし何を話しているのかが、全く聴き取れない。異国の言葉とも違う。確かに同じ言葉を発していると頭では理解できるのに、伝わってくるそれは根本から捻じ曲がって歪んでいるように聞こえて、気持ちが悪い。一方でその声を遮るように重なってくる己の声も、確かに自分の声である筈なのに、明らかに己の口から吐き出されている声ではなかった。

【これは|刀剣男士《神》に非ず】
「|縺薙i縲√>縺縺セ縺ァ蟇昴※縺◆k《こら、いつまで寝ている》」
「……ッ、ぐ、ぅ」

 刃を突き刺すような痛みが、ずきんずきんと一定の間隔で頭蓋に走る。知っている誰かの声と、知らない自分の声。二つの音が、脳髄の内と外に木霊している。項が酷く、熱い。呼吸をしようにも肺が膨らまない、息が苦しい。

【ソレは人に仇成す|付喪神《化生》だ】
「|縺医∴縺雋エ讒《ええい貴様、》|菫コ縺ョ險□縺ョ闡峨′騾壹§縺ヲ縺◆↑縺縺ョ縺《俺の言の葉が通じていないのか》」
【斬れ、生かしておいてはならないモノだ】
「|莉墓ァ倥□縺ェ縺◆・エ繧√■《仕様のない奴め、》|縺雁燕縺ォ蜷医o縺帙※繧□m縺《お前に合わせてやろう》」
「ぐ……ぅ……ッ!」

 どちらの声も、まるで止まない。
 うるさい。煩い。五月蠅い。此方は|恋刀《こいびと》にこれ以上要らぬ心配を掛けないよう、身体をきちんと休めたいのだ。けれど重なって響く声を無視しようにも、限度があった。

「……ッぁあ五月蠅い! いい加減にしろ! 俺は眠いんだ、寝かせ……ッ!?」

 頭の中と外から口々に騒ぎ立てる声にいよいよ腹が立って、意識を無理矢理引っ張り上げる。だが、覚醒したその刹那。

「ああ起きた。やっと起きたな。ようやく起きたか、山姥切国広」

 |息《とき》が、止まった。
 視界に飛び込んできた■の暴力に、国広は己が両の目を潰してしまいたくなった。

「俺の言の葉、届いているな? お前に|合《・》|わ《・》|せ《・》|て《・》|や《・》|っ《・》|た《・》ぞ。これなら聞き取れるだろ」

 雑面で貌を覆った赤銅色の髪の男が、ぬぅ、と枕元に立って此方を覗き込んでいる。真っ赤に染まった■しい桜の花弁が、ひらりひらりと舞い落ちてくる。声の主を認識した途端、国広の脳は理解を拒絶しようとした。

 思い出したくない光景が、鮮やかに蘇る。
 知ってはいるが、識りたくはない。
 識りたくもないが、己は確かにコレを、視たことがある。
 血と泥に塗れて尚■しく輝く、愛する男の姿が瞼の裏に過ぎる。

 意識は割れた風船の如く、いとも容易く弾け飛んでいた。雑面に遮られ、容貌は窺い知れない。なのにその男の■しさは、国広の許容範囲を優に超えていた。意識が切断されては強引に引き戻されて繋がり、再びその■を認識した途端、ぶつりと乱暴に断絶する。視界に火花と真白が飛び散っては、明滅する。全身を刺し貫くようなこの鮮烈で鋭利な感覚は何だ。こんな感覚は知らない。経験したことがない残虐で甘いそれを、この■しい姿を目にしただけで、何度も叩き付けられている。キモチがイイのに、気持ちが悪い。一刻も早くこの感覚から逃れたい。こんな厭わしく悍ましいモノを、いつまでも見続けていたくない。

 否、否、否。
 厭わしいのは、悍ましいのは、一体どちらだ。
 己の方こそ見れたモノではない。
 こんな■しいものの前で、醜態を晒したくない。
 肉の身に備わった全ての感覚を、今すぐにでも閉ざしてしまいたい。

 思考とは裏腹に、己が肉体はその腕を動かすことを拒絶していた。両目を潰してしまえばこの■しい男の姿を、この眼に映せなくなってしまう。それは困る。とても困る。いつまでもいつまでも何百年何千年何万年経とうとも構わずその果てに世界が終わろうとも厭わずこの身が朽ち果てたその遥か彼方先の年月迄未来永劫是だけを―――この眼に収め続けたい。この■しい男だけを、ただひとりで、己だけで、眺め続けていたい。このせかいにふたりぼっちでほんとうによかった。きっと他の誰かがこれを視界に収めていたなら、起き上がって即座に斬り殺していただろう。本当ならそんなことに労力を割くことさえ惜しい、そんな暇があるならコレを眺め続けている方が遥かに有意義で、高尚で、幸福だ。けれどコレが他の誰かの目に入ることの方が、ずっとずっと気に入らない。

 是はただ、其処に在るだけのモノ。
 だというのに、それ程までにこの|妖《かたな》は、■しかった。

 得体の知れない情動。得体の知れない激情。思考は瞬くより早く浸食されていた。コレは、以前見たあれよりも性質が悪い。赤銅色の髪の男は、抑揚のない声で話し掛けてきた。

「貴様、この俺を前にしては動くどころか息も出来んのか。つくづく仕様のない奴め」

 聴き慣れた声ではあるのに、その音はまるで耳に馴染まない。あいつは、そんな話し方なんてしない。だから、……これがアレと同じモノだとは、思いたくなかった。黒揚羽の巨大な翅が、男の背後でゆらりと羽搏く。翅から零れているどす黒い塵のような光の粒が見えた。鱗粉、なのだろうか。周囲は甘ったるい匂いで満ち溢れ、空気が途轍もなく重い。肺が酸素を取り込むことを、全力で拒否している。

「ふん、これでどうだ」

 男がため息混じりの声を漏らした瞬間、優雅に羽搏いていた黒い翅はすぅっとその姿を消した。身体が取り込むことを拒否していた空気は瞬く間に霧散し、国広は蹲って咳き込む。甘く香る重たい空気の原因は、翅がまき散らしていた黒い塵にあったらしい。……蝶の鱗粉には交尾の相手を誘う|催淫《フェロモン》の効能があるとは言うが、この■しさに加えてとなると最早猛毒だ。蝶というより、蛾なのではないか……などと言えば、目の前の怪異の逆鱗に触れてしまうかもしれない。まともに吸い込み続けていれば、喰らう事しか考えられない飢えた獣に成り下がっていたことだろう。寝ていた時から感じていた酷い息苦しさは、【吸うな】という警告だったようだ。

 ……全く無茶なことを。
 そもこの身が錬鉄であったなら、呼吸など要らなかった。これだからヒトを素体にした肉体は不便極まりない。

「っげ、ほ、ッ、……誰だ、あんた……!」
「ぬ、知らぬとは謂わせん。貴様、俺を識ってるだろ」

 ■の極致で徹底的に打ちのめされた精神に鞭打ち、国広は布団を跳ね除けて飛び起きた。後退して男と距離を取り、刀架にあった本体を掴む。ようやっとまともに全容を認識できた『ソレ』は、白い水干を纏い|紅《くれない》の長袴を穿いていた。袖からは備前蝶を囲む土俵の紋が描かれた蝙蝠が覗いている。立烏帽子はないが、白拍子の衣だ。腰に佩いているのは白銀の柄巻に深紅の鞘という、嫌になる程見覚えのある拵をした立派な太刀だった。

 ……無駄なことをしている自覚はある。彼方に国広への敵意など全くない。というより、そもそも|排除の対象《対等》ですらないだろう。恐らく相手は顕現の|形式《フォーマット》から異なる存在だ。国広ではどうあっても届かない領域から一方的に此方へ寄せられるという時点で、|格《グレード》も違えば|次元《チャンネル》だって違うだろう。殺すつもりがあるなら、この男はいつでも国広を殺せた。今でも殺せるに違いない。それこそ指先一つで事足りる、赤子の手を捻るより容易い。寝ている間にでも折られていた筈だ。

 ひどい頭痛がする。
 刃で突き刺すような鋭い痛みは、槌で殴られているかのように鈍く重い痛みに変わっていた。
 頭蓋が、割れてしまいそうだ。
 
 目の前に立つそれは、確かにヒトのカタチをしてはいる。けれどそれはヒトと形容するには、あまりにも歪だった。纏う気配はどう見たって禍々しい妖魔だ。翅がまき散らしていた鱗粉といい、言葉にするのも厭わしい程の■貌といい、時間遡行軍の方がまだマシだろう。見た目だけならヒトと大差ない刀剣男士よりも、遥かにズレている。しかし男に国広への敵意は一切なく、また害意もなかった。国広に不便が無いよう逐一丁寧に|練度《レベル》を合わせてくるその態度は、妖とはとても思えぬ誠心誠意ぶりだ。

 ……だったら、何故。
 この手は一体何のために、|刀《おのれ》を握っている?

「知りたくもない……! 俺に、何の用だ……!」
「異な事を。貴様が乞うからこの俺が直々に|裡《・》から出向いてやったというに」
 
 きっとその雑面の下は、あれと同じだ。見たくない。知りたくない。分かりたくもない。けれど空気が軽くなってしまった所為で、動けるようになってしまった所為で、頭蓋に響く激痛と共にあの衝動が襲ってくる。

 頭の奥から、声が響く。
【斬れ、それは紛れもない|魔性《あやかし》だ】と。

「―――俺に用があるのは、貴様の方だろ?」
「……ッ!!」

 その言葉を聞いた瞬間、国広は刀を抜いていた。男との距離は気付けば一瞬で縮まっていた。殆ど勝手に動いた身体に、理性が遅れる。男は一切抵抗しなかった。制止しようと咄嗟に柄を握る手を引こうとしたが、もう遅い。幾何学模様の貌を描いた雑面が、縦真っ二つに切れてはらりと畳へ散った。露になった男の口の端が三日月のように、にぃ、と吊り上がる。その唇の隙間から覗いたのは、あいつにはない牙。ざあ、と血の気が引いた。

「ふ、はは、ふははは、あははははははははははははははは」

 そこに在ったのは、|恋刀《こいびと》と同じ貌。
 男は国広が抜いた鋼を一瞥し、薄鈍色の眼を見開いてけらけらと嗤った。……分かっていた筈なのに、露になったその貌に愕然として後ずさる。あいつの貌でこんな不気味な笑い方をしないでほしいなんて、酷い頭痛に紛れてあまりに場違いな思考が浮かんだ。

「嗚呼、安心した。貴様、変わってないなァ。変わってないぞ。変わってない」
「……ッ、何がだ」
「|俺《・》|を《・》|呑《・》|み《・》|干《・》|し《・》|て《・》|か《・》|ら《・》、そのままだ」
「な……ッ」
「それはいいなァ。それがいい。それならいいだろ?」

 男の発する言葉の意味が、分からない。まともに話が通じるようになったかと思いきや、執拗に同じ言葉を繰り返すその声の響きは酷く歪に聞こえた。まるで安定していないように見えるのは彼方だというのに、己の足元の方が常にぐらついているかのようでずっと気分が悪い。

「貴様、俺を殺したいんだろ?」
「ッ、なにを、言って」

 ……嗚呼、それでも。

「―――|赦《・》|す《・》、好きなだけ殺せ」

 男が最期に放った言葉だけは、国広の脳髄に甘く響き渡った。

(我慢、しなければ)

 ―――それだけは、いけない。
 分かっている筈なのに、全身は今までに感じたことのない歓喜で打ち震えていた。この■しい男が血に塗れて死に絶える様を、見られるのか。

 柄を握り締めた。
 鞘は投げ捨てた。
 斬ってはならない。
 なのに【斬らねばならない】と【斬りたい】の境目が、もう、分からない。

(がまん、しない、と……)

 後退した筈の足は一歩、また一歩と男に引き寄せられるように、前へと進む。
 斬り刻みたい。
 この■しい男の、一等■しい死に顔が見たい。
 赦されたのだ、好きにしていいと。好きなだけ、|殺《あい》せばいいと。

 腰を低く落とした。
 素足はしくじらぬよう、確と畳を踏み締めた。
 頭の中には、自分の声が響き渡っている。 

【斬ってもいいんだろう。ならば、何を我慢することがあるんだ?】

 眼の前の男は、ずっと嗤っていた。
 蝙蝠を閉じて腰に差した男は、まるで抱擁を待つかのように両の手を広げた。
 その微笑はこの上ないほど■しく、菩薩の如き慈愛に満ちている。

 ―――刀を両手で構えた後はもう、一瞬だった。

 ふとんやしょうじにちったちしぶきが、まいちったはなびらのようできれいだ。
 すいきれずたたみにできたちだまりが、みなものようできれいだ。
 きりさいたしろいころもも、まっかにそまってきれいだ。

「ああ、思った通りだ」

 いちばんたのしみにしていた、しにがお。
 ちぞめのべにをさしたくちびるは、おいしそうで。

「やっぱり|あんた《お前》は、綺麗だな」

 えみにほころぶそのくちびるをしたでこじあけて、くちづけをした。
 


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