妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)
「や……ぎり、……やま……ば……!」
「―――ん、ぅ」
上から声がする。誰かに呼ばれている。耳に届いた声はよくよく知った音だが、微睡から浮上しきらない頭では、その声の主は分かっても名前までは出てこなかった。煩いが、不快ではない。むしろ目覚ましには最適な声だろう。聞けば自然に笑みがこぼれてしまうような、明朗快活な声。
「ぃ…………おい! 起きろ、山姥切国広!」
「ぅ、ん……ッ」
薄く開いた目に、容赦なく陽光は突き刺さってきた。障子戸は全開にされてしまったようだ。よく知った誰かの声と、日の眩しさ。眠気はなおも追い縋ってくる。両目を擦り、何度か瞬きをして、ようやっと視界はまともな機能を取り戻した。
「あぁこら、藁くずが付いた手で目を擦るな。痛めたらどうする」
「……ぅ、るさい……」
「煩いだと? 忠告しているだけだろうが!」
見慣れた天井と見慣れた赤い髪の男が、此方を一斉に見下ろしていた。畳の上に投げ出していた身体を、ゆっくりと起こす。その顔を見てようやく、男の名前が頭に浮かんだ。曲がりなりにも恋仲になった男だというのに、顔を見なければ名が思い出せなかったなど、我ながらどうかしている。
「大包平か……何で勝手に入って来た」
「お前がまだ食堂に来ていないから呼んできて欲しいと、堀川国広に頼まれたんだ。無論、悪いとは思ったぞ。声を掛けても反応がなかったから、勝手に入らせてもらった」
「……そうか。それは悪かったな」
「だが! 作業したまま朝まで寝る奴があるか! きちんと片付けてから布団に入って寝ろ!」
相変わらず朝っぱらから煩い男だ。床板にそのまま寝そべるよりは遥かにマシだろうに。とはいえ、畳に投げ出していた全身は流石に痛みを訴えていた。胡坐を掻いて座るのもやっとだ。昨夜の記憶も、何故だかどうも朧気だった。すぐに名前が出てこなかったのは無理な寝方をしていたから……なのだろうか。ぼんやりした頭のまま周囲を見渡せば、稲藁が散乱している。紙製の敷物こそ敷いてあるが、藁が畳にまではみ出してしまっていた。ジャージの上下も無論、言われた通り両手も、そこら中が藁くずまみれだ。桑名江に譲ってもらった稲藁で、草鞋の材料である藁縄を綯っていたが……どうやら途中で寝てしまった、らしい。
「分かった。次からは気をつける」
「ところで貴様、内番着のまま寝ていたということは。昨晩は湯を浴びていないな?」
目の前の男と夕餉を共にしたことは覚えているが、その後この部屋に戻ってからの記憶はどうも霞んだままだ。この状態のまま寝ていたのだから大包平の言う通り、湯も浴びていないのだろう。
「ああ、すっかり忘れていたな」
「片付けと掃除くらいはしておいてやる! 朝餉の前に、まず湯殿に行ってこい!!」
「……はぁ、わかった」
適当に誤魔化して返事をすると、案の定怒られた。たまに思うが、肉体とは兎角不便なものである。水と食物がなければまとも動くことも叶わず、しかして息をして動いているだけで肉体は勝手に汚れていく。以前なら写しなど汚れている方が似合いだろうと気にも留めなかったが、今は折角想いを通じ合わせた相手がいるのだ。あまり我が身の手入れを疎かにして、愛想を尽かされたくはない。叱られている内が華でもある。心配してくれていることが分かる為に、多少煩わしくとも決してその心遣いは嫌ではなかった。……けれど眉間に皺を寄せたその険しい顔付きだけは、気に入らない。
「大包平」
せめてもう少し愛らしい顔にしてやろうと、その腕を掴んだ。
「……うおっ、なんだ山姥切」
突拍子もなく腕を掴まれ畳に膝を突いて座った大包平は、一瞬できょとんとした間抜けな顔になった。普段は凛々しい薄鈍色の瞳は、満月のように丸くなっている。その表情もかわいらしいが、もう一声。今度は自分からも身体を寄せる。本当なら唇にしたい所だが、起き抜けでは流石に気が引けた。その代わりに、陶器のように滑らかで艶のある頬へ、軽く触れる程度の口付けを施す。
「……言い忘れていたが、おはよう。起こしに来てくれて助かった」
「―――ッ」
とどめにふっと笑いかけてやれば、その頬は瞬く間に赤く染まった。彫り込んだ様に眉間に深く刻まれていた皺はもうすっかり無くなっている。切れ長の眼が、蕩けるような笑みの形に細められていく。美しい鋼鉄をそのまま描き写したような瞳が、輝いて見えた。その口から聞かずともありありと分かる、歓喜の色。……傑作だ、その顔が見たかった。
「……ん、俺も言い忘れていたな。おはよう、山姥切国広」
ちゅ、と微かな音を立てて、頬に口づけを返された。互いの髪を指で梳き合い、頬を擦り寄せる。ふたりきりの時にだけ出来る、僅かな触れ合いだ。
「ほら、早く行ってこい。堀川国広にはもう少し遅れると、俺から伝えておこう」
「すまん。世話を掛ける」
「気にするな」
硬質だが傷みの無い艶やかな髪も、手触りの良い滑らかな頬も、いつまでも触れていたい程に名残惜しい。が、兄弟を待たせ過ぎるのも良くない。さっと湯を浴びてこようと立ち上がり、ジャージに付いた藁くずを払う。畳に座ったまま此方を見上げてくる大包平と、目を合わせた時だった。
―――じり
「……ぐ、ッ?」
蟀谷に、針を刺したような鋭い痛みが走った。
思わず頭に手を当てる。項はちりちりとした微かな痺れと熱を持っていた。
この、不快な感覚は―――
「山姥切? ……どうした、気分が悪いのか?」
知らず、顔を顰めていたらしい。
……勿体ない。折角愛らしい貌にしてやったというのに、大包平の表情は先ほどよりもずっと険しくなってしまった。
「……いや、ただの立ち眩みだ」
「全くお前という奴は……、しっかり身体を休めていないからそんなことになるんだぞ」
「っはは、耳が痛い。返す言葉もないな」
「次からはちゃんと湯に浸かって、布団に入って寝ろ」
「ああ。……これは確かに、気を付けた方がよさそうだ」
そんな筈はない。……そんなはずが、ない。
聡い恋刀に気付かれぬよう、心の裡へ、躍起になって言い聞かせる。
この男の|ズ《・》|レ《・》はもう、とうに修復されている。魔の貌が表に出ることは二度とない。この男は間違いなく刀剣男士であり、付喪神であり。
断じて、妖魔などではない。
その筈、なのだが。
つい先ほど大包平が見せた、あの蕩けたような微笑み。
何度となく見ている。見飽きることもない。
叶うならいつまでも見ていたい、精悍でありながらもどこか懐っこくて、愛らしい貌。
何故己は、そんな笑みに。
|見たことがない筈なのにある《既視感》……などという妙な感覚を抱いたのだろうか。
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