妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)
目覚めは最悪だった。
襲ってきた猛烈な吐き気に悶え、布団の上の身体がのたうつ。からからに渇いた喉が、迫り上がってくる胃液で焼ける様に痛い。全身から、冷や汗が噴き出している。涙は滂沱と流れ落ち、身体の震えが、止まらない。
敵なら幾度となく斬ってきた。ソレが善であれ悪であれ、障害になるモノなら数えきれないほどに。その感触だって、いつでも思い出せる。けれどそれは刀である己の為すべき使命であり、責務だ。己が斬るモノに対しての情動はない、筈だった。何を斬った後でも、それは変わらなかった筈だ。時間遡行軍という数多の敵を斬った時も、あの隔離された世界から脱出する為に人間の残骸を斬った時も、……その先で、かつての主だったモノを斬った時も。それだって何度も何度も経験してきたことだ。顕現したてであったなら揺れる心もあったかもしれないが、とうにそんな段階は過ぎ去っている。その程度、割り切れる筈だった。けれどこれはどうしたことか。
ただの夢だ。あくまでも、夢に過ぎない。アレは実際に斬った訳ではない。噎せ返るような死の匂いなど、どこにもない。本丸の刀達の喧騒が遠くから聞こえてくる、いつもとなんら変わりのない朝だ。それなのに、夢と現実が地続きになっているかのような感覚に襲われ続けている。その手に残るのは|刃《おのれ》が骨と肉を断った、昔から知っているけれど真新しい感触。戦場で数え切れぬほど、味わう感触。けれど普段なら絶対に『無い』感情が、湧き上がって止まない。無くしたくないものを自ら手放した、喪失感。辿るべき道を踏み外した、恐怖。大きな過ちを犯してしまった、悔恨。一度に押し寄せてきた感情に、涙が止まらない。息もまともに出来やしない程の、嗚咽。まるで大海原にただひとり投げ出されて、溺れているかのようだった。
―――嗚呼。
ヒトがヒトを『殺した』時の感覚とは。
もしかしたら、こんなものなのかもしれない。
夢の中とはいえ、斬った相手が悪かったのか。……否、そんなものは可笑しい。己が奪ってきた数多の命はそのひとつひとつ全てが違えども、命を奪った事に区別など付けられる筈がない。武器として、命を奪う戦道具として、それは付いてはいけない。付けてはならないモノだ。ただ歴史を護る為に、それを望む主の為に、障害となるものを躊躇いなく斬る。歴史という筋書から外れたものはただの一つの例外もなく、斬って捨てる。故に、斬った相手が誰であろうと、その断末魔にいくら耳を傾けようと、そこに|尊厳《いみ》など端から存在しない。それが戦争であり、殺戮だ。心に沁みる悲哀や虚無があったとしても、それは此方が一方的に抱いた感傷に過ぎない。
……しかし。
それなら使命など一切絡まないモノを、自ら斬った時は一体どうなるのか?
夢から醒めた己はこんなにも咽び泣き、藻掻き苦しんでいるというのに、夢の中の己は間違いなくあの男を殺すことを嗜好していた。恋刀と同じ貌をした男を惨たらしく斬り刻んで笑い、愉しんでいた。
まるで満開の桜へ杯を掲げ、■しいと愛でるように―――。
それでもあれは夢だ。本当に殺した訳ですら無い。何も違わない筈だ。けれど心はどうしたって、「違う」と叫び続けている。お前は愛しいものを殺した。大切だと想ったものを、欲に駆られて自ら壊したのだと。刀とは命を絶つ『物』だ。肉を斬り、命在るモノの|生《とこよ》との縁を斬り、|死《かくりよ》へと誘う為にある道具だ。少なくとも国広が打たれた時代は、刀はまだその役割を担っていた。今の己を構成するもの全てが純粋な刀であったなら、死などいくつでも背負えたのだろう。否、今までは何不自由なく背負えていた筈だった。なのに国広は、このたった一つの甘く悍ましい夢で許容値を超えてしまっている。
斬る事こそが器物として与えられた機能。
このヒト型の体は、その目的を達成する為だけに存在している。
だが、今在る国広の肉体の中身は刀の付喪神の魂であって、ヒトではない。
ヒトではないのに、魂はヒト型の|器《いれもの》に入っている。
刀なのに、ヒトのカタチをしている。
それがいけなかったのか。
刀剣男士、等という|機構《システム》を造った時の政府を、心の底から憎いと思ったのはこれが初めてだった。神として喚んでおきながら、よくもこんな不完全で不健全な肉体を、脆いココロなどというモノを、押し付けてくれたものだ。それでもあの悍ましい所業が、夢で良かったと心の底から思う。これが夢でなかったなら、本当にどうかしてしまう。布団の敷布を乱す程藻掻き、止まぬ嗚咽と嘔吐でのたうち回り、やっとのことで身体を布団から起こす。
その時だった。
目に飛び込んできたものに、ひゅ、と喉が鳴った。
「……は、ッ、ぇ……?」
枕元に、己が本体である刀が転がっている。鞘がない、抜き身のままだ。
振り返って部屋の奥にある刀架を見る。刀架には、何も掛けられていなかった。鞘は布団から遠く離れた畳の上に、投げ棄てたように放り出されていた。刃に血など一滴もついていない。けれどそこに在る筈のない、就寝前は確かに刀架に掛けてあった筈の刀が、手の届く範囲に在る。その事実に、国広の心は大きく乱れた。己は夢で、|刀《じぶん》を、一体どうしていただろう。どうしてこんなところに、抜き身のままで転がっている。……まさかあれは、夢ではないのか。
そんな筈はない。
此処には|遺体《なきがら》などない。
畳にも、布団にも、障子にも、飛び散った血の跡などない。
畳敷きの部屋では、血だまりなど出来る筈もない。
漠然としているのに強烈な不安だけが消えない。記憶がないのだろうか。引き出しの中身を片っ端からひっくり返すように、必死で記憶を辿る。知らず頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱していた。そういえば最近、記憶が曖昧になっていることが多い。いつ寝たのかさえ覚えておらず、気付いたら恋刀に起こされていたのが……確か、昨日の朝で。
血も骸も、ここにはない。
ここにないだけで―――|恋刀《こいビト》の部屋には?
「―――ッッ!!」
襤褸を纏うのさえ忘れて、転がるように部屋を出た。時折足を縺れさせながら、廊下を全力で走る。途中ですれ違った仲間の困惑する声が聞こえたが、振り返ってなどいられなかった。走って走ってたどり着いた一室の前で、無遠慮に障子戸を開こうとしたところで手がぴたりと固まる。この戸を開いた先で目に映るものが、夢と同じだったならどうする。障子に血痕などあるはずもない。だから大丈夫、大丈夫な、はずで。なのに、不安が、焦燥が、いつまでたっても、消えてくれない。
むざんにきりさいた■しいからだが。
ちまみれのたたみのうえに、ころがっていたら。
―――おれは、どうすればいいのだろう。
「ッッ大包平! 居るか! ……頼む、返事をしてくれ!」
叫んだ声は、懺悔の如く。絞り出した言葉は、祈りのようだった。返事がなかったら、自分でこの戸を、開かなければならない。障子戸に触れたままの手は、かたかたと震えている。
「山姥切……?」
果たして声は、障子戸の向こう側から聞こえてきた。聞き慣れたいつもの声。障子越しでも良く通る声。けれどほんの少しの困惑が混ざった、いつもよりも穏やかで優しい声だった。すっと戸は勝手に開く。現れたのは湯帷子姿の、五体満足どこにも瑕疵のない。
「うん……? こんな朝からどうした」
―――いつも通り美しい儘の、大包平だった。
「な、おわっ……!?」
安堵で崩れ落ちそうになる膝に力を入れ、震えていた腕を広げ、目の前の男を強く抱き締める。大包平は戸惑いながらも、しっかりした体幹で後ろに倒れることなく受け止めてくれた。
「ょかった、……いきてる」
「なんだなんだ、怖い夢でも見たのか」
「……ああ。お前を殺す、夢を見た」
「そうか。……そうか」
背中に腕が回ってくる。古参の癖に夢如きに惑わされるとは軟弱者めと、さぞ呆れられることだろうと覚悟していたのだ。けれど返ってきた言葉は、絹で優しく包み込むように酷く穏やかなものだった。しょうがない奴とさえ、言われなかった。それが無性に嬉しくて、……なのに無性に、悲しい。
「安心しろ、山姥切国広。見ろ、俺は折れていないぞ」
「……ああ」
「ちゃんと生きている。お前に殺されてなどやるものか!」
「うん……」
大包平の手は一定の間隔で、ゆっくり背を叩いてくる。前もこんな風に、幼子にするような仕草で宥められていたか。安堵を抱いた胸の奥に、澱みが生まれる。それはあの時抱いた、怒りにも似ていた。
本当は、糾弾されたかった。
情け容赦なく、突き放して欲しかった。
こんな男と恋仲などやっていられるか、そう言ってこの関係さえ切り捨てて欲しかった。
そうすればきっと、少なくとも傷つくのは自分だけで済んだかもしれない。夢の中でも、壊さずに済んだかもしれない。全く滑稽で、可笑しな感情だ。大包平はこうして確かに生きている。抱きしめたその身体は温かい。全身に血を巡らせる鼓動も、確と伝わってくる。「お前を殺してしまったから罰してほしい」などと言われた所で、罪の痕跡も、咎を証明する術も、ないというのに。
そんなことを考えておきながら。
いざ本当に大包平から突き放されたら、立っていられる自信だってきっとないのだろう。
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